子眉嶺神社(相馬郡新地町)

子眉嶺神社(こびみねじんじゃ)は 今から1300年の昔 「飛鳥(あすか)の都」から 遠く離れた「陸奥國(むつのくに)」に逃れてきた 美しく身分の高い姫君の物語「姫君と名馬」の伝承を持ちます 神社の格式は 大和朝廷に敬われ 延喜の制では最高の名神大社となった古社です

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ご紹介(Introduction)

【神社名】(shrine name) 

子眉嶺神社(kobimine shrine)
こびみねじんじゃ 

【通称名】(Common name)

奥之相善宮 okuno sozen gu

【鎮座地】(location) 

福島県相馬郡新地町駒ケ嶺大作 4

【地 図】(Google Map)

【延喜式神名帳】    「旧国名 郡 ・ 神社名」

(927年12月完成) The shrine record was completed in December 927 AD.
【engishiki jimmeicho】「old region name・shrine name」

 陸奥國  宇多郡 一座 大  子(負)眉嶺神社 名神大
 mutsu no kuni udagun kobimine no kaminoyashiro myojindai

【御祭神】(God's name to pray)

《主》 豊受比売之命(toyokehime no mikoto)

【御神格】(God's great power)

・五穀豊穣 Pray for good harvest
・安産守護 The wish of a healthy childbirth
・子供の悪疫除 Save children from illness
・安産祈願 Healthy childbirth
・病馬平癒の神 God cures horse disease
・馬術馬業には高き御神徳 Improve equestrian skills
・等 etc

【格式】(Rules of dignity)

延喜式内社 名神大社 (engishikinaisha myojintaisha)

【創建】(Beginning of history)

大宝2年(702年) 仮宮(今より約1300年前)
延喜7年(907年) 建立

【由緒】(history)

 延喜式国史所載 総社 国内神明帳所載 本社は延喜式名神大社、子眉嶺神社と称し、別名を奥之相善宮とよんでいる。

人皇第三十代 敏達天皇の御子を祀ったと伝えられ、
大宝2年(今より約1300年前)よりおよそ、200年間仮宮を造り 延喜7年の建立にして、延喜の朝には、名神大社として、案上官幣を賜り、

中世には旧藩主仙台侯の氏神として、社領の寄進や社殿の再建修繕等を加えられたが、安永8年2月7日野火のため社殿を焼失した。
寛政8年4月更に仙台侯によって、社殿再建の起工がなされ、文化3年竣成された。現在の御社殿は大正7年3月に幣殿付拝殿が造営されたものです。

奥州一百座の名神大社、宇多郡総鎮守社であります。

本社には七不思議として次のものがあります。
南天の桜 北斗の松 七葉の欄 八房の梅 片葉のよし 鏡池 芽白の笹 九曜のかしわ 等境内に史跡を留める。何れも由来を語る名跡と言われています。

鏡池は本社の御神水として、太古より如何なる旱天にもその泉の枯る事なし、と云われている。
南天の桜は本社特有の物にして、南天の実の如く一ヶ所に咲くことによりこの名があります。

祭神 豊受比売之命 五穀豊穣の神で伊勢の外宮に祀られている。

都の姫の悲恋にまつわる伝説がある。

祭礼 1月1日新年祭 1月14日厄払祭 3月7日(旧)春季例祭 
   7月6日(旧)前夜祭(よごもり) 7月7日(旧)秋季例祭 
   11月15日七五三詣 12月31日大祓 
   毎月7日 月例祭 崇敬者御縁日 守護

全国各地で行なわれる相善祀りは牛馬の安全を祈願するもので、これは元々 本社の名であり御祭神を祝う意味である。
五穀の豊穣、安産、子供の悪疫除、病馬平癒の神といわれております。特に馬術馬業には高き御神徳を有します。

交通 奥之相善宮表参道入口 国道6号線又は国道113号線から利用の便あり 常磐線駒ケ嶺駅より約3キロ西

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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【境内社】(Other deities within the precincts)

 ・葉山神社(母山神社) 《主》大山津見命 須佐之男命

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【この神社の予備知識】(Preliminary knowledge of this shrine)

由緒書きについて

今より 約1300年前からと伝わる 格式高い古社です

「御祭神の云われ」社伝由緒によれば
 第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)の御子(miko)を祀ったと伝えられています

