大避神社(赤穂市)

大避神社(おおさけじんじゃ)は 秦河勝(はたのかわかつのきみを御祭神とします 公は中国より渡来した秦氏の子孫で 秦氏の長として 朝廷に仕え 特に聖徳太子に寵任されましたが 太子亡きあと蘇我入鹿の迫害を避けて 海路坂越浦に漂着になられ この地の開拓を進めた後 大化3年(647)没した その御霊は神仙化し 地元の民が 朝廷に願い出て 祠を築き祀ったのが創建と伝えられています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大避神社Osake Shrine)
(おおさけじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

兵庫県赤穂市坂越1299

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》秦河勝Hata no kawakatsu no kimi)
   天照大神Amaterasu okami)
   春日大神Kasuga no okami)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・秦氏(Hata uji)の大避(大酒)の社

【創  (Beginning of history)】

ご由緒

御祭神 天照大神
    大避大明神(秦河勝
    春日大神

ご祭神 秦河勝公は
中国より渡来した秦氏の子孫で、氏の長として数朝に仕え、特に聖徳太子に寵任された。
河勝公は、会計制度を起し、外国使臣 来朝の際の接待役等多くの功績を残されている。
太子より仏像を賜わり太秦に広隆寺を建立された事は有名である。
また、神楽を創作制定され、今日では猿楽の祖、あるいは能楽の祖として崇められている。

河勝公は、皇極3年(644)に、太子亡きあとの蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたよって此々 坂越浦にお着きになられ、千種川流域の開拓を推め、大化3年(647)に80余歳で薨ぜられた。

河勝公の御霊は神仙化とし、村人が朝廷に願い出、祠を築き祀ったのが大避神社の創建と伝えられている。

以来 朝野の崇敬をあつめ、治暦4年(1068)に正一位を贈位賜わり、文化10年(1813)には 京都御室御所から幣帛献灯のご寄進を受け、
また赤穂藩主はもとより 熊本藩主細川侯も代々江戸参勤の途中熊々坂越浦に船を停め神社に参詣されたといわれている。
一方 近在の村々30余ケ村に、ご分社を祀り開拓神として今日も信仰されている。
坂越が海上交通の要として栄え、航海安全の信仰をあつめたことが、現在する船絵馬、石灯筥によってもあきらかである。
更に、河勝公の後裔である秦・川勝・河勝家の人々の崇敬をいただき、近年では航海安全はもとより、災難ざけ守護神として交通安全、厄除の神社としても信仰されている。

神社配布パンフレットより

【由  (history)】

大避神社(おおさけじんじゃ)

生島を禁足地(きんそくち)とし、島内に祭礼(さいれい)の御旅所(おたびしょ)を擁(よう)する大避神社は 大避大明神(おおさけ だいみょうじん)(秦河勝)を祀る神社で、養和(ようわ)元年(1182)にはすでに有力な神社でした。
旧赤穂郡(現 赤穂市 相生市 上郡町)には大避神を祀る神社がかつて28以上あり、古代から中世にかけて旧赤穂郡と秦氏との密接な関係が古文献等からも判明(はんめい)しています。
大避神社の祭礼は、秦河勝が坂越に漂着(ひょうちゃく)した日を祭礼日として始まったもので、「坂越(さごし)の船祭(ふなまつり)」(国指定重要無形民俗文化財)は、瀬戸内三大船祭の一つに数えられています。

参道入り口 案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

新宮(shingu)聖徳太子と海神3座を祀る

《主》厩戸皇子(umayado no oji)〈聖徳太子〉
   海神(watatsumi no kami)
   金刀比羅大神(kompira no okami)
   住吉大神(sumiyoshi no okami)

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稲荷神社(inari Shrine)元は生島に鎮座していた

《主》宇賀能魂神(ukanomitama no kami)

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荒神社(ko Shrine)元は東ノ町に鎮座していた

《主》大都比売神(ohotsuhime no kami)

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天満神社(temman Shrine)道真公 来浦の由縁で天神山に鎮座していた

