調神社(つきじんじゃ)は 社伝『調宮縁起』によれば 第九代 開花天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建 第十代 崇神天皇の勅命により 神宮斎主 倭姫命が参向 此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられたと伝わります 延喜式内社 武蔵國 足立郡 調神社(つきの かみのやしろ)とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
調神社(Tsuki shrine)
【通称名(Common name)】
・調宮(つきのみや)
・つきのみやさま
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県さいたま市浦和区岸町3-17-25
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天照大御神(あまてらすおほみかみ
《配》豊宇氣姫命(とようけひめのみこと)
素盞嗚尊(すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒 畧記
当社は天照大御神、豊宇気姫命、素盞嗚尊の三柱を祭神とする
延喜式内の古社にして 古くより朝廷及び武門の崇敬篤く
調宮縁起によれば 第九代 開花天皇乙酉三月 所祭奉幣の社として創建され
第十代 崇神天皇の勅命により
神宮斎主 倭姫命が参向 此の清らかな地を選び神宮に献る調物を納める御倉を建てられ 武総野の初穂米調集納蒼運搬所と定めらる、倭姫命の御伝により御倉より調物斎清の為め当社に搬入する妨げとなる為 鳥居、門を取拂はれたる事が起因となり 現今に到る。
現地立札より
【由 緒 (History)】
調宮神社(つきのみやじんじゃ)の由来
浦和駅の南西約500m、旧中山道東側に鎮座。
旧県社で御祭神は天照皇大神、豊宇気姫命、素戔鳴尊の三柱を祀る。社名を調(つき)神社。地元では「つきのみやさま」と愛称されている。
『調宮縁起』によれば、第十代崇神天皇の勅命により創建。調とは『租・庸・調』の調のようなもので、伊勢神宮へ納める貢(調)物の初穂を納めた倉庫群の中に鎮座していたと伝わる。(鳥居無きはその為と伝わる)平安時代に編纂された『延喜式』に記載される武藏國四十四座のうちの一社である。
中世、調が月と同じ読みから、月待信仰に結びつき、江戸時代には月讀社とも呼ばれ、月神の使いとされる卯の彫刻が旧本殿や現在の社殿に、狛犬の代わりに卯の石像が境内入口両側にある。
神域は約12,000平米。欅、銀杏の大樹が鬱蒼と茂る鎮守の杜と、江戸時代末に建立の権現造の社殿が、悠久の歴史を今に伝えている。毎年十二月十二日には『十二日まち』が開催。
神社では『かっこめ』を頒布、境内を中心に縁起物の熊手をはじめ様々な露店が立ち並び、近在からの人出で賑う。御利益は、運否天賦の「ツキはツキを呼ぶ」との謂れから、幸運を授かると信仰される。
※調神社の七不思議・鳥居がない、境内に松の木がない、御手洗池にすむ片目の魚、祭神の使い姫は兎、日蓮上人駒つなぎのケキキ、ハエがいない、蚊がいないの七つ。
意味不明のものが多いが、鳥居が無いのは、伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに邪魔になるから。また、日蓮上人駒つなぎのケキキには、文永8年(1271)上人が佐渡へ流される途中、難産に苦しむ土地の女性を救うため、駒をつないで祈ったといういわれがある。神社の御神木とされている。
神社頒布の用紙より
由緒
当社は延喜式内の古社にして、古より朝廷及武門の崇敬篤く「調宮縁起」によれば、第九代開化天皇乙酉3月(1700年前)所祭奉幣の社として創建され、第十代崇神天皇の勅使倭姫命が当国高鼻郷の岸の清らかな岡を選び調物を納める御倉を建てられ、武蔵野(武蔵、上総、下総、上野、下野国即ち関東一円)の初穂米、調集納蒼運搬所と定められる。
延長5年左大臣菅原道眞参向、神社調ノ上延喜式内国祭として奉幣使来拝社と定められる(延喜の制国幣小社)寳亀2年辛亥6月20日(1200年前)宮内小輔従五位下中臣朝臣常恣勅使奉幣を賜う。(現在行われている例大祭の起源、明治初期の暦の改正により7月20日に改む)※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・四柱神社・浅間神社〈本殿の奥〉
・授与所
・稲荷神社
・〈享保十八年(1733)に造営された 調神社の旧本殿〉
・調宮天神社
・金毘羅神社
・神楽殿
・祭器庫
・神池〈水を注いでいる兎〉
・手水舎゛兎の口から清めの水゛
・手水舎の裏手側 子ウサギを愛でる狛うさぎ〈蔓延二年(1861)奉納〉
・元 調神社宮司 吉田英一像 平成九年十月吉日建
・注連縄柱
・旧中山道に面した社頭 社号標゛縣社 延喜式内 調神社゛と゛狛うさぎ゛
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・日蓮上人駒つなぎのケヤキ
