廣瀬大社(ひろせたいしゃ)は 鎮座地について゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛と由緒にあり ここから大和川は 龍田を抜けて 奈良盆地から下り流れいく その創建は 崇神天皇9年(前89)と古く 『日本書紀』天武天皇4年4月の条には 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀る と記されます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
廣瀬神社(Hirose shrine)
【通称名(Common name)】
廣瀬大社(Hirose taisha shrine)
【鎮座地 (Location) 】
奈良県北葛城郡河合町川合99
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》若宇加能賣神(わかうかのめのみこと)
《配》櫛玉命(くしたまのみこと)
穂雷命(ほのいかづちのみこと)
※主祭神 若宇加能賣神と同一神と伝わる神々
・豊宇気比売大神(とようけひめのかみ 伊勢神宮外宮)
・宇加之御魂神 (うかのみたまのかみ 伏見稲荷大社)
・屋船豊受姫神 (やふねとようけひめのかみ 家屋守護の神)
・大 物 忌神 (おおものいみのかみ 鳥海山に宿る神)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 官幣大社
・ 二十二社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
廣瀬神社
祭神
主神 若宇加能売命(わかうかのめのみこと)
相殿 櫛玉命(くしたまのみこと)穂雷命(ほのいかつちのみこと)創建 崇神天皇九年(前八九)
由緒
大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る天武天皇が白鳳四(六七九)に大忌祭(おおいみのまつり)を四月と七月の年二回お祀りを始められて依来、皇室の崇敬が厚い
永正三年の戦乱で御本殿以下焼失 現在の建物は正徳元年造営される
御本殿は県文化財指定神徳 衣食住を守護し、治水を司る
特殊神事 砂かけ祭 二月十一日
社格 官幣大社
社頭の案内板より
創建
崇神天皇九年 (前八九年 )、廣瀬の河合の里長に御神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる(当社縁起)
日本書紀天武天皇四年四月十日 (六七五年 )には、 小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祭られたことが記されていて、これが毎年四月四日と七月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。神社パンフレットより
【由 緒 (History)】
廣瀬神社
本 殿 奈良県指定文化財(建造物)
砂かけ祭り 河合町指定文化財(無形民俗文化財)廣瀬神社は、奈良盆地の多くの河川が合流して大和川となる水上交通の要衝(ようしょう)に位置しています。神社の西方には明治の中頃まで「川合浜」という船着場があり、物資の集散地として賑わっていました。
『河相(かわい)宮縁起』では崇神(すじん)天皇の時代に創建されたとされ、『日本書紀』天武(てんむ)天皇四年(675)条に、龍田の風神とともに祭祀をおこなった記事が見られます。その後、戦国時代に途絶えるまで毎年四月と七月に朝廷より使者が遣わされ、祭祀が行われていました。戦国時代から江戸時代初期にかけて一時衰退しますが、元禄年間に復興し、旧廣瀬郡の総氏神として広く崇敬を受けるようになりました。祭神は主神が大忌神(おおいみのかみ)の異名を持つ若宇加能売命(わかうかのめのみこと)で、水の神、水田を守る神、五穀豊穣の神として篤く信仰されています。
神社に伝わる絵図「和州廣瀬郡廣瀬大明神之図(わしゅうひろせくんひろせだいみょうじんのず)」は室町時代に描かれたと推定されますが、この絵図には八町四方の四至に鳥居を建てた広壮な姿が描かれています。また、本殿は三殿が並ぶ姿に描かれ、相殿に櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)と穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀っています。永正三年(1506)の戦乱により往時の建物は灰燼(かいじん)に帰したと伝えられます。現在に残る最古の建物は、正徳元年(1711)に造営された本殿です。