《主》菅原道真(sugawara no michizane ko)

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恵美須神社(ebisu Shrine)元は本町海岸に鎮座していた

《主》事代主神(kotoshironushi no kami)

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淡島神社(awashima Shrine)和歌山県加太淡島神社の分霊を祀る

《主》淡島大神(awashima no okami)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

「坂越(サゴシ)船渡御祭(フナトギョマツリ)」(平成24年(2012)国指定重要無形民俗文化財)について〈瀬戸内三大船祭の一つ〉

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坂越の船祭 - 文化庁 国指定文化財等データベース
https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/302/00000884

この祭礼は 御祭神 秦河勝Hata kawakatsu no kimi) 坂越に漂着した日を祭礼日として始まったもので

御祭神 秦河勝Hata kawakatsu no kimi)は 第29代 欽明(キンメイ)天皇の御代〈539~571頃〉に大和の泊瀬川の河上で勝(スグ)れた〈天から下ってきた〉子として誕生しましたので「河勝kawakatsu」と天皇に名付けられ それから5朝(欽明・敏達・用命・崇峻・推古)に仕えた秦氏(ハタウジ)の中心人物でした

飛鳥時代 推古天皇の御代 聖徳太子(ショウトクタイシ)に仕え有力な側近であったといわれ 太子亡きあと 蘇我入鹿(ソガノイルカ)の迫害をさけ 海路をたよって此々 坂越浦に漂着しました

人が 舟を陸に上げてみると 人とは似つかぬ姿で 多くの人に憑き祟った そこで神として祀ったところ 国中が大変豊かになった 人々は“大いに荒れる”という意味大荒(オオサケ)大明神と呼んで敬いました

皇極3年(644)に ここ坂越(サゴシ)に漂着した漂着神として祀られています

この漂着神 秦河勝Hata kawakatsu no kimi)が 生きて漂着したので「生島(イキシマ)」と呼ばれています 

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古来 生島(イキシマ)は神地で 樹木を伐ることは勿論 何人も島内に入ることは畏れ こうした信仰によって 原始林育ち 大正13年に国特別記念物に さらに 国立公園特別保護区に指定されています

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秋の例祭の当日は この参道を下り 正面の海に浮かぶ「生島(イキシマ)」にある御旅所まで海上渡御します

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拝殿の左右に延びる絵馬には 奉献された船絵馬 280年程前の絵馬もあるようです

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祭礼用和船 (櫂伝馬)」の模型が飾られています

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案内板には

兵庫県有形民俗文化財 祭礼用和船 (櫂伝馬)

原型は、江戸時代から明治時代にかけての坂越の千石船(塩回船)に積まれていた伝馬船で、現在この船を「漕舟」「櫂伝馬」とよんで 毎年十月に行われる舟渡御において 他の祭礼船を曳航する役をしている。

 12人の漕手と2人の舵取り、そして船尾に酒樽を置き その上に女装した紙垂振とが 乗り組み奉仕している
 全長:9.85m、幅:2.07m、深:0.75m(この模型は1/3の縮尺である)

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復元船された祭礼用和船楽船」 唯一屋形を持つ祭礼船

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

猿楽(サルガク)〈今の能楽〉の祖〈オヤ〉ゆかりの大避神社

大避神社には 古い舞楽面が神宝として残されています

拝殿の左右に舟屋のように延びる絵馬堂には 文久2年(1862)奉納の絵馬があり 能の翁面に舞扇・鈴描いてあります

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秦河勝Hata no kawakatsu)の末裔を称する 能楽を大成した世阿弥(Zeami)」が記した能の理論書『風姿花伝(Fushikaden)』〈応永7年(1400)頃〉神儀篇

日本の国では 猿楽(サルガク)〈今の能楽〉の祖〈オヤ〉は 秦河勝Hata no kawakatsu)であると信仰があったと記しています [下記に詳細有] 

絵馬堂には 元宮内省 式部職楽部の方(秦河勝Hata no kawakatsu)の後裔の奉納額が飾られています

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楽家の「東儀(トウギ)家」も 秦河勝Hata no kawakatsu)の末裔を称しているようです

