大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)は 第10代 崇神天皇(すじんてんのう)の御代に疫病が大流行した国難の時 天皇の御夢に大物主大神の神託があり 大神神社の神主となられたのが 大神のご子孫 大直禰子命(若宮様)です 第13代 成務天皇の御代に社が創建されました 大神神社の境外摂社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大直禰子神社(Ohotataneko shrine)
[通称名(Common name)]
若宮社(わかみやのやしろ)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県桜井市三輪177
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大直禰子命(おおたたねこのみこと)
《配》少彦名命(すくなひこなのみこと)
活玉依姫命(いくたまよりひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・家内安全・無病息災に霊験あらたか
【格 式 (Rules of dignity) 】
・大和国一之宮 大神神社 境外摂社
【創 建 (Beginning of history)】
磯城瑞牆宮 御宇 天皇〈第10代 崇神天皇〉七年十二月 勅為 神主を賜る 大三輪君氏 その子孫 永く仕え その職を
志賀穴穂宮 御宇 天皇〈第13代 成務天皇〉御世 大三輪君 大友主命に依り霊夢に 社を立て 奉斎之『大三輪神三社鎮座次第(Ohomiwanokami sansha chinza sidai)〈 嘉禄2年(1226年)成立〉』より
大三輪氏の祖 大田々根子を祭る、成務天皇の御宇 大三輪君 大友主の剏祀(そうし)する所なり。
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉より
【由 緒 (History)】
大神神社 摂社 大直禰子神社(若宮社)
御祭神 大直禰子命(おおたたねこのみこと)
御例祭 四月八日
(御由緒)
御祭神の大直禰子命は大物主大神のご子孫です。第十代 崇神天皇(すじんてんのう)の御代に疫病が大流行し、国難がおこった時、天皇の御夢にあらわれた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)〈現在の堺市〉に大直禰子命を見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり国が平和に栄えたとされます。
また、御祭神が大物主大神のご子孫であることから若宮社とも呼ばれ、春の大神祭(おおみわさい)では若宮の御分霊が神輿に遷され、三輪の町を巡幸されます。
神仏習合の時代は大神寺(おおみわでら)、後に大御輪寺(だいごりんじ)として、永らく大直禰子命の御神像と十一面観音像(国宝・現在は市内の聖林寺に奉安)があわせ祀られてきました。本殿には奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されています。
現地立札より
大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)
国重要文化財。三輪の大神様のご子孫の大直禰子命(若宮様)をまつる。明治以前は大御輪寺(だいごりんじ)として、若宮神と十一面観音像(国宝・現在聖林寺奉安)があわせてまつられていた。
大神神社公式HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・御誕生所社(おうまれところのやしろ)〈大神神社 境外末社〉
《主》鴨部美良姫命(かもべのみらひめのみこと)〈大田田根子命の母神〉
・琴平社(ことひらのやしろ)〈大神神社 境外末社〉
《主》大物主神(おほものぬしのかみ)
・御饌石(みけいし)
御饌石
この御石はお正月のご神火まつりの時、久延彦神社に神饌をお供えする石です
知恵の神様 久延彦神社へお参りできない方はここから遥拝してください
現地立札より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
大直禰子神社(桜井市三輪)は 大和国一之宮の大神神社の境外摂社になります
・大神神社(桜井市三輪)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
