飛騨一宮 水無神社(高山市一之宮町)【前編】

水無神社(みなしじんじゃ)は 飛騨國一之宮として 諸願成就を祈る人の姿が絶えず 飛騨高山一円の里人が「心の拠り所」として信仰しています  御祭神は 「水無大神(minashi no okami)」として 主祭神と十四柱の相殿神を奉祀しています

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目次

 

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name)】

 水無神社(minashi shrine)
 (みなしじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

  飛騨一宮 水無神社(hida ichinomiya minashi jinja)

【鎮座地 (location) 】

 岐阜県高山市一之宮町5323

 [地 図 (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

御祭神は 主祭神と十四柱の相殿神を「水無大神(minashi no okami)」として奉祀

《主》御歳神(mitoshi no okami)

《配》 (外十四柱の神々)
   大己貴命(onamuchi no mikoto)
   三穂津姫命(mihotsu hime no mikoto)・ (大己貴命の后神)
   応神天皇(ojin tenno)
   高降姫命(takamine hime no mikoto)・・(大己貴命の后神)
   神武天皇(jimmu tenno)
   須沼比命(unumai no mikoto)・・・・・ (大己貴命の后神)
   天火明命(ameno hoakari no mikoto)・・(尾張国造の祖神)
   少彦名命(sukunahikona no mikoto)
   高照光姫命(takateru hime no mikoto)・(大己貴命の姫神)
   天熊人命(ameno kumahito no mikoto)
   天照皇大神(amaterasu sume okami)
   豊受姫大神(toyoke hime no okami)
   大歳神(otoshi no kami)
   大八椅命(oyagi no mikoto)・・・・・・(飛騨国造の祖神)

【御神格 (God's great power)】

生命、特に農作物に実りをもたらす「作神(saku gami)様」として
・農耕の祖神・養蚕・畜産の守護神・延命長寿(健康長寿)

分水嶺に鎮座する「水分神(mimakuri no kami)」として
・子授け・安産・育成

交通の要衝に鎮座する「交通神」として
・交通安全・旅行安全

主祭神の「年神(toshi gami)」から
・家内安全・商売繁盛・開運厄除

「生きびな祭」の由縁から
・女性幸福(良縁など)

【格 式 (Rules of dignity) 】

・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・飛騨國一之宮
・別表神社

【創 建 (Beginning of history)】

社伝に 創始年代は神代にあり

神代の昔より表裏日本の分水嶺位山に鎮座せられ、神通川、 飛騨川の水主、また水分の神と崇め農耕、殖産祖神、交通の守護 (道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり。

歴代朝廷の崇敬厚く、御即位、改元等の都度霊山位山の一位材を 以って御用の笏を献上する。

明治維新、国幣小社に列し、旧来より飛騨一宮として国中の総社(総座) なり。本殿以下二十余棟建築凡七百坪は昭和十年起工、国費 を以って改築せらる。

飛騨はもとより美濃、越中、木曽に及んで分社、縁社二十余社を 有する。

境内案内板より抜粋

【由 緒 (history)】

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古来、飛騨国一ノ宮として名高く、創始年代は神代にありと社伝にもあるが詳らかではない。史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867)神位を授けられた記事にはじまる。

中世鎌倉時代には 社領は付近18ケ村に達し、社家12人と社運が隆盛であったが、戦乱にかかわって荒廃をみた。

江戸時代に入って歴代の領主、代官、郡代(天領時代)の尊崇をうけ、また、一般の厚い信仰にささえられ、明治4年5月14日、太政官布告によって国幣小社に列せられ、昭和10年より国費をもって10年の歳月を要する造営がなされ今日の社殿が完成した。

昭和21年2月官制廃止後は神社本庁に所属し現在におよぶ。

社名の水無は『みなし』(水成)または、『みずなし』とも読み、俗に『すいむ』と音読することもあるが、水主の意味である。

社前を流れる宮川の川床があがり、流れは伏流して水無川となり、水無川、水無瀬河原、鬼川原(覆ケ川原)の地名となっている。

この宮川の源流位山は日本を表裏に分ける分水嶺になっており、水主の神の坐す神体山として当神社の奥宮と称している。

この霊山には 一位(櫟)の原生林があり天然記念物とされ、平治元年(1159)には飛州一宮神主から位山の一位の御笏を献上したことがみえるのをはじめ、一宮神領、位山の一位をもって謹製した笏を歴代天皇御即位に献上するのが例となって今日に至っている。