この本殿は一間社春日造(いっけんしゃかすがづくり)の様式をよく伝えるものとして、昭和六十三年(1988)三月二十二日に奈良県指定文化財に指定されました。
毎年二月十一日に行われる砂かけ祭りは「オンダ」とも称される御田植祭(おたうえさい)で、砂を雨に見立ててかけ合い、五穀豊穣を祈る祭りです。この祭りは河合町の歴史を考える上で重要なものとして、平成二十一年(2009)十二月十一日に河合町指定文化財に指定されました。
現地案内板より
由緒
祭神 主神 宇加能売命。
相殿 櫛玉命 。穂雷命。主神 若宇加能売命は、別名を、豊宇気比売大神(伊勢外宮)宇加之御魂神(稲荷神社 広瀬大忌神とも呼ばれ、総て同神である。
龍田風神(龍田大社)と深いご縁がある 神徳 広瀬神社の鎮座地は日本書紀に「広瀬乃河曲」、延喜式祝詞には「広瀬乃川合」ときされており佐保川は初瀬川 飛鳥川 曽我川 葛城川 高田川 等大和盆地を流れる総ての河川が一点に合流する地に祀られていることから、御主神は水の守り神で山谷の悪水を良水に変え河川の氾濫を防ぐ神であり風雨を調和し苗稼を浸潤して、五穀の豊穰を守ることから朝廷を始め万民の食物を守る御膳神である。
又広瀬は、屋船豊受姫神ともよび家屋を鎮め奉る宅神で養蚕をも守る神として古来より崇敬が厚い。
五穀豊穣、水難鎮護、産業興隆、河川交通安全、安産、除災招福等、多方面に渡る御神徳がある。創建 崇神天皇9年(前89)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、この地に社殿を建てまつられれる様になる(当社延喜)。
日本書紀天武天皇4年4月10日(675)には、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曾根連韓犬を斉主として、大忌神を広瀬の河曲に祭られた事が記されていて、これが毎年4月4日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・本殿
・拝殿
・境内図
・〈境内社〉水足明神
〈廣瀬神社の地はもと水足池の沼地であった 現在は拝殿の西側に小池があり 水足池という 池の淵にひっそりと水足明神が祀られている〉
水足明神(みずたるみょうじん)
御祭神 水足大神(みずあしのおおかみ)
御神徳 世の中総ての物事が満ち足りて行くことを司る
御由緒 崇神天皇の御代ここに棲む龍神の託宣により廣瀬の神が祀られる様になり後にこの池は水足の池と名付けられました。ここにその龍神をお祭りしています。
現地立札より
・神馬舎
・橙
・厄割
・休息所
・社務所
・二の鳥居
・手水舎
・戦利兵器奉納
・〈境内社〉祓戸社
祓戸社
祭神
瀬織津姫神 気吹戸神
速開津姫神 速須佐良姫神祓戸四柱の大神と称え
人が犯す罪穢を祓い清めます※祓戸の神に祈り身心の汚穢を
祓い清めた後に本社を拝します。現地立札より
・祓戸社と手水鉢
・太鼓橋
〈境内の西側 境外摂社 水分神社(河合町川合)へ続く〉
・〈境内社〉祖霊社
祖霊社
祭神 大国主命(当社に関係する神葬の祖霊)
神葬の祖霊を遷し、中央へ大国主命を併せ祀る。
現地立札より
・〈境内社〉稲荷社〈日の丸大明神〉
日の丸稲荷社(ひのまるいなりしゃ)
祭神 稲倉魂神(うかのみたまのかみ)
伏見稲荷より分霊され霊験あらたかな神として篤く信仰されている
拝殿の案内板より
・〈境内社〉日吉社
日吉社
祭神二座 大己貴神 大山咋神
昭和十八年に日吉の神を勧請。
方除け・縁結びに霊験あらたかな神として信仰されている。現地立札より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・廣瀬大社 境外摂社 水分神社
〈太鼓橋を渡り 西へ100m程〉
延喜式内社〈大和國 廣瀬郡 於神社〉の論社です
・〈広瀬大社境外摂社 〉水分神社(河合町川合)
〈境外末社〉・饒速日命社
《主》櫛玉饒速日命
〈廣瀬大社 社家 樋口氏 邸宅内に鎮座〉
〈境外末社〉・八神殿社
《主》高御魂神,神魂神,玉留魂神,生魂神,足魂神,大宮売神,御気津神,事代主神
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
天武天皇 即位4年の段に 風神を龍田の立野〈龍田大社〉に 大忌神を広瀬の河曲〈廣瀬大社〉を祀らせた と記しています
天武天皇 即位5年と8年の7月に 廣瀬龍田神を祀らせています
天武天皇 即位13年の段に 天武天皇が廣瀬神に行幸されたこと 廣瀬・龍田の神を祭られたことが 記されています
【抜粋意訳】
天武天皇 即位四年〈675年〉夏四月癸未〈4月10日〉