おだまき杉(緒環杉) について
社頭にある おだまき杉
おだまき杉(緒環杉)
『古事記』にある当社のご祭神〈大物主神〉と活玉依媛(いくたまよりひめ)との神婚に由来しており、大田田根子命(おおたたねこのみこと)の御誕生を物語る杉であります。
江戸時代には、すでに文献に記載されている名木でありましたが、やがて枯れてしまい現在、根本だけが大切に残されています。
大神神社公式HPより
苧環(おだまき)の糸
文・山崎しげ子
四方を緑濃い山並みで囲まれた奈良盆地。その東南に、円錐形のひときわ秀麗な姿を見せる三輪山。神が鎮まる神聖な山、また、人々の平和と豊かな生活を守ってくれる特別な山として遠い昔から信仰されてきた。
神様の名前は大物主大神(おおものぬしのおおかみ)。今回はその神様の不思議な恋のお話。*
昔、昔。活玉依姫(いくたまよりひめ)という美しい乙女のもとに、夜な夜な大そう麗しい若者が通ってきた。姫はほどなく身ごもった。姫の両親は、その若者の素性を姫にたずねたが、姫も分からぬまま。そこで両親は、若者が訪ねてきたときに、床のまわりに赤土をまき、苧環と呼ばれる糸巻きの糸を針に通して若者の着物の裾に刺すよう教えた。
翌朝、糸のあとをたどっていくと、糸は戸の鍵穴を通って、三輪山まで続いていた。これによって若者の正体は三輪山の大物主大神であり、姫のお腹の中の子は神の子であることが分かった。
その子は、大田田根子(おおたたねこ)と名付けられた。
*
三輪山麓の磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)におられた崇神天皇の時代、疫病がはやり、多くの人々が亡くなった。憂えた天皇の夢枕に、大物主大神が貴人の姿で現れ、「大田田根子に私を祭らせれば、災いもおさまり、国も平安になるであろう」と告げた。
早速、早馬を四方に出して探すと、茅渟県陶邑(ちぬのあがたのすえのむら)(今の大阪府堺市あたりか)にいることが分かり、天皇のもとにお連れした。
天皇はその大田田根子を神主として大物主大神をお祀りしたところ、疫病はたちまち収まった。五穀は豊かに実って農民は皆喜んだという。
三輪山麓にある大神神社では本殿はなく、拝殿から三輪山を拝するという神祀(かみまつ)りの原初の形を今に伝える。静寂と神々しさに包まれた、わが国最古の神社とされる。
大神神社の摂社で、「若宮さん」と呼ばれ、大田田根子を祀る若宮社(大直禰子(おおたたねこ)神社)。石段脇に、「おだまき杉」の古株が今も残る。物語に登場する活玉依姫の苧環の糸がこの杉の下まで続いていたという伝説も残されている。
奈良県庁公式HP 広報公聴課「県民だより奈良 平成31年1月号 奈良のむかしばなし」よりhttps://www.pref.nara.jp/51728.htm
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大神神社の摂社 末社について
大神神社(桜井市三輪)の・境内社・境外社 の記事を見る
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大神神社の二の鳥居から北へ約140m 徒歩2分 社頭に おだまき杉 があります
大直禰子神社(桜井市三輪)〈大神神社 摂社〉に参着
鳥居の扁額には「若宮社」とあります
一礼をして 鳥居をくぐり 石畳みの参道を進みます
左手に境内社の御誕生所社が祀られています
瓦屋根の拝殿にすすみます
この拝殿は 神仏習合時 大神神社の神宮寺であった「三輪寺・大神寺(おおみわでら)」 鎌倉時代には「大御輪寺(だいごりんじ)」の本殿を 昭和62年から3年に亘り解体修理 応永十九年(1412)の姿に復元 奈良時代の大神寺創建当初の部材が残っており 貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻り 大神神社の二の鳥居に向かいます
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
『古事記』には 御諸山(みもろやま)の神は 三度ほど登場します
⑴小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が常世に渡られて 一柱となった大国主神(おほくにぬしのかみ)が憂いていると 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいて これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神とされます 大神神社の創建の神話が記されます
