賀多神社(かたじんじゃ)は 聖武天皇の神亀元年(724)の御鎮座と云い 古くは八王子社と称されていましたが 明治四年(1871)郷社 賀多神社と改め 明治四十年に近郷の十二社を合祀して今日に至っています 豊受大神宮(外宮)末社の赤崎神社の旧跡とも伝わっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
賀多神社(Kata shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鳥羽市鳥羽2丁目9-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)
《配》天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命,多紀理毘売命,市杵島比売命,多紀都比売命
《合》建速須佐之男命,奇稲田姫命,鵜茅葺不合命,豊玉姫命,誉田別命,大山祇命,鹿屋野比売命,大山咋命,大己貴命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・〈豊受大神宮(外宮))末社〉赤崎神社の旧跡
【創 建 (Beginning of history)】
賀多神社
当社は聖武天皇の神亀元年(724)の御鎮座といわれ、古くは八王子社と称されていたが 明治四年(1871)郷社 賀多神社と改め、明治四十年には近郷の十二社を合祀して今日に至っている。
当社では、元禄四年(1691)当時流行していた悪疫を払うため、神事踊りを奉納したことを契機に、宝永四年(1707)から神楽能がおこなわれてきた。
能楽に使用される能面、能衣装、小道具類は、鳥羽藩主稲垣長明氏の寄贈によるもので、非常に優れたものが多く、県文化財に指定されている。
平成十四年現地案内板より
【由 緒 (History)】
賀多神社
所在 鳥羽市鳥羽二丁目九のー
由緒
奈良時代 聖武天皇の神亀元年(724年)の御鎮座といわれ、古くは八王子社と称して五男三女神をお祀りしていたが、明治四年(1871年)郷社となり、賀多神社と改められた。
その後、明治四十年には、近郷の十二社を合祀して、今日に至っている。祭日
春の例大祭には、能楽を行うのが慣例となっている。史籍
鳥羽城主九鬼嘉隆が、豊医秀吉の命を受け、この神社の龍燈松などの御神本を使い、日本丸を造船し軍功をあげた。
そのあとに報恩のため、千本の杉を植えれといわれ、そのうちの一本が、今も残っている。 (樹齢約四百年 )宝物
能面、能衣装、組立式能舞台これらの宝物は、鳥羽藩主稲垣長明氏の寄贈によるもので、非常に優れたものが多く、県文化財に指定されている。
現地案内板より
由緒
当社は、鳥羽市鳥羽2丁目字宮の谷に鎮座しており、人皇四十五代聖武天皇,神亀元年正月朔日鎮座、翌2月11日社殿を造営して八皇子社と称え五男三女神を祀る。
そもそも当社は、古来鳥羽の郷、潟の浦の始祖神なるを以て、時の城主の九鬼嘉隆以後稲垣長敬に至る歴代の城主を始め郡内士民の欽仰厚く、実に我国惟神の風儀にして、祖先崇拝忠孝の大道ここに存す。
明治4年7月神社調により賀多神社と改め郷社に列す。而して明治40年10月、神社制度の革新により境内外に散在する岩崎神社始め無格社11を合祀し、賀多神社と単称す。
当社は鳥羽市街の中央に位し、北は日和山茶臼山を負ひ、東は市街を隔て城山に臨み、南は日の山、筧山と呼応す。当地宮の谷の渓間は白雲たなびき、老楠老椎繁茂し、社域石積の如きは海浜の名石を選びて築き、春花秋葉風景絶佳の霊域なり。
文禄元年朝鮮征討の役、城主九鬼嘉隆豊臣大閤の命を受け大艦を造らんとせし時 賀多神社に祈願し神託に依り境内に在る竜頭松と称する大樹を伐り艦の床に据え日本丸と命名せる軍艦を造り軍功ありと言う。我国軍艦の始めにして、船夫180名を指揮し鳥羽より紀州海を経て西海に至る。西海より1500の兵を率い朝鮮に赴き大いに戦功あり※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・豊栄稲荷神社《主》倉稲魂命
・祖霊殿《主》氏子の祖霊
・賀多神社能舞台
賀多神社の祭礼に奉納される神能楽に使用される組立式能舞台で、春祭り使用時以外は、収納庫に保存されている。舞台は切妻造りで、板葺き屋根の組立式舞台部分は、松の柱に杉板張り、三間四方、舞台につながる廊下部分の橋掛も備えた本格的な造りであり、初期能舞台の形式を踏襲している。また、鏡板裏面に「嘉永7(1854)年寅九月」の墨書がある。現在はほとんど見られなくなった組立式の能舞台が今日も使用され、組立、解体の技術が伝承されている点も貴重である。同社所有の「能面附能衣裳」も県指定文化財に指定されている。
現地案内板より
・老杉の記
文禄元年朝鮮征討の役、鳥羽城主九鬼嘉隆豊臣太閤の命を承け艨艟を造らんとせる時、賀多神社に祈願し畏き神託に依りて境内なる龍燈松と称する大樹を伐りて船骨となし、日本丸と命し卷千五百の軍兵を引率し、船夫百八十名を指揮し、鳥羽港より紀州海を經て直ちに西海に至る。
日本丸の構造たるや船上に三階の櫓を設け、その上段に皇大神宮の大麻を奉安し、周囲に三つ巴の幔幕を張る。嘉隆西海より先陣となりて朝鮮に赴き、本船を助くるに小高丸波切丸岩丸山不知等の小船を以てし、敵船に肉薄して大に戦功あり。
依て神恩報謝の為め凱旋の後賀多神社域内に杉千本を増殖す。世人九鬼の千本杉と曰ふ。然るに其後故ありて伐採せるとき僅かに三株を餘したるに、二株は既に風雷のため枯損し、今なお残存せるは則ち此一樹なり
宮の谷 森の蔭に於て
明治四十五年二月十一日 源の美濃留誌現地石碑文より
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
赤崎神社 (あかさきじんじゃ)〈外宮域外の末社〉の所在について
赤崎神社の旧鎮座地については諸説〈・智久和島(智久利島)にあり・賀多神社が旧跡である等々〉があり 定まっていません
『鳥羽誌』〈明44年〉に記される内容
赤崎神社について 詳細な説明の後「或は曰ふ 日和山の南麓に在る賀多神社の森は此の社の舊地なり」と賀多神社が旧跡であると記しています
【抜粋意訳】
▲赤崎神社
藤の郷字赤崎 (舊船倉の南海岸)に在り、豊受大神宮の攝社にして、荒崎媛命を祭る、境内千廿二坪、樹木鬱蒼、前面は則ち烏羽浦にして安樂島、村山、坂手の白石濱を望める佳景の地なり、夏時納凉の客多し、
(赤崎は土赤きを以て名く、是れ地下の黃銅礦が大氣の作用を受け、酸化鐵となりて地上に暴露したるもの、俗に此土をヤケどと稱し此土あれば必らず地下に礦脈あるを稱せり)、
もと赤崎明神といひ、神祇本源に「赤崎明神在知久私島」止由氣太神宮儀式帳及び長徳檢錄に「赤崎社」建久内宮年中行事六月十五日贄海(にへのうみ)神事の祝詞に「惡志赤崎加布良古(あくしあかざきかぶらこ)の明神」と記すもの即ち是なり、
或は曰ふ 日和山の南麓に在る賀多神社の森は此の社の舊地なりと、此社神宮の攝社なるを以て神宮より祠官來りて二月二十二日新年祭、六月二十二日月次祭、十月二十二日神嘗祭、十一月二十八日新嘗祭、十二月二十二日月次祭を行ひ、尚ほ舊慣として藤の郷の者七月一日を以て私祭を行ふ、是れ烏羽に於ける大祭の最終なりとす。
【原文参照】
・赤崎神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉《主》荒崎姫命(あらさきひめのみこと)
