大酒神社(京都 太秦)

大酒神社(おおさけじんじゃ)は 元の神社名称大避(おおさけ)あるいは大闢(ダイビャク)とされていて この「大闢 中国(China)ではキリスト教の「ダビデを意味するとも伝わります 祭神はなんと 秦始皇帝(シンノシコウテイ)です 秦氏に纏わる諸説がある謎多き神社となっています 京都 太秦(うずまさ)の土地神で 元々は 広隆寺の寺内に鎮座していましたが 明治の神仏分離政策で現在地に遷座しています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大酒神社Oosake Shrine) 
(おおさけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

京都府京都市右京区太秦蜂岡町

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》秦始皇帝Shin no Shikotei)
   弓月王Yunzu no kimi)
   秦酒公Hata no sake no kimi)

相殿に合祀
《配》兄媛命Ehime no mikoto)  - 呉服女(kurehatori me)
   弟媛命Otohime no mikoto)- 漢織女(ayahatori me)
※明暦年中(1655~1658年)に社が破壊したため合祀したとあります

数多の絹綾を織出したる 呉服漢織の神霊を祀りし社(やしろ)を大酒神社の側にありしが 明暦年中破壊に及びしを以て 当社に合祭す

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

広隆寺Koryu ji)の桂宮院(keikyu in)内に鎮座する「伽藍神Garan no kami)であったが 明治の神仏分離によって現在地に遷座

『広隆寺 来由記(koryuji raiyuki)』明応8年(1499年)によると
秦始皇帝(Shin no Shikotei)の神霊として「秦始皇之祖神」を14世の孫 功満王(koman no kimi)が 漢土の兵乱を避け 仲哀天皇8年(356)日本朝の淳朴なる国風を尊信し 始めて来朝し 此地に勧請す

広隆寺Koryu ji)の創建について

『日本書紀(nihon shoki)(720年)』推古天皇11年11月1日の条によれば
推古11年(603)秦造河勝「秦河勝(Hata no kawakatsu)」が 聖徳太子(Shotoku taishi)(摂政期間593--622)から 尊い仏像(宝冠弥勒菩薩半跏思惟像-国宝-)を賜り それを本尊として「蜂岡寺(hachioka dera)〈広隆寺(Koryu ji)〉」を造ったとあります

【由  (history)】

  書

宗教法人 大酒(おおさけ)神社

  秦始皇帝(しんのしこうてい)、弓月王(ゆんずのきみ)
   、秦酒公(はたのさけきみ)

 殿 兄媛(えひめ)命、弟媛(おとひめ)
   〈呉服(くれはとり)女、漢織(あやはとり)

  正一位、治歴(しれき)四年四月(1068年)

当社は、延喜(えんぎ)式神名帳 葛野(かとの)郡20座の中に大酒神社(元名)大辟(おおさけ)神社とあり、大酒明神ともいう。

「大辟」称するは 秦始皇帝の神霊を仲哀(ちゅうあい)天皇8年(356年)皇帝14世の孫、功満(こうまん)王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴(じゅんぼく)なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請(かんじょう)す。
これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。

后(のち)の代に至り、功満王の子 弓月王、応神天皇14年(372年)百済(くだら)より127県(あがた)の民衆18670余人統率(とうそつ)して帰化(きか)し、金銀玉帛(ぎょくはく)等の宝物を献上す。

又、弓月王の孫 酒公は、秦氏諸族を率て蚕(かいこ)を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類(たぐい)を夥(おびただ)しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐(うづまさ)の姓を賜う。

数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社(やしろ)を大酒神社の側にありしが 明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。

機織(はたおり)のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力(つと)め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に
大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。

今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。

広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。

現在 広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前 広隆寺の伽藍(がらん)神であった当社の祭礼である。

尚、603年 広隆寺建立者 秦河勝は 酒公の六代目の孫。
又、大宝元年(701年)子孫 秦忌寸都理が松尾大社を創立、
和銅4年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。
古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。  昭和59年5月

境内由緒書より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

木枯神社Kogarashi Shrine)
三神の社Mikami Shrine)
八幡社Hachiman Shrine)
稲積社Inazumi Shrine)

※4つ記されている境内社は 現在は祠は無く 本殿に合祀

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…
        大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城国 122座
      大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)葛野郡 20座(大14座・小6座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大酒神社(元名 大神)
[ふ り が な ](をほさけの かみのやしろ)(もとな おおさけのかみ)
[Old Shrine name](wohosake no kamino yashiro)(motona osake no kami)

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

木枯神社Kogarashi Shrine)について

現在は 大酒神社(Oosake Shrine)に合祀されていますが
木枯神社(Kogarashi Shrine)は 国史にも記される由緒ある神社です

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』延喜元年(901年)の貞観4年(862)4月24日条には 「授皇太后宮 无位 木枯神 従五位下」
と木枯神が 無位から従五位下に神階を叙せられています

この「木枯神」に比定されますが
平安時代の第54代 仁明天皇の女御・藤原順子(809~871五条后)の東五条院内にも祀られていた社であるとの 異説もあります

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=

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その他の伝承では

「群書類従」『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記(yamashiroshu kadonogun kadono oigo koryuji raiyuki)』明応8年(1499年)には

「木枯明神者」と見え
清和天皇の時代 勅により 乙訓(オトクニ)郡より 薬師如来(ヤクシニョライ)を広隆寺に迎えたところ 薬師像を作った向日明神(ムコウノミョウジン)が 広隆寺門前の槻木に影向 にわかにその木が枯れてしまった
そこで神霊をこの地に遷し 古枯明神(コガラシノミョウジン)と名付けたところ 枯木は再びよみがえった

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記』「群書類従」刊本(跋刊)[旧蔵者]司法省

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『山城名勝志 (Yamashiromeishoushi) 正徳元年(1711)には

「在に広隆寺門前申酉民家中に小社 西向き」
広隆寺の大門の西南の民家に小社が西向きに鎮座する

と記されます

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『山州名跡誌』 白慧 著 出版年月日 大正4  編 出版者 大日本地誌大系刊行会
山城名勝志 木枯神社digidepo_952774

現在の大酒神社(Oosake Shrine)境内への遷座時期は不詳ですが この頃から 後の世になると思います

木枯森(kogarashi no mori)」について

この木枯神社(Kogarashi Shrine)の旧鎮座地の社叢は「木枯杜(コガラシノモリ 木枯森)」と称された云われています

ところで「木枯森(kogarashi no mori)」は
『枕草子』第194段の清少納言(セイショウナゴン)が「森はこがらしの森」とたたえている地ですが
静岡・羽鳥(ハトリ)説や京都・太秦(ウズマサ)説(当神社)など諸説あるようです

静岡・羽鳥(ハトリ)説は
この羽鳥(ハトリ)の地名は 機織(ハタオリ)の秦氏(ハタ ウジ)が開拓した地域から発祥しています

秦氏(Hata uji)の祀る式内社「建穂神社(Takyo Shrine)」は かつて隣村の「服織(hatori)(現 静岡市葵区羽鳥(hatori)」の「木枯森(コガラシノモリ)」の辺りに 境内を構えていたとされます

建穂神社(静岡市葵区建穂)の記事をご覧ください

秦河勝(hata no kawakatsu) と 大避神社Oosake Shrine)について

大避神社Oosake Shrine)
兵庫県赤穂市坂越(サコシ)の宝珠山麓にある神社です 瀬戸内海三大船祭りの1つ「坂越の船祭り」(重要無形民俗文化財)で知られます
御祭神は「大避大神」秦河勝(hata no kawakatsu)を指します 他2柱

秦河勝(hata no kawakatsu)
秦氏(Hata uji)の族長的人物として 聖徳太子(Shotoku taishi)(摂政期間593--622)に仕えた寵臣として知られ 尊い仏像(宝冠弥勒菩薩半跏思惟像-国宝-)を賜り それを本尊として「蜂岡寺(hachioka dera)〈広隆寺(Koryu ji)〉」を造ったとあります

秦河勝(hata no kawakatsu)は
太子の死後 皇極3年(644)海路をたどって坂越(サコシ)に移り 千種川流域の開拓を進めたのち 大化3年(647)に80余歳で死去 そして地元の民がその霊を祀ったのが大避神社(Oosake Shrine)の創建と伝わります

