奈良県
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鴨都波神社(御所市宮前町)
鴨都波神社(かもつわじんじゃ)は 社伝によれば 第10代 崇神天皇の御代 勅命により大田田根子命の孫 大賀茂都美命(おおかもずみのみこと)が創建 『延喜式(927年編纂)』では 月次・相嘗・新嘗に宮中より官幣に預る名神大社に列した 大和国 葛上郡 鴨都波八重事代主命神社二座(かもつはやへことしろぬしのみことの かみのやしろ)です
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大直禰子神社(桜井市三輪)〈大神神社 摂社〉
大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)は 第10代 崇神天皇(すじんてんのう)の御代に疫病が大流行した国難の時 天皇の御夢に大物主大神の神託があり 大神神社の神主となられたのが 大神のご子孫 大直禰子命(若宮様)です 第13代 成務天皇の御代に社が創建されました 大神神社の境外摂社です
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久延彦神社(桜井市三輪)〈大神神社 末社〉
久延彦神社(くえひこじんじゃ)は 大神神社の境外末社です 御祭神 久延毘古命は 『古事記』に「世の中の事をことごとく知っている智恵の神様〈山田の案山子〉」と記されています 受験合格・学業向上の霊験あらたか 十二月第一日曜は 入試安全祈願祭があります
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綱越神社(桜井市三輪)
綱越神社(つなこしじんじゃ)は 夏越(なごし)の社とも言われ 旧六月晦日の大祓「夏越祓(なごしのはらえ)」が厳粛に行われる古社 大神祭(おおみわさい)の奉仕に先立ち 大神神社の神主以下奉仕員が 当社において祓の儀を受けて はじめて本社の神事に携わることができました 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の大和国 城上郡 綱越神社(つなこしの かみのやしろ)です
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玉列神社(桜井市慈恩寺)
玉列神社(たまつらじんじや)は 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載の大和国 城上郡 玉列神社(たまつらの かみのやしろ)です 御祭神の玉列王子神(たまつらみこのかみ)は 大神大物主神の御子神とされ 大神神社とは 古代から深い繋がりがあるとされています
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神坐日向神社(桜井市三輪)
神坐日向神社(みわにます ひむかい じんじゃ)は 大神神社の境外摂社です 「御子森」と呼ばれる小高い地〈大神神社の南 約250m〉に祀られています 太陽信仰とされる式内社 神坐日向神社の論社となっています
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率川阿波神社(奈良市本子守町)
率川阿波神社(いさがわあわじんじゃ)は 創建について 社伝には「宝亀二年(771)藤原是公 夢のお告げ」によるとされ 当初は奈良市西城戸町に鎮座していましたが 時代と共に衰微し 大正9年に率川神社の境内に社殿を建立し その後 末社 春日社・住吉社と共に現在地に遷座 式内社の率川阿波神社とされます
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率川坐大神御子神社(奈良市本子守町)
率川坐大神御子神社(いさがわにます おおみわみこじんじゃ)は 大和国一之宮 大神神社の摂社で 「大宝令」〈大宝元年(701)制定〉に 国家の祭祀として 例祭 三枝祭(さいくさのまつり)は 既に規定されていました 鎮花祭〈大神神社 例祭〉と共に古くから疫病を鎮める祈りのお祭りです 『延喜式神名帳AD.927』にも記される古社です
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檜原神社(桜井市三輪)
檜原神社(ひばらじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の御代 それまで皇居で祀られていた「天照大御神(あまてらすおほみかみ)」を 皇女 豊鍬入姫命に託し ここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷し お祀りした〈元伊勢〉とされます 式内社 大和国 城上郡 巻向坐若御魂神社(大 月次相嘗新嘗)の論社でもあります
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狹井坐大神荒魂神社(桜井市三輪)
狹井坐大神荒魂神社(さいにますおほみわあらみたまじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC29~AD70〉渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)が勅を奉じて創祀されたと伝わり 『延喜式AD.927』に鎮花祭社(はなしずめのまつりのやしろ)と記され 通称 花鎮社とも呼ばれます
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大神神社(桜井市三輪)〈三輪山を〈御神体〉とする大和國一之宮〉