遣小紫美濃王 小錦下佐伯連廣足 祠風神于龍田立野
〈小紫の美濃王(みののおほきみ)小錦下の佐伯連広足(さえきのむらじひろたり)を派遣し 風神の祠を龍田立野(たつたのたつの)に祀らせた〉
遣小錦中間人連大蓋 大山中曾禰連韓犬 祭大忌神於廣瀬河曲
〈小錦中 間人連大蓋(はしひとのむらじおほふた)大山中 曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)を派遣し 大忌神(おほいみのかみ)を廣瀬(ひろせ)の河曲(かはわ)に祀らせた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位五年 秋七月壬午〈7月16日〉
祭 龍田風神 廣瀬大忌神
〈龍田の風神・広瀬の大忌神(オオイミノカミ)を祭られた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位八年 秋七月
己卯朔甲申〈7月6日〉
雩〈雨乞いをした〉
壬辰〈7月14日〉
祭廣瀬龍田神〈廣瀬・龍田の神を祭られた〉
乙未〈7月17日〉
四位葛城王卒〈四位の葛城王(カズラキノオオキミ)が亡くなられた〉
【原文参照】
【抜粋意訳】
天武天皇 即位十三年 秋七月
庚戌朔癸丑〈7月4日〉
幸于廣瀬〈天皇は 廣瀬に幸す〉
戊午〈7月9日〉
祭廣瀬龍田神〈廣瀬・龍田の神を祭りました〉
【原文参照】
『日本紀略(nihonkiryaku)』〈11世紀後半~12世紀頃 編纂と伝わる〉に記される伝承
広湍神〈廣湍〉と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
弘仁十三年(822)八月庚申〈8月3日〉
奉授 訓 廣湍〈廣瀬大社〉竜田〈龍田大社〉等神 従五位下
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
若宇加乃賣命神と表記され 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 嘉祥三年(八五〇)七月丙戌〈十一〉
○丙戌
進 山城國 火雷神 階授 從五位上
遠江國 任事 鹿苑兩神 並授從五位下進 大和國
丹生川上雨師 神階 授正四位下
龍田天御柱命神 國御柱命神 若宇加乃賣命神 並加從五位上策命曰 天皇〈我〉詔旨〈仁〉坐 天御柱國御柱神等〈乃〉廣前〈爾〉申賜〈倍止〉申〈久〉
國家〈乎〉鎭護賜〈布爾〉依〈天〉
御位奉授〈天乃〉後 年月久成〈多利〉 因茲 神祇少副正六位上大中臣朝臣久世主〈乎〉差使〈天〉 御位上奉〈利〉稱奉〈留〉 今〈毛〉今〈毛〉風雨隨時〈比〉五穀豐登〈之女〉 天下平安〈爾〉 天皇朝庭〈乎〉堅磐〈爾〉常磐〈爾〉 護賜〈比〉助賜〈倍止〉申賜〈波久止〉申
【原文参照】
巻四 仁寿二年(八五二)七月庚寅〈廿五〉
○庚寅
大和國 若宇加乃賣命神 天御柱命神 國御柱命神等 並加從四位下
【原文参照】
巻四 仁寿二年(八五二)十月甲子〈二〉
○甲子
加大和國 御歳神正二位 若宇加乃賣命神 天御柱命神 國御柱命神 並加從三位
從五位下 藤原朝臣緒數爲越前介 藤原朝臣世數爲越後介
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
諸国の神々と共に 廣瀬神 龍田神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉
○廿七日甲申
京畿七道諸神に 進 階及新叙 惣二百六十七社 奉授
淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命 二品
・・・
・・・
大和國
從一位 大己貴神 正一位
正二位 葛木御歳神 從二位勳八等 高鴨阿治須岐宅比古尼神 從二位 高市御縣鴨八重事代主神 從二位勳二等 大神大物主神 從二位勳三等 大和大國魂神 正三位勳六等 石上神 正三位 高鴨神 並從一位正三位勳二等 葛木一言主神 高天彦神 葛木火雷神 並從二位
從三位 廣瀬神 龍田神 從三位勳八等多坐彌志理都比古神 金峰神 並正三位
正四位下 丹生川上雨師神 從三位
從五位下 賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等 穴師兵主神 片岡神 夜岐布山口神 並正五位上
從五位下 都祁水分神 都祁山口神 石寸山口神 耳成山口神 飛鳥山口神 畝火山口神 長谷山口神 忍坂山口神 宇陀水分神 吉野水分神 吉野山口神 巨勢山口神 葛木水分神 鴨山口神 當麻山口神 大坂山口神 伊古麻山口神 並正五位下
