鹿島神宮(かしまじんぐう)は 武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)を祀る鹿島神社〈全国に約600社〉の総本宮です 『常陸国風土記713AD.』には 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)・『延喜式神名帳927 AD.』には 名神大社 鹿島神宮(かしまの かむのみや)と記されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鹿島神宮(Kashima Jingu)
[通称名(Common name)]
かしまさま
【鎮座地 (Location) 】
茨城県鹿嶋市宮中2306-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》武甕槌大神(たけみかづちのおほかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・建国功労の神
・武道の祖神 決断力の神
・農漁業商工殖産の守護神
・縁結び安産の神様
・交通安全 旅行安泰の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 常陸国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒・御祭神
鹿島神宮の御祭神「武甕槌大神」は、神代の昔、天照大御神の命を受けて香取神宮の御祭神である経津主大神と共に出雲の国に天降り、大国主命と話し合って国譲りの交渉を成就し、日本の建国に挺身されました。
鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。
現在の社殿は徳川二代将軍の秀忠により、また奥宮は徳川家康、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されたもので、いずれも重要文化財に指定されています。
鹿島神宮の例祭は毎年9月1日に行われますが、うち6年に一度は天皇陛下の御使である勅使が派遣される勅祭となり、さらにそのうち2回に1回、すなわち12年に一度の午年には、水上の一大祭典である御船祭も斎行されます。
鹿島神宮公式HPよりhttps://kashimajingu.jp/about/%e5%be%a1%e7%94%b1%e7%b7%92%e3%83%bb%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/
【由 緒 (History)】
由緒
御祭神 武甕槌大神
創 祀
神武天皇 御即位の年に神恩感謝の意をもって 神武天皇が使を遣わして 勅祭されたと伝えられる。御神徳
神代の昔 天照大御神の命により 国家統一の大業を果たされ建国功労の神と称え奉る。また韴霊剣(ふつみたまのつるぎ)の偉徳により 武道の祖神 決断力の神 と仰がれ関東開拓により農漁業商工殖産の守護神 として仰がれる外常陸帯の古例により 縁結び安産の神様 として著名である。更に 鹿島立ちの言葉が示すように交通安全 旅行安泰の御神徳が 古代から受け継がれている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・奥宮《主》武甕槌神荒御魂
・三笠社《主》三笠神
・高房社《主》建葉槌神
・坂戸社《主》天児屋根命
・沼尾社《主》経津主神
・須賀社《主》素盞嗚神
・熊野社《主》伊弉諾命,事解男命,速玉男命
・稲荷社《主》保食神
・熱田社《主》素盞嗚命,稲田姫命
・御厨社《主》御食津神
・年社《主》大年神
・潮社《主》高倉下神
・阿津社《主》活津彦根命
・国主社《主》大国主命
・海辺社《主》蛭子命
・祝詞社《主》太玉命
・押手社《主》押手神
・津東西社《主》高龗神,闇龗神
・鷲宮《主》天日鷲命
・大黒社
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈鹿島の大神が初めて天降(あまくだ)り給いし所〉
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・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
平安初期までの大和朝廷は 東国の蝦夷(えみし)を制圧し 古代日本の中央集権体制を目指し 東北の開拓に乗り出します
香取神宮・鹿島神宮は 奥州開拓の拠点でした その苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉は 奥州各地の水上交通の拠点に祀られました
