奈良県

宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)

宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります

井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)

井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります

初宮神社(奈良市鍋屋町)

初宮神社(はつみやじんじゃ)は 平城京〈710~794年頃〉奈良時代 宮中の神祇官にて祀られていた八神殿の跡〈第九代 開化天皇の時代〈BC.157~BC.98年〉の八神殿であるとも伝〉とされる聖地です 八神殿は その後 京都への遷都とともに京都に遷り 現在は東京の皇居に鎮座しています 現在の初宮神社は 世界遺産・春日大社(かすがたいしゃ)の境外末社となっています

森神社(天理市森本町)

森神社(もりじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 京中 左京二条坐神 太詔戸命神(ふとのとの みことの かみ)(大月次相嘗新嘗)の旧鎮座地とも 大和国 添上郡 太祝詞神社(大月次新嘗)(ふとのとの かみのやしろ)であるともされます

国常立神社(橿原市南浦町)

國常立神社(くにとこたちじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和国 十市郡 天香山坐櫛真命神社(大 月次 新嘗 元名大麻等乃知神)の論社で 京中 左京二条坐神 2座 久慈真智命神(大月次相嘗新嘗)(くしまちのみことのかみ)の奥宮に相当します

天香山神社(橿原市南浦町)

天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和国 十市郡 天香山坐櫛真命神社(大 月次 新嘗 元名大麻等乃知神)とされ 京中 左京二条坐神 2座 久慈真智命神(大月次相嘗新嘗)(くしまちのみことのかみ)の本社に相当します 畝尾坐健土安神社(うねひのます たけはにやす かみのやしろ)の論社でもあります

酒船石(明日香村岡)〈飛鳥坐神社 旧酒殿跡〉

酒船石(さかふねいし)は 長さ約5.5m 幅約2.3m、厚さ約1mの大きさで 上面に丸いくぼみ それにつながる溝が直線で刻まれています 飛鳥坐神社の旧酒殿跡とも御旅所跡とも 飛鳥山口坐神社の旧鎮座地とも云われます 第37代 斉明天皇が 豊穣の祈願などさまざまな祭祀をここで行ったともされますが 用途は不明です

飛鳥山口坐神社(明日香村飛鳥)〈飛鳥坐神社 境内〉

飛鳥山口坐神社(あすかやまぐちにますじんじゃ)〈飛鳥坐神社 境内〉は 『延喜式』「第8巻 祈年祭祝詞」に「山口坐皇神 等能前白久 飛鳥 石村 忍坂 長谷 畝火 耳無 御名者白」とあり「大和六所山口神社」とされます 大和國 髙市郡 飛鳥山口坐神社(大月次新嘗)(あすかやまくちにます かみのやしろ)とされます

飛鳥坐神社(明日香村飛鳥)

飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)は 『延喜式927 AD.』巻八『出雲国造神賀詞』に「大穴持命が 賀夜奈留美命を飛鳥の神奈備に坐せて 皇孫命の近き守り神にした」とある伝承の社で『延喜式神名帳』所載の大和國 高市郡 飛鳥坐神社 四座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)(あすかにます かみのやしろ しくら)とされます

生國魂神社(橿原市大久保町)

生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)の論社とされます

牟佐坐神社(橿原市見瀬町)

牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)は 中世の『五郡神社記』旧記によると 第20代 安康天皇の御代 霊夢を受けた 牟佐村主青(ムサノスグリアオ)が「生雷神」を祀り創祀し 子孫を祝部としたと記しています 『延喜式神名帳(927年編纂)』所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)とされます

八阪神社・千代神社(田原本町阪手)

八阪神社・千代神社(やさかじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 式内社 千代神社は 千代村に鎮座 春日神社の境内摂社だったが 洪水の為に流失して下流 大安寺の森市神社の境内に祀られた 明治四十二年三月四日 同村 阪手村社 八坂神社〈現 八阪神社・千代神社(田原本町阪手)〉に合祀 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)の現在の合祀先とされます

春日神社・千代神社(田原本町千代)

春日神社・千代神社(かすがじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とされます 天長年間(830年頃)洪水によって社殿が流れ 大安寺に漂着し遷座 大正九年(1920)地元の崇敬が厚く 当地の春日神社の境内社として祭祀を行なっています

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について

大和国(やまとのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 大和國の286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)の神社のことです

木葉神社(橿原市雲梯町)

木葉神社(このはじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』所載 大和国 髙市郡 川俣神社三座(並大月次新嘗)(かわまたの かみのやしろ さんざ)(だい つきなみ にいなめ)とされています 創建・由緒は不詳ですが当初は この地に居住した「川俣氏」が 祖神を祀ったものだろうとされます

河俣神社(橿原市雲梯町)

河俣神社(かわまたじんじゃ)は 『出雲国造神賀詞』に「事代主命(ことしろぬしのみこと)の御魂を宇奈提(うなて)に坐(ましま)す」と記され《式内社》髙市御県坐鴨事代主神社 大月次新嘗(たかいちの みあかたにます かものことしろぬしの かみのやしろ)に比定されます また《式内社》川俣神社三座 並大月次新嘗(かわまたの かみのやしろ)の論社でもあります

森市神社・千代神社(田原本町大安寺)

森市神社・千代神社(もりいちじんじゃ・ちしろじんじゃ)は 『磯城郡誌』には「千代村に鎮座の春日神社に境内摂社であった式内社の千代神社が 洪水の為に流失して下流に流れ着き 現在は大安寺の森市神社の境内に祀られている」と記され『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 大和國 城下郡 千代神社(ちしろの かみのやしろ)とされます

岐多志太神社(田原本町伊与戸)

岐多志太神社(きたしたじんじゃ)は 社名の岐多志太は キタ氏の田という意味で キタ 即ち 鉄を鍛える鉄工の神とされます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の大和国 城下郡 岐多志太神社 二座(鍬靫)(きたしたの かみのやしろ ふたざ)とされます

久須須美神社〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)

久須々美神社(くずずみじんじゃ)は 社伝に「元は 今の蔵堂橋の南のたもとに鎮座 伊豫氏(伊与戸)の氏神であった」が明治初めに現在地〈村屋坐弥冨都比賣神社 境内摂社〉に遷されました《式内社》大和国 城下郡 久須須美神社(くすすみの かみのやしろ)とされます

村屋神社〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内摂社〉(田原本町蔵堂)

村屋神社(むらやじんじゃ)は 社伝に「元は大宮から200mほど東 初瀬川の川べり宮山と字する所に鎮座されていたが 天正の兵火後 今の地〈村屋坐彌冨都比賣神社 境内〉に遷し祭る」と伝わります《式内社》大和国 城下郡 村屋神社 二座(むらやの かみのやしろ ふたざ)です

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