大神神社(おおみわじんじゃ)は 『記紀神話』に創建に関わる伝承が記されており 『延喜式』には名神大社と所載される 大和国一之宮です 古来から本殿は設けず 拝殿の奥にある三ッ鳥居を通し 三輪山〈御神体〉に祈りを捧げる原初の神祀りで 我が国最古の神社と呼ばれています 神社の社殿が成立する以前の祭祀の姿を今に伝えています
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高鴨神社(御所市鴨神)
高鴨神社(たかかもじんじゃ)は 阿遅志貴高日子根命(あじすきたかひこねのみこと)別名 迦毛之大御神〈かものおほみかみ〉を祀ります 記紀神話に 大御神と名のつく神は 天照大御神 伊邪那岐大御神と同神の三神のみ 死した神々をも甦えらせる御神力の強き神で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の大和國 葛上郡 高鴨阿治須岐託彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗とされます
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漢國神社(奈良市漢國町)〈延喜式内社名神大社〉
漢国神社(かんごうじんじゃ)は 推古天皇 元年(593)大神君白堤が勅を賜ひ 園神〈大物主命〉を祀り その後 元正天皇の養老元年(717)藤原不比等公が 更に 韓神の二座〈大己貴命・少彦名命〉を相殿として祀りました 清和天皇 貞観元年(859)平安城宮内省へと 園神韓神は勧請されたと社伝にあります
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稚櫻神社(桜井市池之内)
稚櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『日本書紀』第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の条にある 天皇が船遊びをされた「磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ=磐余池)」や 物部長真胆連(モノノベノ ナガマイノムラジ)が 桜の花を捜し出した「掖上室山(イケノヘ ノ ムロヤマ)」が 隣接していたと伝わっていて 磐余稚桜宮(イワレノ ワカサクラノミヤ)の舞台とする説もあります
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高屋安倍神社(若櫻神社の西殿)
高屋安倍神社(たかやあべじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 東殿(若桜神社)西殿(高屋安部神社)の本殿があり 元々は 若櫻神社の鎮座地です 高屋安部神社は安倍松本山(安倍文殊院の東)から 近世(18世紀以前頃)に山崩れがあり社殿が大破した為 こちらに遷座したと伝わります 阿部氏に所縁の祭神を祀ります
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若櫻神社(桜井市谷)
若櫻神社(わかざくらじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社で 第17代 履中天皇(リチュウテンノウ)〈在位400~405年頃〉の磐余稚桜宮(イワレ ワカザクラノミヤ)跡に充てる説もあります 東殿(若桜神社)西殿(高屋安部神社)の本殿があり 高屋安部神社は 近世(18世紀以前頃)に山崩れがあり 社殿が大破した為 安倍松本山(安倍文殊院の東)から 元々の若櫻神社の鎮座地 こちらに遷座したと伝わります 若桜部(ワカサクラベノ)氏や安倍(アヘノ)氏に所縁のある御祭神を祀ります
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服部神社(村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社)
服部神社(はとりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される古社です 社記によれば 旧鎮座地は 現在地より西2kmばかりの所に 大安寺村 字 神来森(カキノモリ)という土地があり そこに鎮座して波登里(ハトリ)村・阿刀(アト)村の氏神であったが 天正中(1573年~1591年)社殿兵火に罹り後 村屋坐社の本殿横の瑞垣の中に遷座して現在に至ります
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和爾坐赤阪比古神社(和爾町)
和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています
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和爾下神社(大和郡山市横田町)
和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります
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月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)
月日磐(ツキヒノイワ)は 和銅3年(710)3月10日〈旧暦〉に藤原京から平城京に遷都した時に 若草山に近い「吉城川」上流の石〈日と三日月の陰刻がある〉「月日磐(ツキヒノイワ)」に「氷神(ヒノカミ)」をお祀りして 氷池(ヒイケ)〈冬に氷を製造〉と氷室(ヒムロ)〈氷を夏まで保存〉を設け 貴重な氷として春~夏に平城宮へ献上しました これが氷室神社の祭祀の始まりとされています 又 朝廷の食膳を司る家柄「高橋(タカハシ)氏」の氏神「高橋神社」の旧鎮座地とも云われています