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]

【境内社 (Other deities within the precincts)】

奥宮
・位山(御神体) 7月29日 奥宮祭

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神門の内側 拝殿の左右回廊
・八十八社(飛騨国中の主要な神々と産土神)

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社殿向かって右手
・飛騨 一宮稲荷社

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境内左手
・祖霊社
・慰霊塔
境内右手
・白川神社

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霊峰白山(二七〇二メートル)飛騨側の山麓にひらけた集落大野郡白川村は 合掌造りの里として世界遺産に登録されていますが、その白川村大字長瀬(通称秋町)と同福島の両集落は 昭和三十二年(一九五七)御母衣電源開発がはじまり ダム湖底にしずむことになり氏子も離散、それぞれの集落にあった氏神 白山神社を飛騨国一宮(総座)の地に御遷座、両神社を合祀し白川神社として創建した。

平成十五年十二月吉日 

玉垣改修を記念し識 飛騨一宮水無神社 白川村秋町福島氏子

案内板より

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)飛騨国 8座(並小)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)大野郡 3座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社名 ] 水無神社
[ふ り が な ] (みつなしの かみのやしろ)
[How to read ](mitsunashi no kamino yashiro) 

https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

農民一揆「大原騒動(ohara sodo)」(1771~1788)について

「大原騒動(ohara sodo)」は 江戸時代に勃発した飛騨一円を巻き込む18年間に渡る一大農民一揆です

幕府方の飛騨高山代官「大原彦四郎紹正」は 武力で徹底的な鎮圧をします 農民側の犠牲は多大で 神主ともども多くの農民が非業の死を遂げたり 島流しに遭うなど犠牲をともない 一揆は終焉します しかし代官と農民の間には深い遺恨が残っていました

こうした農民たちの無念の想いは 社地の石碑に 今でも刻まれています

安永二年(一七七三)飛騨国代官大原彦四郎は、古田畑の再検地を強行しようとした。

重税に堪えがたくなることを恐れた農民たちは、再検に強く反発し各地で集会を開き、代官所への嘆願、大垣藩への越訴、京都二条家への運動、江戸での駕籠訴、駆込願等八方手を尽くしたが、願いは達せられなかった。

九月下旬無数河村長次郎・宮村太七等が主唱し、この地に農民を集めた。やがて本郷村水割堤の集会が合流し、水無神社・鬼川原に集まる者時に一万を越えた。

十月中旬一宮籠居の農民三千人が高山代官所へ押しかけ、年貢上納延期など三ヶ条の願書を提出、徒党に加わらぬ高山を津留めにした。大原代官は、尋常の手段では到底鎮圧できぬと察し江戸表へ急報、幕府は飛騨の近隣五藩へ緊急出動を命じた。

十一月十四日深夜 郡上藩勢三百人、代官所手代・地役人四十人が付き添い高山出立、途中松橋に一隊を残し、夜明け宮村に到着、一隊を鬼川原に伏せ、一隊は頭取 会所久兵衛宅を始め神主宅・太七宅等に踏み込み、委細かまわずからめ捕った。

山下の民家に宿泊していた農民が、合図の鐘を聞き神社に向かって駆け出すと、鬼川原の鉄砲組が火蓋を切り、即死者・重傷者が出た。

最後に郡上藩勢は、一体となって拝殿を取り囲み、神域は安全であると教えられ、何の用意もしていなかった農民の集団に突っ込み、あたるを幸い十手で脳天を打ち割り、刀で袈裟掛けに斬りつけ、槍で太股や膝を突き通し、逃げる者には鉄砲を乱射した。

この日の即死者三名、負傷者二四名、縄付の者一二五名に及んだ。一宮大集会は、大原騒動で農民が見せた最も大がかりな抵抗であったが、火器まで使った非道な武力の前にあえなくついえざるを得なかった。