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載される大酒神社(Oosake Shrine)の「元名 大辟神(motona osake no kami)」の元の名前を継承する

大避神社Oosake Shrine)の記事をご覧ください

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

嵐電 太秦広隆寺駅から北へ約180m 徒歩2分程度

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広隆寺の南に鎮座します
道路に面して 鳥居が建ちます
大酒神社Oosake Shrine)に参着

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鳥居の先には 円がくり抜かれている石柱には「皇紀二千六百年秦祝記念」
(1940年:神武天皇即位紀元から2600年)とあります
その先に手水舎 水は張ってません

本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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同じく京都・太秦(ウズマサ)に鎮座する秦氏(Hata uji)ゆかりの神社
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
(Konoshimanimasu amaterumitama Shrine)(Kaiko no yashiro)向かいます

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)(720年)』応神天皇(オウジンテンノウ)14 2の条に記される伝承

第15代「応神天皇14年 春2月の条」に
大酒神社(Oosake Shrine)御祭神の「弓月君(ユツキノキミ)が百済(クダラ)からやってきた」と記されています

意訳

14年春2月 百済王(クダラオウ)が縫衣工女(キヌヒヲムナ)(裁縫をする女性)を奉った
真毛津(マケツ)という
これが 今の来目衣縫(クメノキヌヌイ)の始祖です

この年 弓月君(ユツキノキミ)が百済(クダラ)からやってきた
奏上して「私は 己(オノレ)の国の120県(アガタ)の人民をひきいてやってまいりました
しかるに 新羅人(シラギビト)が 邪魔をするので 皆 加羅国(カラクニ)に留まっています」といった

そこで 葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を遣わして 弓月(ユツキ)の人夫を加羅国に召された しかし 3年経過するが 襲津彦(ソツヒコ)は来ない----

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『日本書紀(nihon shoki)(720年)』「応神天皇37春21日の」・「応神天皇41春215日のに記される伝承

第15代 応神天皇〈推定在位270~310〉の時代に
縫製技術者を求めて 呉国〈中国の江南地方〉へと阿知使主(アチノオミ)などが 勅命を受けて向かいます

相殿の祭神 兄媛命(Ehime no mikoto)  - 呉服女(kurehatori me)
弟媛命(Otohime no mikoto)- 漢織女(ayahatori me)
を連れて戻るが 第15代 応神天皇〈推定在位270~310〉が崩御されて 第16代 仁徳天皇に奉ったと記されています

意訳

37年春2月1日
阿知使主(アチノオミ)都加使主(ツカノオミ)を呉(ゴ)に遣わし 縫工女を求めさせた

阿知使主(アチノオミ)等らは 高麗国(コマノクニ)に渡り 呉(ゴ)に達しようと欲していた
しかし 高麗(コマ)に至ったが 道を知らず 道を知る者を高麗(コマ)に乞うた
高麗王(コマノオウ)は 久礼波(クレハ)と久礼志(クレシ)の2人を導き者としたので これによって呉(ゴ)にいたることが得られました

呉王(ゴノオウ)は 工女(ヌイメ)を与えた

兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)呉織(クレハトリ)穴織(アナハトリ)の
四夫女(ヨタリヲムナラ)〈4人の婦人〉です

41年春2月15日
天皇は明宮(アカリノミヤ)で崩御(ホウギョ)時に歳110歳
一説には 大隅宮(オオスミノミヤ)で崩御(ホウギョ)

この月に 阿知使主(アチノオミ)等らは 呉(ゴ)から筑紫(チクシ)に至り
その時に 旨形大神(ムナカタノオオカミ)〈宗像大社の神〉が 工女(ヌイメ)等を乞われたゆえ 兄媛(エヒメ)を胸形大神(ムナカタノオオカミ)に奉(タテマツ)った

これがすなわち 今の 筑紫国(チクシノクニ)にある御使君(ミツカイノキミ)の祖(オヤ)なり
あとの三婦人を連れて 津国(ツノクニ)に至り 武庫(ムコ)に及んだときに 天皇が崩御され ついに間に合わなかった 大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)〈仁徳天皇〉に奉(タテマツ)った

