和爾下神社(天理市櫟本町)

和爾下神社は 『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)所載の論社です 古くは祭神を櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)」〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族の祖神「第5代 孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト」「第6代 天皇日本帯彦国押人命(ヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト」の2柱をっていとされます 明治年には 延喜式内の和爾下神社に当ると考証があり 社名を和爾下神社と変更します 現在は 本社に3柱 若宮に1柱の神が祀られています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

和爾下神社Wanishita Shrine) 
(わにしたじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

上治道天皇社Ue harumichi no tenno no yashiro)

【鎮座地 (Location) 

奈良県天理市櫟本町2490

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞嗚命Susanowo no mikoto)
   大己貴命Ohonamuchi no mikoto)
   稲田姫命Inadahime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社

【創  (Beginning of history)】

和爾下神社(本殿重要文化財)

神護景雲三年(七六九)東大寺領の櫟庄の水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直に作られたので、
この森を治道の森といい、宮を治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で 櫟本の地方にいた一族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。

この治道社の(春道社とも書く)祭神は、素盞鳴命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。

明治年に 延喜式内の和爾下神社が これに当ると考証されて 社名を和爾下神社と定めた。

今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。

祭神は、素盞鳴命 大己貴命 稲田媛命
例祭は、7月14日 祇園祭、 10月14日 氏神祭礼

天理市教育委員会

境内案内板より

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【由  (history)】

櫟本の治道山、字宮山に鎮座し、素盞嗚尊(中)と大己貴命(一名大国主神)(左)と稲田姫命(右)の三柱を祭神としている。

今より1070余年前に藤原時平等が醍醐天皇に献上した延喜式神名帳に「和爾下神社二座」とある。

大和志(享保21年関祖衡編)には
「和爾下神社二座、一座ハ櫟本村ニ在リ曰ク上治道天王ト号シ、近隣五村共ニ祭祀ニ預ル。一座ハ横田村ニ在リ曰ク下治道天王ト号シ、近隣11村共ニ祭祀ニ預ル。」とあり、
また大和名所図会(寛政3年秋里籬島輯)にも「和爾下神社二座、横田村と櫟本村とにあり、治道天王と称す、神名帳に出」とある。

新撰姓氏録考證(栗田寛著)には
「奈良朝神社注進状に據れば和爾下神社の神官は櫟井氏にして祭神は天帯彦国押人命、日本帯彦国押人命の二座なり」とある。共に櫟井臣・和珥臣の祖神であり、
明治初年に和爾下神社 祠官 辰巳筑前の其筋へ差出した記録には 旧祭神として「本社、天足彦国押人命・彦姥津命・彦国葺命・若宮難波根子武振熊命」とある。

新撰姓氏録によれば
「櫟井臣、和爾部同祖、彦姥津命(孝昭天皇皇子天足彦国押人命の後なり。)柿本朝臣、天足彦国押人命の後なり。和爾部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後なり。」とある。

しかるに 時代移り現在の祭神は
神社明細帳に
本社 大己貴命(一名 大国主命)素盞嗚命・稲田姫命をまつり 秋祭は10月14日、若宮は 事代主命とある。
素盞嗚命、即ち 牛頭天王として崇め7月14日を祇園祭として賑わうのである。

東大寺要録には
神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄に灌漑すべく高橋山から流れる水を引くために高橋川の水路を櫟本の東部から南へ流れていたのを北へ移動し西流するよう河川の造り替えをし道路をも改修した。12月10日に工事を初め翌4年4月1日に竣工してこの森を治道の杜といい神社を治道宮といった。

寿永2年(1183)藤原清輔の弟顕昭(太秦寺住職)が著わした
柿本朝臣人麻呂勘文には
「添の郡石上寺の傍に祠有り治道社と号す、祠の辺の寺 柿本寺と号す。是人麻呂建つる所なり。祠の前の小塚人麿の墓と名づく、清輔往て之れを観る所謂柿本寺の礎石僅に存す人麻呂の墓高さ4尺許り、因て卒都婆を建る云云」とある。

