古宮八幡宮(こみやはちまんぐう)は 和銅二年(709)創祀 旧鎮座地は香春三ノ岳の麓 阿曽隈という所から慶長四年(1599)現在地に遷座 養老四年(720)宇佐八幡宮の託宣で神鏡〈三ノ岳の銅を掘り鋳造〉を宇佐八幡宮放生会に奉納した この縁で貞観元年(859)応神天皇 神功皇后を勧請して八幡宮を号する 式内社 豊前國 田川郡 豊比咩神社(とよひめの かみのやしろ)の古宮です
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
古宮八幡宮(Komiya Hachimangu)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
福岡県田川郡香春町大字採銅所2611
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
一之御殿 豊比咩命(とよひめのみこと)
二之御殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
三之御殿 応神天皇(おうじんてんのう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
古宮八幡神社 畧縁起
御祭神 一之御殿 豊比咩(とよひめ)命
二之御殿 神功皇后
三之御殿 応神天皇古宮八幡神社は平安時代にできた「延喜式」の「神名」に挙げられている豊比咩命神社の本社であり その最初の鎮座地は香春三ノ岳の麓、阿曽隈という所である。創祀は元明天皇和銅二年(七〇九)今より実に老千式百八拾余年の古社である。
香春岳三山に祀られる神々は 式内社豊前国座のうち三座で そのーノ岳に鎮まる香春神社の神は辛国息長大姫大目(からくにおきながおおひめおおめ)命で「豊前国風土記」に新羅の神が渡ってきて住みついたとある。
三ノ岳の古宮八幡神社は豊比咩命を祀り養老四年(七二〇)宇佐八幡宮の託宣で三ノ岳の銅を掘って長光氏が鋳造した神鏡を宇佐八幡宮放生会に奉納した縁で 貞観元年(八五九)応神天皇、神功皇后を勧請して八幡神社の呼び名となる。
永禄四年七月(一五六一)大友義鎮日向肥後豊前の軍勢三万余騎を率い香春岳城主原田五郎義種と交ゆるとき社殿宝庫を焼失、その後慶長四年(一五九九)旧社地より現在地に移御する。
現在の社殿は安政四年(ー八五七)の再建であり悉く楠材を以つて建立されており 殊に神殿の結構彫刻等は実に荘厳優雅を極め 近郊に稀な建築物で神徳万古に朽ちない尊さを偲ぶことができる。文化財 福岡県指定無形民俗文化財に指定される。
平成十六年二月十八日付け御祭禮春季例大祭及び 神幸祭 四月最終の土曜とその翌日
白鳥神社の例祭と戦没者慰霊祭 九月中旬
(その他 中祭 小祭 ) 古宮八幡神社現地案内板より
【由 緒 (History)】
『福岡県神社誌』下巻〈昭和20年〉に記される内容
【抜粋意訳】
村社 古宮八幡神社
田川郡採銅所村大字採銅所字鷹巢
祭神 豊比咩命、應神天皇、神功皇后
由緒 延喜式神名帳豊前六座の内田川三座のー〔並小〕、豊比咩命を祀る。元明帝和銅二年の創祀、元正帝養老四年庚甲年 宇佐宮 式年祭に銅を奉るを例とし、享保八年まで継續せられたり。
創立元明天皇御字 和銅二年より古宮大神と稱せしを古宮八幡大神と改稱す。慶長四巳亥年、實永六年已丑卯月上旬、安政四丁已年三月改築す。明治六年七月九日村社に定めらる。當社は豊比咩命を奉り、古三岳麓阿蘇隈に鎮座〔今に舊跡あり、當時 社家下採銅所村の内 字宮原にあり因て宮原と云ふ。〕なりしを和銅銅二年命を香春社に勧請せしより古宮社と云ふ。古は朝廷の祭祀なり、本朝歴代の神位宣下に香春三所第三殿豊比咩命は承和年中より建治中まで正二位に敍せらる。建暦二年八月二十一日宜旨に云ふ、豊の前州香春三社は聖朝鎭護の神霊なり、仍三十三年毎に造営あり、又寛元年中の宜旨に香春社造営は朝廷の経営 當國の課役なりと云ふ、當社は香春社と異社同體の神にて祭祀已に神輿を供にすれは宜下奉幣も亦同例也。神功皇后、應神天皇の二神を合祭するものは元正天皇養老四年 三岳の金銅を採り、字佐宮の神鏡を鋳、假に當社に納む仍て右二柱の神を豊比咩命、と合殿に祭り共に古宮八幡大神と稱す。阿蘇隈より方今の社地 鷹巣社に遷座あり假に神殿を造営せしは慶長四年也。香春古宮両社祭祀中絶す、後寶曆五亥年再興、古式祭陰暦十一月初末の日執行。