⑵神武天皇が 美和(みわ)の大物主神の御子を 皇后として娶(めと)り 天皇家と美和の神との繋がりが記されます
⑶崇神天皇が 疫病の流行に際し 御諸山(みもろやま)に大物主神の子孫〈意富多々泥古(おほたたねこ)〉を神職として任命し 災いを鎮めたとあり 天皇家による大神神社の祭祀が始められたことが記されます
⑴【抜粋意訳】
『古事記』上巻 御諸山(みもろやま)に坐す神 の段
大国主神(おほくにぬしのかみ)は 心(こころ)憂(うれ)い言われた
「わたしは 一人で どうように この国を作ればよいだろうかどの神と共に わたしは この国を作りましょうか」
この時 海を光(てら)して 依来(よりくる)神がいました その神の言うには
「私を丁寧に祀りなさい わたしが あなたと共に 国を作りましょう もしそうでなければ 国が成るのは難しいでしょう」大国主神(おほくにぬしのかみ)が
「それならば どのように 祀り奉(たてまつ)ればよいでしょう」と言うと
「私を 大和国(やまとのくに)を 青々と取り囲んでいる山々 その東の山上に斎(いつ)き 祀れ」と答えられた
これが 御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す 神なり
【原文参照】
⑵【抜粋意訳】
『古事記』中巻 神武天皇〈伊波礼毘古命〉の后 神の御子 の段
伊波礼毘古命(いわれびこのみこと)が 日向(ひゅうが)に坐(ましま)した時 阿多小椅君(あたのおばしのきみ)の妹の阿比良比売(あひらひめ)を娶(めと)り 生んだ子供は 多芸志美美命(たぎしみみのみこと)次に岐須美美命(きすみみのみこと)の二柱
しかし 更に大后(おほきさき)〈皇后〉として 美人(をとめ)を求められた時 大久米命(おおくめのみこと)が申しました「ここに 神の御子と伝える孃女がいます その神の御子といわれる理由は
三島湟咋(みしまみぞくひ)の娘 その名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ) その容姿は とても美しいものでした
故に 美和(みわ)の大物主神(おほものぬしのかみ)が これを見て感じ
その美人の大便をするときに 丹塗矢(にぬりや)〈丹の赤い塗矢〉に化(な)りて その厠(かわや)の水が流れる溝に流れて 美人の陰部を突きました
その美人は驚き 立ち走りました
そして その矢を持って 床に置くと 矢はたちまち麗しい壮夫(おとこ)に成りました
その美人を娶(めと)り生んだ子供が「富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)」別名を「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」と言う
これは ほと〈陰部〉という事を嫌って 後に名を改めたのです
故に そうゆう次第で 神の御子というのです」 と申し上げた
【原文参照】
⑶【抜粋意訳】
崇神天皇 疫病(えやみ)と美和の大物主神 の段
祟神天皇の御世に 疫病が盛んに流行し 人民がほとんど盡きようとしましたここに天皇は 御憂慮遊ばされ 神床(かむとこ)に坐(ましま)す夜に 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)が夢に顯(あらわ)れて仰せになった
「これ〈疫病が盛んに流行〉は 我〈大物主大神〉の御心なり
意富多々泥古(おほたたねこ)を以って 我を祭らしめたならば 神の祟り(たたり)は起らず 国は平安になるだろう」仰せられた
そこで駅使(はゆまつかい)を四方に放ち 意富多々泥古(おほたたねこ)という人を探し求めた時 河内(かわち)の美努村(みののむら)に その人を見つけ 朝廷に差し出して奉りました
ここに祟神天皇が
「お前は誰の子であるか」とお尋ねになり
答えて言うには
「僕は 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)が 陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘 活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶(めと)り生んだ子は 名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子 飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子 建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子 意富多々泥古(おほたたねこ)ぞ」と申しましたここに天皇は 大きくお歓びになられ 仰せられるには