今から780余年前に「治道社」の名が見える。
治道山柿本寺跡からは白鳳時代の古瓦が出土している。和爾下神社の石燈籠にも「治道宮天王」(元和元年銘)とあり、鳥居の古額にも「治道宮、黄檗南源」とあった。

現今のは文秀女王の御染筆で「和爾下神社、大和式部」とある。

大友文書によれば
建武4年(1337)6月26日南都警固の狭間正供・出羽泰貞等が天王山(治道社)と柿本寺に陣取って南朝軍と戦うこと3日、南軍敗れて遂に櫟本は北軍の領となった。時に北軍に櫟本春徳丸の名が見える。

秋祭渡御の御神刀の鞘に朱字で「奉寄進牛頭天王御宝前(貞享元)」とある。

本殿は3間社、流れ造り桧皮葺き1間向拝づき、桃山時代の特色のある極彩色の優美な建築である。昭和13年7月13日附で国宝建造物に指定され現在は重要文化財である。
古記録によると慶長年中(1596-1614)の本殿改造以来、屋根替葺は寛永・寛文・明暦・元禄・宝永・享保・寛保・宝暦・明和・安永・文政・天保・明治20年・昭和13年・同46年の15回が記録されている。
天保13年度の本殿屋根替代は銀1貫66匁・9月晦日より日数48日、11月17日上遷宮とある。
明治27年11月に若宮拝殿が建ち 同29年4月13日に本社拝殿が落成している。昭和46年10月本社屋根替と拝殿改築、社務所の新築が行われた。

昔は細男座・田楽座・御輿座の3つの宮座があった。各々の頭屋では10月12日御供つきがあり14日には各頭屋から素襖を着た騎馬の御幣頭人、青竹をついた羽織袴の警固は荷前・騎馬姿の甲冑を従えてお仮屋の陣屋へ入り渡御の時には神輿のあとからついて1キロ西の二つ鳥居のお旅所まで渡ったのであるが昭和19年から全く簡略になったのである。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

【境内社 (Other deities within the precincts)】

本殿の向かって左横に鎮座
若宮社Wakamiya sha)

《主》事代主命Kotoshironushi no mikoto)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)「大和国 添上郡 髙橋神社」の論社

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境内社
十二神社・巌嶋社・琴平社・大年社・恵美須社・住吉社
天照皇太神宮・稻荷神社・金比羅・猿田彦神社

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

①本社と➁境内社の各々が 式内社の論社となっています

①本社 ⇒ 和尓下神社 二座Wanishita no kamino yashiro niza)
➁境内 若宮社 ⇒ 髙橋神社Takahashi no kamino yashiro)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座
        …大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座
     (大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)添上郡 37座(大9座・小28座)
[名神大 大 小] 式内小社

①本社 ⇒ 

[旧 神社 名称 ] 和尓下神社 二座
[ふ り が な ](わにのしもの かみのやしろ にざ)
[Old Shrine name]Wani no shimo no kamino yashiro niza)

➁境内 若宮社 ⇒

[旧 神社 名称 ] 髙橋神社
[ふ り が な ](たかはしの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Takahashi no kamino yashiro)  

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)大和国 添上郡 和尓下神社二座Wani no shimo no kamino yashiro niza)二座の論社として3つ

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

 

高橋邑(タカハシノムラ)or高橋(タカハシ)」の所在地とされる の説 について

この「髙橋神社Takahashi no kamino yashiro)」が鎮座したとされる高橋邑(タカハシノムラ)」の所在地は 今では良くわかっておらず の説があります
当神社の境内社 若宮社(Wakamiya sha)を論社とする説はⒸです