例祭日 四月三十日、五月一日
神饌幣帛料供進指定 明治四十四年
主なる建造物 神殿、幣殿、拜殿、社務所
主なる實物 大神鏡二而、小神鏡三面、刀ー本境内坪数 七反歩
氏子區域及戸數 採銅所村全般 四百九十戸
攝社 白鳥神社 (日本武嗚命 )
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・境内社 白鳥神社〈本殿向かって左〉
『香春町誌』には゛現在の古宮八幡神社の社地は 鷹巣の森(高巣の森)と呼ばれる白鳥神社の旧社地゛と記しています
つまり 白鳥神社の社地に 慶長4年(1599)古宮八幡神社が遷座して 白鳥神社は摂社となった
・境内社 蛭子社〈一の鳥居の横〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・阿曽隈社(香春町採銅所)
〈古宮八幡宮の元宮〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
香春岑神三社〈現 香春神社(香春町香春)の三つ峯の山頂にあった元社〉は 石灰岩の山で 元々は 上木は生えていなかった
此の山の下で 僧最澄が遣唐使に出向く際に 無事に渡海を祈願し 無事に生還したので 読経して神宮寺を造営したところ 以来 草木が茂ったたことが記されています
【抜粋意訳】
卷第六 承和四年(八三七)十二月庚子〈十一〉
○庚子
自に旭旦至戌時に大風。京中屋舍往々に破壞す。
大宰府言す。管せる豐前國田河郡 香春岑神。辛國息長大姫大目命。忍骨命。豐比咩命。惣て是の三社は。元來(モトヨリ)是れ石山にて。而上木惣て無し。
至るふ延暦年中。遣唐諸益の僧最澄躬到て此山に祈て云く。願くは縁て神力に。平かに得渡海するを。即於て山下に。爲めに神の造て寺を讀經せん。爾來(コノカタ)草木蓊鬱とし。神驗如在すか。毎に有に水旱疾疫之灾。郡司百姓就て之に祈祷すれば。必ず蒙を感應を。年登り人壽く。異なり於他郡に。望くは預けて官社に。以て表さん崇祠を。許す之を。
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
香春神社の三柱の神〈①辛国息長大姫大目命神②忍骨命神③豊比咩神〉の内 辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神 忍骨(ヲシホネノ)神の二柱の神に神階の奉授が記されています
しかし この内゛辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神゛と云う神名は①辛国息長大姫大目命神社と③豊比咩神社を合せた神名となっていて 同一神として捉えているとの説もあります
【抜粋意訳】
卷十 貞觀七年(八六五)二月廿七日己卯
○廿七日己卯
豐前國 從五位上 辛國息長比咩(カラクニヲキナカヒメノ)神 忍骨(ヲシホネノ)神 並に授くに從四位上を
阿波國 正五位下 天石門和氣八倉比咩神 從四位下
和泉國 從五位下 泉穴師神 從五位上
出羽國 正六位上 城輪神 高泉神 並に 從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)豊前國 6座(大3座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田川郡 3座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 豊比咩神社(貞)
