大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ)〈内宮 摂社〉は 御同座に宇治乃奴鬼(うじのぬき)神社〈内宮 末社〉が祀られます 式内社 伊勢國 度會郡 大土御祖神社(おほつちのみおやの かみのやしろ)とされ 境内には同じく式内社の國津御祖神社〈内宮 摂社〉と御同座する葦立弖神社(内宮末社)が鎮座 隣接地にも 倭姫命ゆかりの橡楠尾神社が鎮座し 神社の南東には 新嘗祭で神宮への奉納米を奉る神宮神田があります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大土御祖神社(Ohotsuchimioya shrine)
〈御同座 宇治乃奴鬼神社(Uzinonuki shrine)〉
【通称名(Common name)】
・大土神社(おおつちじんじゃ)・所神社
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市楠部町字尾崎2132
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈大土御祖神社〉〈三柱とも国生神(くなりのかみ)の御子神〉
《主》大国玉命(おほくにたまのみこと)
水佐々良比古命(みずささらひこのみこと)
水佐々良比賣命(みずささらひめのみこと)
〈御同座 宇治乃奴鬼神社〉〈大水上神(おほみなかみ)の御子神〉
《配》高水上命(たかみなかみのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『大神宮叢書〈昭和7-9年(1932~1935)〉』に記される内容
【抜粋意訳】
大土神社
帳、大土神社、大土は大地にて當地を稱へて云なり。古行事記に(二月十一日)、大土社神態に、所御社参云々、詔刀讀進云、今時以 大土皇神廣前云々、(六月十九日條に)、又 所神社といへるを見るべし。地を止許呂と訓は、古事記に鳥上地、神代紀に出雲之清地、などあり。(舊地祭物忌の條にいふべし。)此神は古へ度會の郷を牛領給ひし神なれば、殊更にたたへて大土とも所とも云なるべし。(東公田、南卽神御刀代井溝、西家田堰井大川、北百姓畠)、とあり。今も宇治郷尾崎村の東に此神社ありて、東は田、南に常供田また家田堰あり。西にも堰水大川あり。北宇治川ありて、大略古記の文に叶へり。元祿勘文に、社、(〇中略)板垣鳥居、社地廻百九間、南面在ニ楠都村東。
稱ニ 國生神兒
此國生の訓は解に久奈利と訓て、三代實錄、貞観三年二月七日辛亥、授ニ信濃 國 正六位上 國業此賣神 從五位、とあるを證とし給へり。國を久と訓はさる事ながら、國業は印本にクニナリと訓り。また元明天皇の大御諱を日本根子天津御代豊國成姫天皇と申せり。此國成もクニナリにて、クナリと訓がたければ解の説うけがたし。
さればクニナスまたクニナリとも訓べけれど是はた心よからず。クニウミとよままし。またウを略きてクニミとも。さるは風土記殲篇に、丹後國與謝郡、國生大神伊射奈藝命、と見ゆ。大八洲國生給ひし大神なるよしなり。(クニナシシ大神とはいひがたし。)
此國生神は宇治の郷 大地神を生給ひしよしの御名にて、實名は傳はらざる成べし。大神宮式に大土御祖神社と稱へいへるをも考ふべし。古事記に、大年神の御子に大土神、亦名 大土御祖神といふ神ませば、是ならんかと思へど、此帳の傳は國生神とあれば定めがたし。また大年神(〇中略)生ニ子大國魂神、ともあれど、是は大和の大國玉神なれば殊なり。外宮儀式帳に度會之國津御神社を、大神宮式に度會國御神社とある國御も借字にて國生神なるベければ、(外宮攝社に國見神社あり。此條も考ふべし。)(宇治大國玉尊の父神にて)、度會の大國玉神をかく稱へ云にもあらむか。國生は狹田國生神社 ,坂手國生神社、神名帳多氣郡國生神社の例あり。
大國玉神
大は美稱、國は地と同じく此土地の御霊の神なるべし。(俗云地主の神なり。)
されば此地に功德ましし神なり。國とは帳の(初段)に、鈴鹿國・飯高國などの意にて、此度會郷をも國といふべし。解に大穴牟遅神といへるは委しからず。
按に、書紀に此神の一名を大國玉神・顯國玉神とも稱へ申せるは、天下を經営し給へる故也。何神にてもあれ其國に功德あれば其國々にても國魂と稱へ祭ること、諸國に多かるべし。一神に限れるにはあらず。此神を神宮にて興玉神とて崇め祭るも、御遷幸以前より此國を牛掃給ひし神なるべし。(此興玉の解は祝詞考に云べし)。
その例は天皇の大和國に大宮所始め給ひし時、倭大國魂神は以前より地主の神にませば重く祭り給ひ、山城國に大宮所定め給ひては、賀茂別雷神社を重く祭り給ふも、地主神なる故なるべれば、此大國玉神も皆同例なるべし。此神社は倭姫内親王定祝と帳 U見えたり。次水佐々良比古命、次水佐々良比賣命
帳に、次水佐々良比古命、次水佐々良比賣命、形石坐、とあり。水は瑞の意て、神代紀に瑞之八坂瓊、また瑞離などの如くみづづくしき意の美稱なるべし。又佐々良は地名か、神風鈔に佐々良井神田、朝明郡に見えたり。今も伊勢南島に磯村あり。左々良村といへり。又他意あるか。
萬葉集に月の事を左々良延男とも、天にますさヽらの小野といひ、仁德紀に車形錦をササラカタとよめり。また鈔に水礫を左々禮とも左々良とも見えたれば、水は美稱にあらで、水によしある神ならんかも知がたし。