Ⓐ説
『万葉集(Manyo shu)』に 布留川に かつて橋脚が高々とした橋がかかっていたと詠われていて 「高橋」は その橋の名前を指すという説

『万葉集(Manyo shu)』巻12・2997番に詠まれる歌

石上(いそかみ) 布留(ふる)の高橋(たかはし)
高々(たかだか)に  妹(いも)が待(ま)つらむ  夜(よ)そ更(ふ)けにける

意訳

石上の布留川にかかる布留の高橋 その高橋のように 高々と爪立つ思いで あの女が待っているだろうに 夜はもうすっかり更けてしまった

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『萬葉集』刊本 寛永20年[旧蔵者]紅葉山文庫

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Ⓑ説
高橋神社(奈良市八条町)は 内膳司(uchinokashiwadenotsukasa)として 朝廷の食膳を司る家柄「高橋氏(タカハシウジ)」が当地「高橋邑(タカハシノムラ)」に居住し 祖神を祀ったと考えられているので この周辺とする説

高橋神社Takahashi Shrine)の記事をご覧ください

Ⓒ説
当神社 和爾下神社Wanishita Shrine)あたりに高橋という地名があったとされる説

『東大寺要録(Todaiji yoroku)』嘉承元年(1106年)に記される伝承から  

神護景雲3年(769)東大寺領の櫟庄(イチノショウ)に水を引くために 高橋山から流れ落ちる高橋川(現 高瀬川)は南流していたので 西方向へ真っ直ぐ流れるように水路を造り替え〈今の参道に沿った線へ移し〉て 道も新しく真直に作られたので この森を「治道(ハルミチ)の森」といい 宮を「治道(ハルミチ)社」といったとあります

『日本書紀(nihon shoki)』養老4年(720)の武烈天皇即位前記の長歌「影媛(カゲヒメ)あわれ」の条には

影姫(カゲヒメ)が 泣きそぼちながら歩いたという道筋〈石上-布留-高橋-大宅-春日-小佐保〉が 克明に詠われています

影媛(かげひめ)あわれ

石(いそ)の上(かみ) 布留(ふる)を過(す)ぎて 薦枕(こもまくら) 高橋(たかはし)過(す)ぎ
物多(ものさわ)に 大宅(おおやけ)過(す)ぎ 春日(はるひ) 春日(かすが)を過(す)ぎ
妻隠(つまこも)る 小佐保(おさほ)を過(す)ぎ
玉笥(たまけ)には 飯(いい)さえ盛(も)り
玉盛(たまもひ)に 水(みず)さえ盛(も)り
鳴(な)き沾(そぼ)ち行(ゆ)くも 影媛(かげひめ)あわれ

この長歌は、日本書紀 武烈(ぶれつ)天皇 即位前紀にある。

影媛は、以前から交際していた平群(へぐり)の鮪(しび)が、太子(後の武烈)の命で、大伴金村(おおとものかなむら)の群に乃楽(なら)山で殺されたのを悲しみ、布留から乃楽山まで行って、夫の葬いをした。ここ櫟本は、山の辺の道と都祁山道(つげやまみち)との衝(ちまた)に当り、当時の政治・経済・軍事・文化の要衝(ようしょう)であった。

媛はその山の辺の道を、泣きそぼちつつ行ったのであろう。都祁山道をはさんで、南には物部氏(もののべし)、北には和珥氏(わにし)がおり、この辺りが勢力の接点であった。武烈天皇の母・春日大壌皇后(かすがのおおいらつめのきさき)は、雄略(ゆうりゃく)天皇が和珥臣深目(わにのおみふかめ)の女童女君(むすめおみなぎみ)に生ませた女である。影媛は、物部(もののべ)の麁鹿火大連(あらかいのおおむらじ)の女である。

解説 小柴幸夫

境内案内板より

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この「影媛(カゲヒメ)あわれ」のルートを特定する現在地は次の通り