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭(つきなみのまつり)
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭(にいなめのまつり)
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Myojin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3 名神祭 二百八十五座
・・・・
・・・・
鹿島神宮 一座(かしまのかむのみや ひとくら)
・・・・
・・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺 綿(ワタ)1屯 絲(イト)1絇 五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺 木綿(ユウ)2兩 麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺 絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式 巻8 神祇八 祝詞』春日祭 に記される伝承
春日祭祝詞の冒頭に 鹿嶋坐 健御賀豆智命・香取坐 伊波比主命・枚岡坐 天之子八根命・比賣神の4柱が のえられています
【抜粋意訳】
春日祭
天皇(すめらみこと)我大命 尓(その)坐(まします)世 恐(かしこ)み
鹿嶋坐 健御賀豆智命(かしまにます たけみかつちのみこと)
香取坐 伊波比主命(かとりにます いはひぬしのみこと)
枚岡坐 天之子八根命(ひらおかにます あめのこやねのみこと)比賣神(ひめかみ)
四柱の皇神等の廣前に・・・・・・・
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)常陸国 38座(大7座・小31座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鹿島郡 2座(並大)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)
[ふ り が な ](かしまの かむのみや)
[Old Shrine name](Kashima no kamunomiya)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
2つの大社「出雲大社」「鹿島神宮」の謎 御本殿内部で横を向く御神座
「出雲大社」「鹿島神宮」の二つの神社の御神座の向きは 相対的に全く逆に造られていて 何らかの関係があるのであろうと示唆されています
鹿島神宮の御本殿の向き
本殿は 北向きに建てられ しかし 本殿内部の御神座は 本殿内陣の南西隅にあって 東を向くと伝わります
出雲大社の御本殿の向き
本殿は 南向きに建てられ しかし 本殿内部の御神座は 本殿内陣の東北隅にあって 西を向くと伝わります
ところで 鹿島神宮の御本殿の建物自体は 北を向いています
一説には 東国から北は〈土着民族〉蝦夷(えみし)の国であった頃 大和朝廷が その討伐の為に 常陸国(茨城県)と下総国(千葉県)を朝廷の蝦夷征伐における重要な軍事拠点として 鹿島神宮と香取神宮を奉りました
東北の各地〈蝦夷の国〉を制圧するたびに 鹿島神と香取神を祀っていきます鹿島神宮の本殿が 北側に向いているのは これらを鎮護する為とも云われます
『延喜式神名帳927 AD.』所載社で「神宮」の称号を記されたのは 3所のみ〈大神宮・香取神宮・鹿島神宮〉
『延喜神祇式』神名帳には
下緫國 香取郡 香取神宮(かとりの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)
常陸國 鹿島郡 鹿島神宮(かしまの かむのみや)(名神大 月次 新嘗)
と両神宮ともに 神宮(かむのみや)と見えていて
両神宮ともに・名神大・月次(つきなみ)・新嘗(にひなめ)とされ・祈年・月次・新嘗の祭りには 案上の幣帛が奉られ 神官として・宮司・禰宜・祝部各1名・物忌1名がおかれた
〇伊勢國(いせのくに)度會郡(わたらひの こおり)
大神宮三座(相殿坐神二座・並 大預 月次 新嘗等祭)(おほむかむのみや みくら)
・皇大神宮 内宮〈伊勢神宮 内宮〉(伊勢市)
〇下緫國(しもつふさのくに)香取郡(かとりの こおり)
香取神宮(名神大 月次 新嘗)(かとりの かむのみや)
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
