村国真墨田神社(むらくにますみたじんじゃ)は 「美濃国一之宮 南宮大社」と「尾張国 一宮 真清田神社」を合祀 その後 天武元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた゛村国男依(murakuni no oyori)゛を 祭神として合祀した由緒を持ちます 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の美濃国 各務郡 村国真墨田神社(むらくにますみたの かみのやしろ)に比定されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
村国真墨田神社(Murakuni masumita Shrine)
(むらくにますみたじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
岐阜県各務原市鵜沼山崎町1-108
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天之火明命(ameno hoakari no mikoto)
金山彦命(kanayamabiko no mikoto)
彦火火出見命(hikohohodemi no mikoto)
罔象女命(kuraokami no mikoto)
村国男依(murakuni no oyori)
【御神格 (God's great power)】
・事業成功 Business success
・等 etc
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・ 金弊社(kimpeisha)
【創 建 (Beginning of history)】
金幣 村国真墨田神社の御由緒
当社の祭神は 天之火明命 彦火火出見命 金山彦命 岡象女命 村国雄依の五柱である
社名の由来は 南宮 真墨田 村国の組合せで 美濃の南宮神社の系列で 尾張の真清田神社と同系である
村国は 飛鳥時代 当地方を治めた村国氏の祖を祀ることで付けられたもので この地に散在する古墳が 村国氏にゆかりが深いことはよく之を物語っている醍醐天皇の御代の延喜神名帳には村国大明神とあり
天正12年までは 南町部落郷倉にあった
戦国時代に到り鵜沼城主大沢氏の守護神をも兼ね
永正3年 時の城主 大沢和泉守吉正の弟 大沢治郎左衛門正継が 出家の折 奉納した愛刀村正は 現在神刀として保存されている
永禄10年鵜沼城は落城し 織田領となり天正12年小牧長久手の戦に船頭がしら河村惣六は 豊臣軍に加勢して兵の渡河に協力 その功により馬五頭と河川の特権を与えられ秀吉花印の書状を授かり 之を奉納し 当社の宝物となっている 惣六は喜んで村中氏子の同意を得 現在地に神殿を造営奉遷し 現在に到っている
一番古い棟札はそのときのもので村国真墨田神社と社名が固定したのは安政以降である境内 石碑文より
【由 緒 (history)】
村國真墨田神社は、美濃國一宮の南宮大社(不破郡垂井町)の主神金山彦命(かなやまひこのみこと)と、尾張一宮の真清田神社(愛知県一宮市)の主神天火明命(あめのほあかりのみこと)
さらに後になって、この地を支配していた地方豪族 村國氏の中より、天武元年(672)に起こった壬申の乱の際、大海人皇子(おおあまのおうじ後の天武天皇)に味方して功績をあげた村國男依(むらくにのおより)を、その後祭神として合祀し、古くから鵜沼の地の産土神として里人の崇敬を集めていました。その社名は、十世紀初頭の法典である「延喜式」(えんぎしき)の中の一巻である「神名帳」の中にも見出される、美濃國式内社の一社であります。
又、当時の神社は 現在の場所から数百メートル南の木曽川ぞいに有ったと伝えられ、その場所は現在は御旅所となっています。
その後、時代は下って戦国時代になり、神社は当時の武将大沢氏一族の守護神となり、その居城 鵜留摩(うるま)城(現鵜沼南町城山)の外堀外部に位置していましたが、永禄年間(1558-1570)織田信長の美濃侵攻によって大沢氏は城を追われ、鵜沼地方は織田家領となり、更に天正12年(1584)小牧長久手の戦いにおける羽柴秀吉の犬山攻めに際して、この地の有力者であった河村惣六なる人物が秀吉に協力して恩賞を挙げた折、許可を得て現在の場所に神社を遷宮し現在に至っています。
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・護国神社(gokoku Shrine)
《主》護国の英霊
・金毘羅社(Kompira sha)
・恵比寿大黒社(Ebisudaikoku sha)
・末社六社 (天満社・秋葉社・雨之宮社・山神社・洲原社・御鍬社)
・真墨田稲荷神社(Masumita inari Shrine)
《主》宇迦之御魂神(ukanomitama no kami)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)美濃国 39座(大1座・小38座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)各務郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社名 ] 村国真墨田神社
[ふ り が な ](むらくにますみたの かみのやしろ)
