出雲神社(いづもじんじゃ)は 第44代 元正天皇 霊亀元年(715)鎮座と伝えら 周防国二之宮です その起源はさらに古く 大古 出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い その祖神を鎮祭したものと考えられています 式内社 周防國 佐波郡 出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)とされています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲神社(Izumo shrine)
【通称名(Common name)】
にのみやさま
【鎮座地 (Location) 】
山口県山口市徳地堀3572-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・治世・福徳 縁結び、開運、農耕、商工業、医薬
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 周防國二之宮
【創 建 (Beginning of history)】
神社一覧
一、神社名 出雲神社
一、位 置 山口県佐波郡徳地町大字堀三五七二番地
一、祭 神 大己貴命 事代主命 治世・福徳 縁結び、開運、農耕、商工業、医薬
一、由 緒 本社は周防国二宮としてその起源は古く、大古出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮祭したものと考えられます。
鎮座は元正天皇の霊亀元年(七一五)と伝えられ、聖武天皇の天平九年(七三七)周防国二宮として勅許を受け、奈良時代の周防国正税帳にも、その神戸・神田の奉納の記述が見受けられます。
平安時代初期の延喜式神名帳(九二七)に、周防国出雲神社二座として 式内に勅撰されました。以降、延喜式内社として、摂政藤原氏をはじめ大内・毛利氏等歴代の領主、藩主の祈願所として厚い崇敬のもとに、徳地地方の総氏神として営繕護持されてまいりました。
明治三十三年旧県社に列格、第二次大戦後も大古より受け継がれた氏子崇敬者の伝統的敬神崇祖の念は厚く、当地方はもとより県内でも稀有の古社として現在に至っております。一、祭 日 元旦祭 春祭(四月十九日) 夏祭(七月上旬) 新嘗祭(十一月二十三日) 節分祭 大祓式(六月三十日小晦日) 秋祭(九月第三日曜日) 大祓式(十二月三十一日大晦日)
一、古 式 七曲神事 蜷蒔神事 千茅神事 誓能神事 七十五膳大献供神事 神幸式所役(宮座)等
一、社 殿 寛延三年(一七五〇)藩主 毛利宗廣公により重建(流造り)
一、主な宝物 神社側近の御物 大内義隆寄進状 毛利輝元禁制札 毛利宗廣社殿奉建棟札
一、天然記念物 ツルマンリョウ自生地(出雲神社社叢) 国指定 大杉(御神木) 町指定
一、氏 子 徳地町 出雲・八坂地区の大半
一、末 社
・境内末社 宇佐八幡宮(応神天皇・神功皇后) 若宮八幡宮(誉田天皇・仁徳天皇)・境外末社 氏子地区内に二十社余
〇主要距離程 山口まで 二十Km 防府まで 十六Km
徳地インターまで四Km現地案内板より
【由 緒 (History)】
出雲神社祭礼
いずもじんじゃさいれい
概要
社伝では霊亀元年(715)の創建と伝えられ、徳地地域の最古の神社である。また延喜式内社と呼び、周防の二の宮と呼ばれた。
主な祭りとして、10月の第3日曜日午前中にご祭典、午後に古式によるご神幸が行われる。ご神幸は白衣を着した地下の人が行い、中でも庄方の人がほとんどである(古くは社が庄方にあったからという)。文献
・徳地町史編纂委員会『徳地町史』改訂版、徳地町役場、2005(平成17)、P718
・山口県教育委員会『山口県の民俗芸能』2000、P155-159
・山口県神社誌編纂委員会『山口縣神社誌』山口県神社庁、1998、P514
山口市教育委員会事務局 文化財保護課HPより
https://www.city.yamaguchi.lg.jp/rs/rekibunshigen/r140.html
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈本殿の両脇に鎮座〉・宇佐八幡宮・若宮八幡宮
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
卷十四貞觀九年(八六七)八月十六日〈壬午〉の条
○十六日壬午
周防國 正五位上 出雲神。石城神。比美神 並授從四位下。
從五位上 劔神。二俣神 並正五位下。
豐後國 從五位上 火男神。火神 並正五位下。
大和國 從五位下 生竜穴神 正五位下。從五位下 武雷神。保沼雷神 並從五位上
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)周防国 10座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)佐波郡 6座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲神社二座