〇常陸國(ひたちのくに)鹿島郡(かしまの こおり)
鹿島神宮(名神大 月次 新嘗)(かしまの かむのみや)
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
香取・鹿島の両神宮の式年遷宮について
伊勢神宮には 『延喜太神宮式』に「凡太神宮は廿年に一度 正殿宝殿及び外幣殿を造り替えよ」と記載があります
香取・鹿島の両神宮にも やはり 正殿20年ごとに造営を行う定めについて〈『日本後紀』『延喜式 臨時祭』〉に記されます
『日本後紀(Nihon koki)』〈承和7年(840年)完成〉に記される伝承
九世紀初頭には 住吉大社 香取神宮 鹿島神宮の3神社について 20年に一度の遷宮・造替が制度化されていた事が記されています
【抜粋意訳】
卷廿二弘仁三年(八一二)六月辛卯〈五日〉の条
○辛卯
薩摩國蝗 免逋負稻五千束 遣使修大輪田泊
神祇官言 住吉香取鹿嶋三神社 隔廿箇年 一皆改作 積習爲常 其弊不少 今須除正殿外 隨破修理 永爲恒例 許之
【原文参照】
『延喜式(えんぎしき)巻3〈延長5年(927)〉』神祇について
摂津国住吉 下總国香取 常陸国鹿嶋などは 20年に一度の正殿の造替と その経費に神税もしくは正税を充てるように と記されています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭の条
凡諸国神社随破修理 但 摂津国住吉 下總国香取 常陸国鹿嶋等 神社正殿 廿年一度改造 其料便用神税 如無神税 即充正税
〈およそ諸国の神社は破るるにしたがいて修理せよ
ただし摂津国の住吉 下総国の香取 常陸国の鹿嶋などの神社の正殿は 二十年に一度改め造り その科は便に神税を用いよ もし神税なくば すなわち正税を充てよ〉
【原本参照】
香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
平安初期までの大和朝廷は 東国の蝦夷(えみし)を制圧し 古代日本の中央集権体制を目指し 東北の開拓に乗り出します
香取神宮・鹿島神宮は 奥州開拓の拠点でした その苗裔神(びょうえいしん)〈御子神(みこがみ)〉は 奥州各地の水上交通の拠点に祀られました
・香取・鹿島の苗裔神(びょうえいしん)について
鹿園(らくえん)について
現在 野生の鹿と人間が共存しているとして 世界的な観光地となっている奈良公園〈春日大社(奈良県)〉の鹿は とても有名です この鹿たちは 元々は ここ鹿島神宮の鹿でした
神鹿について
鹿島神宮の御祭神である武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)様のところへ、天照大御神(あまてらすおおみかみ)様のご命令を伝えに来られたのが天迦久神(あめのかぐのかみ)という方で、鹿の神霊とされていることから、鹿島神宮のお使いは鹿となっています。
神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。
その鹿の足跡が、東京江戸川区の鹿骨(ししぼね)をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています。
また、鹿島も古くは香島と書いていましたが、養老7年(723)ごろから鹿島と書くようになったのは、この鹿との縁によるものでしょう。神鹿は長い間大切に保護されてきておりますが、幾度か新たに導入され、現在の神鹿はかつての鹿島から移った奈良の神鹿の系統を受けています。現地案内板より
春日大社の創建
神護景雲元年(西暦767年)御分霊を神鹿の背に乗せ 藤原氏は氏神である鹿島の大神の御分霊を奈良にお迎えして春日大社を創建しました
・春日大社(奈良市春日野町)
東国三社
・鹿島神宮(鹿嶋市)常陸国一之宮
・香取神宮(香取市)下総国一之宮
・息栖神社(神栖市息栖)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鹿島神宮の「一の鳥居」は 古くは東西南北に4基があったとされます 現在は東西南の3基です
西の一の鳥居は 北浦湖畔の鹿嶋市大船津にあり 現在は日本一の水上鳥居となっているが 昭和の初期まで 大船津は 鹿島神宮への参拝者の船着場でしたので 平成頃までは 陸上に建っていました
太古には 大船津から舟で 鹿島神宮の御手洗池まで進み そこで潔斎して参宮したと伝わります
その当時の面影を残す 鹿島神宮園地(御手洗池)の辺り
御手洗