「天下は平(たいら)ぎ 人民は栄えるだろう」と仰せられ
即ち 意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)をもちいて神主として 御諸山(みもろやま)〈三輪山〉に 意富美和之大神(おほみわのおほかみ)を拝祀り奉りました
また伊 迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて お皿を沢山作り 天神地祇〈天津神・国津神の神々〉の神社を定め奉りました
また 宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に 赤色の盾(たて)と矛(ほこ)を祭り
また 大坂神(おほさかのかみ)に 黒色の盾(たて)と矛(ほこ)を祭り
また 坂の御尾神〈坂上の神〉や河の瀬の神にいたるまで 悉(ことごと)く遺忘(わす)れることなく 幣帛を奉りなさいました
これによって 疫病は悉(ことごと)に息きみて〈無くなり〉国家は平安になりましたこの意富多々泥古(おほたたねこ)という人を 神の子であると知った理由は
上に述べた
活玉依毘売(いくたまよりびめ)は その容姿は〈とても美しい〉極正であった ここに壮夫(おとこ)があって その形姿(かたち)威儀(いぎ)は 時に比べる者も無い程素晴らしい 夜半になると儵忽(たちまち)に到り来るのです そこで 相い感じて 共に結婚して住んでいるうちに まだ幾時もたたないのに 美人は妊娠された
そこで父母が妊娠(にんしん)したことを怪しみ その女に問い詰めると
「お前は 自ら妊(はら)んでいる 夫も居ないのに どうして妊娠したのか」と言えば 答えて言うには
「麗美(うるわ)しき壮夫(おとこ)があり その姓名も知らぬが 夕毎に到来りて 住む間に 自然懐妊(はら)みました」と言いましたそこでその父母が その人を知りたいと思って言いました
「赤土(はに)を 床の前にまき散らし 糸巻きに巻いた長い麻糸を針に通して その着物〈男の着物〉の裾(すそ)に刺せ」と教えた
娘は教えた通りにして 旦時〈夜明け〉に見ると 針をつけた麻は 戸の鍵穴を貫け通り 残っていた麻糸はたった三勾(みわ)〈三輪〉だけでした
それで 鍵穴から〈男が〉出て行ったことを知って 糸をたよりにたどっていくと 美和山に至って神の社に留まりました
それで その神の子と知ったのです
この麻糸が三勾(みわ)残っていたので その土地を美和(みわ)と言います
意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)は 神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖先である
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
第10代 崇神天皇の御代に 国民の大半が死亡する疫病が流行り 三輪山の大物主神の祟りであるとわかる 天皇は 大物主神の子孫 大田々根子命(おほたたねこのみこと)を探し 大神(おほみわ)〈大神神社〉の神主として任命し 祟りを鎮め 高橋邑(たかはしのむら)の活日(いくひ)を掌酒(さかびと)として祝いの宴を開く
大神神社の天皇家による祭祀の始りが 記されています
【抜粋意訳】
崇神天皇 五年 疫病 大物主大神を祀る の段
〇崇神天皇 五年
国内に疫病が多く 民(おほみたから)の大半が死亡するほどであった
〇崇神天皇 六年
百姓の流離し 或いは背く者もあり その勢いは 徳を以て治めようとしても難しかった
そこで朝まで一日晩中 神祇〈天津神・国津神〉にお祈りをした
これより先に 天照大神(あまてらすおほみかみ)倭大國魂(やまとのおほくにたま)の二柱の神を 天皇が住む宮殿の中に並べて祀っておられた
すると その神の勢いは 畏れおおく 共に住むのは不安であった
そこで 天照大神を豐鍬入姫命(すよすきいりひめのみこと)に託(つ)けて 倭の笠縫邑(かさぬいむら)に祀りました
そして 磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろき)を立てた