從五位下 和爾赤坂彦神 山邊御縣神 村屋禰富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神 鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原高御魂神 畝尾建土安神 子部神 天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神 牟佐坐神 高市御縣神 輕樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神 川俣神 波多���井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天 照御魂神 志貴御懸神 忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久豆玉神 調田一事尼古神 金村神葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神 矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神 並 從五位上
无位 水越神 從五位下
・・・・
【原文参照】
九月八日〈庚申〉畿内国の神と共に 廣瀬神 龍田神に 雨風の祈に幣を奉けたと記されています
【抜粋意訳】
巻三 貞觀元年(八五九)九月八日〈庚申〉
○八日庚申
山城國 月讀神。木嶋神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神
大和國 大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。廣瀬神。龍田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。當麻山口神。大坂山口神。膽駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神
河内國 枚岡神。恩智神
和泉國 大鳥神
攝津國 住吉神。大依羅神。難波大社神。廣田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。名次神等遣使奉幣 爲風雨祈焉
【原文参照】
大和国 廣瀬と龍田の両社に各一宇ずつ 神宝を納める倉を造立したと記しています
【抜粋意訳】
巻卅四 元慶二年(八七八)七月廿六日〈己未〉
○廿六日己未
大和國 廣瀬 龍田 兩社 造立倉各一宇 爲納神寶也
【原文参照】
遣を使わして 大和國〈・廣瀬・龍田〉攝津國〈・住吉・大依羅〉の四神社に神財を奉つた と記しています
【抜粋意訳】
巻卅六 元慶三年(八七九)六月十四日〈癸酉〉
○十四日癸酉
遣使於
大和國 廣瀬 龍田
攝津國 住吉 大依羅 等四神社 奉神財
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1神祇1 四時祭上 四月祭 大忌祭一座〈広瀬社、七月准此〉と風神祭二座〈龍田社、七月准此〉
廣瀬社〈廣瀬大社〉の大忌祭
龍田社〈龍田大社〉の風神祭について 記されています
【抜粋意訳】
大忌祭(オホイミノマツリ)一座〈広瀬社、七月准此〉
絁一疋八尺、絲二絇、綿五両、五色薄絁各一丈五尺、倭文一丈三尺、調布一端一丈、庸布一段一丈四尺、木綿二両、麻二斤五両、〈五両祭料、二斤祓料、〉四座置、八座置各一束、楯一枚、鉄三斤五両、鞍一具、米三石、酒二石五斗、稲十束、鰒、堅魚、烏賊各八斤、鮭八隻、腊八斗、比佐魚一斗五升、海藻十二斤、滑海藻十斤、雑海菜十六斤、塩二斗、裹葉薦二枚、馬一疋、祝料庸布二段、是日以御県六座、山口十四座合祭、其幣物者、座別五色薄絁各一尺、倭文五寸、木綿二両、麻五両、槍鋒一口、〈料鉄用社分、〉四座置、八座置各一束、楯一枚、庸布一丈四尺、裹葉薦二尺、其酒肴共用社料、但御県六座、別加絁三尺、
風神祭(カサカンノマツリ)二座〈龍田社、七月准此〉
絁二疋、絲四絇、綿一屯四両、五色薄絁各二丈、倭文一丈三尺、布一端一丈、庸布五段、木綿一斤十両、麻六斤九両、〈五斤二両祭料、一斤七両祓料、〉葈八両、弓四張、箟一連、羽二翼、〈已上二種大和国所送、〉鹿角二頭、鹿皮四張、鉄六斤十両、鞍二具、多多利一枚、麻笥一合、加世比一枚、〈已上三物並金塗、〉漆一升、金漆一升、黄蘗三斤五両、茜十六斤九両、黒葛廿斤、米、酒各一石五斗、稲五束、鰒、堅魚、烏賊各七斤、鮭七隻、腊七斗、比佐魚[---言小魚也曰本紀小雨]一斗五升、海藻八斤、滑海藻十斤、雑海菜十四斤、塩一斗、裹葉薦三枚、馬二疋、祝料庸布二段、
