島根県

奈倍山神社(雲南市三刀屋町古城)

奈倍山神社(なべやまじんじゃ)は 古くは 奈倍山(なばいやま)の麓 尾崎の川辺に鎮座し「川辺社(かわべのやしろ)」と称した『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つです 寛永三年(1626)洪水により山嶺に遷座するも 風災多く 寛延三年(1750)山頂下の現在地に遷座しました

深野神社(雲南市吉田町深野)

深野神社(ふかのじんじゃ)は 古記録焼失して 由緒創立年代は不詳ですが 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 不在神祇官社「深野社(ふかぬ)のやしろ」とされます 江戸時代には「山王社」と呼ばれ 明治期には近郊の神社を数多く合祀しています

井草神社(雲南市三刀屋町伊萓)

井草神社(いがやじんじゃ)は 伊萱(いがや)地区の杵瀬大明神(井草社)と市森大明神(毛利社)の2社が 元禄12年(1699)に現在地に遷座して一社として合祀されたもので 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 不在神祇官社「井草社(いがや)のやしろ」と「毛利社(もり)のやしろ」とされます

狹長神社(雲南市掛合町掛合)

狭長神社(さながじんじゃ)は 飯石郡 不在神祇官社「狹長社(さなか)のやしろ」とされます 古くは 烏帽子岩の上に鎮座していたと伝わり 勝手大明神(かってだいみょうじん)と呼ばれていました 現在の狭長神社はもともと稲荷があったところに多くの神様が合併しています

上神社(雲南市吉田町上山)

上神社(うえじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 不在神祇官社「上社(うへ)のやしろ」とされます 中古には 八組大明神(やくみだいみょうじん)と称されて 相殿には 上山に鎮座する「牛頭天王」と「八幡宮」と「吉備津明神(きびつみょうじん)」を祀ります

粟谷神社(雲南市三刀屋町粟谷)

粟谷神社(あわたにじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 不在神祇官社「粟谷社(あわたに)のやしろ」とされます 第10代 崇神天皇の時 出雲振根(イズモノフルネ)を武力制圧した大和朝廷の司令長官 吉備津彦命(きびつひこのみこと)を祀る神社です

佐比賣山神社(大田市三瓶町多根)〈『延喜式』佐比賣山神社〉

佐比賣山神社(さひめやまじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の石見国 安濃郡 佐比賣山神社(さひめやまの かみのやしろ)の論社です 『出雲國風土記733 AD.』の国引き神話では くにを引き寄せた「綱」が「薗の長浜(そののながはま)」この綱を繋ぎ止めた東の杭が「佐比賣山(さひめやま)〈三瓶山〉」とされます

多根神社(雲南市掛合町多根)

多根神社(たねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』飯石郡 多禰郷(たねのさと)に 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おほなもちのみこと)と 須久奈比古奈命(すくなひこなのみこと)天下を巡り行きし時 稲種(いなだね)をここに随(のこ)す 故に種(たね)という とあります

加多神社(雲南市大東町大東)

加多神社(かたじんじゃ)は 社伝によれば「御祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)〈大国主命と国造りをなされた神〉は 此の地を根拠地として農耕医療等を教導された」とあります 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「加多社(かた)のやしろ」とされます

小田神社(出雲市多伎町小田)

小田神社(おだじんじゃ)は 現在地の西方海上にあった「鵜鵜島(うのしま)」に鎮座しましたが 寛永五年(1628)現今の尾山(おやま)の地に遷座して 今日に至ります 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 不在神祇官社「小田社(をだ)のやしろ」とされます

雲根神社(出雲市大津町)

雲根神社(くもねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 不在神祇官社「鹽夜社(やむや)のやしろ」と『延喜式神名帳927 AD.』神門郡「神産魂命子午日命神社」の論社となっていて 風土記の頃(733年)には神祇官社ではなく 後に官社となったと考えられています

岩坪明神(出雲市東神西町)〈奈賣佐社の旧鎮座地〉

岩坪明神(いわつぼみょうじん)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 神祇官社に 二つある「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の一つで 大国主命と須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

那賣佐神社(出雲市東神西町)

那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

佐伯神社(出雲市神西沖町)

佐伯神社(さえきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「波加佐社(はかさ)のやしろ」とされます 中古から近世にかけて那賣佐神社に合祀され衰徴してしまった 貞享四年(1678)に始った神西沖町の干拓により里人が 日御碕神社の祭神を奉齋し これを佐伯神社として復活しました

佐志武神社(出雲市湖陵町差海)

佐志武神社(さしむじんじゃ)は 社伝によれば『日本書紀』にある「高天原から葦原中国を平定するため 経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)が遣わされた」その二神が降り立った地であると伝えます 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「佐志牟社(さしむ)のやしろ」とされます

富能加神社(出雲市所原町)

富能加神社(ほのかじんじゃ)は 元社地は 星神山(鉾山)〈現社地の北 約1km〉中腹の巌窟に社があって 山麓に拝殿を設けて祭事を執行していました 星神大明神と称し『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」の論社です 明治44年に現在の小野山麓〈小野神社の社地〉に遷座し 明治49年 小野神社を合祀して今に至ります

市森神社(出雲市稗原町)

市森神社(いちもりじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載・神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」・神門郡 不在神祇官社「加夜社(かや)のやしろ」の二つの論社の合祀社で かつて薭原両社とも称され一つの拝殿に御本殿は「星宮大明神」「市森大明神」の同形同大の二社であったと伝わります

多伎神社(出雲市多伎町多岐)

多伎神社(たきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 多伎郷(たきのさと)の条に「所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)の御子(みこ)阿陀加夜努志多伎多伎吉比賣命(あだかやぬし たききひめのみこと)が坐(ましま)す 故に 多吉(たき)という」とあり 神門郡 神祇官社に二つある「多吉社(たき)のやしろ」両方の論社となっています

三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町 字西谷)

三谷神社(みたにじんじゃ)は 約500年前に紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)から勧請し 上来原の大神谷の山上に祀られました 元禄5年(約300年前)池ノ内の干拓があり それまで同地 杓子山にあった式内社〈阿須利神社の古社地〉を三谷山上に遷した機会に いっしょに三谷の地に奉遷し合祀したので 式内 三谷大明神と呼ばれました 明治5年(1872)阿須利神社は独立し分離 その後 昭和37年に現在地に遷座して今日に至っています

阿須利神社(出雲市大津町)

阿須利神社(あすりじんじゃ)は もともとは 現在のように八幡宮と一所ではなく 阿世理池(あせりのいけ)の杓子山といふ小丘に鎮座していました 明治五年(1872)『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「阿須理社(あすり)のやしろ」を八幡宮と共に 龍王社〈現社地〉に合祀せよ との県庁の指令により現在の神社となりました

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