大宝2年(702年)から200年間に仮宮を設けて 
延喜7年(907年)に社殿を建立し 名神大社として 案上官幣を賜ったと伝わります

(927年12月完成)『延喜式神名帳』には 陸奥國に100座がありましたが その内 大社は15座のみで 宇多郡1座の名神大社とされて 高い格式を持ちます

また 旧宇多郡の総鎮守社ともされていて 中世には 仙台藩(伊達家)が 社領寄進・社殿再建・修繕などを行い崇敬したと伝わっています

通称名は「奥之相善宮(okuno sozen gu)」で 古くは「勝善社(shozen sha)」とか「相善宮(sozen no miya)」と呼ばれていて
一般に 蒼前様(sozen sama)とは おもに東日本に分布する「馬の守護神」のことで 相染・勝善とも書きます

敷地内の南端に「母山」と呼ばれる「羽山神社」があり 谷側に下って行くと鏡池(鏡ケ池)があります 
それぞれ伝承を持つのですが 多くが 馬との関わりがあり 古くから馬の守護神として信仰されてきました

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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)

古社ですので 興味深いものがあります
境内の東側は谷になっていて 斜面の小道が二手に分かれています それぞれ「御神水の湧水」と「鏡ヶ池」へと降りられます

「御神水」は”いかなる旱天の時も涸れることがない” と言い伝えられ
「鏡ヶ池」は”その池に向かって祈願すると願いが叶う”と言われています

「七不思議の伝説」として 

「南天の桜」「北斗の松」「七葉の欄」「八房の梅」「片葉のよし」「芽白の笹」「九曜のかしわ」があります

例えば
「片葉の葦(yoshi)」は 鏡ヶ池の周辺に自生して 茎の一方にのみ葉をつけるらしく 
「夷子別之神(ebisu wake no kami)」と その妃(hi)である「白媛神(shirahime no kami)」は この葦(yoshi)を餌として馬に与え育てたと伝わり

「芽白の笹(sasa)」は 鏡ヶ池周辺の丘に自生して 芽が白いため「芽白の笹」と呼ばれ 
馬が普通の笹を食べると病を起こすが 芽白の笹を馬が食べても病にはならず また 鏡ヶ池の御神水に浸した芽白の笹を馬に食べさせると 馬の病気によく効く と伝わります

これらも 馬との関わりがあり 古くから馬の守護神として信仰されて来たことが良く分かります

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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)

常磐自動車道の相馬インターから もう一つ北にある「新地IC」から東側に2kmほどにあります
県道113を左折すると 軽い下りと上り坂となっていて 右手に鳥居が見えてくる その少し前方に 駐車場があり 下車徒歩

「名神大社 子眉嶺神社(kobimine shrine)」に到着

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鳥居に一礼後 くぐり抜け 少し上り気味の参道or車道?? を歩き 平らに聖地された広い境内につく どうやら ここも参拝者が多い時は 駐車できるようです
広く平らな境内の右手前方が 神札授与所となっていて 左手前方に「手水舎」があり ここでお清めをします 
真正面に石の鳥居があり 一礼して くぐり 20段程の階段を登ると すぐ正面に拝殿本殿が建ちます

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1300年昔 飛鳥時代(asuka jidai)より この地に鎮まる 御祭神に届かんと かん高く柏手(kashiwade)を打ち ご神威に添い給うよう 両手を合わせ 祈り願います

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向かって拝殿右側にある 境内社 葉山神社(母山神社)にお詣りです
御祭神は 子眉嶺神社と同じく「豊受比売之命(toyokehime no mikoto)」としていたり「大山津見命(oyamatsumi no mikoto)」「白媛神(shirahime no kami)」と色々な説がありますが
安産守護や子供の病気除けの神社として信仰されているようです 

覆屋(oiya)の中に「祠」と「安産祈願用の枕」があり「安産石」と呼ぶ 赤い石が置かれていて この石が赤いのは「祭神が子供を生んだ時に血が掛かったため」と書かれています

階段をおりて 鳥居をくぐり 振り返り一礼

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先ほどご紹介した 七不思議を見学しようと境内を散策していると 非常に興味深い伝説にめぐり逢います 次の神社の伝承でご紹介します

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【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)

「蒼前様(sozen sama)について」

子眉嶺神社(kobimine shrine)は 
通称名を「奥之相善宮(okuno sozen gu)古くは「勝善社(shozen sha)」とか「相善宮(sozen no miya)」と呼ばれ 蒼前様(sozen sama)で「馬の守護神」だと 先程もご紹介しましたが