右二社、差王臣五位已上各一人、神祇官六位以下官人各一人充使、〈卜部各一人、神部各二人相随、〉国司次官以上一人、専当行事、即令諸郡別交易、「令」供進贄二荷、其直并米酒稲、並用当国正税、自外所司請供、但鞍随損供進、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
【抜粋意訳】
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並大社 一百九十八所
座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、
前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・廣瀬神社 一座
龍田神社 二座
・・・
巳上 大和國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式 巻8神祇八 祝詞 祝詞』〈広瀬大忌祭・龍田風神祭〉
廣瀬大忌祭(ひろせのおほいみのまつり)
龍田風神祭(たつたのかぜのかみのまつり)の祝詞(のりと)が記されています
【抜粋意訳】
巻8神祇 祝詞 廣瀬大忌祭(ひろせのおほいみのまつり)
〈廣瀬の川合に称辞竟へ奉る 皇神の御名を白さく「御膳持たする若宇加の賣の命と御名は白して 此の皇神の前に辞竟へ奉らく 皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて 王・臣等を使として 称辞竟へ奉らく」を 神主・祝部等諸 聞し食せ と宣る
「奉る宇豆の幣帛は 御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈・御馬 御酒は瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 和稲・荒稲に 山に住む物は毛の和き物・毛の荒き物 大野の原に生ふる物は甘菜・辛菜 青海原に住む物は鰭の広き物・鰭の狭き物 奥つ藻菜・辺つ藻菜に至るまで 置き足はして奉らく」と 皇神の前に白し賜へ と宣る
「かく奉る宇豆の幣帛を 安幣帛の足幣帛と 皇神の御心に平らけく安らけく聞し食して 皇御孫命の長御膳の遠御膳と 赤丹の穂に聞し食して 皇神の御刀代を始めて 親王等・王等・臣等・天下の公民の取作る奥つ御歳は 手肱に水沫画き垂り 向股に泥画き寄せて取作らむ奥つ御歳を 八束穂に皇神の成し幸はへ賜はば 初穂は汁にも穎にも 千稻・八千稻に引居ゑて 横山の如く打積み置きて 秋祭に奉らむ」と 皇神の前に白し賜へ と宣る
「倭国の六御縣の山口に坐す皇神等の前にも 皇御孫命の宇豆の幣帛を 明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈に至るまで奉る
かく奉らば 皇神等の敷き坐す山山の口より 狭久那多利に下し賜ふ水を 甘水と受けて 天下の公民の取作れる奥つ御歳を 悪風・荒水に相はせ賜はず 汝が命の成し幸はへ賜はば 初穂は汁にも穎にも 瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 横山の如く打積み置きて奉らむ」と
「王等・臣等・百官人等 倭国の六御縣の刀祢・男女に至るまで 今年某月某日 諸参出来て 皇神の前に宇事物頸根築き抜きて 朝日の豊逆登りに 称辞竟へ奉らく」を 神主・祝部等 諸聞し食せ と宣る〉
巻8神祇 祝詞 龍田風神祭(たつたのかぜのかみのまつり)
〈龍田に称辞竟へ奉る 皇神の前に白さく「志貴嶋に大八嶋國知しし皇御孫命の 遠御膳の長御膳と 赤丹の穂に聞し食す五穀物を始めて 天下の公民の作る物を 草の片葉に至るまで成さず 一年二年に在らず 歳まねく傷へるが故に{百の物知人等の卜事に出でむ神の御心は 此の神と白せ}と負せ賜ひき 此を物知人等の卜事を以て卜へども{出づる神の御心も無し}と白すと聞し看して
皇御孫命の詔はく 『神等をば天社・國社と忘るる事無く 遺つる事無く 称辞竟へ奉ると思ほし行はすを 誰の神ぞ 天下の公民の作りと作る物を 成さず傷へる神等は 我が御心ぞと悟し奉れ』とうけひ賜ひき
是を以て皇御孫命の大御夢に悟し奉らく 『天下の公民の作りと作る物を 悪風・荒水に相はせつつ 成さず傷へるは 我が御名は天の御柱の命・國の御柱の命』と 御名は悟し奉りて 『吾が前に奉らむ幣帛は 御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色の物 楯・戈・御馬に御鞍具へて 品品の幣帛備へて
吾が宮は朝日の日向ふ処 夕日の日隠る処の 龍田の立野の小野に 吾が宮は定め奉りて 吾が前を称辞竟へ奉らば 天下の公民の作りと作る物は 五穀を始めて 草の片葉に至るまで 成し幸はへ奉らむ』と悟し奉りき
