高樹神社(久留米市御井町)

高樹神社たかきじんじゃ 伝承によれば 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 元々は高良山の山頂に地主神として鎮座されていたが 高良神(こうらのかみ)に一夜の宿を貸したところ 高良神が神籠石(こうごいし)を築いて結界の地としたため山上にもどれず ここ高良山の麓(ふもと)に鎮座するに至ったと伝わります 正史=六国史に名の現れる国史現在社(こくしげんざいしゃ)

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

高樹神社(Takaki shrine)

 [通称名(Common name)]

高牟礼権現(たかむれごんげん)

【鎮座地 (Location) 

福岡県久留米市御井町石121

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

国史現在社(こくしげんざいしゃ)〈式外社〉

【創  (Beginning of history)】

高樹神社

 祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)造化(ぞうか)の三神の一つ
古くは「高牟礼権現(たかむれごんげん)」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
 この神社はいわゆる国史現在社(こくしげんざいしゃ)〈正史=六国史(りっこくし)に名の現れる神社で、三代実録元慶がんぎょう)二年(八七八 十一十三日の条に「筑後国 高樹神従五位上」とあり、やがて正五位下に進んだことが天慶(てんぎょう)七年九四四)の「筑後国内神名帳(じんみょうちょう)」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石(こうごいし)を築いて結界(区画を定め出入りを禁ずること)の地としたため山上にもどれず、
 ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山(たかむれさん)」と称するのもこの神の名に因むものである。

明治六年一八七三三月十四日 郷社に列し
大正十一年(一九二二)十一月二十四日 神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうぐしんじんじゃ)に指定された。
例祭日 12月13日

現地案内板より

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不詳国史現在ノ旧社ニシテ古ヨリ元高良山地主神トス。社地ハ明治10年ニ定メラレ同6年3月14日郷社ニ定メラル。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【由  (History)】

高樹神社

 御手洗橋を渡ると、左手小高い所に高樹神社がある。祭神は高皇産霊神、古くは高牟礼権現と称し、高良山の地主神と伝えられている。昭和十九年発行の『福岡県神社誌 中巻』には、「……由緒上詳、国史現在の旧社にして、古より元高良山地主神とす。社地は明治十年に定めらる。同六年三月十四日郷社に定めらる。例祭は十二月十三日、氏子数百三十六戸……《とある。境内の案内板にはさらに、「この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に吊のあらわれる神社)で『三代実録』元慶二年(八七八)十一月十三日の条に筑後国高樹神二従五位上ヲ授クとあり、やがて正五位下に進んだことが天慶七年(九四四)の『筑後国内神吊帳』によって知られる《と記載されている。

 神社の石段の手前には江戸時代の水盤と、特に大型の猿田彦が祀られている。左右に寄進者の吊を刻んだ立派な御影石の玉垣が並んだ急な石段を登ると、文化十五年(一八一八)三月吉日と刻まれた小型の石鳥居がある。その前には狛犬が一対ある。口をかっと開いた阿形のものと、口をむすんだ吽形のもの、狛犬の製造年月日としては古いものに属する、享保九年(一七二四)のものである。
字高良山の郷社であった高樹神社は、戦前まで有吊な青年団組織「同志会《の集会所でもあった。御井町の青年団の中でも特に規律の厳しかった同志会であったが、高良山おくんちに上可欠の獅子舞と風流の伝統を守り抜いた同志会でもあった。

御井町誌シニアネット久留米デジタルアーカイブ研究会より抜粋http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/2-4kourasan.html

【境内社 (Other deities within the precincts)】

社日神社《主》田神〈本殿に合祀〉
猿田彦碑〈鳥居向かって左横 猿田彦と刻字された注連縄の懸かる石〉

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

高樹神社は高良山の麓に鎮座します 高良山に鎮座する高良大社

・高良大社(久留米市)

・高良大社奥宮(高良山 山頂付近)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

国史現在社(こくしげんざいしゃ)〈正史=六国史(りっこくし)に名の現れる神社

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載される式内社(しきないしゃ)ではなく 『延喜式神名帳』の編纂当時に存在したが 同帳に記載の無い神社 式外社(しきげしゃ)とされます

六国史の第六の書

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

筑後ノ國 高ノ神として 神階の奉授が 記されています

【抜粋意訳】

慶二年十十三日甲辰の条

授ニ
・・・・
佐渡ノ国 正六位上 佐志羽ノ神
筑後ノ國 高ノ神に 並びに 従五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

