高橋神社(奈良市八条町)

高橋神社(たかはしじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)所載の古社です 内膳司(うちのかしわでのつかさ)として 朝廷の食膳を司る家柄「高橋氏(たかはしうじ)」が 当地高橋邑(たかはしのむら)に居住し 祖神を祀ったと考えられています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

高橋神社Takahashi Shrine)
(たかはしじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

高橋さんTakahashi san)

【鎮座地 (Location) 

奈良県奈良市八条町338

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

料理の始祖神 2柱を祀る
《主》磐鹿六雁命(Iwakamutsukari no mikoto)(料理人の神様)
《主》栲幡千千姫命Tachihatachijihime no mikoto)(高橋姓の氏神)

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【御神格 (God's great power)】(ご利益)

・料理人の神様 The god of the chef
・子宝の女神 If you pray to the goddess, you will be blessed with children like a treasure
・等 etc

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

創建年代不詳

【由  (history)】

由緒不詳

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座 大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 髙橋神社
[ふ り が な ](たかはしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takahashi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

髙橋(タカハシ)氏の発祥 高橋朝臣(タカハシアソン)について

高橋朝臣(タカハシアソン)は
日本料理の神とされている当神社の御祭神 磐鹿六雁命(Iwakamutsukari no mikoto)〈第8代 孝元天皇皇子の大彦命の孫神〉の子孫が名乗るようになった姓(カバネ)です

〈姓(カバネ)は 古代の大和王朝で 天皇から氏族に賜われた 王権との関係・地位を示す称号〉

『日本書紀(nihon shoki)(720年)』には
第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)の時代〈今から2100年程前〉当神社の鎮座地のあたりを 高橋邑(タカハシノムラ)と呼ばれていたことが記され

『日本書紀(nihon shoki)(720年)』には
第12代 景行天皇(ケイコウテンノウ)〈即位AD71~121頃〉の御代
ご祭神の磐鹿六鴈命(イワカムツカリノミコト)が 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)の始まりとされる「膳大伴部(カシワデノオオトモベ)」を 天皇より 賜った事が記され

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)(815年)』には
ご祭神の磐鹿六鴈命(イワカムツカリノミコト)の子孫は 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を名乗っていたが
第40代 天武天皇(テンムテンノウ)〈即位AD673~686〉から 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を改めて 高橋朝臣(タカハシノアソミ)を賜る と記されています

膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)は 神or天皇の食事を司る役割という意味ですが 「髙橋氏」は その後 宮中にて「内膳司(ウチノカシワデノツカサ)」の奉膳(フウゼン)〈長官〉という役職を世襲しながら代々果たします

髙橋氏は 若狭国(ワカサノクニ)や伊勢国(イセノクニ)など 御食国(ミケツクニ)と呼ばれた海産物の豊富な国 の国司(クニノツカサ)も任ぜられる名家です

時代が降って 平安時代ごろになると 分家も増えて 全国に拡散していきます

高橋朝臣(タカハシアソン)と名乗り始めてから 現在までに約1300年が経過しています

高橋邑(タカハシノムラ)を起源とすれば 2000年以上が経過している事となります

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂) 大和国 添上郡 髙橋神社Takahashi no kamino yashiro)の論社3つ

① 和爾下神社(天理市櫟本町)の境内社 若宮社(Wakamiya sha)

➁ 高橋神社(奈良市八条町)

③ 月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)

御祭神として「磐鹿六雁命(Iwakamutsukari no mikoto)」(料理人の神様)を祀る『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)関連の神社

山城國 愛宕郡 高橋神社
  北野天満宮京都市)境内末社 神明 

・【伊豆國 田方郡 高椅神社
  高橋神社(タカハシジンジャ)〈三島市〉

・【下總國結城郡 高椅神社
  高椅神社(タカハシジンジャ)〈小山市〉

・【安房國朝夷郡 高家神社
  高家神社(タカベジンジャ)〈南房総市〉

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR奈良駅西口から 県道122号経由 南西へ約3km 車10分程度