是を以て皇神の辞教へ悟し奉りし処に 宮柱定め奉りて 此の皇神の前に称辞竟へ奉りに 皇御孫命の宇豆の幣帛を捧げ持たしめて 王臣等を使と為て 称辞竟へ奉らく」と 皇神の前に白し賜ふ事を 神主・祝部等 諸聞食せと宣る
奉る宇豆の幣帛は「比古神に御服は明妙・照妙・和妙・荒妙 五色物 楯・戈 御馬に御鞍具へて 品品の幣帛献り 比売神に御服備へ 金の麻笥・金の椯・金の桛 明妙・照妙・和妙・荒妙 五色の物 御馬に御鞍具へて 雑の幣帛奉りて 御酒は瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 和稲・荒稲に 山に住む物は 毛の和物・毛の荒物 大野原に生ふる物は 甘菜・辛菜 青海原に住む物は 鰭の広物・鰭の狭物 奥つ藻菜・辺つ藻菜に至るまでに 横山の如く打積み置きて
奉る此の宇豆の幣帛を 安幣帛の足幣帛と 皇神の御心に平らけく聞し食して 天下の公民の作りと作る物を 悪風・荒水に相はせ賜はず 皇神の成し幸はへ賜はば 初穂は 瓺の閇高知り 瓺の腹満て雙べて 汁にも穎にも 八百稲・千稲に引居ゑ置きて 秋祭に奉らむと
王・卿等 百の官人等 倭國の六縣の刀袮 男女に至るまでに 今年四月<七月ハ 今年七月ト云フ> 諸参集はりて 皇神の前に宇事物頚根築き抜きて 今日の朝日の豊逆登りに 称辞竟へ奉る皇御孫命の宇豆の幣帛を 神主・祝部等は賜りて 惰る事無く奉れ」と宣りたまふ命を 諸聞食せと宣る〉
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
廣瀬大社(河合町川合)は複数の式内社の論社となっています
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大
〈廣瀬大社 本殿 若宇加能売命(わかうかのめのみこと)〉
②大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社
〈廣瀬大社 相殿 櫛玉命(くしたまのみこと)〉
③大和國 廣瀬郡 穂雷命神社
〈廣瀬大社 相殿 穂雷命(ほのいかづちのみこと)〉
④大和國 廣瀬郡 讃岐神社
〈廣瀬大社 合祀 された(広瀬大社 旧摂社 散吉社)〉
⑤大和國 廣瀬郡 於神社
〈廣瀬大社 境外摂社 水分神社〉
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加賣神社 名神大
〈廣瀬大社 本殿 若宇加能売命(わかうかのめのみこと)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 広瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大月次新嘗)
[ふ り が な ](ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hirosenimasu wakaukame no mikoto no kamino yashiro)
②大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社
〈廣瀬大社 相殿 櫛玉命(くしたまのみこと)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 櫛玉比女命神社(貞)
[ふ り が な ](くしたまひめのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kushitamahime no mikoto no kamino yashiro)
③大和國 廣瀬郡 穂雷命神社
〈廣瀬大社 相殿 穂雷命(ほのいかづちのみこと)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 穂雷命神社
[ふ り が な ](ほのいかつちのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Honoikatsuchi no mikoto no kamino yashiro)
④大和國 廣瀬郡 讃岐神社
〈廣瀬大社 合祀 された(広瀬大社 旧摂社 散吉社)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 讃岐神社
[ふ り が な ](さぬきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sanuki no kamino yashiro)
⑤大和國 廣瀬郡 於神社