文德實錄に、齊衡三年九月に玉左々良彦神見えて、神名式に越前國敦賀郡に玉左々良彦神社あり。(玉は美詞なれば)、よく似たる神名なりけり。(伊勢風土記に天日別命此國に入ましし條に、大國玉神 資禰豆佐々良比賣命 参來、迎ニ相土橋郷岡本村、とあるは、大國玉神、次水佐々良比賣命、と帳に出たるを次を資に附會せしなり。此風土記はもとより後世の僞作なれば論にたらず。)
【原文参照】
【由 緒 (History)】
3大土御祖神社について
大土御祖神社境内遺跡は、内宮摂社の大土御祖神社と、楠部町の氏神を祀る橡楠尾神社の境内を範囲とした遺跡である。遺跡から直線距離で2.5km上流には伊勢神宮内宮がある。『伊勢市史』によると、昭和16年頃に大土御祖神社境内遺跡から古墳時代後期から平安時代前半頃のものと考えられる須恵器甕片が採集されている。
大土御祖神社は、内宮の摂社27社のうち第10位の神社とされ、神明造の社殿が五十鈴川を背に南面している。延暦23年(804)年の『皇大神宮儀式帳』には境内の面積が、延久5年(927)の『延喜式神名帳』には度會郡五十八座のーであるという記載が残る。中世には廃絶したが、寛文三年(1663)に、大中臣精長によって旧社地が推測され、摂社として再興された。一方、神社と境内が接する橡楠尾神社は、明治3年 (1870)以降合祀と分祀を繰り返し、現在の境内地には明治41年に合祀された際に移ったとされる。なお、二十年に一度行われる遷宮の記録は、延宝6年 (1678)から残っている。
神社の南東には、新嘗祭で神宮に奉納する米をつくる神宮神田が隣接している。古くは全国各地にあった神宮神田も現在はここだけで、毎年5月の御田植神事をはじめとした祭事が執り行われている。この神田が当地に設けられた時期は不明だが、古くから神宮の影響が強い地域であることがうかがわれる。『大土御祖神社境内遺跡発掘調査報告〜伊勢市楠部町〜』
〈2018 (平成30)年11月2日編集・発行 三重県埋蔵文化財センター〉より抜粋
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内図
・國津御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・〈御同座〉葦立弖神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 國津御祖神社(くにつみおやの かみのやしろ)
・橡楠尾神社(くすおじんじゃ)〈倭姫命ゆかりの社〉〈隣接する社地〉
橡楠尾(くすのお)神社
所在 伊勢市楠部町1005-3
祭神 櫲樟尾乃大神(くすおのおほかみ)
樛木乃大神(さがりきのおほかみ)
田上乃大神(たうえのおほかみ)
大山祇大神(おほやまつみのおほかみ)(上山大神、下山大神)
月峯乃大神(つきみねのおほかみ)例祭 神事大祭 一月 第三日曜日
萬歳楽(鬼打神事・里神楽)奉納沿革 橡楠尾神社は、八王子社に祭られた氏神の橡楠尾神と『日本書紀』にも現れる田上社(田上神)との合祀により生まれました。
田上神は、四世紀ごろ倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を五十鈴川の上流にお定めになるまでの仮宮となった「家田田上宮」(矢田宮、西の森ともいう)の守護神で、楠部の産土神(うぶすなかみ)として尾崎(神社旧跡)で祀られ、信仰されてきました。
「櫲(よ)」も「樟(しょう)」も楠木と同じ意味を持つ古語で、二語重ねて「櫲樟(くす)」と発音することから、明治三年(1870)「櫲樟尾神社」と改名しました。明治四十年には、町内の樛木神社、上山神社、下山神社、月峯神社などの四社を合祀し、さらに明治四十一年(1908)には四郷地区の各神社が統合され「村社 四郷神社」となり、現在地へお祀りしました。昭和二十六年(1951)分祀され、ふたたび楠部のみの氏神さまとして奉祀され現在に至っています。
御神遷は二十年に一度おこなわれ、江戸時代前半にあたる延宝六年(1678)からの記録が残っており、現在も引継がれております。
特に「土地の守り神」として、五穀豊穣・家内安全・学業成就の御神徳がございます。
平成二十三年十一月 楠部町橡楠尾神社造営委員会
境内案内板より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・神宮神田
「神宮神田」は 倭姫命が定められた「家田田上宮(いえたのたかみのみや)」であったとされる処
『皇大神宮儀式帳』には「この田には蛭すまず苗草敷かず」とあり 意味は゛蛭(害虫か?)なく 苗草(肥料?)はいらない良い田である゛
五十鈴川の水を引き御料米〈新嘗祭で神宮に奉納する米〉を作ります
大土御祖神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社 右諸社,並預祈年、神嘗祭。以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大土御祖神社
[ふ り が な ](おほつちのみおやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohotsuchi no mioya no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
社号゛大土御祖神社゛と同じ音を持つ 大土乃御祖神(おほつちのみおやのかみ)について
