三井神社(みついじんじゃ)は 下鴨神社の本殿 すぐ左隣(西側)に鎮座する摂社です 奈良時代~平安時代この辺り一帯は蓼倉郷と呼ばれ 『山城國風土記』賀茂社の条「蓼倉里(たてくらのさと)三身社(みつみのやしろ)」とされます 延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(みゐの かみのやしろ)(名神大 月次 新嘗)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
三井神社(Mitsui shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京都市左京区下鴨泉川町59(下鴨神社 本殿向かって左側)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
東社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
中社 建角身命(たけつぬみのみこと)
西社 玉依媛命(たまよりひめのみこと)
《合祀》摂社 日吉社(中社)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 下鴨神社の境内攝社
【創 建 (Beginning of history)】
重要文化財
摂社 三井神社(みついじんじゃ)
合祀(ごうし)摂社(せっしゃ)日吉社(ひよししゃ)(中社)
例祭 三月七日
御祭神
東社 伊賀古夜日賣命(いかこやひめのみこと)
中社 建角身命(たけつぬみのみこと)
西社 玉依媛命(たまよりひめのみこと)延喜式内の大社で、『風土記(ふどき)』山城國 賀茂社の条に「蓼倉里(たてくらのさと)三身社(みつみのやしろ)」とあるのは この社のことです。
三社とも重要文化財。末社
諏訪社(すわしゃ)
小杜社(こもりしゃ) 末社合祀 沢田社(さわだしゃ)(中社)
白鬚社(しらひげしゃ) 河崎社(こうさきしゃ) 賀茂斎院神霊社(かもさいいんしんれいしゃ)(南社)現地立札より
【由 緒 (History)】
重要文化財
三井神社(みついじんじゃ)
江戸時代 寛永六年造替
東社 伊賀古夜日売命(いかこやひめのみこと)
中社 建角身命(たけつぬみのみこと)
西社 玉依媛命(たまよりひめのみこと)『風土記(ふどき)』山城國 賀茂社の条に「蓼倉里(たてくらのさと)三身社(みつみのやしろ)」、『延喜式(えんぎしき)』に「三井ノ神社」とある神社です。
奈良時代から平安時代にかけて、このあたり一帯は蓼倉郷と呼ばれていました。三身社とは、ご本宮の賀茂建角身命とその妻、伊可古夜日売、その子玉依媛命のことであり、三神がまつられています。「西側の末社」
重要文化財 諏訪社 建御方神
重要文化財 小杜社 水分神
重要文化財 白鬚社 大伊乃伎命 別名 猿田彦神平安時代の当神社 社頭絵図「鴨社古図(かもしゃこず)」に描かれている神社です。各社の位置などは現在なおかわりません。
これらの神社は 糺の森(ただすのもり)を禁足地とし、ご社殿前の斎庭(ゆにわ)が葵草(あおいそう)と苔庭など自然の中にまつられる、古代神社の姿を伝える貴重な神社です。
また、拝殿をはじめ棟門などすべてが重要文化財です現地立札より
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈本殿の向って左(西側)の三つの末社・諏訪社・小杜社・白鬚社〉
向って右(北側)から
・諏訪社《主》建御方神
諏訪社については 別記事を参照してください
式内社「愛宕郡 須波神社」
・諏訪社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社の境内に鎮座する 三井神社の境内社 諏訪社〉
・小杜社《主》水分神
・白鬚社《主》大伊乃伎命 別名 猿田彦神
・三井社 井戸屋形
重要文化財
白鬚社合祀(前方の末社)
賀茂斎院歴代斎王神霊社(かもさいいんれきだいさいおうしんれいしゃ)葵祭(あおいまつり)で知られる斎王(さいおう)は 弘仁元年(八一〇)嵯峨天皇の皇女 有智子(うちこ)内親王を初代として斎院の制が定められました。以降、後鳥羽天皇の皇女 禮子(いやこ)内親王の建暦三年(一二一二)御退位になるまで、約四〇〇年間三十五代にわたって葵祭などの祭祀を御奉仕になられました。『源氏物語』や『枕草子』など、華やかで優雅な姿を現在は葵祭の斎王代として伝えています。神霊社はもと当初より西方一帯に所在した賀茂斎院御所にまつられていたところ、応仁・文明の乱(一四六七)により社殿が焼亡したため、糺の森の鴨社神宮寺(かもしゃ じんぐうじ)境内へ御動座になっていましたが、大正十五年頃この社に合祭されました。
(前方の井筒)
三井社 井戸屋形(いどやかた)
御祭神 玉依媛命(たまよりひめのみこと)の御神水と信仰されているところから「御井(みい)」とよばれています。
現地立札より
・擬雪
「雪を欺く」と書き゛ぎせつ゛と読みます 第 119 代天皇 光格天皇〈明治天皇の曾祖父〉の命名と云ふ
「擬雪(ぎせつ)」
光格天皇は、江戸時代 寛政五年(1793)三月、御親拝になり御祭料を御奉献になった時、御遺愛の白玉椿の大樹を御神前に御奉献になりました。
花は中輪で半八重咲き、花色の白さは格別で雪にもまがうさまで「擬雪」と名付けられました。