[ふ り が な ](いつもの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Itsumo no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
出雲の勢力圏と 佐波川と阿武川の河川争奪
太古 佐波川の上流は横山付近で東西に流れて 阿武川と合流していたとされます 今から約三万年前に河川争奪が行われ 現在の佐波川の流路や流域が形成されました
つまり 太古は 周防灘の防府から佐波川を遡ると 阿武川と合流して日本海の萩へと通じていたことになります
現在も佐波川の上流は 周防山地ですが 吉備高原などと対比され それ程 激しい起伏もなく周防高原と呼ばれています
周防高原の先には 阿武川が流れていて 阿武川を遡り船平山を越えると 津和野に出ます
そして 津和野川を下り 高津川から日本海の益田へと出ます
古代には 日本海と周防灘を結ぶ重要な陸の交通路であったとされます
これらを合せ考えると 周防灘から出雲へ通じる要所に出雲神社(山口市徳地堀)が鎮座している事がわかります
社伝にも「本社は周防国二宮としてその起源は古く、大古出雲種族の佐波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮祭したものと考えられます。」とあります
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『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 式内社 出雲神社(イツモノカミノヤシロ)とその論社について
①『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「出雲國(イツモノクニ)出雲郡(イツモノコオリ)出雲神社(イツモノカミノヤシロ)」の論社
・素鵞社〈出雲大社の本殿奥〉
・富神社(出雲市斐川町富村)
・長浜神社(出雲市西園町)
・諏訪神社(出雲市別所町)
➁『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「丹波國 桑田郡 出雲神社 名神大」の論社
どちらも磐座(イワクラ)を信仰の拠所としています
・出雲大神宮(亀岡市千歳町出雲後田無)
・出雲神社(亀岡市本梅町井手西山)
➁『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「周防國(スオウノクニ)佐波郡(サハノコオリ)出雲神社二座(イツモノカミノヤシロ フタクラ)」の論社
・出雲神社(山口市徳地堀)
・出雲社〈熊野神社境内〉(防府市上右田)
➂『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「信濃國(シナノノクニ)水内郡(ミノチノコオリ) 伊豆毛神社(イツモノカミノヤシロ)」の論社
・伊豆毛神社(長野市豊野町)
因みに 出雲大社(出雲市)は
『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 「出雲國(イツモノクニ)出雲郡(イツモノコオリ)杵築大社 名神大(きづきの おほやしろ)
・出雲大社(出雲市)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陽本線 防府駅から 県道24号を佐波川沿いに北上 約16.8km 車30分程度
R376号との交差点を左折〈西〉すると すぐに鳥居が建っています
鳥居の前が駐車場になっていました
出雲神社(山口市徳地堀)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます
玉垣の廻された境内入口 向かって右には 自然石の社号標に 延喜式内 出雲神社と刻ざまれています
向かって左には 縣社 周防二宮と刻字された石碑があり 二の鳥居が建ちます
二の鳥居 青銅の扁額には 式内 出雲神社と鋳造されています 一礼をして 鳥居をくぐります
左手には 手水舎があり 清めます
手水舎の奥には 広い境内の先に能舞台だろうか 祭りの時はここに人々が集うのでしょう
拝殿にすすみます
石畳みの参道は広ろく 南南西を向いて建っている社殿に対して 正中を歩まないように配慮がなされていて 少し折れていて進むようになっています
神紋は 出雲の神であるので 二重亀甲があり その中に剣花菱
拝殿の扁額は 出雲神社二宮 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の奥 両脇には境内社が祀られています
拝殿の奥は幣殿 本殿が鎮座します 屋根に厚みがあるので おそらく茅葺の屋根だったものにトタンで覆っているのだと思います
