稲積六神社(宇佐市大字中字宮間)

稲積六神社(いなづみろくじんじゃ)は 原始八幡信仰に関わりの深い「辛島氏」が信仰の対象として 西暦706年に稲積山の山頂に祀られたのが始まりです 宇佐には 2つの神奈備山があり その一つ「西の稲積山(inazumi san)」を神体山として祭祀したものと伝わります 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 稲積六神社(inazumiroku shrine)
 (いなづみろくじんじゃ

【鎮座地 (location) 】

 大分県宇佐市大字中字宮間561

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊弉册尊(izanami no mikoto)
   速玉男命(hayatama no wo no mikoto)
   事解男命(kotosaka no wo no mikoto)
   国常立命(kuninotokotachi no mikoto)
   火産霊命(homusubi no mikoto)
   彦火々出見命(hikohohodemi no mikoto)

【創 建 (Beginning of history)】

第42代文武天皇御代 慶雲3年(西暦706年) 稲積山上に鎮座

【由 緒 (history)】

稲積六神社 由緒記

祭神 伊弉册尊 速玉男命 事解男命
   国常立命 火産霊命 彦火々出見命

鎮座 前記三神ハ
   大和時代 文武天皇御代 慶雲三年 稲積山上鎮座(西暦七〇六年)

   後記三神ハ
平安時代 仁明天皇御代 承和七年鎮座(西暦八三四年)

遷座 鎌倉時代 花園天皇御代 応長四年(西暦一三一四年)
   山上ヨリ現在ノ宮地ヘ遷座ス

祭事 維新前迄ハ 旧時枝領主小笠原信濃守ノ祈願所ニシテ 
   毎歳一度 家宰代参 武運長久 領中安全 五穀豊穣 晴雨祭執行セリ
   領中ノ 大庄屋 並ニ十五ヶ村ノ庄屋 組頭等ニ至ル迄
   礼服着用 参拝セシニ 今ハ止ム

   何レノ頃ヨリ 神幸祭始マリシカ詳カナラザルモ
   古文書年代記等ニヨレバ 大内義弘豊前 ヲ管シタルマデハ
   稲積山麓字申シ戸ヨリ 千日山轟ノ橋ニ神幸スト云ヘリ

   文化年中迄 執行セシガ 故アリテ中絶 明治二年復活セルモ
   明治四十年再ビ中止 今日ニ至ル
   復活後ハ 現在ノ宮地ヨリ 字梅川原ヘ神幸スト云フ

   境内案内板より

【境内社 (Other deities within the precincts)】

 ずらりと石造りの境内社が並びます

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

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宇佐にある2つの神奈備山
「東の御許山(omoto san)」と「西の稲積山(inazumi san)」について

「東の御許山(omoto san)」

豪族「宇佐氏」は神奈備山を御許山(omoto san)として
磐座信仰の形態として祀られていたと云われます
そこに「辛嶋氏」(薦神社の神官家)が 比売大神の信仰を持ち込んだと考えられています 大元神社(omoto shrine)の信仰の原型になります

詳しくは三柱女神が降臨された伝承を持つ神社
・大元神社(omoto shrine)(大元神社 大分県杵築市)の記事もご覧ください

「西の稲積山(inazumi san)」

「辛嶋氏」は 西の神奈備山を稲積山(inazumi san)として 
宇佐辛嶋郷に住み始め 辛嶋郷の周辺に稲積六神社(inazumiroku shrine) 乙咩神社(otome shrine) さらに酒井泉神社(sakaiizumi shrine) 郡瀬神社(goze shrine)の社殿を建築していきます

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

宇佐ICから 県道44号経由 約5.1km 車10分程度
県道44号経由中に見える稲積山は円錐形です 横を流れているのが伊呂波川(iroha gawa)です

県道44号が伊呂波川を渡る手前を戻るように大きく右に曲ると田んぼの中に鎮守の杜が見えてきます

稲積六神社(inazumiroku shrine)に到着

境内のすぐ脇を伊呂波川(iroha gawa)が流れています 増水して流されてしまわないのだろうかと想いますが 古い社が残っていますので大丈夫なのでしょう

こちらから見える「稲積山」は円錐形ではなく 稲を積み上げたような形ではあります 西暦七〇六年に山頂に祀られたのが この稲積六神社の始まりです

一礼して鳥居をくぐり抜けます 扁額には「稲積山権現」彫られています

境内は広く 狛犬が構え 神楽殿が建ち その奥には複数の鳥居が建っています

狛犬はなかなか味のある風情です 阿形の狛犬の後ろには 伊呂波川が流れています

吽形の狛犬の後ろには 囲い屋に覆われた 本殿が建っています

境内左手の覆屋の本殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内の奥に沢山の石の祠が並ぶ境内社にお詣りします 鳥居が3本建ちます