古来、神職並びに参拝者の潔斎の池である。池の水は清く美しく澄み、四時滾々(こんこん)と流れ出てどのような旱魃(かんばつ)にも絶えることのない霊泉で、神代の昔御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとも、宮造りの折一夜にして湧出したとも云われ、大人子供によらず水位が乳を越えないという伝説により、七不思議の一つに数えられている。
大昔は当神宮の参道がこの御手洗を起点として、この池で身を清めてから参拝するので「御手洗」の名が今に残るのである。現地立札より
JR鹿島駅から南へ約650m 徒歩10分程度 正面参道より
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)に参着
東日本大震災の時に倒壊した鳥居の痕〈注連縄が張られて祀られていました〉
楼門が見えてきて 左手には手水舎があり 清めます
楼門に一礼をして くぐり抜けます
右手にある拝殿に向かう前に 正面左手の仮殿
仮殿の前に鎮座する 摂社 高房社にお詣りをします〈御祭神 建葉槌神(たけはづちのかみ)は 武甕槌神の葦原中国平定に最後まで服従しなかった天香香背男命(あまのかがせおのみこと)を抑えるのに大きく貢献した神で 古くから まず当社を参拝してから本宮を参拝する習わしあり〉
御神木を背にして鎮座しています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿を眺め拝します
ここからは 広大な境内奥深く入ります
「境内案内と鹿島七不思議」の看板板には
境内案内
奥宮(おくのみや)
ここより300メートル
本宮御祭神の荒魂(あらみたま)を奉祀する。
社殿は慶長十年(西暦1605)に徳川家康公 奉納の旧本殿を元和五年に引遷したもので 明治三十四年国宝指定 現重要文化財要石(かなめいし)
ここより450メートル
奥宮の後方150メートルのところにある石で 別名を山の宮、御座石(みましいし)といい幾多の神秘的な伝説がある。特に地震を起す大鯰を押えているという説話により当地方は大地震にも被害が少ないという。御手洗(みたらし)
ここより500メートル
奥宮の前の坂と下ったところにあろ潔斎の池で、古くはこの池のあたりが参道の起点であった。池の水温は一定して夏は冷たく冬は温かく感じられる。鹿園(らくえん)
ここより120メートル
御祭神の神使として親しまれている神鹿が三十数頭柵の中に飼育されている。樹叢(じゅそう)
鹿島神宮境内妁70ヘクタール(70町歩)に繁茂する植物は一千種の多種にわたり 特に南限北限の植物か同生して植物学上貴重なため県丿天然記念物の指定を受けている。鹿島七不思議
要 石 その根底ふかくて図り知れずという
御手洗 池の深さ大人 小人によらず乳を過きずという
末無川 川の水 流れ行くほど追々かれて行末知らず
藤の花 御山の藤の花の多少によりその年の豊凶を予知すること
海の音 浪の響が上(北)の方に聞えれば日和 下(南)に響けは雨降るという
根上りの松 すべて御山の内の松 幾度伐れども伐り跡に芽出て枯れることなし
松の箸 鹿島の松で作る箸は松脂の出たことなしという
参道以外の鎮守の杜は「神域につき立ち入りを禁じます」との立札があり 参道にも古木が立ち並びます
国家「君が代」にも謡われる さざれ石
鎮守の杜は 益々深みが増します
参道沿いの末社の熱田社にお詣りをします
続いて 奥宮にお詣りをします
奥宮の本殿の奥へ抜けて 要石へ向かいます
途中 御祭神が鯰を抑え込む石像
要石の前には 大々御神楽
要石は 玉垣に囲まれて 鳥居が建ちます
要石から奥宮まで戻り 御手洗へと下がります
御手洗は 太古 参拝者の禊池だったとのこと 清らかな水を湛えています
御手洗を過ぎて 大国社にお詣りをします
参道を戻り 駅へと向かいます
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『鹿島立ち』 の伝承について
鹿嶋市郷土かるたの部屋
「に」 日本を守る 防人赴く 鹿島立ち
天智天皇2年(663年)に白村江(はくすきのえ)の戦いで唐(現在の中国)・新羅(現在の韓国の東側にあった国)の連合軍に大敗した倭軍(古代の日本)は、連合軍が攻めてくる危機を感じ、天智天皇3年(664年)、対馬、壱岐、筑紫国(現在の長崎県と福岡県の北側沿岸部)に防人(さきもり)を配置して守りを固めました。はじめのころ防人は、遠江(現在の静岡県)以東の東国からおもに集められ、九州に赴きました。防人に選ばれた人たちは鹿島神宮で旅の安全と無事に故郷へ帰れることを祈って出発しました。これが“鹿島立ち”の起源です。
現在も旅の安全を祈って良い旅であるよう願いをこめて旅に出発することを“鹿島立ち”と言われています 。
鹿嶋市役所HPより
https://city.kashima.ibaraki.jp/site/karuta/15638.html
