埼玉県
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長幡部神社(児玉郡上里町長浜)〈延喜式内社〉
長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は 創建年代は不詳 此の地域に進出した長幡部氏〈高度な機織り技術を持った渡来系氏族〉が 神流川南岸の西的場に機織りの神゛天羽槌雄命゛を祀ったことが起源とされ 天永元年(1110)洪水のため社地が流亡し現在地に遷座と伝えます 延喜式内社 武蔵國 賀美郡の4座(並小)すべての論社です
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国渭地祇神社(坂戸市森戸)
国渭地祇神社(くにいちぎじんじゃ)は 社記には 延暦年中(782~806年) 坂上田村麻呂が東征の帰途 報賽のため社殿を再営し 下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている 社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していること等から 延喜式内社 入間郡 國渭地祇社(くにゐちきの かみのやしろ)の論社にもなっています
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北野天神社(所沢市小手指元町)〈正式名称゛物部天神社 國渭地祇神社 天満天神社゛〉
北野天神社(きたのてんじんしゃ)は 三社を合殿に祀る総称で 正式名称は゛物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社゛です 元々は 日本武尊が祀ったと伝わる入間郡の式内社 物部天神社とされ さらに国渭地祇神社を(一説には出雲祝神社も)合祀すると云う 長徳元年(995)京都より北野天神を勧請し 坂東第一北野天神と称しました
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川越氷川神社(川越市宮下町)
川越氷川神社(かわごえ ひかわじんじゃ)は 創建について 元禄九年棟札・正徳縁起に 欽明天皇 即位二年(521)辛酉九月十五日 武蔵国 足立郡 氷川神社を分祀奉斎したと伝える古社です 一説に゛氷川の神゛〈出雲神〉を祀る 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)とも伝わります
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出雲祝神社(入間市宮寺)
出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります
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出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は 社伝「臥龍山宮伝記」に景行天皇53年 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際 凱旋し 天皇から賜った゛ヒイラギの鉾゛をおさめ神宝とし 出雲の大己貴命を祀った また 成務天皇の御代 武蔵国造 兄多毛比命(エタモヒノミコト)が 出雲の天穂日命を祀り 二柱を出雲伊波比神としたと伝わっています
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伊波比神社(吉見町黒岩)
伊波比神社(いわいじんじゃ)は 和銅年間(708~715)の創建と伝え『延喜式神名帳927 AD.』所載 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)とされます 元々は 出雲系の神を祀っていましたが その後 平安時代末から鎌倉初期にかけて 源頼朝の弟の源範頼の所領となり 源氏の八幡信仰から八幡神が祀られ「岩井八幡宮」と呼ばれていました
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高負彦根神社(吉見町田甲)
高負彦根神社(たかおひこねじんじゃ)は 吉見丘陵の東北端 ポンポン山〈玉鉾石〉に鎮座します 創建は和銅三年(710)と伝えられ 宝亀三年(772)の太政官符には 武蔵国の班幣対象社四社の内として「横見郡 高負比古乃社」と記される古社 延喜式内社 武蔵國 横見郡 高負比古神社(たけふひこの かみのやしろ)とされています
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野芽神社(吉見町和名)
野芽神社(のげじんじゃ)は イネ科植物の穂先を芒(のげ)と云い ここから゛野芽(のげ)゛を社号として 穀霊を祀って創祀したのではないかと伝わります 横見郷を見渡す吉見丘陵の上に鎮座し 郷土史研究家の説に 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)との推論もあります
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横見神社(吉見町久保田)
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 建長年間(1249~56)の大洪水の際 飯玉明神社〈現 横見神社(吉見町御所)〉の御神体が窪田村(当時)に漂着し 貴い神の来臨と捉え 愛宕社の社地〈当地〉にお祀りしたものと伝えます 故に延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
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横見神社(吉見町御所)
横見神社(よこみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は和銅年間(708~715年)とされ 平安時代末~中世には 吉見氏の居館゛吉見の御所゛があり゛御所゛が地名となった 中世~有力農民層の管理に移ると 飯玉氷川明神社と社号を改称〈穀霊信仰により〉 更に その後 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社として 社号を戻したとされます
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氷川神社(吉見町上細谷)
氷川神社(ひかわじんじゃ)は 細谷郷〈細長い谷という意から名付けられた郷〉の惣鎮守 飯玉氷川神社〈式内社に比定される横見神社〉から分霊を受けたものと思われますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社とする説もあります
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吉見神社(熊谷市相上)
吉見神社(よしみじんじゃ)は 景行天皇56年 東国統治を命じられて善政をしいたとされる御諸別王(みもろわけのみこ)が 天照大神を祀ったのが創基とされ 以来 御諸別王の子孫が代々神主として奉仕しています 現在は大里郡に鎮座しますが 延喜式内社 武蔵國 横見郡 横見神社(よこみの かみのやしろ)の論社ともされています
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久伊豆社(鴻巣市笠原)
久伊豆社(ひさいずのやしろ)は 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社とも云われ 鎮座地の゛笠原゛は 古墳時代後期 豪族〈笠原氏〉の本拠地で 『日本書紀』安閑天皇元年(534年頃)の条に「武蔵国造の乱」〈武蔵国造の笠原使主と同族との内乱〉として 大和朝廷も重要視する お家騒動として記されており これは当時 東国の蝦夷(えみし)への前線 武蔵國が朝廷の重要な拠点であったことを示すものとされます
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加茂神社(さいたま市北区宮原町)
加茂神社(かもじんじゃ)は 江戸時代までは 加茂大明神と呼ばれていました 勧請の年代は不詳ですが その昔 京都の上賀茂神社を勧請したもの と伝えられます 一説に 延喜式内社 武蔵国 足立郡 足立神社(あたちの かみのやしろ)の論社ともされています
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足立神社(さいたま市浦和区上木崎)
足立神社(あだちじんじゃ)は 開化天皇の御代 創立 延喜式内 足立神社と口碑に伝称されています 高埇郷に鎮座したので 江戸期まで 高埇(たかはな)明神社と呼ばれていましたが 明治期になると 上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は 当社を延喜式内社の足立神社であると主張し 社名変更を行ったとされます
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足立神社(さいたま市西区飯田)
足立神社(あだちじんじゃ)は 元々は飯田村の鎮守 氷川・八幡合社でしたが 政府の合祀政策により 明治39年(1906)植水村内にあった30社を当社に合祀しました その中に式内社 足立神社の二つの論社〈・植田谷本村の足立神社・水判土村の足立神社〉が含まれており この合祀を機に氷川神社の社号を「足立神社」と改めたものです
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植田谷本の楠(さいたま市西区植田谷本)〈植田谷本村 足立神社 旧社地辺り〉
植田谷本の楠(うえたやほんのくすのき)は 植田谷本村の足立神社は 植田谷本村 名主 勘太夫の屋舗の内あった足立神社の旧社地辺りだったとされます 明治39年(1906)政府の合祀政策により 飯田村の鎮守 氷川・八幡社に合祀されました
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前玉神社(行田市埼玉)
前玉神社(さきたまじんじゃ)は 一説には 雄略天皇の頃 古墳時代(400年代後半~500年代前半)の創建とも云われ 北武蔵国の地元豪族が眠ると思われる さきたま古墳群の真上に鎮座します 延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)とされます
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前玉神社(加須市根古屋)
前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています