神魂伊能知奴志神社(出雲市)【前編】

神魂伊能知奴志神社(かみむすび いのちぬし の かみのやしろ)は 『記紀神話』の「天地開闢(てんちかいびゃく)」の時 もともとは混沌として一つであった天と地が 初めて分かれました その時 高天原に 生まれた神「神皇産霊神(kami musubi no kami)」を祀る古社です

目次

ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます

まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記』
次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳』
最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています

【約1300年前】About 1300 years ago

【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori)条 
    神祇官社(jingikan no yashiro )

【社名】 御魂社

【読み】(みたま の)やしろ
【How to read】(mitama no) yashiro

国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用

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【約1100年前】About 1100 years ago

【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.

【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori)

【社名】同社 神魂伊能知奴志神社

【読み】(おなじきやしろ かみむすび いのちぬし の かみのやしろ )
【How to read】(onajiyashiro kamimusubi inochinushi no kaminoyashiro)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)

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【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine

【神社名】(shrine name) 

神魂伊能知奴志神社

 かみむすび いのちぬし の かみのやしろ
 kamimusubi inochinushi no kaminoyashiro

【通称名】(Common name) 

命主社 inochinonushi no yashiro

【鎮座地】(location) 

島根県出雲市大社町杵築東

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
「旧国名 郡・神社名」「old region name・shrine name」

出雲國    出雲郡  同社 神魂伊能知奴志神社
izumonokuni  izumogun
       onajiyashiro kamimusubi inochinushi no kaminoyashiro

【御祭神】(God's name to pray)

《主》 神皇産霊神(kami musubi no kami)

【御神格】(God's great power)

・天地開闢(The beginning of the world)の造化三神(The world was led by the three gods)の一柱(This god is one of them)
・生産の神 God of production
・縁結び  Deepen connections and intimacy with people
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

天平5年(733年)編纂完 出雲風土記(izumonokuni fudoki)に所載
・『御魂社(mitama no yashiro)』  もしくは
・『企豆伎社(kizuki no yashiro)』の『同社(onajiyashiro)』

延喜式内社(engishikinaisha)

出雲大社 境外摂社 命主社(inochinonushi no yashiro)

【創建】(Beginning of history)

神代

Shrines are very old, from the days when the gods flourished
And the faith is still going on

【由緒】(history)

出雲大社摂社
神魂伊能知奴志神社         (命主社)
かみむすびいのちぬしのかみのやしろ  いのちのぬしのやしろ 

御祭神 神皇産霊神
    かみむすびのかみ

由緒
この神は天地万物の根本大本となられ、大國主大神が危難に遭われた際には 常にお護りされ 国造りの大業を助成せられた神です。
元旦の朝には 出雲大社の大饌祭に引続き国造以下 神職参向の許、厳かに祭典が斎行されます。
祭日 一月一日  十一月七日

境内設置案内板

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

神社の創建(soken)は 神代とされる古社で 古代の磐座(iwakura)もあります 

現在は 出雲大社の摂社となっています
本殿は大社造りで 社殿は出雲大社の式年遷宮(shikinen sengu)の前後の頃 大体60~70年程度で建て替えられている再建記録があります
・1744年(延享元年)
・1809年(文化6年)
・1881年(明治14年)
・1958年(昭和33年)
・2015年(平成27年)
これから見ても とても崇敬されていることが容易に理解できます

御祭神「神皇産霊神(kami musubi no kami)」は 天地開闢(tenchi kaibyaku)の造化三神(zoka sanshin)」の一柱として高貴な神であり「産霊神(musuhi no kami)」で「生命力の根源=天地万物を産みなす霊妙な力をそなえた」と言う御神威があります 

国造りの神「大国主大神(okuninushi no okami)」も 神皇産霊神(kami musubi no kami)から 「命の恩」を賜り 常に護られていましたので
神皇産霊神(kamimusubi no kami)の呼称から この神社名は 通称「いのちぬし」「命主社(inochinonushi no yashiro)」とよばれています