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御祭神 秦河勝Hata no kawakatsu no kimi)と12人の供人について

河勝(カワカツ)公は 12人の供人を伴っていたと伝えられていて

 この12の数が随所に現れています

一説には 秦氏(ハタウジ)とキリスト教との関連があるとして 聖書にあるイエスの12使徒(弟子)に関係するとも云われています

神社を守る社家について
古来 社家(シャケ)12人あり」『播磨鑑』〈江戸時代の地誌〉
・例祭「坂越の船祭」の日程について
旧暦の9月12日
・例祭「坂越の船祭」の祭礼船と漕ぎ手について
12人の漕手 と案内に記されています

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拝殿へ向う階段について 階段は12段

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拝殿の天井絵について 12×8枚あります

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・イスライ井戸と呼ばれる絵馬堂正面にある井戸(竹で蓋がしてある)
井戸の内部の石柱が12本 イスライというはイスラエルの転訛とも伝わります

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同じく秦氏(ハタウジ)の祀る神社「大酒神社(京都 太秦)」は 

祭神は秦始皇帝(シンノシコウテイ)神社名称は現在大酒」で 元の名大避あるいは大闢とされていて この「大闢中国ではキリスト教の「ダビデを意味すると伝わります 諸説ある謎多き神社です
大酒神社(京都 太秦)の記事をご覧ください

神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

坂越駅から県道32号経由 約2.3km 車7分程度
坂越のトンネルを抜けると坂越浦です 御祭神の秦河勝Hata kawakatsu no kimi)が 生きて漂着した「生島(イキシマ)」があります

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海岸から山へと 参道が延びています

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家並に囲まれた参道には 一の鳥居が建ちます

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鳥居扁額には「大避神社 春日大社宮司 花山院祝忠謹書」とあります
一礼して 鳥居をくぐります
大避神社Osake Shrine)に参着

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社号標「縣社 大避神社」があり 隋神門〈延享3年(1746)再建〉が建っています

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「百度石」と大きな石灯篭の先に灯篭の立ち並ぶ階段があり隋神門まで 神仏習合時代の名残りか 寺のようでもあります

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階段を上がると 注連縄の廻された狛犬が座していて 隋神門があり神仏習合の影響を受けて 随神と仁王像が背中合わせに配置されています

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参道の右手に元禄2年(1689)奉納の「手水鉢」があり 清めます

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参道の左手は社務所

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拝殿の前には 12段の階段があります

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拝殿〈延享3年(1746)再建〉にすすみます 

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賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の天井絵も12×8枚で並びます

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拝殿の両側には 絵馬堂が 舟屋のように横に伸びていて 多くの絵馬が飾られています

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絵馬堂の先から 本殿〈明和6年(1769)再建〉を仰ぐことが出来ます

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絵馬堂と拝殿は一体となっています

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境内社にお詣りをします 絵馬堂から新宮までは 舟屋のような廊下が渡っています

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再び 拝殿の前で一礼をして参道を戻ります ご神紋は「八本の矢車」

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隋神門の先に一の鳥居が見えています

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参道の先には 生島見えています

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階段をおりて 粋神門に向かい 振り返り一礼をします

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『風姿花伝(Fushikaden)』〈応永7年(1400)頃に世阿弥(Zeami)が記した能の理論書〉神儀篇に記される伝承

猿楽(サルガク)〈今の能楽を大成した世阿弥(Zeami)」が 日本の国では 猿楽(サルガク)の祖〈オヤ〉は 秦河勝Hata kawakatsu)であるとの信仰があったことから記されています 

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意訳

日本国においては 欽明天皇(キンメイテンノウ)の御代 大和国(ヤマトノクニ)泊瀬(ハツセ)の川洪水があった 河上から一口の壺が流れ下ってきた

それを 三輪の杉の鳥居〈大神神社〉の辺で 殿上人(テンジョウビト)が この壺を取った 見ると 中に嬰児がいた その容姿は 誠に柔和で玉のようであった これは天降り人であると云うので 参内し この由を申し上げました