このルートを現在の地図にプロットして確認をすると
石上神宮から北方向へ 奈良山への道「山之辺道(ヤマノベノミチ)の北ルート」を進んでいることになります

石(いそ)の上(かみ)⇒石上神宮
布留(ふる)を過(す)ぎて ⇒布留川流域 天理市布留町辺り
大宅(おおやけ)過(す)ぎ ⇒奈良市白毫寺町 宅春日神社辺り
春日(かすが)を過(す)ぎ ⇒春日大社辺り
小佐保(おさほ)を過(す)ぎ ⇒奈良市法連町 佐保川流域辺り

高橋(たかはし)過(す)ぎ ⇒前に述べた ⒶⒷⒸの説
Ⓐ説では 石上 布留 高橋の3つが 同じ地域にここだけ集中してしまう
Ⓑ説では ルートを大きく外れます

Ⓒ説
当神社 和爾下神社Wanishita Shrine)あたりに高橋という地名があったとされるⒸ説が 濃厚になってきます

参考までに Google Mapを作成しましたのでご覧ください

「影媛(かげひめ)あわれ」のルート〈Google Map〉

https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?mid=1rc_Pjox66NTAVFsWwy-USgNBDJLygmBC&ll=34.647993599607275%2C135.83679280810037&z=13

 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂) 大和国 添上郡 髙橋神社Takahashi no kamino yashiro)の論社3つ

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)の境内社 若宮社(Wakamiya sha)

高橋神社(奈良市八条町)

③月日磐

 

和爾Wani)の名を冠する 各地の『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)に所載の関連神社について

大和國添上郡 和尓坐赤坂比古神社 大(ワニニマス アカサカヒコ ノ カミノヤシロ)

和爾坐赤阪比古神社

大和国 添上郡 和尓下神社二座(ワニノ シモノ カミノヤシロ ニザ 

①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

若狭國 三方郡 和爾部神社(ワニベノ カミノヤシロ)

日吉神社 (美浜町佐柿)

尾張國 山田郡 和尓良神社(ワニラノ カミノヤシロ)

和爾良神社 春日井市上条町

朝宮神社 春日井市朝宮町

両社宮神社 春日井市宮町

和爾良神社 名古屋市名東区猪子石原

藤森神明社 名古屋市名東区本郷

神社 春日井市牛山町

景行天皇社 長久手市西浦

讃岐國 三木郡 和尓賀波神社(ワニカワノ カミノヤシロ)

引宮神社 木田郡三木町井上

鰐河八幡宮 木田郡三木町町下高岡

白山神社 木田郡三木町下高岡

和爾賀波神社 木田郡三木町井戸

 

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

櫟本(イチノモト)駅から 県道192号を東へ約1km 徒歩15分程度

県道192号の脇には 聖武天皇の勅施入〈勅旨によって施入された土地〉と伝わる重要な「櫟本(イチノモト)庄」の庄田を潤すために付け替えられた「高橋川(タカハシガワ)」〈現在の高瀬川の旧河道〉が直線状に流れています

R169号に面して 赤鳥居が建ちます
和爾下神社Wanishita Shrine)に参着
社号標には「本殿国寶 和爾下神社」とあります

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表参道は 奥に住宅街があって 半分生活道路のような感じです
ここから左の森に入っていきます

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この森は 和邇下神社古墳になっています
和爾下神社は古墳(古墳時代前期)の上に鎮座します

和邇下神社古墳

東大寺山丘陵の西麓台地上に築造された前方後円墳である 全長約120m、後円部径70m、高5m、前方部幅50mである。前方部が短く、端部が両側へ撥形に開く特異な形態である。当古墳と、東大寺山古墳・赤土山古墳、及びシャープ総合開発センター内に所在する古墳などにより東大寺山古墳群を構成している。
当古墳から東北約800mには和爾の集落があるが、この周辺一帯は、古代大和政権の一翼をになった和爾氏の本拠地と推定され、東大寺山古墳群は和爾氏の奥津城と考えられる。・・・・・・・・・・

天理市教育委員会

境内案内板より

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境内社にお詣りをしながら 階段の手前には かつて使用されていた手水鉢があります

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「影媛(カゲヒメ)あわれ」の案内板とともに石碑もあります

 

社殿へと続く階段を登り 拝殿にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

 

狛犬ならぬ狛牛があり 天満宮ではないので??