正式名称は
「神魂伊能知奴志神社(kami musubi inochinushi no kaminoyashiro)」です

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

命主社(inochinonushi no yashiro)は 本殿後方裏手に竹林があり ここに巨大な岩があり 磐座(iwakura)となっています

このように自然の清浄な岩を神籬として祀る 古代の磐座(iwakura)信仰では 「神の御座所」磐座(iwakura)を仰ぎ見るように あとの時代になってから その前方下部に 神社が建てられていることが 多くあります

おそらく 古代では本殿は持たない自然崇拝であった この巨大で神聖な岩が磐座(iwakura)として清浄に祭祀されていた
命主社(inochinonushi no yashiro)は やがて それを仰ぐものとして本殿を持つ神社へと発展した事例であろうと示唆されています

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もともとは 今よりもっと大きな岩が 本殿のすぐ裏手にあって この岩は 寛文5年(1665)の出雲大社御造営の時 境内で執り行われた大規模な再建工事によって「命主社(inochinonushi no yashiro)の裏手にあった大石を石材として切り出した」と出雲大社御造営時の記録にも伝わります

その巨石の下からは 銅戈(doka)と硬玉製勾玉(kogyoku sei magatama)が発見されたので 真名井遺跡(manai iseki)と呼ばれていますが
本来は「この2つの宝物が 命主社(inochinonushi no yashiro)の御神体であったのであろう」と云われているらしく 
この説を立証するかのように『元旦の朝には 出雲大社の大饌祭に引続き国造以下 神職参向の許 厳かに祭典が斎行されます』とされる神域です

今 この2つの宝物は 昭和28年(1953)に重要文化財に指定され  出雲大社の宝物殿に展示(古代出雲歴史博物館にも複製が展示)されています
発見された「銅戈(doka)」は 銅鉾(do hoko)や銅鐸(do taku)と並び代表的な青銅器(seidoki)ですが 「硬玉製勾玉(kogyoku sei magatama)」と磐座(iwakura)に一緒にあったことが 史実を紐解いていきます

それは「銅戈(doka)」「ヒスイ製の硬玉製勾玉(kogyoku sei magatama)」の産地と考察されているのは九州北部や北陸で この地が 弥生時代以前から文化物流の交易があって かつ聖地として祭りごとを司る一大拠点の「出雲國(izumo no kuni)」が 存在したであろうとを語りかけてきます

重要文化財 銅戈・硬玉勾玉(どうか・こうぎょくまがたま)
弥生時代・前2~前1世紀 真名井遺跡出土 島根県・出雲大社蔵

東京国立博物館140周年 古事記1300年・出雲大社大遷宮 特別展「出雲―聖地の至宝―」
https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1473画像より

【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

「神魂伊能知奴志神社(kamimusubi inochinushi no kaminoyashiro)」にお詣りです

出雲大社(izumo no oyashiro)の東側の門から 北島国造家(kitajima kokuso ke)の前を通る石畳の道「真名井の社家通り」を150mほど進むと 左に折れる路地があり角に 命主社(inochinonushi no yashiro)と道標があります

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ここで一礼 30m程の路地が参道となっていて つき当たりに鎮座します 
古社には よくある形式ですが 鳥居はなく すでに ご神域に入っています

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先ず 目に飛び込むのは「巨大な椋木(muku no ki)」推定樹齢1000年といわれる見事な巨木 高さ17m・根本回り12m・板状の根が2m近くも根上りして その姿にご神威を感じずにはいられません いつまでも眺められます

改めて 画像をよく見て頂けると 物凄い根張りが見えると思いますが
よくゲン担ぎに この「根張り」は「粘り」と同じ音で読めるので「ねばり強く」祈願して「粘り強い勝負運」などのご利益を授かるなどと言われますが 私はお詣りの都度 ただただ 見入ってしまい 敬ってしまうのみです・・・

暫く 呆然と「椋(muku)の巨木」と対峙して 我に返り 思わず巨木に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)してしまった 何故だったのだろうか?