その夜 天皇の御夢に この嬰児が現れ申し上げるのに

我は 中国・秦の始皇帝(シコウテイ)の再誕である 日本に機縁あって 今現れたのだ」と云々

天皇 奇異なと思し召し 殿上にしになされた この嬰児は 成人になるにしたがい 才智は人に優れ 15歳で大臣の位に昇った 帝からは「の姓を賜った 「(シン)」という文字ははたであることから秦河勝(ハタノカワカツ)」がこれである

聖徳太子(ショウトクタイシ)の御頃に 天下に少し障りのあった時に 神代や天竺の吉例に倣って 六十六番の物真似(モノマネ)するように かの河勝(カワカツ)命じられて 又 六十六番の面を御自作になられて 河勝(カワカツ)にお与えになられました

河勝(カワカツ)は その物真似(モノマネ)を明日香の橘の内裏の紫宸殿において これを執り行った

天下は治まり 安泰になった そこで聖徳太子(ショウトクタイシ)は末代のためにとこれを伝えられ「神楽(カグラ)」であったのを「という字の偏(ヘン)を外して (ツクリ)を残され これは暦の(サル)」であるから申楽(サルガク)」と名づけられた

すなわち楽を申す」という意味でもあり また 神楽の偏を外し 旁を残して申楽(サルガク)とし 双方を分けたことにもよるのである

かの河勝(カワカツ) 欽明(キンメイ)敏達(ビタツ)用明(ヨウメイ)崇峻(スシュン)推古(スイコ)の帝より 聖徳太子(ショウトクタイシ)まで仕え奉り この申楽(サルガク)を子孫に伝えて 自分は「役目を終えた化生の人は足跡を残さず」という訳で 摂津国(セッツノクニ)難波浦(ナンバノウラ)から 空船(ウツボフネ)に乗り 風に任せて西海へと赴きました

そして 播磨国(ハリマノクニ)坂越(サコシ)の浦に漂着した

浦人が 不審に思い 舟を開けて見れば 姿は普通の人間ではなく 変わったものが居り それが「人々に憑き祟って 様々な奇瑞を為した かく 人々は 神と崇めて祀ったところ 国は大いに豊かになった

大いに荒れると書いて大荒(オホサケ)大明神と名づけられた
この神は でも霊験あらたかである

この神の 本地(ホンチ)は毘沙門天王(ビシャモンテンオウ)にて在す

聖徳太子(ショウトクタイシ) 物部守屋(モノノベノモリヤ)を御退治になられた時も かの河勝(カワカツ)の神通力(ジンツウリキ)の方便にかかって 守屋(モリヤ)討たれたと云々

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『世阿弥十六部集評釈. 上巻』昭和15-19 著者 能勢朝次 出版者 岩波書店
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125601映像利用 『世阿弥十六部集評釈. 上巻』1 『世阿弥十六部集評釈. 上巻』2 『世阿弥十六部集評釈. 上巻』3

『明治神社誌料(meiji jinjashiryo)』明治45年(1912)に記される伝承

意訳

郷 社 大避(オホサレノ)神社

祭 神 天照大神アマテラススメオホミカミ
    春日大神カスガノオホカミ
    大避大神(オホサケノオホカミ)

創建は醍醐(ダイゴ)天皇 延喜年間なり
但し 
神社考に云う
秦河勝(ハタノカワカツ)なる者は 欽明天皇(キンメイテンノウ)の御代 天から降ってきた人であるという

天皇は ある夜の夢に子供が現れて『私は中国は秦の始皇帝の生まれ変わりである 日本に縁があって今現れたのである』と云った

この時 大和国泊瀬川(ハツセガワ)で洪水があり 川上から一つの壺が流れ下った 中に一人の男児があった
天皇がこれを養い わずか十五歳で大臣の位に昇り (ハタ)という姓を賜った それから5朝(欽明・敏達・用命・崇峻・推古)に仕えた