・第六天神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)足立郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 調神社
[ふ り が な ](つきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuki no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
調神社 ゛月待塔(つきまちとう)゛について
中世以降 調神社の社号を「調(つき)」と読む事から 民間信仰の月待信仰と結びついていき 江戸時代には゛月讀宮(つきよみのみや)二十三夜゛と呼ばれています
゛月待塔(つきまちとう)゛とは
特定の月齢の夜に集まり 月待行事を行った講中で 供養の記念として造立した塔で 月待信仰塔とも云い
江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました 中でも普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事で 二十三夜講に集まった人々の建てた二十三夜塔は全国の路傍などに広くみられます
二十三夜塔
旧暦23日の月待の記念として 二十三夜講中によって造立された塔で 二十三夜待は勢至菩薩を本尊とし 月待を行う日は 毎月23日 あるいは正月、5月、9月、11月の23日など 地方によって異なります 他の月待塔は地域による分布の偏りがあるのに対し 二十三夜塔は日本全国に分布しています 文字塔と刻像塔があり 刻像は勢至菩薩が多い 二十三夜待は「三夜待」「三夜供養」のように二十を省略して呼ばれることがあります
゛調神社の七不思議゛について
゛調神社の七不思議゛
1.鳥居がない
〈伊勢神宮への貢物を収める御倉であった時 倭姫命の命により 貢物の搬出入の時の妨げとなる鳥居・神門を取り払い 出し入れを容易にしたため〉
2.境内に松の木がない
〈一説に 須佐之男命(すさのをのみこと)が 大宮〈氷川神社〉へ出向かれて なかなか戻って来ない時 姉神の月讀命(つくよみのみこと)が「もうまつのは嫌だ」と云われたとの理由から〉
3.御手洗池にすむ片目の魚
〈ひょうたん池に魚を放すと魚が片目になると伝わる 現在ひょうたん池は無くなっています〉
4.祭神の使い姫は兎
〈中世に月待信仰と結びついた調神社 調(つき)の音が 月と同じであるので「つき」を「月」と考え 兎(ウサギ)を神の使いとする〉
5.日蓮上人駒つなぎのケヤキ
〈文永八年(1271)日蓮が佐渡へ流される途中 難産で苦しむ婦人を救うためこのケヤキに馬を繋ぎ 祈ったところ男子を無事出産したので 安産の守護神として今に信仰されている〉
6.ハエがいない
〈調神社の祭神が嫌うためと 境内の神聖さを示すとされるが 定かではない〉
7.蚊がいない
〈ハエと同じ理由〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR浦和駅西口から 旧中山道を南下して約850m 徒歩122分程度
中山道に面して 鳥居のない社頭があります
調神社(さいたま市浦和区岸町)に参着
注連縄柱の手前で一礼をして 境内に進みます
手水舎では 兎の口から出る水で清めます
拝殿前の木が 注連縄柱のようになっていて 再び一礼をして
拝殿にすすみます
拝殿には 樽酒の奉献酒
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
゛調神社の文化財゛について
・調神社旧本殿・扇面三十六歌仙絵・神輿鳳凰・調神社扁額・調宮縁起・境内林が さいたま市の文化財に指定されています
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 調神社について 浦和の宿はづれに在る゛シラベノ神社゛〈現 調神社(さいたま市浦和区岸町)〉 祭神は゛月讀尊゛と記しています
【抜粋意訳】
調(ツキ)神社
倊風
調神社 神田六十束 二字田雅 日本根子彦大日天皇 乙酉三月所祭 瀬織津比咩也 有神部巫戸式考
今 浦和の宿はづれに在を 調神社と額うちたり シラベノ神社と云へり
又 月讀尊と棟札打ち 月ノ神之とて廿三夜の祭など行ふ
別當 玉蔵院 御朱印の社領ありと云へり
〇信友按 ツキと称ふに依を 月讀尊と誣(しい)たる 之さて調の字の俗訓によりて シラベとよめる之 春村云 社地一圖に槻(けやき)の古木にて 頗る喬木(たかいき)あり 是によりて思ふに 調は槻の借字なり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
調神社(さいたま市浦和区岸町)について 浦和領 岸村の調神社と記しています
挿絵は 鳥居が無く 中山道から数段の石段を上がる社頭の様子は 現在と同じですが 鎮守の森には古木や大木が生い茂っています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之一百四十二 足立郡 巻之八 浦和領 岸村
調神社