しかし、長年の風雪に耐えず枯淡に達し、この度 平成27年の第34回 式年遷宮の奉祝記念として、三井グループの三井物産株式会社、株式会社三井住友銀行、三井不動産株式会社より 同種を旧地に植栽奉納になりました。
また、同椿は当神社 社家 鴨脚(いちょう)家と金工の名手であった後藤祐乗の屋敷(新町鞍馬口・擁翠園)にも下賜され、三井家に保存されていました。現地立札より
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
三井神社(京都市左京区下鴨泉川町)の境内は 下鴨神社の本殿の向かって左手となります
下鴨神社について 別記事を参照してください
・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市)
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇3 臨時祭 名神祭 二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉賀茂ノ別雷ノ神社一座 賀茂御祖神社二座 松尾神社二座 稲荷神社三座 貴布祢神社一座 鴨川合神社一座 御井神社一座 葛野月読神社一座 木嶋坐天照御魂神社一座 平野神社四座 梅宮神社四座 乙訓神社一座 酒解神社一座〈亦号ニ山崎ノ神ト、〉〈已上山城國〉
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)山城國 122座(大53座(並月次新嘗・就中11座預相嘗祭)・小69座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛宕郡 21座(大8座・小13座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 三井神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](みゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mii no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
上賀茂神社・下鴨神社について
往昔は 賀茂氏(かもうじ)の氏神を祀る 二つで 一つの神社として 賀茂社(賀茂神社)と総称していまた
二社は それぞれ・上賀茂神社を「上社」・下鴨神社を「下社」と呼ばれます
両社の御神紋 ゛葵(二葉葵)゛
二葉葵が神紋となっているのは 賀茂別雷神の御神託「葵を飾って祭りをせよ」があり 賀茂別雷神が 神山(こうやま)の頂上にある磐座(いわくら)にご降臨されたと伝わる事に依ります
賀茂祭が 葵祭と云われるのもこの為です
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社 亦若雷 名神大〈上賀茂神社〉
・〈上賀茂神社〉賀茂別雷神社(京都市)
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
『山城國風土記逸文』゛上賀茂・下鴨の両神社の御祭神゛にまつわる伝承
神武天皇東征の際に道案内をした
八咫烏(やたがらす〈三本足のカラス〉)は 賀茂建角身命とされます
賀茂建角身命は はじめ日向の曽の峰に天降ったが 神武天皇の東征の先導役として倭の葛城山に至った
そこから〈大和の葛城山〉から 更に山背〈山城国〉に移り 岡田の賀茂に至った
〈これが現在の岡田鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 相樂郡 岡田鴨神社(大 月次 新嘗)(をかたかもの かみのやしろ)
・岡田鴨神社(木津川市加茂町北鴨村)
賀茂建角身命は さらに 山代河〈木津川〉沿いを下り進んで 鴨川と桂川(葛野川)が合流する所に到った
〈これが現在の久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 乙訓郡 久何神社(くかの かみのやしろ)
・久我神社(京都市伏見区久我森の宮町)
賀茂建角身命は 賀茂河を御覧になり「狭い川だが清浄な川である」と言って「石川の瀬見の小川」と名付けた
〈合流地点は 現在の下鴨神社の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂御祖神社二座 並名神大〈下鴨神社〉
・〈下鴨神社〉賀茂御祖神社(京都市)
賀茂建角身命は さらに鴨川を遡り
久我國(くがのくに)の 北の山基(やまもと)に定(しづ)まり その地に鎮座した
賀茂建角身命は 丹波国の神野の神 伊可古夜日売(いかこやひめ)を娶って 兄の玉依日子と妹の玉依日売が生まれた
賀茂建角身の娘・玉依媛命が 「石川の瀬見の小川」の上流で 流れてきた丹塗りの矢を拾って持ち帰り 床の辺に挿しておくと懐妊し 御子〈賀茂別雷命〉を出産した
やがて御子〈賀茂別雷命〉が成長した時 祖父の賀茂建角身命が 八尋屋(やひろや)を造り 八戸の扉をたて 八腹の酒を醸し 神々を集めて7日7夜の酒宴を開いた
この時 祖父である建角身命が 御子に゛汝の父と思う神にこの酒を飲ませよ゛と命じると その御子〈賀茂別雷命〉は 盃をささげて天に向けて祭り 屋根の甍を突き抜けて天に昇ってしまった
〈現在の久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)の辺り〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)
