出雲祝神社(いずもいわいじんじゃ)は 延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の論社とされ 現存する棟札〈大宝二年(702)〉にも゛伊都毛伊波比再造゛と記されていています 社伝には 景行天皇の御代 日本武尊が 東夷征伐の時 小手指ヶ原で・天穂日命・天夷鳥命を祭祀創建された と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
出雲祝神社(Izumo Iwai shrine)
【通称名(Common name)】
寄木様(よりぎさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県入間市宮寺寄木森1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天穂日命(あめのほひのみこと)
天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)
兄多毛比命(えたもひのみこと)
《合》天照皇大神,大国主命,伊弉諾命,伊弉冉命,倉稲魂命,菅原道真,大山祇命,市杵島姫命,速玉男命,事解之男命,大屋毘古命
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御祭神 天穂日命
由緒
延喜式内社で人皇第十二代景行天皇の御代創建
大宝二年九月二十九日再建す その後 幾度かの乱世にあいながらも御神徳のゆるぐことなく一般から寄木様と親しまれてきた
弘治三年 小田原城主 北条家より社領を賜り 尚 徳川家康将軍はじめ 代々将軍より朱印十石をいただく
明治になり 有栖川宮一品熾仁親王より御染筆を賜る
宮寺郷の総鎮守で むすびの神(生々発展の神)としてたたえられ この宮内に大黒様(八千矛命)天神様(菅原道真公)も合祀されている
尚 古社を物語る石剣 棟札 和琴 其の他 文献等多数の宝物あり祭日
本社例祭 九月二十九日
八雲神社 七月十五日
護国神社 五月三日昭和二十八年一月二十日
社頭の由緒書板より
御祭神 天穗日命 天夷鳥命 兄多毛比命
由緒
延喜式内社で景行天皇の御代創立 大宝二年九月二十九日再建(今より一三五〇年前)の棟札が今尚残っている
平安時代 菅原道真の子 全国旅行の途次 先祖天穗日命を祀る当社に詣でる 其の后弘治三年 相州小田原城主 北条家より社領をいただき 天正十八年には徳川家康将軍より朱印十石を賜はり代々将軍家よりも賜はる
延喜式入間五座の一に列せられ郡第一の社格を得 和銅年中頃より宮寺郷(宮寺町ともいわる)十八ヶ村の総鎮守であり 古くから寄木様と親しまれている出雲大社 亦 寄木の宮と申し共々「むすびの神」として一般の信仰が深い
明治になり有栖川宮熾仁親王より御染筆を戴く
昭和二十六年九月二十九日拝殿に掲げられた由緒書きより
【由 緒 (History)】
出雲祝神社
入間市宮寺一(宮寺村字寄木森)
当社は、狭山丘陵の北麓、不老川の流域にある。
氏子区域宮寺は古くから人々の居住した所で、縄文中期の石塚遺跡、古墳後期の元狭山久保地坑遺跡がある。
当社創建を語る社伝も古く、景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲伊波比神社としたという。
所蔵の棟札(六二.八センチメートル)に「伊都毛伊波比再造 牟射志入間臣宇助 大寶二年壬寅九月廿九日」がある。
当社は式内社、出雲伊波比神社の論社とされているが、他に毛呂の出雲伊波比神社、北野物部天神社、川越の氷川神社などの論社がある。『風土記稿』に寄木明神社とあるのが当社で「御朱印社領十石を賜はる神明帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に伝へたれど、よせる証跡はなし、祭神は素盞鳴尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・荻原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此辺を宮寺郷と号することも、当社に権与せしならんと云」とあり、
また『武蔵野話』に「寄木宮とて素盞鳴尊を祀る、恐らくは出雲伊波比神祠ならんか、此に依て此地を宮寺といえるなるべし」とある。これによって江戸期当社を寄木宮、祭神を素盞鳴尊としていたと思われるが社蔵文書の北条氏康朱印状には「出雲祝神社中、棟別之事、指置之畢横合之儀不可有候、依如件、弘治三年丁已十一月廿七日、狩野大膳亮、庄式部少輔奉之」とあり、
天正一九年徳川家康朱印状は「大明神」名であり、様々な名称で呼ばれたことがわかる。
地名にも残る「寄木」については、社記に「この辺の氏族は出雲系で、出雲の国杵築湾に漂う木を取りあげ造られたのが出雲大社であり、天穂日命が東国に下ったとき杵築湾に漂い寄った樹種を携えてきて播種したのが、当寄木の森」と伝えている。現在、祭神は天穂日命・天夷鳥命・兄多毛比命の三柱を主神に、菅原道真公を始め一一柱を相殿に奉斎している。
道真公については、三男道武が全国行脚の途次、当社に参詣、持参の菅原像を再拝して社の牛寅の方向に祀り、松・梅・桜を植えたという古記録があり、「松ノ木ヶ谷」「梅ノ木ヶ谷」「三本桜」の地名が現存している。
当社には石棒があり、社記に「当社の神体は(以前)一個の石であった。長さ七寸(二三センチメートル)ほどの石棒の断片で、上半分は出雲大社に、下半分は当社に天穂日命が持参されたもの」とある。
大宝二年の棟札のほかに、「正安三歳辛丑三月再開 武蔵入間郡宮寺郷入間重太度利宮寺中」とある鳥居棟札(七〇センチメートル)も保存され、古社であることを物語っている。
明治二年、出雲祝神社と社名を一定し、同五年に村社となる。『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