[How to read ](Murakuni masumita no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用 国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
金弊社(kimpeisha) について
写真の右下に「金弊社」の石碑
岐阜県での 特有の「社格制度(shakaku seido)」とされています
村国真墨田神社(Murakuni masumita Shrine)は 金弊社(kimpeisha)となっています
日本では 明治維新の以降に『延喜式』に倣って
新たに神社を等級化した制度として「近代社格制度(kindai shakaku seido)」が制定されました
(明治4年5月14日(1871年7月1日)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」)
しかし 第二次世界大戦後に廃止されました
(昭和21年(1946年)2月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に廃止)
その結果 全国の神社は 一律に社格制度は無くなりましたので 社格の上では どの神社も同格になりました
この時 GHQの干渉を恐れて 全国では 石の社名標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多くあります
岐阜県では
戦後に 上杉一枝氏(1893-1975)が 岐阜県神社庁長官であった時に
どの神社も 社格が一律であるのは 如何かと「・金弊社・銀弊社・白弊社・無格社」の4つに分類しました
これが 岐阜県内の神社で 定められた特有の神社の社格制度です
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
高山本線 鵠沼駅から 西へ500m程度 徒歩約5分
名鉄各務原線の 新鵠沼駅から来ると 北西へ約400m
高山本線の踏切を渡り終えると 線路沿いに左折すぐ
その曲がり角に大きな案内看板「金幣 村國真墨田神社 入口」があります
村国真墨田神社(Murakuni masumita Shrine)に参着
背の高い玉垣には 奉納額と奉納氏名が刻まれていて その境内には 神馬の像があります
社頭には 社号標「郷社 村國眞墨田神社」と刻まれていて 注連縄の掛かる鳥居が建ちます
鳥居をくぐり抜けると
すぐ左手には・真墨田稲荷神社(Masumita inari Shrine)《主》宇迦之御魂神(ukanomitama no kami)の朱色の鳥居が続きます
ちょうど 祭り当日の朝でしたので 氏子の方々が紅白幕を張ったり 忙しそうに準備をされています
今まで見たことはなかったので判りませんが 奉献酒を稲わらで持てるようにしています 樽酒を奉献氏名とともに 奉ってあります
幟旗「奉納 村國眞墨田神社」が 境内にたなびいています
朝日の差し込む中 拝殿の前では 準備をされている氏子の皆さんが一斉にお詣りをされて 祭りの飾り付けのようです
その後 本殿の飾り付けが開始されましたので 本殿まわりには近づけません
本殿の向かって左下にある鳥居をくぐり金毘羅社(Kompira sha)からお詣りをします
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
すぐ横には「神馬」の石碑があり その奥には護国神社(gokoku Shrine)《主》護国の英霊があり その場からお詣りをします
祭りの足場などがあり 境内社側には近づけそうにもありません
境内から本殿に再度一礼をします
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
天武元年(672)に起こった壬申の乱で活躍した
御祭神 村国男依(murakuni no oyori)について
各務原市(かかみがはらし)のHPには 御祭神について 書かれています
古代最大の内乱 村国男依が 大活躍
「大化の改新(たいかのかいしん)」で知られる天智天皇(てんじてんのう)の死後、古代最大の内乱が起こりました。天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と、息子・大友皇子(おおとものおうじ)が、次の天皇をめぐり争った「壬申の乱」です。
672年に起きたこの争いで活躍したのが、各務原の豪族(ごうぞく)、村国男依(むらくにのおより)。大海人皇子の命により、わずか数日で美濃(みの)の兵士3,000人を集めた男依は、日本の東西を分ける重要な場所、後の「天下分け目の合戦(かっせん)」の場ともなった関ヶ原(せきがはら、現在の岐阜県関ケ原町)を抑えると、その後も将軍(しょうぐん)として数々の戦いに勝ち、大海人皇子に勝利をもたらしました。
乱の後、大海人皇子は天武天皇(てんむてんのう)となり、活躍した男依らには、ほうびが与えられました。男依には、最も多くのほうびと高い位(くらい)がおくられ、壬申の乱での男依の活躍がいかに優れていたかが分かります。
Let’s GO! 行ってみよう
村国神社
市内には、「村国」の名が付く神社が2カ所あります。各務おがせ町の「村国神社」と、鵜沼山崎町の「村国真墨田(ますみだ)神社」です。どちらも平安時代(へいあんじだい)の書物に登場する歴史ある神社で、村国男依を神様としてまつっています。
(所在地 各務おがせ町)
村国真墨田神社(Murakuni masumita Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)