これは 武家大名の相馬氏や佐竹氏などの厩番(umaya ban)にも 伝えられた信仰で 
彼らは 普段の飼育や厩祭(umaya matsuri)だけではなく 獣医の役割や馬に関するいっさいの世話をしていた記録が残されていて 正しく蒼前様(sozen sama)を信仰するわけです 

佐竹氏が 江戸期に転封された秋田県でも 茨城・福島の厩番(umaya ban)と同じしきたりが 秋田に持ち込まれて明治になるまで 続いていました

猿が馬を引く絵馬やお札などが 蒼前様(sozen sama)の信仰にはありますが
子眉嶺神社(kobimine shrine)の鎮座する新地町に伝わる「相善神の由来」をたまたま町役場で聞いたので(仙台方面に向かう途中)お伝えします

 相善神の由来----掲載日:2016年3月10日更新

由来

 敏達天皇の御代(約六世紀ころという)、都に世にも美しい、身分の高い姫君がいた。 ある年の三月、梅の花の風情を賞でようと、供ぞろえをし輿を召してお出ましになった。

邸内の馬屋には 筑紫は唐津より献上の今帝駒という三代の天子に仕えた名馬が飼われていたが、姫の輿が近づくと、突然高くいななき、馬屋の板を蹴り上げて暴れ出した。

姫はこの有り様を見て、不吉に思いその日は外出を取りやめた。
しかるにその夜 今帝駒は姫の夢の中に現れ、間もなく姫は懐妊した。
時の大臣はかねて姫に思慕を寄せていたが、今帝駒が姫と通じたのを知ると激怒し、馬屋に入って駒を殺そうとしたが、かえって駒に食い殺されてしまった。

このため姫は罪に問われて、うつぼ船に乗せられ伊勢の二見浦から海へ流された。
船は潮のまにまに、奥州宇多郡の浜辺に流れ着いた。
土地の豪族糠塚太夫なる者が姫を哀れみ、浜近くに雨露をしのぐばかりの仮屋を建てて住まわせたが、後に半里ほど西へ入った相善の地に移して扶持することになった。

やがて月満ちて姫は一子を産み落とした。
権太夫は赤子を見て驚いた。
生まれた子の顔があまりに馬に似ている。
姫の落胆を思った権太夫は子を秘して姫に見せないことにした。

しかしわが子に会いたい姫の思いは募るばかり。
権太夫も根負けして「それでは池のほとりに子を連れて行くから、池の水に映る子の顔を見よ」といった。
その日がくると、姫は丘にのぼり池水に映るわが子の顔を見たが、驚きのあまり病気になって死んでしまった。

これより先、今帝駒は 姫の跡を慕ってはるばる奥州へ下り、相善の姫と再会し、姫の無事を喜んで都へ戻って行った。
この故事により、この地を駒返りの嶺と呼ぶようになったという。

一方、都の方では金帝駒が逃げたのを知り、追手を差し向けた。
奥州へ下ってきた追手は、途中で駒と出会い、連れ戻すことができたので、その地を行き会い道という。

新地町史「自然・民俗編」(平成5年10月1日発行)

福島県新地町役場HP「新地町図書館 」より

この話の舞台となった場所が 子眉嶺神社(kobimine shrine)と 境内の「鏡池(鏡ケ池)」などです
境内の案内板には「姫君と名馬」として書かれています

「鏡池(鏡ケ池)」の案内板にも書かれています
話の内容は 馬や姫が亡くなってしまったり 少しずつ違いますが 馬と都の姫の悲恋として 大筋同様の話になっています
写真を載せますので ご興味のある方は 違いを探してください

都の姫の悲恋伝説に縁のある「鏡ヶ池」は その池に向かって祈願すると 願いが叶うと言われているようです

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「馬に関する 別の 三つの伝承」(前出と似てはいる) が残っています

① 御祭神を 国津神(kuni tsu kami)の「夷子別之神(ebisu wake no kami)」と その妃(hi)である「白媛神(shirahime no kami)」とする説

「夷子別之神(ebisu wake no kami)」は 姿が醜く陰部が大きかった為に 又は 顔が異常に長く醜かった為に 嫌われていたので 結婚相手が見つからず困っていた
ところが 女神の「白媛神(shirahime no kami)」だけが 「夷子別之神(ebisu wake no kami)」の求めに応えて夫婦となった

お二柱は この地に住むようになりました
「白媛神(shirahime no kami)」は たいへん美しい姿をしていたが 全身が白い長い毛で覆われていたそうで 馬神の化身とされた