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)〈和銅6年(713年)〉』に記される伝承
香島郡(かしまのこおり)の名称は 香島天之大神(かしまのおほかみ)〈鹿島神宮〉があるので 名付けられたと記していますので 香島郡の全文を載せます
ただし 風土記の神の名は 香島神であり「たけみかづちのかみ」とは記されません
【抜粋意訳】
香島郡(かしまのこおり)
東は大海 南は下総 常陸との堺には安是(あぜ)湖 西は流海 北は那賀 香島堺には阿多可奈(あたかなの)湖がある
古老の曰く
難波長柄豐前大朝駅宇天皇〈孝徳天皇〉の御世 己酉の年 大乙上 中臣〇子 大乙下 中臣部兎子(なかとみのうなこ)らが 惣領の高向大夫に申し出て 下総国 海上国造の領内 軽野より以南1里 那珂国造の領内 寒田より北5里を割いて 別に神郡を置いた
その所にまします 天之大神社(あまのおほかみのやしろ)坂戸社(さかどのやしろ)沼尾社(をはりのやしろ)3所を 香島天之大神(かしまのおほかみ)と総称する〈鹿島神宮〉
これに以って郡の名が付けられた
土地柄の説に「霰零(あられふる)香島の国」という
《香島神について》
天地草味巳前〈清濁(せいだく)混じり合う 天地創始の前〉諸祖天神(俗にいう かみるみ かみるき)が 八百万神々(やおよろずのかみがみ)を高天原に集い給う時 諸々の祖神(かみろきかみろみ)たちに「今 我孫命(がみまのみこと)が 統治すべき豊葦原水穂之国(とよあしはらみずほのくに)」と告げられた
このお告げにより 高天原より降り来られた大神の名を 香島天之大神(かしまのあめのおほかみ)という
天にては 則(すなはち)日香島之宮(ひのかしまのみや)と号曰(なづけ)
地にては 則(すなはち)豊香嶋之宮(とよかしまのみや)と名づく
俗にいう 豊葦原水穂之国(とよあしはらみずほのくに)を任せ与へむとの詔には 荒ぶる神ら 岩も木立も草の片葉も言葉多く 昼は五月の蝿のように騒がしく 夜は火の燃える国であり これを言向ける〈平定する〉べき大御神として 天降り皇孫に仕えたその後 初國所知(はつくにしらしし)美麻貴天皇(みまきのすめらみこと)〈崇神天皇〉の御世に
奉納した幣帛は 太刀10口 鉾2枚 鉄弓2張 鉄箭2具 許呂4口 枚鉄1連 練鉄1連 馬1疋 鞍1具 八咫鏡2面 五色の絁1連であった
俗にいう 美麻貴天皇〈崇神天皇〉の御世に大坂山の山頂に 白細の大御服を着て 白桙の御杖を持ち座した神が神託を下した「我が前を祀れば 汝が治めるべき 大国・小国のことを任せよう」
その時 天皇は 八十〈数多く〉の族長を集め 神託のむきを問うと
大中臣 神聞勝命(かむしきかつのみこと)が申すには「大八嶋国は 天皇が統治すべき国である この国を平定された 香島の国に坐(ます)天津大御神(あまつおほみかみ)の教えでございます」
天皇は これを聞かれ 驚き恐(かしこ)み 先の幣帛を神宮(かみつみや)に奉納されたのです
《神戸 について》
神戸は65戸 木8戸(本八戸 難波天皇〈孝徳天皇〉の御世 加えて50戸を奉り
飛鳥浄見原大朝〈天武天皇の御世〉加えて9戸を奉り 併せて67戸 庚寅年に編戸 減2戸 定めて65戸淡海大津朝〈天智天皇の御世〉に 初めて使いを遣わせ 神之宮を造らせ給うそれ以来 修理を絶やさず
毎年7月に 舟を造り 津ノ宮に納め奉る
古老の曰く
倭武天皇(やまとたけるのみめらみこと)の御世に
天之大神〈鹿島大神〉が 中臣臣狭山命(なかとみのおみさやまのみこと)に「今 社に御舟をつかへ祀れ」と言われた
臣狭山命は答え「謹んで大命を承りました 敢えてお断わりなど致しません」
天之大神は 夜明けの後「汝の舟は海中に置いた」と言われた 船主〈狭山命〉が探してみると それは岡の上にあった
その後 天之大神は「汝の舟は岡上に置いた」と言われた 探してみると それは海中にあった このようなことが 既に二度三度ではない それで 狭山命は恐れ畏まり 新たに長さ2丈余り〈6m程〉の舟を3隻造らせて献上差し上げた これが船の奉納の初まりです
毎年4月10日に 祭を設けて酒を頂戴し 卜部氏(うらべのうじ)の一族が男も女も集い会い 昼も夜も幾日も 酒を飲み歌舞を楽しんでいる
その歌には
あらさかの 神の御酒を 飲げよと 言ひけばかもよ 我が酔ひにけむ
〈尊い神酒を飲むように勧められ 私は酔うてしまったのであろう〉神社〈鹿島神宮〉を周(めぐる)辺りは 卜部氏(うらべのうじ)が住む所
