〈尾張國一之宮〉真清田神社(一宮市真清田)〈尾張開拓の祖゛天火明命゛を祀る〉

真清田神社(ますみだじんじゃ)は 尾張一之宮として2600有余年の歴史を誇ります 社伝によれば 尾張氏祖神とされる天火明命Ameno hoakari no mikoto)」が 大和国「葛城の高尾張邑(katsuragi taka owari mura)(現・奈良県葛城地方)を出て 神武天皇33年3月3日に 当地で鎮祭されたのが始まりとしています

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

真清田神社Masumida Shrine)
ますみだじんじゃ

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (location) 

愛知県一宮市真清田1丁目2−1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天火明命Ameno hoakari no mikoto)

※古くは 国常立尊(kunino tokotachi no mikoto)
大己貴命(onamuchi no mikoto) などが御祭神とされました

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

国土開拓の神 God to pioneer the country
産業守護の神 God properly protects and nurtures industry

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳Engishiki jimmeicho)所載社(名神大)
・ 尾張國一之宮Owari no kuni ichinomiya)
・ 別表神社

【創  (Beginning of history)】

創建は不詳

社伝によれば 御祭神「天火明命(Ameno hoakari no mikoto)」が 大和国「葛城の高尾張邑(katsuragi taka owari mura)」(現・奈良県葛城地方)を出て 神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとしています

御由緒

神社名 真清田神社
  天火明命
鎮座地 愛知県一宮市真清田1- 1
例祭日 4月3日(桃花祭)

当社は尾張国一宮にして、
祭神 天火明命は 天孫瓊々杵尊の御兄神に坐しまし 国土開拓、産業守護の神として御神徳弥高く、この尾張国はもとより 中部日本 今日の隆昌を招来遊ばされた貴い神様であります。

境内案内板より

-

【由  (history)】

真清田の由来

当社の鎮座する一宮市は、古くは木曽川の流域に沿っていました。流域は常に文化の形成に大きな役割を果たします。一宮の発展にも、木曽川の恩恵があります。
今でこそ、繊維の街として有名ですが、もともとこの地域は、木曽川の灌漑用水による水田地帯として、清く澄んだ水によって水田を形成していたため、真清田(ますみだ)と名付けられたといわれています。

真清田の歴史

当社は、平安時代、国家から国幣の名神大社と認められ、神階は正四位上に叙せられ、尾張国の一宮として、国司を始め人々の崇敬を集めました。
鎌倉時代には、順徳天皇は当社を崇敬され、多数の舞楽面をご奉納になりました。
その舞楽面は、現在も、重要文化財として当社に保存されています。

江戸時代には、徳川幕府は神領として、朱印領333石を奉りました。また、尾張藩主徳川義直は、寛永8年(1631)当社の大修理を行う等、崇敬を篤くしました。
明治18年には国幣小社、大正3年に国幣中社に列し、皇室国家から厚待遇を受けました。

戦後は、一宮市の氏神として、一宮市民はもちろん、尾張全体及び近隣からも厚い信仰心を寄せられ今日に至っています。

尚「一宮市」の名称も当社が尾張国一宮であることに由来しており、全国で「一宮」の名称を冠する自治体は1市6町に及びますが、市制のひかれている自治体は当社の鎮まります一宮市のみとなります。

真清田神社 公式HPより

【境内社 (Other deities within the precincts)】

摂社
三明神社Sammyo Shrine)
《主》本宮の荒魂(hongu no aramitama)
服織神社Hatori Shrine)
《主》万幡豊秋津師比売命(yorozu hata toyoakitsushi hime no mikoto)

末社
神明社Shimmei sha)
《主》天照大神(amaterasu okami)
三末社Sammassha)
(・天神社・犬飼社・愛鷹社)
愛宕社Atago sha)
《主》訶遇突神(kagutsuchi no kami)
須佐之男命社Susanowo no mikoto sha)
《主》須佐之男神(susanowo no kami)
秋葉社Akiba sha)
《主》訶遇突神(kagutsuchi no kami)
大門稲荷社Daimoninari sha)
《主》宇迦之御魂神(ukanomitama no kami)
厳島社Itsukushima sha)
《主》市杵島姫命(ichikishimahime no mikoto)
八龍神社Hachiryu Shrine)
《主》高龗神(takaokami)
三八稲荷社Sampachiinari sha)
《主》宇迦之御魂神(ukanomitama no kami)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張国 121座(大8座・小113座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)中島郡 30座(大3座・小27座)

[名神大 大 小] 式内名神大社

[旧 神社 ] 眞墨田神社(名神大)
[ふ り が な  ](ますみたの かみのやしろ)
[How to read ]Masumita no kamino yashiro)

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神「天火明命Ameno hoakari no mikoto)」について