・賀多神社(鳥羽市鳥羽)
〈赤崎神社の旧鎮座地〉
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について
お伊勢さん125社について
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄志摩線 鳥羽駅から岩崎通り 経由で約700m 徒歩12分程度
賀多神社(鳥羽市鳥羽)に参着
一礼をして 一の鳥居をくぐり境内に入ります
二の鳥居をくぐり抜けて 石段を上がると拝殿が建ちます
拝殿に進むと 正面には 正殿が祀られています
しかし 遷宮前の仮遷座所が左手に設けられていて
こちらに向けて 賽銭を納め お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
ちなみに正殿は 南向き
21年ごとに遷宮を行っていて 伊勢神宮外宮の別宮である多賀宮と月夜見宮の古材を用いているとのこと
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
郷社 賀多(カタノ)神社について 聖武天皇御宇の神龜元年正月朔日の鎮座と記しています
志州鳥羽八皇子は天照大神の五男三女なので 大神御遷宮の式年に準じて21年ごとに遷宮を実施しているとも記されています
【抜粋意訳】
〇三重縣 志摩國 志摩郡鳥羽町字本町宮ノ谷
郷社 賀多(カタノ)神社
祭神 正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命 天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命,多紀理毘賣命,市杵島比賣命,多紀都比賣命
合祀 建速須佐之男命,奇稲田姫命,誉田天皇,鵜茅葺不合命,豊玉姫命,大山祇命〔二柱〕,倉稲魂命〔五柱〕,大己貴命〔三柱〕,少彦名命,大山咋命,
社伝に云く、聖武天皇御宇神龜元年甲子正月朔日鎮座、其翌年乙丑二月十一日此所に叢祠を造営して齊祀すと、
八皇子鎮座記に曰く、人皇四十五代聖武天皇神龜元年正月朔日、志摩國鳥羽縣、北山陰に當て谷あり、此谷は杉鬱々青翠を含み、會鳥皆々四時を報ず、實に邦内の勝景なり、里民五穀神を此に勧請し、潟仰再拜して白和幣を進め、白木綿花を捧げ、神樂を奏す、其詠歌「鷲乃御船爾乗弖兒乃谷爾天降座須八都島乃神」八ツ島神は八王子なり、又是に從て兒谷を宮谷と改號す、同御字神龜二年二月十一日載ち叢祠を此に造営す」と、即ち 志州鳥羽八皇子は天照大神の五男三女たるに由り、大神御遷宮の式年に準へ、二十一年ごとに遷宮し來りしに、某年町家火を失し社殿亦其災に罹る江府再建の資として白銀一枚を賜ふ、次いで造営成り遷座す、惜哉今其年代を詳にせず、
神祠紀事に云く、牛頭天王は素戔嗚尊を祭るなり、其社地烏羽城の以北磐崎の城裏に在り、故に里民朝参暮詣の志を達げす、報賽禮幾んと稀なり、然るに延寶四年丙辰夏 悪疫流行し、戸々家々疫死する者夥し、土俗此神に祷り縣邑全く活く、其神助に感じ、乃ち國君に請うて神社を兒谷に遷し、八皇子の右方に配享す、抑も孝慈の道、神人と雖も豈其れ異ならんや云々」、
志陽略誌に曰く「三五合祭の八皇子の神鷲羽に駕して降臨せらるるの地なり、故に鳥羽を以て之に名く、八皇子社今見に本町宮の谷に在り」と、能く當社の由來綠起を悉したるものと謂ふべし、明
治八年郷社に列せらる、霊形は船座たり、同四十一年村社岩崎神社及び無格社八幡神社、同山之神社、大杉神社 ,同日吉神社、同秋葉社、同稻荷社四座 ,同琴平社等の境内社を本社に合祀すと云ふ。
・・・・・
・・・・・
【原文参照】