地形は高く開け 東西には海が臨み 峰谷が犬の牙のように村里と交差し 山木と野草が垣根となり内庭としている 谷を潤い流れる川や崖の泉は 朝夕の汲水とし 嶺の頂上に家を構え 松と竹で外を守る垣となし 谷の腰〈中腹〉に井戸を掘り ツタが崖の上を覆う 春にその村を通れば 百艸□花が見え 秋にその道を行けば 千樹に錦葉〈紅葉〉がある 神仙の幽居之境(かくりすむさかひ)霊異が姿を化えて誕生する地 その麗しい豊かさをことごとく 記すことはできません
《社の東西南北》
その社〈鹿島神宮〉の南には群家があります 北には沼尾池があり
古老の曰く
「神代に天より流れてきた水沼なり」この所に生える蓮根は 味氣(あじわい)良く 他の所には絶対にない程の美味しさです
病者が この沼の蓮根を食べると 早く癒える験(しるし)があり 鮒や鯉が多い 以前は群家が置かれた所で 橘(たちばな)〈柑橘類〉も多く蒔かれていた その実は味(うま)し郡家の東2,3里のところに高松濱(たかまつのはま)があります 大海より流れつく砂や貝が積り 高丘となり 松林が自生し 椎・柴が交じり 既に山野のようです 東西の松の下から出る泉があり 周囲は89歩 清く貯まって大(おほ)いに 好(よ)し
《香島の神山 若松浜の砂鉄》
慶雲元年(704)国司 采女朝臣(うねめのあそみ)が 鍜佐備大麿(かぬきさびのおほまろ)らを率いて 若松浜の鉄を以って 剣を造る
ここから南の軽野里(かるののさと)若松浜(わかまつのはま)までの30里余り ここは皆 松山で 伏苓(まつほど)伏神(ねあるまつほど)〈薬草〉を毎年掘ります
その若松浦は 常陸・下総の二国の堺にある安是湖(あぜのみなと)です この所の砂鉄は大変鋭い剣となる しかし 香島の神山なので みだりに入り 松を伐ったり 鉄を穿つ〈掘る〉ことはできない
郡家の南20里に濱里(はまさと)があります ここから東の松山の中に 一つの大きな沼があり 寒田(さむた)といいます 周囲は4,5里(2~3km)ばかり 鯉や鮒が棲み 之万(しま)軽野(かるの)この二つの里にある田を少し潤す
《漂着した大船》
軽野より東にある大海の浜辺には 漂着した大船〈長さは15丈(約45m)、幅は1丈(約3m)余り〉があります 既に朽ちて砕けて砂に埋りますが 今もなお残っています この船は淡海之御世〈天智天皇の御代〉に国見の令により 陸奥国(むつのくに)の石城(いわき)の船造りに作らせた大船が この所に着岸してすぐに壊れたといいます
《童子女松原(をとめのまつばら)》
その南に 童子女松原(をとめのまつばら)あり 古に年少ない童子がいました 俗にいう 加味乃乎止古(かみのをとこ)・加味乃乎止賣(かみのをとめ)といいます
男を称して 那賀寒田郎子(なかのさむたのいらつこ)と
女を号して 海上安是嬢子(うなかみのやせのをとめ)は 並んで容姿端麗で
光り輝いていたので その名は郷里に相聞えていた やがてお互いに会いたいと望むようになり 気持は心から消ません
月日を重ね 歌垣の集いで 偶然に二人は出会うその時の郎子(いらつこ)が歌 曰く
「いやぜるの 安是の小松に 木綿垂でて 吾を振り見ゆも 安是小島はも」
〈安是の小松に 木綿を懸け垂らし舞ひながら 私に振っていように見える 安是の小島は〉孃子(おとめ)の報歌(こたへうた)曰く
「潮には 立たむといへど 汝夫の子が 八十島隠り 吾を見さ走り」
〈潮が寄せる浜辺に立とうと言っていたのに あなたは 八十島に隠れ 私を見つけ走りくる〉相語りたいと思っていましたので 歌垣の場から人目を避けて 松の下の陰に互いに手を取り 膝を近づけ 今まで溜めていた想いを吐露すると 長年積もった恋の想いから解き放たれて 新たなる歓びがあり しきりに笑みました
その時 玉露(たまのつゆ)のある 爽やかな秋風が吹きぬけていました 煌々と月が照らし 鳴く鶴(つる)の帰る西の洲があり 松風が吹き 渡る雁(かり)が行く東の山 静寂な巌の清水が流れ 夜は寂しく煙のような霜が新たに降りていき 近い山林の散る葉は色づき 遥かな海には ただ青波が磯に砕ける音が聞こえるのみでした
今宵は このうえなく楽しい ただひたすら甘き語らいに沈み 夜が明けるのも忘れた にわかに鶏(とり)が鳴き 狗(いぬ)が吠え 朝焼けの日が昇った 童子らは成す術を知らず 遂に人に見られることを恥じて 松の樹と化してしまった
郎子(いらつこ)を奈美松(なみまつ)と
嬢子(おとめ) を古津松(こつまつ)と称した
古より名が付けられて 今に至るまで改められていません
《白鳥里(しらとりのさと)》
郡家の北より30里のところに白鳥里(しらとりのさと)があります
古老の曰く
伊久米天皇(いくめのすめらみこと)〈垂仁天皇〉の御世に 天から飛来した白鳥がいました
童女(おとめ)に化け〈姿となり〉朝に舞下り 石を摘み 池を造る為に堤を築き 夕方には舞上っていた 日月を積んでいたが 築けば壊れ 完成できずにいた
そして童女らは
「白鳥の 羽が堤を 築むとも あらふ真白き 羽壊え」
