副川神社(そえがわじんじゃ)は 秋田の八郎潟に鎮座します 大和朝廷の延喜の制では官社とされる 「延喜式神名帳engishiki jimmeicho」(927年12月完成)所載の神社で 最北端の式内社とされています つまり当時の大和朝廷勢力の北限にあたります
目次
ご紹介(Introduction)
【神社名】(shrine name)
副川神社
soegawa shrine
【通称名】(Common name)
【鎮座地】(location)
秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45
【地 図】(Google Map)
【延喜式神名帳】 「旧国名 郡 ・ 神社名」
(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」
出羽國 山本郡 副川神社 一座小
idehanokuni yamamotogun sohikawa no kaminoyashiro
【御祭神】(God's name to pray)
《主》 天照大御神 amaterasu omikami
《主》 豊受大神 toyokeno okami
《主》 素盞嗚大神 susanono okami
【御神格】(God's great power)
・五穀豊穣 Pray for good harvest
・等 etc
【格式】(Rules of dignity)
延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社
【創建】(Beginning of history)
701年(大宝元年)頃:藤原不比等らの奏請により創建と伝わる
871年(貞観13年):「日本三代実録」に「出羽国利神に従五位下を授ける」
この条にある「利神」が「副川神社」としている
1602年(慶長7年):佐竹義宣(satake yoshinobu)秋田への転封
1714年(正徳4年):佐竹義格(satake yoshitada)が(社伝)現在地に移転・復興
1872年(明治5年):郷社に列せられる〈社格制度制定〉
1910年(明治43年):浦大町神明社を合祀
1911年(明治44年):小立花稲荷社を合祀
【由緒】(history)
延喜式内社にて旧秋田藩主 代々の鎮守である
出羽九座の一座で 明治5年6月郷社に列せられる
明治40年1月神饌幣帛料供進神社に指定される
※[秋田県神社庁]から参照
スポンサーリンク
【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)
「副川神社(soegawa shrine)」は 古くは 修験道の聖地として 牛頭天王(gozutenno)を祀っていたと伝わりますが その後 中世には祭祀が廃絶していたと考えらています 江戸時代となってから 秋田に入封した久保田(秋田)藩・佐竹氏によって 現在地に再興されたからです
秋田藩内に式内社は 3社ありますが 江戸時代中期には 「保呂羽山波宇志別神社(horowasanhaushiwake shrine)」以外は 廃れていた為
3代秋田藩主の佐竹義格(satake yoshitada)は 藩内にある古社を領内十二社として復興を行い 式内社「山本郡一座小 副川神社」の比定地とされた現在地に「副川神社(soegawa shrine)」を復興しました その後 秋田藩三国社(式内社の3社)として江戸時代を通じて30石の社領を有したと伝ります
現在「延喜式神名帳」(927年12月完成)に所載されている 我が国の最北端の式内社とされています
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
「最北端の式内社」について
まずは 延喜式所載の当時(927年完成) この辺りはどのような様子だったのでしょうか?
延喜式所載より130年程前
続日本紀(797年完成)では 現在の「秋田城」辺りは「出羽柵(idehanoki)」と表記されています
「出羽柵(idehanoki)」とは
「大和朝廷」が 東北の先住民族「蝦夷(emishi)」に対する「大規模な柵を整備した跡」と言う事になり 大和が最北端の支配地域に建設した軍事・行政拠点という意味になろうかと思います
「出羽柵(idehanoki)」の地から先 北には 巨大な湖の八郎潟(hachirogata)があり この湖岸(もしくは干潟)にそびえる「高岳山(takaokasan)」(221m)は 先住民族であった「蝦夷(emishi)」の聖なる山であった
当時 大和の支配境界線の北限は 現・秋田県八郎潟町「三倉鼻」「高岳山(takaokasan)」・五城目町「森山」を結んだ線(八郎潟の湖岸を結ぶ線)あたりであっただろうという説があります
(後述 の地図「Google My Map」をご参照ください)
この地が それから時代が下り「延喜式神名帳」(927年12月完成)に所載されていたとして 再興された現在の式内社の鎮座地となっていきます 偶然ではない因果を感じます
しかし 江戸時代に式内社として再興する際に 秋田藩主・佐竹氏が 久保田城(秋田城)に治府を置き 北門守護のため「高岳山(takaokasan)」へ遷したとする説 元々は「檜山郡」と言われた地域を「山本郡」と改名したという説や
「副川神社(soegawa shrine)」は 元々は神宮寺嶽の頂上にあった「嶽六所神社(dakerokusho shrine」と「嶽六所神社の里宮 八幡神社(hachiman shrine)」が古社地であるという社伝もあり
式内社「山本郡一座 小 副川神社」は 現在 当社が「副川神社soegawa shrine」として比定されていますが 当社の他 3つの論社があります
1.「嶽六所神社(dakerokusho shrine」秋田県大仙市
2.「嶽六所神社の里宮 八幡神社(hachiman shrine)」秋田県大仙市
3.「添川神明社(sogawashimmeisha)」秋田県秋田市添川古城廻
これは「延喜式神名帳」(927年12月完成)当時の山本郡は 近世以降の仙北郡(現 大仙市)であり 皇學館大学(Kogakkan University)や郷土史家等の調査ではこちらが本来(元々の古社)の副川神社であるとされていて 近世に復興されたのが 現在の「副川神社soegawa shrine」と一般的には言われています
そうなると 延喜式の当時には 最北端であった神社は???