地主神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 山上に鎮座していた伝承

高樹神社たかきじんじゃ伝承によれば

 元々は高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 地主神として山上に鎮座していた 高良神に一夜の宿を貸したところ 高良神が神籠石(こうごいし)を築いて結界の地としたため山上にもどれず ここ高良山の麓に鎮座するに至ったと伝わります

英彦山(ひこさん)の伝承によれば

日子山(ひこさん)英彦山には 山頂にはもともと高木高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて その地を譲り 今は山頂より少し下った所に 産霊神社 《主》高皇産霊神(たかみむすびのかみ)として鎮座していると云う説

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 山上譲ったとする高良山と同様伝承です

現在 英彦山山頂に鎮座する英彦山神宮御本社・上宮の主祭神は 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)です 英彦山の山頂域は もともと 高木神を祭祀する旧地とされ 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)が 鎮座する山であったとも云われる訳は

御祭神「高皇産霊神(たかみむすびのかみ)」には 6柱の御子がおられ そのうち お一柱が「栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)」です 姫は天照大神の御子「天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)」の后となり 「天火明命(あめのほあかり)」「饒速日命(にぎはやひのみこと)」「邇邇芸命(ににぎのみこと)」らをお産みになり そして英彦山は 娘神の夫「天忍穂耳命」に譲ったと伝えられています

英彦山神宮(添田町 英彦山)

高良山の山頂も 英彦山山頂も かつて高木神高皇産霊神(たかみむすびのかみ)〉が鎮座していて これを譲ったと伝承しています

この伝承には 古代の北九州地区で 地主神の交代劇があったことが伝承されているとされ 天津神と渡来神との争いとも様々な説があり 神仏習合の八幡神・香春神との関わり やがて宇佐系・朝鮮系シャーマニズム習合していく密教修験道へと歴史は続いていきます

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

高良山の麓 高良大社 二の鳥居手前 県道750沿いに鎮座します
高樹神社(久留米市御井町)に参着

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石段の下と上に鳥居が建ち その先に拝殿が建ちます

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鳥居の扁額には「高樹神社」とあり 一礼をして 石段を上がります

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石段を上がると 上の鳥居が建ち すぐ先に拝殿があります

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拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

筑後国の式外神として 記されていますが 祭神在所等は 不明とされています

【抜粋意訳】

式外神

高樹神

祭神在所等詳らかならず

神位

三代実録、元慶二年十十三日甲辰、授ニ 筑後國 高従五位上
古文書、同前 御井郡 正五位下 高樹名神、
召ニ間 古老申云う、元来公家 奉授之位也者、而して位記紛失、天慶七年四月二十二日

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承

諸説を記しています

【抜粋意訳】

福岡縣 筑後國三井郡御井町

郷社 高樹(タカギノ)神社

創立年月由緒 詳なられども
三代実録に、陽成天皇慶二年十、筑後國 高に従五位上を授けられ、後 正五位を授くとあるは当社りと社伝にいへり、
筑後志に『竹野郡高木村に天神の小祠て、里民 天満宮とあがむ、疑らくば是 其高木の賓跡ならむ」とあり、是に據る時は、何れの時か此處に移せしものにてもし、或は高木神社と申せしを、やがて天神社と誤りしにもあるか、
「或人云、高良山のに高牟神社あり、疑らくば高樹神ならんと云ひ、社傳に元と高良山地主神たりしよしど、未だ確説ある
神祇志料には高樹神 今 高良西にり、筑後神社改正調」とあり、
神社覈録には「祭神在所等詳ならず」と見え.
某氏の説に「高樹神社、所在 一説ニ 竹野郡ニ高木村アリ、隣村二國高村卜高木村トノ交ニ氏神アリ、ソノ森喬木甚ダ多クシテ最モ古リタリ、コレ高皇産霊等ヲ祭ル ナラント曰ヘリ」と、
以上の諸説を附記して後考に備ふ、明治六年三月十四日郷社に列す。

例祭日 十一月十三日

【原文参照】

国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

『福岡県神社誌(Fukuokaken Jinjashi)〈昭和20年(1945)〉』に記される伝承

國史現在の旧社で 古より元高良山地主神 と記しています

【抜粋意訳】

中巻

郷社 高樹神社  三井郡御井町字

祭神 高皇産霊神

由緒 不詳、國史現在の旧社にして、古より元高良山地主神とす 社地は明治十年に定めらる、同六年三月十四日郷社に定めらる。

例祭日 十二月十三日
神饌幣帛料供進指定 大正十年十一月二十四日
神社坪数 五百十五坪
氏子区域及戸数 百三十六戸

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『福岡県神社誌』昭和20年(1945)出版 大日本神祇会福岡県支部https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040147

高樹神社(久留米市御井町)に (hai)」(90度のお辞儀)

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