〈白鳥の羽を抜いて堤を積み上げるなら 真白き羽は壊れてしまう〉
このように歌い天に昇り 後 降りて来ることはなかった この由により その所を白鳥郷(しらとりのさと)と名付く 以下略《角折浜(つのをりのはま)》
そこから南は平原 そこを角折浜(つのをりのはま)という
いわれは 古に 大蛇があり 東海(ひがしのうみ)に通るために 浜に穴を掘っていたが 蛇の角が折れ落ちた これに因んで名が付いた
別の伝えに
倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)が この浜に宿られた時 御饌を供えた時に水が無く 鹿の角で地を掘ってみると 角が折れたので その所の名となった 以下略
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
国譲りの段で 経津主神(ふつぬしのかみ)と並んで
「武甕槌神(たけみかづちのかみ) 是甕速日神(みかはやひのかみ)之子 今常陸国鹿島神是也」 と記されています
鹿島神宮の祭神が 武甕槌神(たけみかづちのかみ)であると記した文献の初見となります
【抜粋意訳】
天祖(あまつみおや)の吾勝尊(あかつのみこと)は 高皇産霊神(たかみむすひのかみ)の娘の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)を娶り 天津彦尊(あまつひこのみこと)を生まれた 皇孫命(すめみまのみこと)と言われます [天照大神・高皇産霊神の二神の孫の為 故に皇孫と言う]
しかして 天照大神・高皇産霊尊は 皇孫を崇め奉り養育された 天下らせ豊葦原中国(とよあとはらのなかつくに)の主(きみ)としようと思われた経津主神(ふつぬしのかみ)[これは 磐箇女神(いはつつめのかみ)の子 今 下総国(しもふさのくに)の香取神(かとりのかみ)なり]
武甕槌神(たけみかづちのかみ) [これは 甕速日神(みかはやひのかみ)の子 今 常陸国(ひたちのくに)の鹿嶋神(かしまのかみ)なり]
を遣わして 駆逐し 平定させ鎮めた
ここに大己貴神(おほなむちのかみ)とその子 事代主神(ことしろぬしのかみ)は 共に去り奉られた時 国を平定した矛を二神に授けて「私は この矛で国を平定した 天孫がもしこの矛を用いて国を治めれば必ず平安となるであろう 今から私は隠れましょう」と言われて ついに隠れられた
ここに二神は 不順(まつろわぬ)鬼神(かみたち)らを誅し 遂に復命〈天に報告〉した
【原文参照】
『続日本紀(Shoku Nihongi)』〈延暦16年(797)完成〉に記される伝承
六国史に記される 神階奉授の初見です
内大臣(うちのおおまえつぎみ)従二位 藤原朝臣良継(ふじわらのあそん よしつぐ)が 病(やまい)となり その氏神への神階奉叙の記録として記されています
【抜粋意訳】
宝亀8年(777年)7月16日の条
内大臣(うちのおおまえつぎみ)従二位 藤原朝臣良継(ふじわらのあそん よしつぐ)病(やまい)す
その氏神に叙す
鹿島社 正三位
香取神 正四位上
※【参考】
次に記される 鹿島神は 宮城県亘理郡亘理町の「鹿島天足和気神社(かしまあまたらしわけじんじゃ)」の事です 大和朝廷は 北の蝦夷(えみし)を制圧していきながら 鹿島神の分霊を祀ります
延暦元年(782年)5月20日(壬寅)の条
陸奥国 言 鹿島神を祈祷して 凶賊を討伐するに神験顕著なるもの有り 望むらくは位封を賽せんと勅して 勲五等 封二戸を授く
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
春日祭の祝詞神四座への神階の奉授が記されています
東国にあって 最高の格を有する神社として神階を授かります
【抜粋意訳】
承和3年(836年)5月9日(丁未)の条
下総国(しもふさのくに)香取郡(かとりのこおり)
従三位 伊波比主命(いはひぬしのみこと)〈香取神宮〉に正二位
常陸国(ひたちのくに)鹿嶋郡(かしまのこおり)
従二位勲一等 建御賀豆智命(たけみかつちのみこと)〈鹿島神宮〉に正二位
河内国(かわちのくに)河内郡(かわちのこおり)
従三位勲三等 天兒屋根命(あめのこやねのみこと)〈枚岡神社〉に正三位
従四位下 比賣神(ひめのかみ)に 従四位上
其(その)詔(みことのり)に曰く
皇御孫命(すめみまのみこと)尓(その)四所 太神(をおしかみ)尓(その)申し給はく 太神(をおしかみ)等(たち)を 弥髙(いやたか)弥廣(いやひろ)尓(その)仕奉(つかえまつれ)となも思(をほ)ほし・・・
【抜粋意訳】
承和6年(839年)10月29日(丁丑)の条
奉授く
下総国(しもふさのくに)香取郡(かとりのこおり)に坐(まします)