岩手県「志賀理和気神社(shigariwake shrine)」が 僅かですが 最北ということになります
皆さんにも判り易く地図「Google My Map」を作成しましたので見てください
「最北端の延喜式内社 ・大和の防衛ライン(北限)」
https://www.google.com/maps/d/u/0/edit?hl=ja&hl=ja&mid=13IRv00YDeO7oKHsj5IwSinJggkRBxilt&ll=39.79730140367862%2C140.71636313091915&z=9
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
現在 延喜式内社の最北端の神社「副川神社(soegawa shrine)」に比定されている古社と知り 秋田へ向かいます
秋田自動車道・五城目八郎潟ICと八郎潟駅を起点底辺として北側4キロほど「高岳山(takaokasan)」(221m)の
「山頂に奥宮」・「山腹に中宮」・「山麓に里宮」が鎮座しています
「高岳山(takaokasan)」目指して進むと添川神社参道の案内の石碑があり 山麓に浦城跡駐車場で 車を降りると すぐ里宮の入口で お詣りです
浦城跡の案内看板は 地形が良く分かりますのでご覧ください
里宮の参道入り口には「延喜式内社 羽州九座之一 社 副川神社」と彫られた社号碑があり 参道の石段の直ぐ先に鳥居があります
鳥居の手前右に浦城跡へと続く山道と案内板とがありますが ご参拝の為 真っ直ぐに進み 一礼して鳥居をくぐります
直線参道の左側の景色は 「高岳山(takaokasan)」の裾野から下に かつての「八郎潟(hachirogata)」(今は干拓された広大な田園)の風景が広がります
参道右側の景色は 「高岳山(takaokasan)」の山麓で 里宮となっています
拝殿の手前には 注連縄(shimenawa)を首に巻いている狛犬(komainu)が 静寂の中で参拝者を見つめています 狛犬(komainu)に会釈をしながら 里宮拝殿へと向かいます
里宮の拝殿本殿は おそらく 寒く長い冬の雪への対策としての外囲いと想われますが 遠目に見ると民家(ログハウス)のようです しかし お詣りの方が ひとたび扉を開けば 畳敷きの拝殿となっています
拝殿の「上がり框(agarikamachi)」の先に賽銭箱(saisembako)があり その上には 神仏習合時の名残か 修験の名残か 宝珠型のロウソク台が置かれています
さすがに 誰もいないので 蝋燭の火はつけませんでしたが
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願い 拝礼 高岳山に鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
さて これから 「高岳山(takaokasan)」に上り奥宮へと お山への参道口の鳥居に一礼して くぐりますと 熊出没の注意書きがありまして 音を鳴らすものも持っていなかったので ここで 「拝 (hai)」(90度のお辞儀)をして 戻りました
因みに 事前の調べでは 「高岳山(takaokasan)」は急こう配との事です
お山のことは つぎの伝承で
スポンサーリンク
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
元々「高岳山(takaokasan)」は 中世には修験道の聖地となっていて「宏峰神社(hiromine shrine)」として御祭神「須佐之男命 (susanonomikoto)」が牛頭天王(gozutenno)と習合して祀られていたといいます
1714年に京都の吉田神道家(神祇管領長上jingikanreichojo)から 副川神社(soegawa shrine)の存否を久保田(秋田)藩主・佐竹氏が尋ねられたおり
当時 久保田(秋田)藩の神社奉行であった茂木知教が「高岳山(takaokasan)」は霊地であるので 宏峰神社(hiromine shrine)」を合祀して「副川神社(soegawa shrine)」を再興するよう伝えたとも言われているらしいく
『秋田の神々と神社』(佐藤久治 秋田真宗研究会 1981年)には
『古老は「ここを八多羅沢(hatarasawa)といい、保呂羽山(horowasan)という。山一つにして八沢あり」という。『郡邑記(gunyuki)』には「保呂羽山の本営ならんという」と記されている。副川を「そいかわ(soikawa)」と読むこともある。』としています
「高岳山(takaokasan) 副川神社(soegawa shrine)常夜灯(joyato)」について
山腹 第三の鳥居(通称 中の鳥居)の石灯籠は 高さ約2.5mの永久常夜灯であった かつては 八郎潟(hachirogata)を往来する船にとって灯台の役割を果たした
境内の参道の案内看板より
秋田の八郎潟(hachirogata)にある 最北端の式内社は
平安の遷都以前8世紀初頭(1300年前頃)から この地に鎮座したのであろうか
であるならば この地で繰り広げられた「蝦夷(emishi)」と対した「大和の朝廷」の戦いを見つめたであろう古社に畏れ敬い
鳥居をくぐり振り向き 副川神社に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)