・久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)
このことから御子神は 外祖父の御名によって賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)と名づけられた 丹塗りの矢〈即ち父神〉とは 乙訓神社の火雷神(ほのいかづちのかみ)であったと云う
延喜式内社 山城國 乙訓郡 乙訓坐 大(火)雷神社(名神大 月次 新嘗)(をとくににます おほいかつち(ほのいかつち)の かみのやしろ)の論社
・角宮神社(長岡京市井ノ内南内畑)
・向日神社(向日市向日町北山)
〈向日神社に合祀の火雷神社〉
・菱妻神社(京都市南区久世築山町)
御子神が天に昇り 残された賀茂建角身命 賀茂玉依比売命が再び御子に会いたいと乞い願っていたある夜 賀茂玉依比売命の夢枕に御子が顕れ 「吾れに逢はんとは 天羽衣•天羽裳を造り 火を炬き鉢を捧げ 又走馬を餅り 奥山の賢木を採りて阿礼に立て 種々の絲色を垂で また葵楓の蔓を造り 厳しく餅りて吾をまたば来む」とのお告げを聞き その御神託に従って神迎の祭をしたところ 立派な成人のお姿となり 天より神として神山に御降臨されたと伝わります
〈これが現在の上賀茂神社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂別雷神社(亦 若雷・名神大 月次 相嘗 新嘗)(かもわけいかつちの かみのやしろ)
・賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市)
又 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ) というのは 三身の神を祀る
その三柱は
・賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)
・丹波の伊可古夜日賣(いかこやひめ)
・玉依日賣(たまよりひめ)
この三柱神が 坐(まします)故に 三身社(みみのやしろ)と号(なづく) 今は三井社と云う
〈これが現在の三井社の創建〉
延喜式内社 山城國 愛宕郡 三井神社(名神大 月次 新嘗)(みゐの かみのやしろ)の論社
・三井社(京都市左京区下鴨泉川町)
〈下鴨神社 境内〉
・三井社(三塚社)
〈下鴨神社の 境内に鎮座する 河合神社の境内社〉
『釈日本紀(shaku nihongi)〈文永元年(1264)~正安3年(1301)〉』に記される伝承
『釈日本紀 巻九』に『山城國風土記逸文』が所引されています
【抜粋意訳】
巻九
山城國風土記(やましろのくに ふどき)に曰(いは)く
可茂社(かものやしろ)
可茂(かも)と稱(いふ)は 日向(ひむか)の曾峯(そのたけ)に 天降(あもり)坐神(まししかみ)賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり
神倭石余比古(かむやまといはれひこ〈神武天皇〉)の御前(みさき)に立坐(たちまして)
大倭(やまと)の葛木山之峯(かづらきやまのみね)に宿坐(やどりまし)彼(そこ)より 漸(よふやく)に遷(うつ)り
山代國(やましろのくに)の「岡田の賀茂」に至りたまひ 山代河〈木津川〉の隨下(まにまにくだり)まして 葛野河(かどのがは〈桂川〉)と賀茂河(かもかは)との會所(あふところ)に至坐(いたりまし)
賀茂川を見迥(はる)かして 言(の)りたまう「狹小(さく)あれども 石川の淸川(すみかは)なり」とのりたまう 仍名(よりてなづけて)曰(いは)く 石川の瀬見(せみ)の小川と曰(いふ)彼川(そのかは)より 上坐(のぼりまして)久我國(くがのくに)の北の山基(やまもと)に定(しづ)まりましき
爾時(そのとき)より 名を賀茂と曰(いふ)賀茂建角身命 丹波國(たにはのくに)の神野(かみの)の神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)に娶(あ)ひて 生子(うみませるみこ)の名は 玉依日子(たまよりひこ)と曰(いひ) 次を玉依日賣(たまよりひめ)と曰(いふ)
玉依日賣(たまよりひめ) 石川の瀬見の小川に川遊びし時 丹塗矢(にぬりや)が 川上より流下(ながれくだり) 乃(すなわ)ち取りて 床の邊(へ)に插置(さしおき) 遂に孕(はら)みて男子(をのこ)を生む
成人となる時に至り 外祖父(おほぢ)建角身命(たけつのみのみこと)は 八尋屋(やひろや)を造り 八戸扉(やとのとびら)を竪(たて) 八腹酒(やはらのさけ)を醸(か)み 神集(かむつどへ)集(つどへて)七日七夜(なぬかななよ)樂遊(うたげ)したまひ
然(しかして)子と語らひて 言(のり)たまひ「汝(いまし)の父と思はむ人に 此の酒を飮ましめよ」とのりたまへば 即(やが)て 酒坏(さかづき)を擧(ささげて)天(あめ)に向き祭(まつ)らむと為(おも)ひ 屋甍(やのいらか)を分穿(わけうがち)天(あめ)に升(のぼ)りき乃(すなはち)外祖父(おほぢ)の名に因(よ)りて 可茂別雷命(かもわけいかつちのみこと)と號(なづく)
謂(いはゆる)丹塗矢(にぬりや)は 乙訓郡(おとくにのこほり)の社(やしろ)に 坐(いませる)火雷神(ほのいかつちのかみ)なり