神籬は 比莽呂岐(ヒモロキ)と云う日本大國魂神(やまとおほくにたまのかみ)は 渟名城入姫(ぬなきいりひめ)に託(つ)けて祀りました
しかし 渟名城入姫は 髪が抜け落ち体が瘦せて 祀ることも出来なかった〇七年 春二月 丁丑朔辛卯(十五日)
詔して「昔 我が皇祖(すめみおや)が 鴻基(あまつひつぎ)の大啓を開き その後 聖業逾高(ひじりのわざいよいよたかく)王風轉盛(きみののりうたたさかり)であった
ところが不意に 今 私の世代になって 災害が数多く有り 朝(みかど)に善政がなく 神祇〈天津神・国津神〉が 咎(とが)を与えているのではと恐れる どうか命神龜(みうら)〈亀占〉によって災いの起こるわけを究めよ」天皇は そこで神浅茅原(かむあさじはら)にお出ましになり 八十萬神に会われて占いで問いました
このときに 倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に神明憑(かみがかり)して言われた「天皇 どうして国が治まらないことを憂えるのか もし よく私を敬い 祀れば きっと自ら平安になる」
天皇は問う
「このように教えておっしゃるのは どちらの神ですか」
答えて言う
「私は倭国(やまとのくに)の域内(さかいのうち)にいる神 名を大物主神(おほものぬしのかみ)と為す」この時 神語(みこと)を得て 教えのままにお祀りしました けれども いまだに お験(しるし)がありませんでした
そこで天皇は 沐浴齋戒(ゆかはあみものいみ)して 殿内を浄めてお祈りし
「私は 神を敬い禮しておりますが なぜか 未だ何も肝心なものがございません 願わくば 夢の中で教えていただき 神恩(みうつくしび)をお垂れ下さい」と言われた
この夜の夢 一人の貴人が現われた 宮殿の入戸に対して立ち 自らを大物主神と名乗られ そして告げた
「天皇(すめらみこと)またも憂いてなさる 国が治まらないのは これ我が意によるもの もし我が子 大田々根子(おほたたねこ)に 私を祀られば たちどころに平安となる また 海外(わたのほか)の国は 自ら帰伏するだろう」
〇秋八月 癸卯朔巳酉(七日)
倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかみあさぢはらまくはしひめ)・穂積臣(ほづみのおみ)の遠祖 大水ロ宿禰(おほみくちのすくね)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人が 共に同じ夢をみて 天皇に申し上げた「昨夜 夢を見ました
一人の貴人が現れ 教えて言われたのが
『大田々根子命(おほたたねこのみこと)を 大物主大神を祀る神主(かんぬし)とし 市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る神主(かんぬし)すれば 必ず天下太平となる』と言いました」天皇は 夢の辞(ことば)を得て ますます喜ばれた
布(あまね)く天下(あめのした)に告げ 大田々根子(おほたたねこ)を探した すぐに茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)に大田々根子(おほたたねこ)を見つけ これをお連れした
天皇は すぐに自ら神淺茅原(かんあさじはら)に出向き 諸王卿(おほきみのまちまつへつきみたち)と八十諸部(やそもろとものお)を招集し
そこで大田々根子(おほたたねこ)に尋ねた
「お前は 誰の子か」大田々根子(おほたたねこ)は答えて
「父は 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)といい 母は活玉依媛(いくたまよりひめ)といい 陶津耳(すえつみみ)の娘です」
他の言い伝えでは、「奇日方天日方武茅淳祀(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の娘」とも言われています天皇は いわれた
「ああ 私は きっと栄え楽になるだろう」
そこで 物部連(もののべのむらじ)の遠祖 伊香色雄(いかがしこお)を 神班物者(かみのものあかつひと)〈神に捧げるものをわかつ者〉としようと 占うと吉(よし)と出た ついでに他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出ませんでした〇十一月丁卯(十三日)