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すぐ前にある 大社造りの拝殿本殿へと歩みます

椋(muku)の巨木を背に抱え 拝殿本殿へと ご神威に添い給うよう 拝礼
出雲大社(izumo no oyashiro)坐ます大国主大神(okuninushi no okami)
北島国造(kitajima kokusoke)坐ます少彦名大神(sukunahikona no okami)
この二柱の大神を国造りへと結び導き給う産霊神(musuhi no kami)として
本殿に鎮まる御祭神 神皇産霊神(kamimusubi no kami)に迎い

本殿の上座にある 磐座(iwakura)に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈りを済ませます

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参道を戻り 一礼後

真名井の清水(manai no shimizu)へと向かいます
「真名井遺跡(manai iseki)」と呼ばれているのは この場所が「真名井」という地名からきていて

案内板によれば

真名井の清水(manai no shimizu) 真名井の清水は昔から出雲大社の神事に関わる神聖な清水とされてされてきました。

 とくに十一月二十三日の古伝新嘗祭(koden shinjo sai)の祭事中には、国造(kokuso)の寿齢を延ばす『歯固めの神事』には、この真名井の清水の小石を用いる習わしになっています。
「神水」として遠くからこの清水を汲みに来る人も多く、「島根の名水百選」にも選ばれています

御祭神 弥都波能売神(mizuhanome no kami)

案内板

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「命主社(inochinonushi no yashiro)」の御祭神 神皇産霊神(kami musubi no kami)は 神話で次のように記されます

『古事記(kojiki)』          ⇒「神産巣日神」(kami musubi no kami)
『日本書紀(nihon shoki)』      ⇒「神皇産霊尊」(kami musubi no mikoto)
『出雲国風土記(izumo no kuni fudoki)』⇒「神魂命」(kami musuhi no mikoto)
                        又は(kamosu no mikoto)

『古事記』『日本書紀』 は「天地初」の神として語られ

『古事記』では さらに「出雲神話の場面」で 大国主神(okuninushi no kami)を救う神様として登場します
八十神(yaso gami)から 赤い猪に似せた焼石を落とされた御難の折に 蚶貝比売命・蛤貝比売神を向かわせて命をお助けになったり
御子神の小名毘古那神(sukunahikona no kami)には 大国主神(okuninushi no kami)と兄弟となり 並んで 国造りをするように命じます

『出雲国風土記(izumo no kuni fudoki)』には「島根郡・楯縫郡・出雲郡・神門郡」など 大神自らの巨大な神殿「天日栖宮(ameno hisumi no miya)」の造営の話や 大神の御子神の話など 多くの記載があり やはり この神様「神魂命(kamimusuhi no mikoto)」は 出雲との深いかかわりを感じます

有名な神様ですので それぞれ沢山の伝承をご紹介します

國學院大學図書館デジタルライブラリー:https://opac.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/kjk57/mag3/pages/page008.htmlより画像

『古事記(kojiki)・神産巣日神(kamimusubi no kami)』の伝承

古事記 原文 (天地開闢と造化三神の登場)
『天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。』

意訳

『天と地はもともとは混沌として一つであった 初めて天と地が分かれ 高天原(takamagahara)と呼ばれる天のいと高いところに神々が生まれました

初めに天の中央で治める神は 天之御中主神(ame no minakanushi no kami)
次に高御産巣日神(takamimusubi no kami)
次に神産巣日神(kamimusubi no kami)です 

この三柱の神は いずれも性別の無い単独の神で 姿を見せることはありませんでした 』

古事記 原文 大穴牟遲神の受難 (神産巣日神から貝の女神の助けを得る)
『於是八上比賣、答八十神言「吾者、不聞汝等之言。將嫁大穴牟遲神。」故爾八十神怒、欲殺大穴牟遲神、共議而、至伯伎國之手間山本云「赤猪在此山。故、和禮此二字以音共追下者、汝待取。若不待取者、必將殺汝。」云而、以火燒似猪大石而轉落、爾追下取時、卽於其石所燒著而死。爾其御祖命、哭患而參上于天、請神產巢日之命時、乃遣貝比賣與蛤貝比賣、令作活。爾貝比賣、岐佐宜此三字以音集而、蛤貝比賣、待承而、塗母乳汁者、成麗壯夫訓壯夫云袁等古而出遊行。』