「天火明命(Ameno hoakari no mikoto)」は 記紀神話の『古事記』での呼び名で
他の書では様々に呼ばれています

『古事記』
天火明命(あめのほあかりのみこと)

『日本書紀』
天照國照彦天火明尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと)
・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)
・彦火明命(ほあかりのみこと)
・火明命(ほあかりのみこと)

『先代旧事本紀』
・天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

明治神社誌料など
・膽杵磯丹杵穂命(いきしにほのみこと)
・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

尾張氏・津守氏 ・ 海部氏・丹波氏など多くの氏族の祖神とされています

「葛城の高尾張邑(katsuragi taka owari mura)」について

創建は不詳ですが
社伝によれば 御祭神「天火明命(Ameno hoakari no mikoto)」が 大和国「葛城の高尾張邑(katsuragi taka owari mura)」(現・奈良県葛城地方)を出て 神武天皇33年3月3日に当地で鎮祭されたのが始まりとしています

この「高 尾張 邑(taka owari mura)」が 尾張(owari)の地名の由来とも言われています
「高 尾張 邑(taka owari mura)」は 尾張(owari)氏の大和での本拠地であったともされていて ここから尾張地方に移住したとされています

「高 尾張 邑(taka owari mura)」に鎮座する
 高天彦神社(御所市)の記事をご覧ください

 

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社に 何度か ご参拝した時の様子をご紹介します

尾張一宮駅 東出口から 本町通り経由 約850m 徒歩11分程度
本町通りアーケードを抜けて

上本町通りの 真清田神社の信号を渡ればその先が境内です

真清田神社Masumida Shrine)に参着

楼門の前は 広場のようになっていて 社号標「真清田神社」と鳥居が建ちます

楼門の手前には 反橋(太鼓橋)があります

昭和20年(1946)に古い御社殿が戦災で焼失 昭和32年(1957)に本殿以下諸社殿が再興されて 昭和36年(1961)に楼門が再興されました

楼門の大戸には 見事な御神紋があります 竹で囲まれている笹葉

楼門をくぐると広い境内となり 直ぐ左手には 手水舎があり 清めます

この手水舎は 昭和20年(1946)7月28日の空襲において焼失を免れていて 「吐水龍」は 寛永8年(1631)初代尾張藩主 徳川義直公奉納によるもの(現在はレプリカ)です

吐水龍の記

尾張国一之宮に鎮り座す 真清国の大神は、濃尾平野開拓の祖神であり、庶民産衆の守護神であります。
古来旱天、驟雨には、毎時熱烈なる祈雨祈晴の祈願が籠められ霊験あらたかな宮として諸人渇仰の的であった。
「臥雲日件録」によれば、畏くも醍醐天皇は、その御宇 大旱に際し、弘法大師をして 雨乞の祈祷をなさしめられ、大師は龍神に祈って大雨を得たが、この龍神は真清田神社の森林中に鎮つたと伝え「塩尻」には大龍命、姫龍命を配祀すると記し、
「真清深桃集」には 尊神鎖座のとき八頭八尾の大龍に乗りたまふと見え、
「一宮伝記」には下馬橋辺に於て 夜毎龍灯が顕れたことを記された等、当社の境内に龍神がましますという信仰は、古くから広く民衆の間に語り継がれている。
寛永8年(1631)尾張藩祖 徳川義直(源敬公)は、当社の社殿を悉く修造せられ、祈雨祈晴の龍神の象徴として、古代の名作青銅の吐水龍を奉納し、永く五毅豊穣、天下泰平を祈祷せられた。

以来歴代の藩主は、当社を尊信すること厚く屡々晴雨の祈祷を籠められた。

然し この吐水龍は、350有余年の永きに渡り風雨に晒されながら厳然としてまいりましたが、裂傷が進み、修復が困難と成り やむなく現今の吐水龍の複製を図り、平成8年丙子正月(1996)従前と変わらぬお姿を手水舎盟磐の上に示現し厳めしい頭を擡げ日夜滾々と清冽の麗水を吐いて賽者の身魂を清め續けることになりました。

案内板より

中央には 御本殿・拝殿が建ちます

拝殿にすすみます 

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

本殿に向かって左手には 神水舎があり 皆さんが霊水を汲まれています

社殿の向かって右側には 服織神社(Hatori Shrine)が建ちます
立て看板があり

服織神社のご祭神
ご祭神は「萬幡豊秋津師比売命」(よろずはたとよあきつしひめのみこと)と申し、真清田神社のご祭神「天火明命」の母神で、別名七夕祭の織姫「棚機姫神」(たなはたひめのかみ)と云われております。
このことから、この地方の地場産業の「織物の神様」として古くより信仰を集めておりますが、昨今、七夕伝説より「縁結びの神様」として、若い女性の信仰を集めるようになりました。