可茂建角身命(かもたけつのみのみこと)丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)三柱(みはしら)の神は 蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)に坐(います)
又曰(またいはく)
蓼倉里(たでくらのさと)三井社(みゐのやしろ)と稱(いふ)は 三身の神 賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)なり 丹波(たには)の伊可古夜日賣(いかこやひめ)玉依日賣(たまよりひめ)なり
三柱神が 坐(まします)故に 三身社と號(なづく)を 今漸くに三井社と云う
【原文参照】
この伝承について 更に知りたい方は
『賀茂注進雑記』釈注と口語訳素案 賀茂県主同族会歴史勉強会を参照されると良いと想います
http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/9/4.pdf
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
三井神社は 賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の本殿に向かって左(西側)に鎮座してます
下鴨神社については 別記事を参照してください
・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉(京都市左京区下鴨泉川町)
賀茂御祖神社〈下鴨神社〉の西鳥居をくぐり抜けると すぐに三井神社の拝所となります
三井神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社の境内攝社〉に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 三井神社(名神大月次新嘗)について 所在は゛下鴨村川合社門前 北面に三社並び在す、゛〈現 三井社〈三塚社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〉と記しています
【抜粋意訳】
三井神社(名神大月次新嘗)
三井は假字也
○祭神 建角身命、伊可古夜日女、玉依日女、〔風土記〕
〇下鴨村川合社門前 北面に三社並び在す、〔山城志〕
○式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、山城國 御井社一座、
○御祖社の末社也
〇山城風土記云、〔釋日本紀所引用〕蓼倉里、三身社者、賀茂建角身命也、丹波伊可古夜日女也、玉依日女也、三柱神身坐故、號ニ三身社、今訛云ニ三井社、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 三井神社(名神大月次新嘗)について 所在は゛今 河合社の南にあり、下鴨の摂社とす、゛〈現 三井社〈三塚社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〉と記しています
【抜粋意訳】
三井(ミヰノ)神社
〔〇按 延喜臨時祭 式三を御に作る〕
昔 蓼倉里にあり、〔釋日本紀〕
今 河合社の南にあり、下鴨の摂社とす、〔國華万葉記、神名帳考証、賀茂注進雑記、山城式社考、〕
賀茂建角身命也、神伊可古夜比賣、玉依比賣 三柱神を祭る、故に三身社と號く、今 三井社と云は訛れる也〔釋日本紀引山城風土記〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、月次新嘗祈年案上の幣に預る、〔延喜式〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 三井神社(名神大月次新嘗)について 所在を二ヶ所挙げています
一つは ゛下鴨村 御祖神社西゛〈現 三井社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社 境内〉〉
一つは ゛今 河合社中門の外に三井社あり゛〈現 三井社〈三塚社〉(京都市左京区下鴨泉川町)〉と記しています
【抜粋意訳】
三井(ミヰノ)神社(名神大月次新嘗)
祭神 賀茂建角身(カモタケツヌミノ)命
丹波伊賀古夜日賣(タニハカムイカコヤヒメノ)命
玉依媛賣(タマヨリヒメノ)命今按 釋日本記に引る 山城風土記に
蓼倉(タテクラ)ノ里、三身(ミミ)ノ社ハ者、賀茂建角身ノ命也、丹波ノ伊可古夜日女也、玉依日賣也、三柱神ノ身坐ス故、號ニ三身社、今訛テ云ニ三井社 とあるにて 祭神明らか也祭日
社格 賀茂御祖摂社所在 下鴨村 御祖神社西
今按 京都府式社考証に當社 昔蓼倉里にあること風土記にて著し 夙に廃れて神社の舊地も分明ならず
今 河合社中門の外に三井社あり 名勝志にも是ならんと云へど 此社 或は三塚社とも稱して 尋常のー小祠なれば 然らず 卸祖神社の説に本社の西に鎭座せる三所社 是なりと云り 此社に同社の古文書に 延文二年正月十四日云々 三所権祝某云々又同社に家の古書に鴨御祖太神宮道替遷宮 正殿壹宇分要木云々三所社宇分要木云々 元應二年庚申八月日などとみえたる社にして 當時既に今地に鎭座し御祖の摂社なりと知られたり
凡両賀茂の攝社は多く式内に預らざるものなきを以て推すに 三所則三井より變ずる稱にして 蓼倉里より 今地に遷せるなるべしと云るに従ふ
【原文参照】
三井神社(京都市左京区下鴨泉川町)〈下鴨神社の境内攝社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)