由緒
人皇第十二代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においでになり、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。
醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭として記された式内社です。
社名の「祝」の文字は、小田原城主・北条氏康公からの朱印状、弘治3年(1557)に賜り、それ以前は現存する大宝2年(702)の棟札をはじめすべて「伊波比」が使用されています。
宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市から東京都瑞穂町に至る)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代々の将軍より10石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。
なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、生産の神として信仰の厚いものがあります。
当社の森を「寄木の森」と称しますが、出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森「寄木の森」であります。
明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を奉納されています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照項目あり
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・拝殿内の社号額〈出雲大社大宮司・千家尊福氏の奉納額〉
・拝殿の社号額〈有栖川宮一品熾仁親王より御染筆〉
・八雲神社《主》建速須佐之男命〈社殿向かって右〉
・護国神社《主》高御魂命《合》護国の英霊〈社殿向かって左〉
・神楽殿
・社務所
・手水舎
・二の鳥居
・石碑゛佐志国造御社゛゛鳥居建設碑゛
・一の鳥居
・社頭〈表参道 北東側〉
・裏参道 北西側
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵國 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)入間郡 5座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 出雲伊波比神社
[ふ り が な ](いつもの いはひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Itsumono Ihahi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉に記される 出雲伊波比神社
宝亀三年(七七二)「太政官符」〈天理大学付属図書館所蔵〉には 入間郡の正倉が火災に遭ったため 武蔵国内四社〈・多磨郡 小野社・加美郡 今城青八坂稲實社・横見郡 高負比古乃社・入間郡 出雲伊波比神社〉に奉幣したことを記しています
太政官は、二宮八省の頂点に位置づけられ、すべての行政事務を総括した役所である。
符とは、上級官庁から下級官庁へ出された文書をいう。太政官符には執行官と書記官とが署名するが、この官符には藤原百川(ももかわ)の自署が見られる。百川は藤原氏式家宇合(うまかい)の子で不比等の孫にあたる。
当時衰微しつつあった藤原一族の再起を図り、光仁(こうにん)天皇(桓武天皇の父)の擁立に奔走するなど、かなりの策士家だったと言われている。
この官符には、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市付近)で起きた、租税である米を貯蔵する正倉が焼亡した事件と、それへの対応が記されている。
こうした火事騒ぎは「神火事件(しんかじけん)」と呼ばれ、奈良時代の半ばすぎから各地で度々発生した。初めは、天の神が怒って火をつけたと信じられていたが、国家の財政の損失が大きいことから政府の調べが進み、その真相が次第に明らかになっていった。一つは、古くからの郡司と新興豪族との争いで、互いに相手をけおとすために放火し、罪をなすりつけるものである。
もう一つは、郡司だけでなく国司の悪事もさかんで、正倉から稲を横取りしていたが、中央からの役人が調べに来る前に証拠隠しのために焼くのである。このように神火は、農村での新旧二つの実力者の争いと、政治の乱れを物語っている。奈良時代の太政官符が伝存するのは大変珍しく、奈良正倉院にさえ残っていない。現存は四通のみ知られている。
(天理図書館 三村 勤)天理図書館「陽気」2008年6月号より抜粋
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延喜式内社 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)の類社について
『延喜式神名帳927 AD.』の所載社に 同じ゛伊波比神゛の名を持つ神社が 武蔵國に三社あります
一つは 入間郡に 出雲伊波比神社
二つは 男衾郡に 出雲乃伊波比神社
※この二社は ともに゛出雲゛を社号に冠していて 出雲の神を祀るものです
三つは 横見郡に 伊波比神社〈伊波比神社(吉見町黒岩)〉があり ここも元々は 出雲系の神であったとされています
それぞれの゛伊波比神゛を参照ください 式内社とその論社について載せています
延喜式内社 武蔵國 横見郡 伊波比神社(いはひの かみのやしろ)
・伊波比神社(吉見町黒岩)