[ふ り が な ](とよひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Toyohime no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『古風土記逸文』〈昭和2年〉に記される「豊前 鹿春神」について
豊前國風土記逸文 鹿春神に 年魚〈鮎〉の棲む清浄な川原(香春)に新羅国の神が住み鹿春神(かはらのかみ)となつたと記します
【抜粋意訳】
豊前國風土記逸文 鹿春神
豊前國風土記曰。田河郡鹿春郷。〔在に郡東北〕。此郷之中有河。年魚在之。其源從に郡東北杉坂山出。直指に正西流下。添に會眞漏河焉。此河瀬清淨。因號に清河原村。今謂に鹿春郷訛。昔者新羅國神自度到來。住に此河原。便卽名曰に鹿春神。又號北有峯。頂有沼。〔濶丗六歩許〕黄楊樹生。兼有に龍骨。第二峯有に銅幷黃楊龍骨。第三峯有龍骨。〔釋日本紀卷十・宇佐八幡託宣集〕
(一)便、頭注无
豊前國風土記に曰く。田河の郡、鹿春郷 (かはるの郷 )。(郡の東北にあり)この郷の中に河あり。年魚(あゆ)これにあり。その源は、郡の東北なる、杉坂山より出づ。直ちに正西を指して流れ下り、眞漏河に添會(つど)ふ。この河の瀬清し。因れ清河原の村と號ふ。
今鹿春の郷と謂ふは訛れるなり。昔者、新羅國の神、自ら渡り來りて、この河原に住む。卽ち名づけて鹿春の神と曰ふ。又郷の北に峰あり。頂に沼あり。(潤さ三十六步許)黄楊(つげ)の樹生ふ。兼(ま)た、龍(たつ)の骨あり。第二峰に、銅(どう)並に黃楊、龍の骨あり。第三峰に龍の骨あり。〔釋日本紀卷十・宇佐八幡託宣集〕
【原文参照】
社記『香春神社縁起(かわらじんじゃえんぎ)』にある香春神の三柱の神について
香春神の三柱の神〈①辛国息長大姫大目命神②忍骨命神③豊比咩神〉は
『香春神社縁起』には 崇神天皇(すじんてんのう)御代(BC97-BC30)この三柱を 香春岳(かわらだけ)の三つの峯に奉祀したのが創始としています
一の峯は 辛国息長大姫大目命(からくにおきながおほひめおほじのみこと)
二の峯は 忍骨命(おしほねのみこと)
三の峯は 豊比賣命(とよひめのみこと)
゛豊前國風土記逸文 鹿春神゛にあるように
一の峯は 黄楊(つげ)の樹生ふ。兼(ま)た、龍(たつ)の骨あり
二の峯は 銅(どう)並に黃楊(つげ)、龍の骨あり
三の峯は 龍の骨あり
※ここで云う゛龍骨゛とは゛石灰石゛のこと
一般的には 大型脊椎動物(ゾウなどの哺乳類)の化石化した骨
竜骨 (生薬)は -これを原材料とする生薬
※ここで云う゛銅(どう)゛とは 採銅所(さいどうしょ)があって 銅の採掘
※ここで云う゛黄楊(つげ)の樹゛とは 古代には神聖な樹木とされ櫛の材とされた
重要な場所とされていたことが 伺い知れます
香春神社(香春町香春)の建立について
社記『香春神社縁起(かわらじんじゃえんぎ)』によれば
和銅2年(709)一ノ岳の南麓に一社〈現 香春神社(香春町香春)〉を建立し 三神を合祀 香春宮と称したと記され
弘安10年(1287)成立の社記『香春神社解文(かわらじんじゃげぶみ)』によれば
香春の新宮〈現 香春神社(香春町香春)〉を設けて三神が合祀の時 日置絢子(ひおきのあやこ)が祀っていた 三ノ岳の阿曾隈(あそくま)の豊比咩命(とよひめのみこと)〈その時は採銅所の古宮八幡神社に奉祀られていた〉を勧請されたと記し 現在の祭祀形態となりました
古宮八幡宮の建立について
古宮八幡宮(香春町採銅所)は 旧社地の古宮鼻〈三ノ岳の東麓 阿曽隈〉に 元明天皇和銅二年(709)創祀とされます〔香春神社(香春町香春)〈和銅2年(709)一ノ岳の南麓〉の創祀と同時期〕