この女人等(オナゴドモ)の後〈子孫〉は 今の呉衣縫(クレノキスヒ)蚊屋衣縫(カヤノキヌヌイ)これなり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『日本書紀(nihon shoki)(720年)』雄略天皇14年正月の条に記される伝承

『日本書紀(nihon shoki)』は 相殿の祭神 兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ) について

「応神(オウジン)天皇の条」「雄略(ユウリャク)天皇の条」の両方の天皇記に いずれも機織り技術をもった織女について 二つの渡来伝承を記しています

二つの渡来伝承ともに 呉から日本に招いた工女 四婦人の名は ほぼ同じ

「応神天皇の条
兄媛エヒメ弟媛オトヒメ呉織クレハトリ穴織アナハトリ
雄略天皇の条」

兄媛エヒメ弟媛オトヒメ呉織(クレハトリ)漢織(アヤハトリ)

また 兄媛(エヒメ)は 双方の伝承で 同じように神に捧げられます
「応神天皇」で〈宗像大社の神〉「雄略天皇」で〈大神神社の神〉

第21代 雄略天皇〈推定在位456~479〉14年春正月の条に記されます

意訳

14年春1月13日
身狭村主青(ムサノスグリアオ)等らは 呉国(ゴノクニ)に共に使わした 呉(ゴ)の献じた手末才伎(テナスエノテヒト)漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)と衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)弟媛(オトヒメ)等を帰国させ 住吉津(スミノエノツ)〈住吉大社〉に泊めた
この月に 呉(ゴ)の来客の道を 磯歯津路(しはつのみち)に通じさせた
これを呉坂(クレサカ)と名づけた

3月 臣連(オミノムラジ)に命じ 呉(ゴ)の使者を迎えた
その呉人(ゴノヒト)を桧隈野(ヒノクマノ)に於いて〈あって〉それで呉原(クレハラ)と名づけた

衣縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)を大三輪神(オオミワノカミ)〈大神神社の神〉に奉(タテマツ)った
弟媛(オトヒメ)を以って 漢(アヤ)の衣縫部(キヌヌイベ)とする

漢織(アヤハトリ)呉織(クレハトリ)の衣縫(キヌヌイ)は 飛鳥衣縫部(アスカノキヌヌイベ)伊勢衣縫(イセノキヌヌイベ)の先(サキ)〈先祖〉なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『続日本後紀(shoku nihon koki)』貞観11年(869)に記される伝承

嘉祥2年(849)9月丙寅(16日)条

山城国(ヤマシロノクニ)葛野郡(カトノ ノ コウリ)の「大辟神(オオサケノカミ)」は 祈れば必ず応じる 霊験ある所であるゆえに 従五位下の神階を叙せられた

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『続日本後紀』(869)貞観11年完成 選者:藤原良房/校訂者:立野春節 刊本 寛政07年[旧蔵者]内務省

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『都名所図会(Miyako meisho zue)』1780年(安永9年)に記される伝承

大酒神社の祭礼牛祭ウシマツリ」について

かつて神仏習合期は 広隆寺で牛祭(10月10日)が行われていました
京都三大奇祭(ほかに鞍馬の火祭り 今宮神社のやすらい祭り)の一つとされています
かつては 旧暦9月12日丑の刻に行われ 長和年間(1012~1017)に恵心僧都(810~869 源信)が・国家安泰・五穀豊穣・悪魔退散を願い 摩多羅(マダラ)神を勧請して始めたとされます
江戸時代の様子が描かれています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス
『都名所図会』選者:秋里籬島/画家:竹原春朝斎 11冊 [書誌事項]刊本 ,安永09年 ~  刊本 ,天明07年[旧蔵者]内務省

大酒神社Oosake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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建穂神社(静岡市葵区建穂)の記事をご覧ください

大避神社Oosake Shrine)の記事をご覧ください

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
Konoshimanimasu amaterumitama Shrine)(Kaiko no yashiro)の記事をご覧ください

山城国 式内社 122座(大53座(並月次新嘗 就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣)について に戻る 

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」でありますので 各郡の条に「〇〇郡 神社」として 神社名の所載があります
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3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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