推古女王(推古天皇)の時 豊聴太子(聖徳太子)は 祭神の秦河勝六十六番申楽(サルガク)用の面を自らお作りになってお与えになりました

この河勝は 遂に船に乗って 播磨の岸に至った

土人(里人)はその姿を見て 人にあらず 霊威があり畏れるなり
共に神祠を祀り立て 大荒明神と云う 」と

又 播磨名所巡覧図会にいわく
「むかしから伝わるには
当郡は 秦川勝(ハタノカワカツ)の采地〈領地〉なり 故に蘇我入鹿(ソガノイルカ)の難を避けて ここに 箕裘(キキュウ)〈父の業をつぐこと〉し 時々 矢野の山中に猟をして 三本率いる都波の故事ありと云えり 宝に秦川勝(ハタカワカツ)が生地なるべし」と

又 播磨鑑に
「又 一説に
皇極天皇2年 蘇我入鹿(ソガノイルカ)聖徳太子の子「山背王(ヤマシロノオウ)」の隙を見てこれを攻撃し殺す 秦河勝(ハタノカワカツ)は山背王(ヤマシロノオウ)と相親しかったので入鹿(イルカ)これを疾(ニク)む 

翌年3月 東国の富士川の河辺に悪虫が生じ 所の民(住民)は これを「常世神(トコヨノカミ)」と名付けて尊び祭り 都鄙(トヒ)〈都から遠く離れて文化の至らない地 の人民を害する事あり 河勝(カワカツ)はこれを制禁し その功績多し 入鹿(イルカ)又 これを悪(ニク)む

河勝(カワカツ)は難儀が身に及ぶ事を慴(オソ)れて 竊(ヒソカ)に都を出て 摂津国の難波より 船に乗って 坂越浦に着く 浦人(浦の里人)は新たな殿を建てて これを尊敬する 

その後 年暦を経て 神仙(シンセン)と化す 時には 怪異があり 祈る時には 慶があり 朝廷に請て祀り 大荒大明神と号す
中古に改めて 大避大明神と云う 云々 」とみえる

後世 大避大明神を大酒大明神とも書せり これは即ち 字の音の通じる為で「はりまなる大酒みきの社こそ 祭りに供へ顔あからなる」

御神体は 河勝(カワカツ)の所持せし面なり

故に 又 
播磨鑑にいわく
「神威(シンイ)を畏れて拝見する人なく 元禄の頃 在僧 観了法印拝見す (オキナ)の面なり 云々」と

古来 社家(シャケ)12人あり 僧舎は数十坊あり 別當を寶珠山妙見寺と云う 
後世 猿楽(サルガク)の神として崇敬するもの多し

明治7年2月郷社に列す 41年同村 菅公神社 蛭子神社 荒神社を境内へ遷座する
社殿は 本殿 幣殿 拝殿 御供所 絵馬殿 長廊 神輿庫にして 
境内地684坪(官有地第一種)なりしが 38年中 内務省指令 甲第702号を以って 上地林反別2反529歩を境内に編入する

因に記す 播磨鑑にいわく
「この 坂越の浦と申すは 三方を山にて人里遠く 一方は海の面 深く入り来て しかも前に生島よこたわれり 良き隠れ家なり 
昔 新田義貞 朝臣(ニッタヨシサダアソン)西国の軍に利 無くして引き上げる時 児島三郎高徳(コジマサブロウタカノリ)が痛手を負って 父 範長相具して落ちのびるが しばらく 手負いを助けるため 坂越の浦に知っている僧があったので 高徳(タカノリ)を預け置いてとあるのも この所の事なり」

境内神社 厩戸皇子社(ウマヤドノミコノヤシロ)
     稲荷社(イナリノヤシロ)
     管原神社(スガワラノカミマヤシロ)
     蛭子神社(ヒルコノカミノヤシロ)
     荒神社(クワウカミノヤシロ)

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』明治45年(1912)著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用 『明治神社誌料』1 『明治神社誌料』2

大避神社Osake Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

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大酒神社(京都 太秦)の記事をご覧ください

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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