意訳

『八上比売(yagami hime)は 八十神(yasogami)達に返答をしました
「わたくしは あなた方の言うことを聞けません 大穴牟遅神(onamuji no kami)の嫁となります」八十神(yasogami)達は怒った 大穴牟遅神(onamuji no kami)を殺そうと思い 皆で話し合いました

そして伯耆国(hoki no kuni)の手間山(tema no yama)の麓(fumoto)に至って 言いました
「この山には 赤い猪(inoshishi)がいるらしい 

我々が 赤い猪(inoshishi)を追い立てるので お前は 麓(fumoto)で待ち受けて捕らえろ もし待ち受けて捕らえないなら 必ずお前を殺す」
猪(inoshishi)に似た大きな石に 火をつけ 転がし落としましたので
落ちてきた石を麓(fumoto)で捕らえた時 すぐに焼け死んでしまいましたこのことを知った 御祖の命(mioya no mikoto)=母神の刺国若比売(sashikuni wakahime)は嘆きました 

天に上り神産巣日之命(kamimusubi no mikoto)に おすがり請いました時に

貝比賣(kisagai hime)と蛤貝比売(umugi hime)を向かわせて 大穴牟遅神(onamuji no kami)を活かし(蘇生)ました
その時のご様子は
貝比賣(kisagai hime)は 貝殻を削り 粉末にして
蛤貝比売(umugi hime)は その粉をハマグリの出す汁と一緒に溶いて 母の乳汁のように塗りつけたところ (大穴牟遅神(onamuji no kami)立派で壮健な男となって元気に蘇りました』

古事記 原文 (少名毘古那神)
『故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。」
故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。故顯白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也、此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。』

意訳

『大国主神(okuninushi no kami)が 出雲の 御大の御前(miho no misaki=美保岬)にいた時に 波の穂(nami no ho=なみがしら)に 天羅摩船(ame no kagabune)に乗っている 鵝(himushi)の皮を剥いで作った服を着て こちらへ来る神がありました

「あなたは どなた様ですか?」とその神に名を尋ねたが 答えず
「誰か この神をしらぬか?」と聞くも 誰も知りません

多邇具久(taniguku=ヒキガエル)に聞くと「この者を久延毘古(kuebiko)=案山子)ならば きっと知っているでしょう」と言いました
すぐに 久延毘古(kuebiko)=案山子)を召して尋ねてみると 答えて曰く
「この神は 神産巣日神(kamimusubi no kami)の御子であられ 小名毘古那神(sukunahikona no kami)である」
「本当か?」

神産巣日御祖命(kamimusubi no mioya no mikoto)に お伺いして このことを申し上げると
「この神は まさしく わたしの子である 子供の中で 私の手の指の間から落ちて下界に行った子である
そなたは 葦原色許男命(ashiharashikoo no mikoto)と兄弟となって
その国を堅く 造り上げなさい」と言われました

それから、大穴牟遅(onamuji)と小名毘古那(sukunahikona)の二柱の神は相並んで その国を堅く 造り固めました

その後 小名毘古那神(sukunahikona no kami)は 常世国(tokoyo no kuni)へと渡りました。

その小名毘古那神(sukunahikona no kami)の名前を明らかにし 申し上げた久延毘古(kuebiko)というのは 今の山田の案山子のことです
山田の案山子とは この神は歩くことはできませんが すべて天下のことを知っている神です』

『日本書紀(nihon shoki)・神皇産霊尊(kamimusubi no mikoto)』の伝承

國學院大學図書館デジタルライブラリー:https://opac.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/nihon01/mag3/pages/page003.htmlより画像

日本書紀 原文(日本書紀 巻第一 神代上 一書 高天原に生まれた神)
『一書曰、天地初判、始有倶生之神、號國常立尊、次國狹槌尊。又曰、高天原所生神名、曰天御中主尊、次高皇産靈尊、次神皇産靈尊。皇産靈、此云美武須毗。』