奈良市を南北に通る R24号線の八条高架橋の東側 佐保川沿いに鎮座
旧鎮座地は 現在地の北側 約100mの所にあったが 永禄年間〈1558~1570〉に松永久秀の兵火によって焼失し 現在地に遷座と伝わります

土手の道路脇に朱色の鳥居が建ちます
高橋神社Takahashi Shrine)に参着

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一礼をして 朱色の鳥居をくぐります 鳥居は3つ連なって立ち 一番奥が両部鳥居になっています

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二番目の鳥居の右脇に社号標「髙橋神社」 左側に「高橋神社 御造替」の寄進者名簿があり ここが延喜式内社の高橋神社であると判る感じですが
戦国時代に 戦火で焼け この地に遷座されても 尚 お祀りされ続けています

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拝所にすすみます

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立札には
「平安時代中期に造られた延喜式内社
 祭神
  磐鹿六雁命(料理人の神様)
  栲幡千千姫命(高橋姓の氏神) 」とあります

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本書紀(nihon shoki)(720年)』第10代 崇神天皇の条に記される伝承

第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)の5年〈今から2100年程前〉 国中に疫病が流行し 民の死亡者は 半数以上に及ぶほどであった

天皇が嘆き悲むと 夢枕に大物主神(オオモノヌシノカミ)が現れ「大田田根子(オオタタネコ)をして 我を祀れば祟りは消え 国は安らかになる」とお告げがあり 大田田根子を探し出して 神主として大物主神を祀ると お告げどおり疫病は消え去り 国は平和になった

この祀りの時〈崇神天皇(スジンテンノウ)8年〉に 高橋邑(タカハシノムラ)の活日(イクヒ)という者を酒人にしつらえ お神酒を捧げさせたと記されています

大神神社境内摂社活日(イクヒ)神社祭神:高橋活日命(タカハシイクヒノミコト)として祀られています

社伝では この高橋邑(タカハシノムラ)とは 当神社の旧所在地のことで 御祭神の 磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)栲幡千千姫命(タチハタチヂヒメノミコト)は 高橋臣(タカハシノオミ)の氏神です

意訳

5 国内に 疫病が多く 民の死亡者は 半数にならんとする
・・・・・
・・・・・

八年夏4月16日
高橋邑(タカハシムラ)の活日(イクヒ)を 大神(オオミワ)〈大物主神(オオモノヌシノカミ)を祀る大神神社〉の掌酒(サカビト)
〈神にたてまつる酒を司る人〉としました

冬12月20日
天皇は 大田田根子(オオタタネコ)に大神(オオミワノカミ)を祀らせました この日 活日(イクヒ)は 自ら神酒(ミワ)を捧げて 天皇に献上しました
それで歌を歌うのに

この神酒(ミキ)は 我が神酒ならず 倭(ヤマト)成す 大物主オオモノヌシの 醸(カモ)みし神酒(ミキ)幾久イクヒサ幾久イクヒサ)」

この神酒は 私の神酒ではありません 倭の国をお造りになった大物主オオモノヌシが醸(カモ)された神酒です 幾世までも久しく栄えよ 幾世までも久しく栄えよ

このように歌い 神宮(カミノミヤ)で宴(トヨノアカリ)をしました すぐ宴(トヨノアカリ)は終わり 諸大夫(マヘツキミタチ)〈役人達〉が歌を歌いました
「味酒(ウマサケ) 三輪の殿(トノ)の 朝門(アサト)にも 出でて行かな 三輪の殿門(トノト)を」
〈美味しい酒のある三輪神社の社殿の戸口が朝開くまで 酒を飲み 朝が来たら帰ろう 三輪の社の門から〉

それで 天皇も歌っていわれた
「味酒(ウマサケ) 三輪の殿(トノ)の 朝門(アサト)にも 押し開かね
三輪の殿門(トノト)を」
〈美味しい酒のある三輪神社の社で 朝門が開くまで一晩中酒宴をして 三輪の社の門を押し開いて〉