向かって左側から 〇(龍の文字?)は判読不能
鳥居扁額には「水本〇神社」

中央の鳥居扁額には「〇丸小之〇神社」

右の鳥居扁額には「天満宮」 梅の紋がありましたのでおそらく天満宮

神楽殿越しに本殿を仰ぎます

境内を後にします 鳥居をくぐり抜け振り返り一礼します

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

神々習合・神仏習合は 人々の融和の宇佐モデル

「八幡」は「はちまん」ではなく「やはた」が 古名と言われていて
「八」は 古来から多さを表し「八咫の鏡」の「八」と同義とされます
「幡」は 「秦」とも「旗」とも言われます
「八幡」は 文字通りに解釈をすれば 多くの「秦氏」が居住する場所
もしくは 多くの「秦=旗」が立ち並ぶところとなります

この説に近い 説明がありましたので 下記をご覧ください

公益財団法人九州国立博物館振興財団HPより http://www.kyukoku.or.jp/road/detail.php?id=00000334

宇佐市に残る神仏習合の原形

秦氏と並んで、古代宇佐で活躍した渡来氏族に辛嶋氏がある。

辛嶋氏は 香春岳(福岡県田川郡香春町)から東に移り、宇佐の稲積山へ居を構えたとされる。八幡大神は、もともといた豪族宇佐氏(宇沙都比古の子孫)による御許山の磐座信仰と、渡来系の神々との習合した神さまでもある。

神仏習合以前に、国を超えた神々習合が宇佐・国東であった。神々が習合したということは、在地の人々と渡来系の人々が征服・非征服といった関係ではなく、(多少の衝突はあっただろうが)融和したことを物語っている。
このような現象は 列島各地で見られたことかもしれないが、宇佐・国東においては、とりわけうまくいったのではないだろうか。だからこそ、宇佐で神仏習合が盛んに行われ、体系化が進んだのではないだろうか。

豊国の人々には「うまく融和できる」経験値や知恵のようなものがあったし、どんな神さま(仏さま)でも尊崇できる、信心深さと度量もあった。

「文化や習俗の違いでいがみ合うのではなく、仲良くすることで豊かに暮らしていける」。宇佐から発祥した神仏習合の伝播は、心地よい暮らし方の宇佐モデル(成功事例)の伝播だった、というと過大評価だろうか。

 わびた風情漂う稲積六神社

 さて、いよいよ六郷満山の個性豊かな寺院へ旅立ちたい。が、その前に宇佐市に残る神仏習合の原点ともいうべき史跡にも足をのばしておこう。

稲積六神社は 辛嶋氏が宇佐に来て初めて建立した神社といわれる。現在の社殿には、新羅の面影はないようだが、田園の中にたたずむその姿はのどかでホッとする。
鎮座する神さまは イザナギノミコトなどで「新羅の神さま」ではない。融和が進んで、時代を経た結果なのだろうが、私たちが見る限りにおいては、宇佐の風景はどこまでも懐かしい「ニッポンの風景」だ。

 すぐ近くには8世紀後半のものとされる「塑像三尊仏残欠(そぞうさんぞんぶつぞうけつ)」(国重文)などが安置される岩窟寺院、天福寺奥の院がある。天福寺奥の院は、歩いて40分ほどの山頂付近にあるが、地元の方に道を尋ねないと道に迷う可能性がある。道は険しく、軽登山する身支度をしてお出かけいただきたい。

公益財団法人九州国立博物館振興財団HPより

原始八幡信仰に関わりの深い「辛島氏」が信仰した 宇佐にある2つの神奈備山の一つ「西の稲積山(inazumi san)」を神体山として祭祀したと伝わります

稲積六神社(inazumiroku shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

宇佐神宮の記事もご覧ください

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