意訳

『ある書によると 天と地が初めに別れて 神が生まれました
それが 国常立尊(kuni no tokotachi no mikoto)
次に  国狹槌尊(kuni no satsuchi no mikoto)
また 高天原(takamagahara)に生まれた神の名は 
天御中主尊(ame no minakanushi no mikoto)
次に 高皇産靈尊(takamimusubi no mikoto)
次に 神皇産靈尊(kamimusubi no mikoto)です

皇産靈(mimusubi)は 美武須毗(mimusubi)といいます』

 『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)・ 神魂命(kamimusuhi no mikoto)』の伝承

國學院大學図書館デジタルライブラリー:https://opac.kokugakuin.ac.jp/digital/diglib/h16_04_01/mag3/pages/page007.htmlより画像

出雲國風土記  原文・島根郡の郷
『加賀郷 郡家西北廿四里一百六十歩。佐太大神所生也。御祖神魂命御子、支佐加比比賣命、闇岩屋哉、詔、金弓以射給時、光加加明也。故云加加。〔神亀三年改字加賀。〕』

意訳
『加賀郷(kaka go)郡家の北西二十四里一百六十歩の所にある

佐太大神(sata no okami)のお生まれになった所である
神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子で 支佐加比売命(sasakahime no mikoto)が「暗い岩穴である」とおっしゃって 金の弓を持って射られた時に 光り輝いた

だから 加加(kaka)という 〔神亀三年に字を加賀(kaka)と改めた〕』

出雲國風土記  原文・島根郡の郷
『生馬郷 郡家西北一十六里二百九歩。神魂命御子、八尋矛長依日子命詔、吾御子平明不憤、詔。故云生馬。』

意訳
『生馬郷(ikuma go)郡家の西北一十六里二百九歩の所にある 
神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子 八尋鉾長依日子命(yahiro hokonaga yorihiko)がおっしゃられるには「わたしの御子神は 心やすらかで憤らない」とおっしゃった だから、生馬(ikuma)という』

出雲國風土記  原文・島根郡の郷
『法吉郷 郡家正西一十四里二百卅歩。神魂命御子、宇武賀比賣命、法吉鳥化而飛渡、静坐此處。故云法吉。』

意訳
『法吉郷(hohoki go)郡家の正西一十四里二百三十歩の所にある
神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子 宇武賀比売命(umukahime no mikoto)が法吉鳥(hohoki dori)になって飛んで来て ここに鎮座した だから 法吉(hohoki)という』

出雲國風土記  原文・島根郡
『加賀神埼 即有窟。高一十丈許。周五百二歩。東・西・北通。
所謂佐太大神之所産生處也。所産生臨時、弓箭亡坐。爾時、御祖神神魂命之御子、枳佐加比比賣命願、吾御子、麻須羅神御子坐者、所亡弓箭出来、願坐。爾時、角弓箭、随水流出。爾時、取之、詔子、此者非弓箭、詔而、擲廃給。又金弓箭流出来。即待取之坐而、闇鬱窟哉、詔而、射通坐。即、御祖支佐加地比賣命社坐此處。今人、是窟邊行時、必聲磅?而行。若密行者、神現而飄風起、行船者必覆。』

意訳
『加賀神埼(kaka no kanzaki) 窟(iwaya)がある 高さは一十丈 周りは五百二歩ほど 東と西と北とに貫通している
いわゆる佐太大神(sadata no okami)がお生まれになった所である お産まれになろうとするとき 弓矢がなくなった

神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子である御母の枳佐加比売命(kisaka hime no mikoto)が そのとき祈願されたのは「わたしの御子が麻須羅神(masura kami)の御子でいらっしゃるなら なくなった弓矢よ出て来なさい」と願われた
そのとき 角の弓矢が波水に流れ出てきた 弓を取っておっしゃっるには「これは あの弓矢ではない」と言われて 投げ捨てられた

こんどは 金の弓矢が水に流れ出てきた そして待ち 受けて お取りになられました「暗い窟である」とおっしゃっり 金の矢で射通しをされました
それゆえに 御母の支佐加比売命(kisaka hime no mikoto)の神社が ここに鎮座している 