神宮(カミノミヤ)の門を開いて 天皇は帰えられました
この大田々根子(オオタタネコ)は 今の三輪君(ミワノキミ)などの始祖です

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『日本書紀(nihon shoki)(720年)』景行天皇53年の条に記される伝承

第12代 景行天皇(ケイコウテンノウ)〈即位AD71~121頃〉の御代
ご祭神の磐鹿六鴈命(イワカムツカリノミコト)が 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)の始まりとされる「膳大伴部(カシワデノオオトモベ)」を 天皇より 賜った事が記されています

意訳

即位53年秋8月1日 天皇は群卿(マツノキミタチ)に詔して
「わたしの愛した子を偲ぶ気持ちは いつの日止むことか 願わくば 小碓王(オウスノミコ)〈日本武尊(ヤマトタケルノミコト)〉の平定した国を巡狩(メグリミ)〈巡幸し〉たいと思う」

この月に乗興(スメラミコト)〈天皇の御神輿〉は 伊勢に幸(イデマ)〈お出でになり〉そして東海(ウヘツミチ)に入られました

冬10月
上総国(カズサノクニ)へと 海路(ウミツジ)を渡り 淡水門(アワノミナト)〈館山湾か?〉に到り

このとき 覺賀鳥(カクカノトリ)の声が聞こえました その鳥の形を見たいと思われ(鳥の姿を)求めて海の中にお出になられ そこで白蛤(ウムキ)〈大きなハマグリ〉を得られました

膳臣(カシワデノオミ)の遠祖 名は磐鹿六鴈(イワカムツカリ)という者が蒲(ガマの葉)を手繦(タスキ)〈料理人が着用〉にかけて 白蛤(ウムキ)を膾(ナマス)〈刺身〉に造り奉りました
それで 六鴈臣(ムツカリノオミ)の功績を褒めて 膳大伴部(カシワデノオオトモベ)の役を賜りました

12月 東国から お帰り 伊勢にお住みになられた
これを綺宮(カニハタノミヤ)といいます

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省

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『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承

第12代 景行天皇(ケイコウテンノウ)から 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を賜り
第40代 天武天皇(テンムテンノウ)〈即位AD673~686〉から 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を改めて 高橋朝臣(タカハシノアソミ)を賜る と記されています

意訳

髙橋朝臣(タカハシアソミ)

阿部朝臣 同祖 大稲輿命(オオイネコシノミコト)の後也(スエナリ)

景行天皇が東国に巡狩(メグリミ)〈巡幸し〉

大蛤(オオウムキ)〈大きなハマグリ〉を調理献上し

その時 たいへな美味に天皇が喜び 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を賜われた

天淳中原瀛真人(アメノヌナハラオキノマヒト)天皇 おくり名は〈第40代 天武天皇(テンムテンノウ)〉の即位12年 膳臣(カシワデノオミ)の姓(カバネ)を改めて高橋朝臣(タカハシノアソミ)とした

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) 文化04年[旧蔵者]教部省

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『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

意訳

今 按(考えるに)

社伝に 祭神は不詳 或いは 栲幡千千姫命(タチハタチヂヒメノミコト)なりと云えども 他に明確な証はなし

祭日 2月22日
社格 村社
所在 八條村 字 高橋(添上郡大安寺村大字八條)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂

『特選神名牒』

高橋神社Takahashi Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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御祭神として「磐鹿六雁命(Iwakamutsukari no mikoto)」(料理人の神様)を祀る関連の神社

山城國 愛宕郡 高橋神社
  北野天満宮京都市)境内末社 神明 の記事をご覧ください

・【伊豆國 田方郡 高椅神社
  高橋神社(タカハシジンジャ)〈三島市〉の記事をご覧ください

・【下總國結城郡 高椅神社
  高椅神社(タカハシジンジャ)〈小山市〉の記事をご覧ください

・【安房國朝夷郡 高家神社
  高家神社(タカベジンジャ)〈南房総市〉の記事をご覧ください

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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