この神は 馬の飼育方法をこの地に伝え 馬の病なども治された
村人達は 「夷子別之神(ebisu wake no kami)」と その妃(hi)である「白媛神(shirahime no kami)」のご神威に畏れ敬い 祠(子眉嶺神社(kobimine shrine)を建て 二柱を篤く祀り始めたと伝わります

私見ですが 二柱が 馬の治療や馬の飼育法の伝教などの伝承は おそらく 茨城・福島の厩番(umaya ban)に受け継がれているのだろうと思います

➁ この伝承は 神社の伝えに酷似しています

 「第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)」の時代に 都の姫君が馬と通じた「獣姦の罪」で当地に流された 
  姫君は懐妊し出産すると その子の顔があまりにも馬に似ていたと云われ 里人の者が 大切に姫と子を養育したらしい

没後に その子を子眉嶺神社(kobimine shrine)に 姫君を羽山に祀ったと伝わります

現在でも 境内南側の丘にある 
羽山公園内には 子眉嶺神社(kobimine shrine)の 御祭神を葬ったと「子眉嶺神社 御祭神 埋歿(maibotsu)地」の石碑が伝えられていて 建っています

➂ 古老の説に---『神社辞典 昭和54年(筥崎博生)』には

昔 異産をする者があり その子が馬首獣身であったため 父母が怖れて谷に棄てたが 
猿が葛葉を薬草に使い この子を飼い育てました 
その子が死んだのち 郷人が社を建てこれを祀り 今 その地を呼んで葛嶽といい 
その神を子眉嶺神(kobimine no kami)といったと伝え『封内記』にもそのことが記されています

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※ここからは 勝手に想像

これらの伝承を知った時
とくに「子眉嶺神社(kobimine shrine)」の御祭神は「第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)の御子(miko)」を祀ったと伝えられていて

かつ「馬の伝承」では 都の姫が 馬の子を宿し 都落ちするとなっています 

あれ???「第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)の御子(miko)」が生きていた時代を想像すると

「第29代 欽明天皇(kimmei tenno)」の時代に 
 医術・暦・易らと同時に「仏教」が正式に伝わって 日本は政治的にも大きく揺れ動いていきます

「第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)」の時代には 
 神と仏をめぐって 
神の優位性を「物部氏(mononobe uji)」が 
仏の優位性を「蘇我氏(soga uji)」   が それぞれ主張して 激しい政治的・軍事的な対立が 激化していった頃です

この時代に生きた 都に生きた「馬」と「子」言えば
敏達朝では 大臣に就き 
以降 用明天皇 崇峻天皇 推古天皇の4代に仕えて 50年近くも権勢を振るって 蘇我氏の全盛時代を築いたとされている
「蘇我馬子(soga no umako)」を思い浮かべてしまう?

神社や地域に伝わる 蒼前様(sozen sama)の由来物語を 私が勝手に解釈して恐縮ですが

実際の「馬」の日本への流入経路は 蘇我氏が説いた仏教の伝来と同じ経路です 筑紫(九州)の唐津(中国との交易港)から来ています

伝承の中では 
その「馬」の身分は「今帝駒(現在の天皇の駒としている者)という名を持っていて 三代の天子(王または天皇)に仕えた名馬(名家)と書かれています
そこに登場する姫君も「都に世にも美しい 身分の高い姫君」とされていて おそらく皇族か貴族の美しい姫様なのでしょう
御祭神は「第30代 敏達天皇(bidatsu tenno)の御子(miko)」を祀ったと伝えられていて考えさせられます

その高貴な姫に求愛した もしくは 恋仲であった大臣は 「馬」が姫と通じたのを知って 「馬」を懲らしめに行きますが 逆に「馬」に食い殺されます
この馬が「蘇我馬子(soga no umako)」を思い浮かべてしまうので

姫は 伊勢の二見浦から海へ流され 失意の中で この地で暮らし 子を産みます
馬は 姫の跡を慕ってはるばる奥州へ下り 姫君と再会し 姫の無事を喜んで都へ戻って行った

一方 姫君は「馬」に似た「わが子」を見て嘆きます
なんだか切ない話ですが 美しさゆえに 大和朝廷の権力闘争の渦に巻き込まれてしまった高貴な姫様だったのだろうか???などと

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それで 名神大社なのかと 一人で勝手に合点がいって  境内を戻ります

表鳥居をくぐり 振り返り一礼

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1300年の昔 遠く都から離れた 陸奥國(mutsu no kuni)に 飛鳥(asuka)の都の伝説を持つ名神大社「子眉嶺神社(kobimine shrine)」に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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