正二位 伊波比主命(いはひぬしのみこと)〈香取神宮〉常陸国(ひたちのくに)鹿嶋郡(かしまのこおり)に坐(まします)
正二位勲一等 建御加都智命(たけみかつちのみこと)〈鹿島神宮〉に並びに 従一位を
河内国(かわちのくに)河内郡(かわちのこおり)に坐(まします)
正三位勲二等 天児屋根命(あめのこやねのみこと)〈枚岡神社〉に従二位
従四位上 比賣神に正四位下を・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
記紀神話から 御祭神 武甕槌命について記しています
【抜粋意訳】
鹿島神宮 名神大月次新次
鹿嶋は郡名に同じ、和名鈔 郡名 鹿島
O祭神 武甕槌命、相殿 天児屋根命、右 経律主命、社伝
○鹿島郷に在す、
O式三・臨時祭 名神祭二百八十五座、中略 常陸國鹿嶋神宮一座、
O当国一宮也、一宮記
○日本紀神代巻下、是後、高皇産靈尊、更會諸神、選當遣於葦原中国者、曰「磐裂(磐裂、此云以簸娑窶)根裂神之子磐筒男・磐筒女所生之子經津(經津、此云賦都)主神、是將佳也。」時、有天石窟所住神稜威雄走神之子甕速日神、甕速日神之子熯速日神、熯速日神之子武甕槌神。此神進曰「豈唯經津主神獨爲丈夫而吾非丈夫者哉。」其辭氣慷慨。故以卽配經津主神、令平葦原中国」云々
古事記、神代段 是に伊邪那岐命、御佩しませる十拳劒を抜きて、其の子迦具土神の頸を斬りたまひき。爾に其の御刀の前に著ける血、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、石拆神。次に根拆神。次に石筒之男神。次に御刀の本に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日神。次に樋速日神。次に建御雷之男神。亦の名は建布都神。亦の名は豊布都神」云々
旧事紀、武甕槌神(たけみかづちのかみ) 是甕速日神(みかはやひのかみ)之子 今常陸国鹿島神是也此外にも、武甕槌命の御名見えたれど同紀に略す、さて日本紀神代巻にて、武甕槌命と經津主命は別神なる事 著しく見えたれど、同紀神武巻、及古事記等の文にては、一體分身の姿なるに依て、古事記傅五にいへることともあれど、何れにまれ当社の主神は、武甕槌命なる事明らかなれば、彼別體同體の論ひは暫らく摑て、とにかくにいはず
鎮座
常陸国風土記云、
天地草味巳前〈清濁(せいだく)混じり合う 天地創始の前〉諸祖天神(俗にいう かみるみ かみるき)が 八百万神々(やおよろずのかみがみ)を高天原に集い給う時 諸々の祖神(かみろきかみろみ)たちに「今 我孫命(がみまのみこと)が 統治すべき豊葦原水穂之国(とよあしはらみずほのくに)」と告げられた
このお告げにより 高天原より降り来られた大神の名を 香島天之大神(かしまのおほかみ)という
天にある時は 日香島之宮(ひのかしまのみや)と称し
地にある時は 豊香嶋之宮(とよかしまのみや)と称す神位 勲位
續日本紀 宝亀8年(777年)7月16日の条
内大臣(うちのおおまえつぎみ)従二位 藤原朝臣良継(ふじわらのあそん よしつぐ)病(やまい)す その氏神に叙す 鹿島社 正三位 香取神 正四位上続日本後紀 承和3年(836年)5月9日(丁未)の条
常陸国(ひたちのくに)鹿嶋郡(かしまのこおり)従二位勲一等 建御賀豆智命(たけみかつちのみこと)〈鹿島神宮〉に正二位
神戸 封戸 社領社職 氏人 把笏
修理
神財
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
記紀神話にある 武甕槌神は 皆人が知っている通りだが 常陸風土記に香島郡の条に記されている 香島の神 について 再考して欲しいと記しています
【抜粋意訳】
鹿島神宮 名神大月次新次
祭神 武甕槌命
今按
書紀神代巻 伊弉諾尊御子 軻遇突智神を斬玉へる條に 劒鐔垂血 激越爲神 號曰甕速日神 次熯速日神 其甕速日神 是武甕槌神之祖也
また 古事記同段に 次に御刀の本に著ける血も亦 湯津石村に走り就きて 成れる神の名は 甕速日神 次に樋速日神 次に建御雷之男神 亦の名は建布都神 亦の名は豊布都神とみえて 甕速日神の御兄弟のさまに記され
叉 坐天安河の河上の天の岩屋に坐す 名は伊都之尾羽張神 是れ遣はすべし 若し亦此の神に非ずば 其の神の子 建御雷之男神とありて 其国平の功烈は記紀にみえて皆 人の知るが如し
常陸風土記に香島郡の条に〈記されている〉この神の威霊の甚しくますひとを知べし姑く附て考に備ふ祭日 八月十八日
社格 官幣大社
所在 鹿島郷鹿島山(鹿島郡鹿鳥町大字宮中)
【原文参照】
鹿島神宮(鹿嶋市宮中)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)