延喜式内社 武蔵國 入間郡 出雲伊波比神社(いつもの いはひの かみのやしろ)
・出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)
・出雲祝神社(入間市宮寺)
・川越氷川神社(川越市宮下町)
・北野天神社(所沢市小手指元町)
延喜式内社 武蔵國 男衾郡 出雲乃伊波比神社(いつものいはひの かみのやしろ)
・出雲乃伊波比神社(寄居町赤浜)
・出雲乃伊波比神社(熊谷市板井)
・白旗八幡社〈井椋神社の境内社〉(深谷市畠山)寄居町赤浜に遷座した出雲乃伊波比神社の元宮
・八幡塚旧跡〈白幡八幡社 旧鎮座地〉(寄居町赤浜)井椋神社に合祀された白旗八幡社の旧鎮座地
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
西武池袋線 小手指駅から県道179号を西へ約7.1km 車15分程度
社頭には 社号標゛村社 出雲祝神社゛
出雲祝神社(入間市宮寺)に参着
参道を進むと 一の鳥居 扁額には゛寄木宮゛とあり 一礼をして くぐり抜けます
参道は一直線に伸びていています 案内看板には
出雲祝(いずもいわい)神社
一の鳥居をくぐり、一直線にのびる石畳を進むと、小高い境内に木々で囲まれ、ぽっかりと真上に日差しを浴びる出雲祝神社が見えます。約2000年前の創建といわれるこの神社は、時代を超えた厳かさを感じさせてくれます。
参道の案内板より
石段があり一段高い境内の入口には 狛犬が座し 二の鳥居が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆屋が続いています
東向きの社殿の裏手から北西側を見ると ここが高台〈狭山丘陵の北西端〉になっている事がわかります
社殿を廻り 社殿の正面側に戻ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 天穂日命は 出雲臣 武蔵国造の遠祖 入間宿祢は天穂日命の系統
所在は 北野村〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
書紀 天穂日命 此 出雲臣 武蔵国造等 遠祖也
姓氏 入間宿祢 天穂日命十世孫 天日古曽乃日命之後也
式考 北野村 祭神 スサノヲノミコト
〇信友云 上ノ伊波比神 同神也
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
出雲祝神社(入間市宮寺)について 七村の鎮守と記していて 式内社 出雲伊波比神社ではなくて 式内社 國渭地祇社と口碑に伝えるが証跡がない と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻一五九 入間郡 巻之四 山口領 中野村
寄木明神社
御朱印 社領十石を賜はる 神名帳に載たる国渭地祇神社是なりと 口碑に傳へたれど させる證跡はなし
祭神は 素盞嗚尊を祀ると云
本社 幣殿 拝殿等備りて 前に木の鳥居を建 矢寺 萩原 小谷戸 大森 中野 坊 二本木等 七村の鎮守なり 此邊を宮寺郷と號することも 當社に権與せしならんと云神職 北野村天神神主 栗原左衛門兼て司どる
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 北野郷 小手指原 物部天神社内〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉とした上で 当國 横見郡 伊波比神社〈現 出雲伊波比神社(毛呂山町岩井西)〉もあるとも記しています
又 此辺の同称三社〈・横見郡 伊波比神社・入間郡 出雲伊波比神社・男衾郡 出雲乃伊波比神社〉についても ことごとに祭神が違うが もっとよく考証すべきとも記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
出雲は伊豆毛と訓べし、伊波比は假字也、
〇祭神 素戔鳴尊、(地名記)
○北野郷 小手指原 物部天神社内に在す、(同上)
例祭 月 日、
旧地 廃亡して 後爰に祀るか、
〇当國 横見郡 伊波比神社もあり、
日本紀 神代巻上、一書曰、天穂日命、此 出雲臣 武蔵國造等遠祖也 と見え、
姓氏録云、入間宿禰も此神之後とあれば、当社恐らくは天穂日命の裔を祭れる、所謂 氏神なるべきに、此辺の同称三社、ことごとに祭神の違へるは、中古よりの謬ならんとは思へど、其証いまだ見ず、猶よく考ふべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 今 物部天神の合殿〈現 北野天神社(所沢市小手指元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比(イヅモノイハイノ)神社
今 物部天神の合殿に坐す、神社覈録、神社取調帳、
蓋 大己貴命を祭る、掛酌延喜式、神名帳頭注大意、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 出雲伊波比神社について 所在は 宮寺郷 字寄木森〈現 出雲祝神社(入間市宮寺) 〉と記しています
【抜粋意訳】
出雲伊波比神社
祭神
今按〈今考えるに〉
社伝 祭神 天穂日命とあるは古傳なるべし
古事記に 天天菩比命の子 建比良鳥命 此は出雲国造 无邪志国造 云々
国造本紀に 成務朝の御世に 出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命(ふたいのうがもろおしのかむさのみこと)の十世孫の兄多毛比命(えたもひのみこと)を国造に定められた とあるに由を聞こえり祭日 九月二十九日
社格 村社所在 宮寺郷 字寄木森(入間郡宮寺村大字宮寺)
【原文参照】
出雲祝神社(入間市宮寺)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)