昭和40年(1965)に摂社として造営された

服織神社Hatori Shrine)
《主》万幡豊秋津師比売命(yorozu hata toyoakitsushi hime no mikoto)が鎮座しています お詣りをします

由緒書きがあります

御由緒

 一、神社名 服織神社
 一、祭神名 萬幡豊秋津師比売命
 一、例 祭 11月2日
   おりもの祭
   七夕まつり 7月 4日曜日前后
   月次祭 毎月15日

 一、御由緒
 御祭神は 本社御祭神 天火明命の御母神で伊勢の皇大神宮の相殿神として、天照大神と御同殿に御座します御神格の高い神様で、古くより織物の守護神として 総ての織物を生地の上からも 柄の上からも これを立派に且つ精巧に 作り上げることを 御守護奨励される神として 広い信仰を受けられた 尾張地方の織物業が発展したのも 御祭神の御加護によるものであります。
又、裁縫、書道、技術工芸、芸能、縁結び、安産等にも深い信仰がある貴い神様であります。

拝殿の扁額には「羽織大神」とあります

他の境内社にお詣りをします
楼門の横の塀沿いに 稲荷がありましたのでお詣りをします

鳥居の先に 幟旗「正一位 富島稲荷大明神」とあります

社務所・授与所があり お受けします

社殿に一礼してから 楼門をくぐり出ます

振り返り 楼門を眺めます

鳥居の先には 町明かりが続いています

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社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『尾張名所図会(Owari meisho zue)』に記される伝承

真清田神社(Masumita no kamino yashiro)と記されていて
「境内全体を俯瞰した挿絵」「中島郡」「一之宮村」「神階位」「鎌倉時代中期の女流歌人(1222~1283年)阿佛尼(abutsuni)の一之宮詣での図」「境内末社」「神宝の絵」「境内の古図」「五百箇御統(iotsu misumaru)の図」「社領」「例祭」について 丁寧な説明がなされています

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『尾張名所図会』選者:岡田啓/選者:野口道直/画家:小田切春江 [書誌事項]刊本 ,明治13年[旧蔵者]太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局

『六国史(rikkokushi)』には 神階 奉授 の 上昇過程が記されます

『続日本後紀(shoku nihon koki)』承和14年(847)11月癸酉(11日)条に記される伝承

尾張国を代表する 2つの神社
「大縣神社(oagata Shrine)」と「真清田神社(Masumida Shrine)」に 無位から従五位下を奉授しています

意訳

承和14年(847)11月癸酉(11日)条
奉レ授二 尾張国の 無位「大縣天神」と「真清田天神」の神二前に 並 従五位下を奉授

『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』仁寿元年(851)11月辛巳(13日)条 に記される伝承

尾張国を代表する 2つの神社
「大縣神社(oagata Shrine)」と「真清田神社(Masumida Shrine)」について

意訳

仁寿元年(851)11月辛巳(13日)条
詔(mikotonori)によって 尾張国の2つの社「真清田」「大県」の両神を
官社に列します

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省

『日本文徳天皇実録(nihon montokutenno jitsuroku)』仁寿3年(853)5月辛亥(22日)条に記される伝承

尾張国を代表する 2つの神社
「大縣神社(oagata Shrine)」と「真清田神社(Masumida Shrine)」について

意訳

仁寿3年(853)5月辛亥(22日)条
尾張国の 従五位上の「真清田神」と併せて 従五位下の「大県神」 並んで 従四位下を授る

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省

『日本三代実録(nihon sandai jitsuroku)』貞観7年(865)7月26日乙巳条に記される伝承

意訳

貞観7年(865)7月26日乙巳条
神階を進めるのは
美作国 従四位下の「仲山 ちゅうさん」(中山神社)に 神階を加え 従三位

けるのは
尾張国 従四位上の「真清田神」(真清田神社Masumida Shrine))を 正四位上

信濃国 正六位上の「名立神」(名立神社)
備前国 正六位上の「神根神」(神根神社)
壱岐島 正六位上の「見上神」(見上神社)
「真賀山神」(??)
等を 並従五位下

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫

真清田神社Masumida Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

尾張一之宮Owari no kuni ichinomiya)は もう一社あります
大神神社Omiwa Shrine)の記事もご覧ください

 

尾張の総社とされる
国府宮の尾張大国霊神社の記事もご覧ください

 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)には 真清田神社との関連が指摘される 美濃国各務郡「村国真墨田神社」(岐阜県各務原市)があります
村国真墨田神社の記事をご覧ください

 

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尾張国 式内社 121座(大8座・小113座)について に戻る       

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-全国 一の宮("Ichinomiya" all over Japan)
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