 

直ぐ左隣には 狛犬の構える 式内社の論社 境内社 若宮社(Wakamiya sha)にお詣りをします

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垣の隙間から 重文の本殿が仰げます

記念碑 和爾下神社本殿は桃山時代の風貌を遺し彫刻色彩に優美なる手法がとられる 昭和13年7月国宝建造物に指定され現在 重要文化財

・・・・・・・・・・

境内石碑より

 

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に記される伝承

「櫟井臣(イチヒイノオミ)・和珥臣(ワニノオミ)」は 和珥部朝臣(ワニノべノアソミ)と同祖(オナジオヤ)であると記されています

意訳

櫟井臣(イチヒイノオミ)
和珥部朝臣(ワニノべノアソミ)と同祖(オナジオヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」の後(スエ)なり

和珥部臣(ワニノべノオミ)
和珥部朝臣(ワニノべノアソミ)と同祖(オナジオヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」の後(スエ)なり

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『新撰姓氏録』選者:万多親王/校訂者:橋本稲彦[書誌事項]刊本(後印) ,文化04年[旧蔵者]教部省

 

『東大寺要録(Todaiji yoroku)』嘉承元年(1106年)の巻2に記される伝承

東大寺領 櫟本(イチノモト)庄の「三池(ミイケ)」に関して 築造時の様子が記されています

神護景雲3年(769)12月10日~翌(770)同4年4月1日の4ヶ月間に渡り 東大寺が 延べ1万余の労働力で 聖武天皇の勅施入〈勅旨によって施入された土地〉と伝わる重要な「櫟本(イチノモト)庄」の庄田を潤すために「三池」と呼ばれる溜池を築造したことが記されています

「高橋川一井三池」とあって 櫟本(イチノモト)庄の庄田を潤すために新たに掘削して付け替えをされた「高橋川(タカハシガワ)」〈現在の高瀬川の旧河道〉を記しています 今でも当神社〈和爾下神社Wanishita Shrine)〉の境内より 西側は 条里地割に沿って人工的に掘削されて流れる直線状の河川となっています

「一井三池」とある記載は 「高橋川(タカハシガワ)」を付け替える時に 上流に新たな用水路と溜池を掘削・築造したものとされていて 今でも高瀬川の上流南岸には「三ツ池」が現存しています

高橋川一井三池
右為 レ灌二櫟本庄 田一穿也惣井功井用物勘注如 レ左合役 人単 一万一千五百九十三人六百八 十八 人将領二千三百十七人仕丁七千九百八 十六 人雇体六百二人人々知識所進用分銭一百計二貫 四百廿文米三百廿二石五斗八合塩三石三斗 四升 三合(中略)

以前始レ自二神護 景雲三年十二月十日一至二神護景雲四年四月一日 一用二雑物井役一単功等如レ前別当造寺司主正 六位上 阿刀宿祢高泰大和 国員外 目従 六位下桜 田連春 山領散位従 六位上道祖公麿従六位上 国中連足麿倉人無位丹比宿祢宮継

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『東大寺要録』簿冊名:丹鶴叢書[書誌事項]刊本(序刊)[旧蔵者]教部省

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『神名帳考証土代(jimmyocho kosho dodai)』(文化10年(1813年)成稿)に記される伝承

意訳

和尓下(ワニノシモノ)神社 二座

『日本書記』「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」は和珥臣(ワニノオミ)等の始祖(シソ)なり
『日本書記』雄略天皇紀 春日 和珥臣(ワニノオミ)深目

今 和珥(ワニノ)村の南に有る
櫟本(イチノモト)社を 按(考えるに) 櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)は同祖(オナジオヤ)