全飛騨の農民が命をかけて戦い、多くの痛ましい犠牲者を出した一宮大集会を永遠に記念するため、賛同者の多大な御協力を得て、ここにこの碑を建設する。

大原騒動一宮大集会之地碑より

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水無神社は 神仏習合の両部神道を改廃され 教義も唯一神道に改められます

農民一揆「大原騒動」では 当社が大集会の地となり 農民の最後の砦となっていた為に 水無神社は農民側に加担したとして「山下和泉と森伊勢の両神職」も騒動に連座したとされ処罰されました

幕府から神社への弾圧も例外ではなく 神仏習合の両部神道でしたが 阿弥陀堂や鐘堂 仁王門といった仏教的建造物は撤去されて 改廃され教義も唯一神道に改められます

もともとの拝殿は里人のに守られ「絵馬殿」として再興されます

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信仰する里人たちに何百年も守られ 壊された危機をも乗り越えた「絵馬殿」

絵馬殿(拝殿)の由来
一.慶長十二年(一六〇七年)

飛騨の国守となった高山城主金森長近の造営
(当社棟札 一宮拝殿造営定書 飛州志)

一.安永七年(一七七八年)
百姓一揆が安永二年に起り大原騒動と称し、当社の社家も農民に加担、連座し改廃され信州より迎えた神主梶原家熊は両部神道を改め、唯一神道とし従来の仏像、仏具はもとより社殿の多くを取壊し改めて造営するにあたりこの社殿のみ取壊しを免れた

一.明治三年(一八七〇年)
高山県知事宮原積は入母屋造りの従来の社殿を神明造りに建替えた その時この建物は建替用として取壊したのを氏子は自分達の大切な拝殿として保管した

一.明治十二年(一八七九年)
氏子は保管中の拝殿再興を願出、広く浄財を求め元の位置に復元した

一.昭和二十九年(一九五四年)
十年代国の管理の下昭和の大造営がはじまったが、終戦で国の管理から放れ、現在地に移築した

一.昭和五十三年(一九七八年)
宮村重要文化財指定、屋根銅板葺替(従来杮葺)

絵馬殿の由来 案内板より

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代官の命令には従わない心意気を持っている里人と「伝説の木 ねじの木」について

大洪水で宮川流域に甚大な被害が発生した時のこと

飛騨高山代官の大原彦四郎紹正が 橋の再建に 神域の大檜を用材として差し出すよう命令しました

里人達は「大原騒動」で酷い目に遭わされた代官に 素直に従いたくありませんでした 氏子衆は「拗の木」を示しながら「木を切ろうとしたところ 御神意なのか一夜でこんなに拗じれてしまいました」と届け出ます すると「拗の木」だけでなく 他の檜も切ることが止められたと伝わります

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伝説の木 ねじの木

樹種   ヒノキ
胸高直径 一.五m

水無神社境内の絵馬殿の傍らにあったもので、自然の作用で、ねじまがった珍しいヒノキです。

このねじの木に似せた、「こくせん」という飛騨の伝統的な駄菓子がつくられ、お正月参拝者のお土産になっています。

第一話
その昔、ヒノキの大樹が日陰になるので里人達が伐って普請に使おうと相談しました。一夜のうちに幹はもとより、梢までねじ曲がってしまいました。里人は、神のたたりを恐れあやまったといわれています。

第二話
今からおよそ二〇〇年前宮川が氾濫し、高山の中橋が流されました。時の代官大原彦四郎は、神社の大ヒノキに着目し橋材として差し出すよう命じました。困った神社側は、一計を案じ、このねじの木を示し、神意で一夜のうちにねじれてしまったと、説明したところ、他の杜の木も切ることが取りやめになったと伝えられています。

伝説の木 ねじの木 公式HPより

「飛騨一宮 水無神社(高山市一之宮町) 後編」につづく

一緒に読む
飛騨一宮 水無神社(高山市一之宮町)【後編】

水無神社(みなしじんじゃ)は 飛騨國一之宮として 諸願成就を祈る人の姿が絶えず 飛騨高山一円の里人が「心の拠り所」として信仰しています  御祭神は 「水無大神(minashi no okami)」として 主祭神と十四柱の相殿神を奉祀しています

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