社領七石を賜ふ 當社は 延喜式神名帳に足立郡調神社と載る所なりと云 されど祭神等すべて傳ふる處詳ならず
按に 武蔵風土記にも足立郡大調郷 或は大都幾調神社 神田六十束 二字田雅 日本根子彦大日天皇 乙酉三月所祭 瀬織津比咩也 有神部巫戸と載たるもの全く當社の事と見ゆ されど此風土記は後人の擬書なる由言傳れば 正しとも言がたし
又 土人の此邊の事跡を記せしものに 當社は 日の神 倉稲荷玉命の二座を祭る所にして 延元二年二月五日 那賀郡廣木村 吉原の城主 色大興寺入道範行と云し人再興して 神田五邑を附せしなど載たれど 此一色範行と云もの他に所見なし ことに延元の頃再興せしと云るも 式社のことをわきまへざる書ぶりなり がたがたうけがたし
又云 其後 貞和観應の頃 兵火にかかりて社頭破壊せしを 康暦年中 佐々木近江守持清又再造せしが それも両上杉戦争の地となり 次第に衰廃せしを小田原北條分国の時に再興ありしと記す されどみな左證とすべきものなし たとへ證すべきことありとも 是を以て式社の興廃を知るには足べからず
殊に 別當寺にては 近き頃まで月輪を祀りし社とのみ傳へたれば 古を知らざるもの附会せしなるべし 調の字の訓月に同じければ 後世 月待の宮として 又 愚民の信を得んがためにかく唱へしなるべし
今を以て考ふるに 當社の外 此郡中 調神社の名残と覚しきもの更になし 目撃する所を以て 古へを推には足らざれど 社地のさまいかにも神さび 数囲の樹木枯株などのとこせるを見れば 古社なる事は論なかるべし 今は社人も調の社といへば 恐らくは古へに復せしなるべし末社
石神社 稲荷を合祠せり
蔵王社 是も熊野を合殿とす
稲荷社
第六天社別當月山寺
新義真言宗 浦和玉蔵院末也 本尊愛染を安ず 開山詳ならず 昔は福壽寺にて當社を兼帯し 爰には庵を置て守らしめしを 後年一寺となして月山寺と號すと云り天神社
神體坐像にて 外に千葉介貞・・・・・
【原文参照】
『江戸名所圖會(Edo meisho zue)』〈1834~1836〉に記される伝承
調神社(さいたま市浦和区岸町)について 浦和 岸村にあって 月讀宮(つきよみのみや)二十三夜と呼ばれている と記しています
【抜粋意訳】
江戸名所圖會 巻之十三
〈本文〉
調神社(つきのじんじゃ)
浦和の驛より三町 計(ばかり) 此方 岸村と云ふあり
社は 街道より右に立せふ 今世に月讀宮(つきよみのみや)二十三夜と称せる 別當は 月山寺(げっさんじ)と号しく 浦和町の玉蔵院より兼帯を新義真言宗 三宝院宮に属す 例祭は九月廿日なり 社の向拝に掲る調神社(つきのじんじゃ)の額は 松平信定朝臣の筆跡なり祭神 月讀命一座 本地 勢至菩薩 此の本地佛によりて廿三夜の称あり
延喜式神名帳曰 武蔵國足立郡 調神社 云云
武蔵國風土記曰 足立郡大調郷 調神社 神田六十束 二字田雅 日本根子彦大日天皇 乙酉三月所祭 瀬織津比咩也 有神部巫戸 云云社記曰 當社は崇神天皇の勅願なり 後 建武三年 足利尊氏 凶徒追罸の宿願ありたるが霊應・・・・
〈挿絵〉
調神社(つきのじんじゃ)
延喜式内の神社なり 今誤って月讀廿三夜と称したり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 調神社について 中仙道浦和驛〈現 調神社(さいたま市浦和区岸町)〉にあり 祭神は゛瀬織津姫命゛である と記しています
【抜粋意訳】
調神社
調は都岐と訓べし
〇祭神 瀬織津姫命、風土記
○中仙道浦和驛に在す、地名記
例祭 月 日、
○惣國風土記七十七残欠云 武蔵國足立郡調神社 神田六十束二字田 稚日本根子彦太日天皇乙酉三月 所祭 瀬織津比咩也 有神戸巫戸社領
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 調神社について 浦和宿にあり゛月讀大明神゛と呼ばれている〈現 調神社(さいたま市浦和区岸町)〉 と記しています
【抜粋意訳】
調(ツキノ)神社
今 浦和宿に在り、世俗訛りて月讀大明神といふ、一宮巡詣記、山吹日記、行轟鈔
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 調神社について 岸村にあり゛月讀大明神社゛と呼ばれている〈現 調神社(さいたま市浦和区岸町)〉 と記しています
【抜粋意訳】
調神社
祭神 天照大御神
宇賀御玉神今按 本社社記に 伊勢大御神の末社に調御倉社ありて 祀る神を稲倉魂命とあるを思ふに 古へ国々に大御神の御戸代盛なりし程 その御調の初穂をとり収むる御倉なりしが 後に社となりけん 故に大御神と宇賀之御魂命を祭れるならんと云るが如くなるべし 故今之に従へり土俗に調をつきとよむより 月神とし二十三夜など云ふは いみじき誤りにて取にたらず
祭日 六月九月並二十日
社格 郷社(縣社)所在 岸村 字ツキノミヤ(北足立郡浦和町)(潔云 明治七年十二月浦和驛に合す)
今按 武蔵演露浦和驛の下に月讀大明神社 浦和領岸村 浦和宿鎮守二十三夜堂あり 調大明神とも云とあり
【原文参照】
調神社(さいたま市浦和区岸町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)