『古事記』によると 大土神(おほつちのかみ)と云う
大年神の系譜中に見える
大年神が 天知迦流美豆比売を娶って生んだ神々(奥津日子神・奥津比売命・大山咋神・庭津日神・阿須波神・波比岐神・香山戸臣神・羽山戸神・庭高津日神・大土神)の内の一神 またの名を土之御祖神という
『先代旧事本紀』第4巻「地祇本紀(一云、地神本紀)」によると 土之御祖神(つちのみおやのかみ)
『古語拾遺』に登場する゛「大地主神」と同神か゛とする説もあるが 定かではない
外宮別宮 土宮(つちのみや)の御祭神は 大土乃御祖神(おほつちのみおやのかみ)です
この2神社を関連付ける説もあります
又 内宮摂社 大土御祖神社の御祭神は 『皇大神宮儀式帳〈平安時代初期成立〉』の「大土神社」の記載によれば・大国玉命・水佐々良比古命・佐々良比売命の三柱であり 大土神や土之御祖神との共通性は見出しがたい ともされます
外宮別宮 土宮(つちのみや)について
・土宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉
《主》大土御祖神(おおつちみおやのかみ)
土宮は 豊受大神宮(外宮)の別宮です
・豊受大神宮(外宮)
お伊勢さん125社について
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄鳥羽線 五十鈴川駅から 東へ約1.2km 車 5分程度
五十鈴川の五十鈴橋を渡ったところに鎮守の杜が見えます
境内図を見るとわかりますが
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉゛大土御祖神社゛と゛國津御祖神社゛が同じ境内に 隣接して 倭姫命ゆかりの橡楠尾神社が鎮座しています
神宮125社 特有の石柱社号標には゛大土御祖神社゛と刻まれます
社頭に鳥居はありません
大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
一礼をして 社地に入り 参道を進みます
御敷地の前に 再び 石柱の社号標があり こちらには゛皇大神宮 摂社 大土御祖神社゛と刻字あり
神明造の鳥居が建ち
その先に 玉砂利の敷き詰められた御敷地に瑞垣に囲われて 神明造の正殿が一宇 瑞垣の中央には瑞垣御門 正殿の屋根は切妻板葺
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 東西に御敷地と古殿地が並んでいます
上の写真の右奥に鎮座しているのが゛國津御祖神社゛になります
國津御祖神社について こちらを
・國津御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・〈御同座〉葦立弖神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 國津御祖神社(くにつみおやの かみのやしろ)
國津御祖神社にお参りをして 参道を戻ります
参道には 夕日が差し込みます
一旦 表に出てから隣接する 倭姫命ゆかりの橡楠尾神社へ向かいます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大土御祖神社について 所在は宇治郷楠都村で内宮摂社24社の第7と記しています〈現 大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉
【抜粋意訳】
大土御祖神社
大土は於保都知、御祖は美於夜と訓べし、
〇祭神 大國玉命、水佐々良比古命、佐々良比賣命、
○宇治郷楠都村に在す、神名略記
○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂廿四座の第七に戴す、
○儀式帳云、称ニ 國生神児 大國玉命、次 水佐々良比古命、次 佐々良比賣命、形石坐、倭姫内親王定祝、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大土御祖神社について 所在は宇治郷楠都村〈現 大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記していま
【抜粋意訳】
大土御祖(オホツチミオヤノ)神社
また、大土神社と云、延暦儀式帳
所神社また大社とも云ふ、建久年行事今 宇治郷楠部村に在り、神名略記、神名帳考証
國生神の兒、大國玉命、水佐々良比古命、佐々良比賣命を祭る、形石に坐す、
倭姫命定祝奉る、延暦儀式帳
醍醐天皇 延喜の制、祈年 神甞祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大土御祖神社について 所在は宇治郷楠部村尾崎で内宮摂社24社の内と記しています〈現 大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉
【抜粋意訳】
大土御祖神社
祭神 大國玉命 (國生神兒 )
水佐々良比古命
水佐々良比女命祭日 二月十一月並十一日十二日
社格 内宮所攝廿四所之一 (内宮攝社)所在 三重縣宇治郷楠部村尾崎 (度會郡四郷村大字楠部 )
【原文参照】
大土御祖神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)