その後 永禄4年(1561)に社殿宝庫を焼失し 慶長4年(1599)に旧社地の古宮鼻〈三ノ岳の東麓 阿曽隈〉より現在地(香春町採銅所)に移ったと云う
こちらの伝えでは 三ノ岳の阿曾隈(あそくま)の豊比咩命(とよひめのみこと)は 香春神社(香春町香春)に遷座せず 古宮に留まって祀られているようにも見えます
現在でも 豊比咩命は 例祭の時にだけ新宮である香春神社に下向し 例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻りっています
延喜式内社 豊前國 田川郡 豊比咩神社(貞)(とよひめの かみのやしろ)の変遷
・香春神社(香春町香春)〈現在〉
・古宮八幡宮(香春町採銅所)
〈香春神の三ノ峯の社 元鎮座地 古宮〉
・阿曽隈社(香春町採銅所)
〈古宮八幡宮の元宮〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神社は 日田彦山線 採銅所駅からすぐ
採銅所駅から見えていたこの山は何だろう ちょつと神がかる感じがしましたので マップで調べたら゛竜ヶ鼻゛奇岩怪石が累々として聳立し 険しい崖となっているとのこと やはり石灰岩の山のようです
一の鳥居の横に社号標があり゛式内神社 古宮社゛
鳥居の扁額には゛古宮八幡宮゛と刻字があります
古宮八幡宮(香春町採銅所)に参着
そのすぐ左隣には境内社の蛭子社が鎮座します
一礼をして鳥居をくぐり石段を上がると
境内に石垣が積まれ もう一段高い壇に社殿は建てられています
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には゛古宮八幡宮゛と記されています
絵馬もあまり見かけないような図柄なので
額の文は゛古宮八幡宮 千二百年祭献詠゛とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道石段を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 豊比咩命神社について記しています
【抜粋意訳】
豊比咩命神社
豊は止與と訓べし、比咩は假字也、
〇祭神明か也
〇
〇頭注云 ,註、肥前國佐嘉郡下、〔與止日女神社の條見合すべし〕官社 以上三座
績日本後紀、承和四年十二月庚子、太宰府言、管豊前國田河郡香春岑神、辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命、惣是三社、元來是石山而土木惣無、至に延曆年中、遣唐請益僧最澄、躬到に此山祈云、願緣に神力、平得に波海、即於に山下、爲神造寺讀經、爾來草木鬱蒼、神驗如在、毎有に水早疾疫之灾、郡司百姓就之祈禱、必蒙に咸應、年登人壽異に於他郡、望預に官社、以表に崇祠、許乏、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 豊比咩命神社について 所在は下香春村〈現 香春神社(香春町香春)〉と記し 『續日本後紀』卷第六 承和四年(八三七)十二月庚子〈十一〉の條に官社に関連するとして記しています
【抜粋意訳】
豊比咩命神社
祭神 豊比咩命
官社
仁明天皇 承和四年十二月庚子 太宰府言管豊前國田河郡香春岑神辛國息長大姫大目命忍骨命豊比咩命惣是三社元來是石山而土木惣無有至延曆年中遣唐請益僧最澄躬到此山祈云願綠神力平得渡海卽於山下爲神造寺讀經爾來草木鬱蒼神験如在毎有水旱疾疫之灾郡司百姓就之祈祷必蒙感應年登人壽異於他郡望預官社以表崇祠許之祭日 三月十五日十六日九月八日九日十一月初午日
社格 縣社所在 下香春村 (田川郡香春町大字香春)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
香春神社(香春町香春)について 延喜式神名帳 田川郡三座〔並小〕、辛園息長大姫大目命神社、忍骨命神社、豊比咩命神社であると記しています
【抜粋意訳】
〇福岡縣 豊前國田川郡香春町大字香春