伊香色雄(いかがしこお)に命じ 物部(もののべ)は 八十平瓮(やそひらか)〈平皿〉で 祭神の供物とさせた それで大田々根子を 大物主大神(おほものぬしのおほかみ)を祀る主(かんぬし)とした
また 長尾市(ながおち)を倭大国魂神(やまとのおほくにたまのかみ)を祀る主(かんぬし)とした
その後に 他の神を祀ろうと占うと「吉」と出た すぐに別に八十萬群神(やおよろずのもろかみ)を祀った
そして 天社(あまつやしろ)・国社(くにのやしろ)・神地(かんどころ)・神戸(かんべ)を定めたすると 疫病が止みはじめ 国内がようやく鎮まりました
五穀(いつつのたなつもの)が稔り 百姓は賑やかとなった〇八年 夏四月 庚子朔乙卯(十六日)
高橋邑(たかはしのむら)の活日(いくひ)を 大神(おほみわ)〈大神神社〉の掌酒(さかびと)とした
掌酒は 佐介弭苔(さかびと)と読む
〇冬十二月 丙申朔乙卯(二十日)
天皇は 大田々根子に 大神(おほみわ)を祀らせた
この日 活日(いくひ)は 自ら神酒(みわ)を天皇に献上し 歌を詠んでいうのにコノミキハ ワガミキナラズ ヤマ卜ナス オホモノヌシノ 力モシミキ イクヒサ イクヒサ
〈この神酒は 私の造った神酒ではありません 倭国をお造りになった大物主神が 醸成された神酒です 幾世までも久しく栄えますよう〉
このように歌って 神宮(かみのみや)で宴(とよあかり)を催された
宴が終り 諸大夫(まへつきみたち)が歌ったウマザケ ミワノ卜ノノ アサ卜ニモ イデテユカナ ミワノ卜ノドヲ
〈美味しい酒のある三輪神社の社で 朝が来るまで酒を飲んで 朝が来たら帰ろう 三輪の社の門から〉
天皇も歌っていわれた
ウマザケ ミワノトノノ アサ卜ニモ オシヒラカネ ミワノ卜ノドヲ
〈美味しい酒のある三輪神社の社で 朝が来るまで酒を飲んで帰りなさい 三輪の社の門を押し開いて〉
そして 神宮(かみのみや)の門を開いて 天皇はお帰りになられた
この 大田々根子(おほたたねこ)は 今の三輪君(みわのきみ)などの始祖である
〇九年 春三月 甲子朔戌寅(十五日)
天皇の夢に、神人(かみ)が現れて教えていわれた
「赤楯(あかたて)八枚 赤矛(あかほこ)八竿 墨坂神(すみさかのかみ)に祀れ
また 黒楯(くろたて)八枚 黒矛(くろほこ)八竿 大坂神(おおさかのかみ)を祀れ」〇四月 甲子朔巳酉(十六日)
夢の教えのまま 墨坂神(すみさかのかみ)と大坂神(おおさかのかみ)をお祀りになった
【原文参照】
『大三輪神三社鎮座次第(Ohomiwanokami sansha chinza sidai)〈 嘉禄2年(1226年)成立〉』〈群書類従 神祇部巻18〉に記される伝承
【抜粋意訳】
大直禰神社(おほたたねの かみのやしろ)
大田々根子命なり 旧事 大物主命五世 櫛日方命、武飯勝命、武甕尾命、武甕依命、武(御)氣立命、
孫 武飯片隅命の子 母は美良媛 土左の賀茂部臣の女(むすめ)なり
磯城瑞牆宮 御宇 天皇〈第10代 崇神天皇〉七年十二月 勅為 神主を賜る 大三輪君氏 その子孫 永く仕え その職を
志賀穴穂宮 御宇 天皇〈第13代 成務天皇〉御世 大三輪君 大友主命に依り霊夢に 社を立て 奉斎之 俗云う若宮
【原文参照】
『大和志料(Yamato shiryo)』〈大正3年(1914)〉に記される伝承
【抜粋意訳】
若宮大直禰(わかみやおほたたね)神社
大三輪氏の祖 大田々根子を祭る、成務天皇の御宇 大三輪君 大友主の剏祀(そうし)する所なり。
鎮座次第に
大田々根子命なり 旧事 大物主命五世 櫛日方命、武飯勝命、武甕尾命、武甕依命、武(御)氣立命、
孫 武飯片隅命の子 母は美良媛 土左の賀茂部臣の女(むすめ)なり
磯城瑞牆宮 御宇 天皇〈第10代 崇神天皇〉七年十二月 勅為 神主を賜る 大三輪君氏 その子孫 永く仕え その職を
志賀穴穂宮 御宇 天皇〈第13代 成務天皇〉御世 大三輪君 大友主命に依り霊夢に 社を立て 奉斎之と即ち是
当社は 古来 若宮と称し 摂社中 最も崇敬せられしものにして、儈慶圓社地に就き堂塔を創立し、本地仏とて観音を安置し 之を大御輪寺と称す。
徳川氏に至り社領三十五石を寄附せらる、朱印左の如し。
但し 原書 社領に亡くし。蓋し(けだし)大御輪寺廃絶の際紛失せしならん。三輪若宮領 大和國廣瀬郡大塚村之内 貮拾四石 同池尻村之内 拾壹石 都合三拾五石の事如前々寄附の事 社納不可有相違者可抽 国家安全の情誠の状如件 寛永十三年十一月九日
【原文参照】
大直禰子神社(桜井市三輪)〈大神神社 摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)