今の人は この窟のあたりを通る時は 必ず大声を轟かせて行く もし密かに行こうとすると 神が現われて突風が起こり 行く船は必ず転覆するからである』


出雲國風土記  原文・楯縫郡
『神戸里。所以號楯縫者、神魂命詔、五十足天日栖宮之縦横御量、千尋栲紲持而、百結結、八十結結下、六十結結下而、此天御量持而、所造天下大神之宮造奉。詔而、御子天之御鳥命、楯部為而、天降給之。爾時、退下来坐而、大神宮御装楯造始給所、是也仍至今、楯・桙造而、奉於皇神等。故云楯縫。』

意訳
『神戸里 楯縫(tatenui)と名付けるわけは 

神魂命(kamimusuhi no mikoto)がおしゃるには「わたしの十分に足りていて 整っている天日栖宮(ameno hisumi no miya)の大きさは縦横(tate yoko) 千尋(chihiro)もある長い拷紲(taku nawa)を使って 桁・梁(keta hari)を何回も何回もしっかり結んで たくさん結び下げて 造ってあるのと同様に

この天御鳥命(ameno mitori no mikoto)を楯縫(tatenui)として天からお下しになられた
そのとき 天御鳥命(ameno mitori no mikoto)が 天から退き下っていらしゃり 大神(神魂命(kamimusuhi no mikoto)の宮の御装束としての楯を造り始めなさった場所がここである

それで 今に至るまで 楯や桙を造って神々に奉っている だから楯縫(tatenui)という』

出雲國風土記  原文・出雲郡
『漆沼郷 郡家正東五里二百七十歩。神魂命御子、天津枳値可美高日子命御名、又云薦枕志都沼値之。此神、郷中坐。故云志司沼。〔神亀三年、改字漆沼。〕即有正倉。』

意訳
『漆治郷(shitsuji go)郡家の正東五里二百七十歩の所にある

神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子 天津枳値可美高日子命(amatsu kichikami takahiko no mikoto) またの御名を薦枕志都治値(komomakura shitsujichi)といった この神が郷の中に鎮座している だから志丑治(shitsujichi)という〔神亀三年に字を漆治(shitsujichi)と改めた〕この郷に正倉(shoso)がある』

出雲國風土記  原文・出雲郡
『宇賀郷 郡家西北一十七里廿五歩。所造天下大神命、誂坐、神魂命御子、綾門日女命。爾時、女神不肖、逃隠之。時、大神伺求給所、是則此郷也。故云宇賀。』

意訳
『宇賀郷(uka go) 郡家の正北一十七里二十五歩の所にある

所造天下大神(大国主神)が 神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子 綾門比女命(ayato hime no mikoto)に求婚をされた そのとき 女神は承諾せずに逃げ隠れなさりました このとき大神がうかがい求められた所が この郷である だから宇加(uka)という』

 

出雲國風土記  原文・神門郡
『朝山郷 郡家東南五里五十六歩。神魂命御子、真玉著玉之邑日女命坐之。爾時、所造天下大神大穴持命娶給而、毎朝通坐。故云朝山。』

意訳
『朝山郷(asayama go)郡家の東南五里五十六歩の所にある

神魂命(kamimusuhi no mikoto)の御子 真玉着玉之邑日女(matamatsuku tama no murahime)が鎮座していらした そのとき 所造天下大神(amenoshita tsukurashishi okami) 大穴持命(onamuchi no mikoto)が娶りになられて 朝毎にお通いになった だから 朝山という』

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これら 神話を通して感ずることは 御祭神「神皇産霊神(kami musubi no kami)の誕生は 出雲の神々の誕生よりもはるかに古く 磐座信仰から見ても おそらく縄文までも遡る歴史があるのだろうと察することが出来ます

それ程の時が 降積っているというのに その信仰は 神代から 今に至るまで 続いています
「神魂伊能知奴志神社(kamimusubi inochinushi no kaminoyashiro)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

神魂伊能知奴志神社(出雲市)【後編】の記事もご覧ください

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世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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