縣社 香春(カハルノ)神社
祭神
忍骨(オシホネノ)命
辛國息長大姫大日(カラクニオキナカオホヒメオホメノ)命
豊比咩(トヨヒメノ)命當社は延喜式神名帳に「田川郡三座〔並小〕、辛園息長大姫大目命神社、忍骨命神社、豊比咩命神社、」とあるもの是なり、
豊前風土記に「田川郡鹿春郷云々、昔、新羅國神自度到來、住此河原、便郡名曰に鹿春神」とありて、其の創建の由來に關しては、元享釈書最澄之傳に「延暦二十三年秋七月、從に遣唐使菅清公、唐に渡らんとする時、田川郡賀春山下に宿りしに、夢に賀春大神顯はれ給ひ、海上を守護せしむる旨教示し給ふ、よりて海途平穏なるを得、帰朝後直ちに法華院を建て、白ら講席を創む云々」と見え、
また續日本後紀に、
「承和四年太宰府言、管豊前國田川郡香春岑神、辛國息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命、惣是三社、元来是石山而土木惣無、至に延暦年中、遣唐請益僧最澄、躬到に此山に祈云、願縁に神力、平得に渡海、即於山下、為神造寺読経、爾来草木蒼欝、神験如在、毎有に水干疾疫之災、郡司百姓就之祈祷、必蒙に感応、年登人寿異、於他郡、望預に官社、以表崇祠、許之」
とあるによりて、其の大要を推知するに足るべし、
且つ貝原翁の著豊國紀行にも、「香春町云々、此處に傳教大師渡唐の前後に住まれし事あり、此時より香春に寺を建て初めけり、昔は六坊ありし其跡、社の左右処々にあり、今も一坊残れり云々」とあるを見れば、最澄の神院建設後、神験灼然として、終に今の神祠を営むに至れるなるべし、
さて香春嶽は 豊前風土記に「郷北有峰、頂有沼、黄楊樹生、兼有龍骨、第二峰有銅並黄楊樹龍骨、第三峰有龍骨」、とありて、三峰より成れる急峻なるが、
社記によれば、第一嶽に宇國息長大姫大目命神社、第二嶽に忍骨命神社、第三嶽に豊日咩命神社鎮座し、香春三社大明神と総称せりしよしいへり、今社は一の嶽の南麓に在りて南に向へり、往昔は三の嶽の麓に在りしと豊前志に見ゆ、
三代実録に「貞観七年二月二十七日己卯、豊前國従五位上 辛國息長比咩神、忍骨神並授従四位上」
とあれど、豊比咩命に關しては、此事なし、恐くは漏れたるなるべし、忍骨命に、其事歴明かなれども、他の二神は、正史に見えざるより、此に關する先輩の諸説未だ定まらず、一は新羅神なりとし、他は、息長帯姫命とす、前説は、豊前國風土記に「田川部鹿春郷、昔新羅神、自度来此川原、即名曰鹿春神」とあるに本づき、後説は語原より説きて、辛國は、彼國を平らげ給ひし御功動を称へ奉れるよりの御名にて、大姫の大は称言、大目は大日の誤にて、下に女の字を脱したるべく、即息長帯日女命をかくいひなしたるなり、と主張す、さもあるべし、
次に豊比咩命は、八幡宮縁起に、「皇后使妹豊姫興磯良云々」とあるに據りて、神功阜后の御妹にましますべきかといひ、皇后の御妹に虚空津比賣命と申すがあり、命征韓の時に、功積を立て給ひしを以て、凱旋の後皇后之を豊國に封じ、併せて韓國をも鎮座せさせ給ひし故に、豊姫とも申せしなるべしといへり、
尚當社の古縁起の一〔弘安十年のもの〕によれば、元明天皇和銅二年の創建にして、永承年中造営し、以来建暦年度に至るまで、六度の造営あり、又後嵯峨天皇寛元元年十月八日には、当社の造営ありて、朝家の経営を以て、諸國に課役することの宣旨ありきと云へど、文永五年十二月十六日火災に罹りたる爲、其宣旨を失すと云へり、
豊前國志に「大鳥居享和二年二月、門台雁木の左右に老松諸木森立し、神さびたり、迫りの丘に大石垣あり、爰の雁木を登りて、大殿の裏を窺へば、宮柱太敷ままに立並び、其様麗しく、又仰いで森の梢を見上ぐれば、香春岳数千丈の岩壁我々として立ち、天下に比ひなし云々」と賞讃せる社地にして、今境内千三百坪(官有地第一種)を有し、社殿は本殿・幣殿・拝殿・廻廊、神供所、神輿庫等を備へ、結構壮麗なり、明治五年十一月縣社に列す。
【原文参照】