一座は 櫟本(イチノモト)村に在り 櫟本(イチノモト)上治道天王(ウエハルミチノテンノウ)と号曰く〈呼ばれている〉

一座は 横田(ヨコタ)村に在り 下治道天王(シタハルミチノテンノウ)と号曰く〈呼ばれている〉

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院

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『神社覈録(jinja kakuroku)』明治3年(1870年)に記される伝承

意訳

和爾下神社

和爾(ワニ)は前に同じ 下(シモ)は志母と訓(クン)ずるべし〈訓読み〉
和爾坐赤阪比古(ワニニマス アカサカヒコ)神社〈上社〉に對へて(コタエテ)下(シモ)の字を加えている

〇祭神 和爾部(ワニべ)氏 祖神 欣(ヨロコブ)
〇一座 櫟本(イチノモト)村に在す 今は 上治道天王(ウエハルミチノテンノウ)と称す
 一座 横田(ヨコタ)村に在す 下治道天王(シタハルミチノテンノウ)と称す 大和志 同名所園會
〇日本書紀 神武天皇 巳未年2月 和珥坂下(ワニノサカシタ)に居勢祝(コセノハフリ)という者があり云々

類社として
若狭國(ワカサノクニ)三方郡(ミカタノコオリ)
和爾部(ワニベノ)神社
の條を見合うべし

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所

『神社覈録』

 

『特選神名牒(Tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される内容

意訳

下(ワニノシモノ)神社 二座

祭神

祭日 8月13日
社格 村社(両社とも村社)
所在 一座 櫟本(イチノモト)村 上治道天王(添上郡櫟本町本町大字櫟本)
一座 横田(ヨコタ)村 下治道天王(添上郡治道村大字横田)

今 按(考えるに)
社伝 二座の内
一座は 櫟本(イチノモト)村
一座は 横田(ヨコタ)村 にあり

櫟本(イチノモト)村の社伝に 上治道社は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)大国主命(オオクニヌシノミコト)稲田姫命(イナダヒメノミコト)

また
横田(ヨコタ)村の社伝に 下治道社は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)日本武尊(ヤマトタケルノミコト)

とあるによる時は 素戔嗚命(スサノヲノミコト)奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)の二座を祀るごとく思われるけれど
考昭天皇の皇子「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」の族「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」を祀るものなるべし

それは 日本紀〈日本書紀〉に「天足彦国押人命(アマタチシヒコクニオシヒトノミコト)」これは和珥臣(ワニノオミ)等の祖(オヤ)なりと


和珥臣(ワニノオミ)の祖(オヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」云々

『新撰姓氏録(Shinsen Shoji roku)』815年(弘仁6年)に
櫟井臣(イチヒイノオミ)・和珥部(ワニノべ)の朝臣(アソン)は同祖(オナジオヤ)「彦姥津命(ヒコハハツノミコト)」の五世孫「米餅春大使主命(タガネツキノオオオミノミコト)」の後(スエ)なり とみえ

この神社の 一座の
櫟本(イチノモト)にあるのは 櫟井臣(イチヒイノオミ)に由(イワレ)あり

横田(ヨコタ)村の神主の櫟井(イチヒイノ)姓なるのも また由縁(ユエン)あって聞こえる事を思うに 櫟井臣(イチヒイノオミ)・和珥部臣(ワニノべノオミ)の祖神(オヤガミ)を祀りしものなること決ければ〈決定している〉

明細帳に記せるは 後人(ノチノヒト)の社撰(ヤシロエラビ)にて 何の由縁(ユエン)もなく 疑わしき故に 取らず〈採用せず〉

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂

『特選神名牒』

 

和爾下神社Wanishita Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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①当神社 和爾下神社(天理市櫟本町)

➁和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾坐赤阪比古神社の境内社「春日社」と「八幡社」の2座

 

 

 

 

 

 

 

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