社殿向かって左手には 神饌所と 二の宮の大杉 と呼ばれる根本12.5メートル 樹高43メートルの老木が聳えますが 手振れ写真にて失礼
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲神社二座について 徳地二宮村の当国二宮〈現 出雲神社(山口市徳地堀)〉であると記しています
【抜粋意訳】
出雲神社二座
出雲は 伊豆毛と訓べし
〇祭神詳ならず、考証に、天夷鳥命と云々、今従わず
〇徳地二宮村に在す
〇当国二宮なり
〇永萬記云、二宮類社
丹波国 桑田郡 出雲神社の條見合うべし神位
三代実録 貞觀九年(八六七)八月十六日〈壬午〉周防國 正五位上 出雲神 授從四位下
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲神社二座について 堀村二ノ宮〈現 出雲神社(山口市徳地堀)〉であると記しています
【抜粋意訳】
出雲神社二座
祭神 大己貴命 事代主命
神位
三代実録 貞觀九年(八六七)八月十六日〈壬午〉周防國 正五位上 出雲神 授從四位下祭日 八月十五日十六日
社格 郷社(懸社)
所在 堀村二ノ宮(佐波郡出雲村大字堀)
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲神社二座について 得地郷堀村の二宮〈現 出雲神社(山口市徳地堀)〉であると記しています
【抜粋意訳】
出雲(イズモノ)神社二座
今、得地郷堀村の二宮に在り、神名帳考、神名帳打開、
鎮守出雲両所大明神と云ふ、東寺文書 盖出雲國の神を祀る、延喜式大要
〇按 東鑑 文治三年、周防在廰官人 土師宿祢安村、弘安、助遠、國方、弘正などあるに據時は、其の祖 天穂日命に同族仕奉る處の出雲杵築神を配祭て、之を出雲神と云る事、尚 武蔵国造の出雲神を氷川神社に祭るか如くなるへし、
土人伝説に、大穴牟遅神 事代主命をまつると云る一座、大穴牟遅神はかなへれど、事代主命は疑わし、故今附て考に備ふ、聖武天皇 天平十年、頴椙二十束を以て春秋祭料に充奉り、東大寺正倉院文書
清和天皇 貞観九年八月壬午、正五位上 出雲神に授從四位下を授く、三代実録 此の後 正一位に進めらる、
鳥羽天皇 元永二年九月巳未、国司 藤原家保 本社に至て弓箭鉾劔等 神寶を捧げて、神拝の禮を行はれき、東寺文書
凡毎年正月六日、八月十五日、十一月初申日、祭を行ふ、其十一月は即 新嘗祭なり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
出雲神社(山口市徳地堀)について 式内社 出雲神社二座であり 明治時代に縣社となっています
【抜粋意訳】
山口縣 周防国 佐波郡出雲村大字堀字中久和
懸社 出雲(イズモノ)神社
祭神 大己貴(オホナムチノ)命 事代主(コトシロヌシノ)命
周防国式内神社考に、「社録曰、大己貴命 事代主命、二座祭之、元正天皇 霊亀元年、御社建立、長歴之頃 朝廷奉幣行祭祀、其後 国主催行祭、在本宮干杜堀村之内庄万之内、二宮最初初影向之古跡也」と見えたり、
延喜式内の社にして、当国の二宮なり(神社覈録)、
・・・・・
・・・・・
【原文参照】
山口県神社誌編纂委員会『山口縣神社誌』山口県神社庁、1998、に記される伝承
【抜粋意訳】P514より
出雲神社(いずもじんじや)
〔通称 にのみやさま〕
由緒沿革
本社は、周防国二宮としてその起源は古く、現在その詳細を窺うことは困難であるが、鎮座は奈良時代の霊亀元年(715)と伝えられる。社伝・古文書及び神祇関係の古典等によると、氏神祭祀の原則にしたがい、大古出雲族の当佐波川流域への膨張発展に伴い、その祖神を鎮斎したものと考察される。
奈良時代の天平九年(737)には、周防国二の宮として勅許を受ける。『周防国正税帳』(東大寺文書)によると、当社へ春秋祭祀料は二拾束、雑用料及び神戸神田社領を奉納する等の記述がみえる。
また、平安時代の延長五年(927)、『延喜式神名帳』には周防国内十座の内に出雲神社二座が記載されている。従って、延書式内社として、朝廷を始め摂政藤原氏等に厚く崇敬されていたことがわかる。
鎌倉・室町時代に至ると、大内・毛利氏等代々の領主・藩主の祈願所となり、また徳地地方の総氏神として、人々の崇敬が殊の外厚かった。
戦国時代の享禄二年(1529)、大内義隆が神馬を寄進し、永禄十年(1567)に毛利輝元が当社に禁制札を掲げる(本社文書)等の記録がある。この外、宝物の寄進、鳥居の建立、社殿の再興・重建・造営を始め、祭祀・祈祷・坪付打渡・幣帛料・裁許任官等の文書が現存し、祭祀・造営等は殆ど藩費をもって護持されていたことが分る。
明治六年(1873)郷社に列格。明治三十三年(1900)県社に昇格。
大正十五年(1926)、式内勅撰一〇〇〇年式年大祭を執行する。
出雲神社(山口市徳地堀)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)