〈廣瀬大社 境外摂社 水分神社〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)広瀬郡 5座(大1座・小4座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 於神社(鍬)
[ふ り が な ](うへの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Uhe no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
゛廣瀬の水神゛と並び称された゛龍田の風神゛について
延喜式内社 大和國 平群郡 龍田坐天御柱國御柱神社 二座(並 名神大 月次 新嘗)(たつたにます あまのみはしら くにのみはしらの かみのやしろ)
・龍田大社(三郷町立野南)
大和國 廣瀬郡の式内社の論社について
廣瀬大社(河合町川合)は 廣瀬郡 全ての式内社の論社となっています
①大和國 廣瀬郡 廣瀬坐和加宇加乃売命神社(名神大 月次 新嘗)(ひろせにます わかうかめのみことの かみのやしろ)
・廣瀬大社(河合町川合)
②大和國 廣瀬郡 櫛玉比女命神社(貞)(くしたまひめのみことの かみのやしろ)
・櫛玉比女命神社(広陵町弁財天)
・〈相殿に合祀 櫛玉比女命神社〉廣瀬大社(河合町川合)
③大和國 廣瀬郡 穂雷命神社(ほのいかつちのみことの かみのやしろ)
・穂雷神社(広陵町安部)
・〈相殿 穂雷神〉廣瀬大社(河合町川合)
④大和國 廣瀬郡 讃岐神社(さぬきの かみのやしろ)
・讃岐神社(広陵町三吉)
・〈合祀 讃岐神社〉廣瀬大社(河合町川合)
⑤大和國 廣瀬郡 於神社(鍬)(うへの かみのやしろ)
・於神社(広陵町大塚)
・〈広瀬大社境外摂社 〉水分神社(河合町川合)
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄橿原線 結崎駅から西へ約4.3km 車10分程度
鎮座地について
由緒書きには゛大和盆地を流れる全ての河川が合流する地点に祀られ治水と五穀豊穣を司る゛
奈良盆地から 大和川は 龍田を抜けて 大阪湾へと流れ込んでいく
このことから廣瀬大忌神を祀る
〈「大忌」は「山や谷から下ってくる水は荒々しい水である。それを廣瀬の神様は受けて、良い水として大和平野に配る」(樋口宮司)〉
社頭の参拝者駐車場から 参道を歩みます
廣瀬大社(河合町川合)に参着
鳥居をくぐり 参道を進むと
境内社の日吉社 稲荷社 祖霊社にお参りをします
境内社の祓戸社は 本社参拝前に心身を払うのが習わし
改めて 参道を進みます
手水舎で清め 二の鳥居に進みます
二の鳥居の真下には 正中を進まぬように 竹が置かれています
扁額には゛廣瀬社゛
一礼をして くぐり抜けます
境内の参道にも 正中を進まぬように 竹が置かれています
境内は 広々として 中央に゛橙゛が植えられています
この゛橙゛は 崇神天皇九年 (前八九年 )廣瀬の河合の里長に御神託があり 一夜で沼地が陸地に変化し゛橘゛が数多く生えたことが天皇に伝わり この地に社殿を建て祀られるようになる(当社縁起)
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 透塀に囲まれて 祭場があり その奥に一段高い社地に本殿が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
廣瀬神社(ひろせじんじゃ)と水足池(みずたるいけ)
文・山崎しげ子
県民だより奈良 平成27年2月号「奈良のむかしばなし 第46話」
廣瀬神社が鎮座する北葛城郡河合町川合は、その名の通り、葛城川、佐保川、曽我川などいくつもの川が大和川と合流するところ。明治の中ごろまで物資の集散地として賑わった。
ただ、一帯は沼地であった。そんな地にあって、廣瀬神社は、水田を守り、河川の氾濫を防ぐ水神を祀る神社として古くから信仰されてきた。
*
昔、河合に藤(ふじ)時(とき)という里(さと)長(おさ)がいた。ある日の夕方、家の外に神様が人の姿で現れた。顔の美しい若者で、花模様の着物を着、芳(かぐわ)しい香りを漂わせていた。そして里長にこう言った。「お前の家の北に池があろう。あれは水足池で、底は深く、竜王がすんでいる。そこで、その池の上にご殿を造ることにしよう。承知するか」と。
藤時は困った。「池の上はいつも波が高いので、わたしら人間は、とても泳いでご殿は建てられません」
すると、若者は言った。「おまえたちは水に溺(おぼ)れることを恐れているようだ。もし、池の水をなくして平地にすると、ご殿を造ることを承知するか。そのしるしは、翌朝見られたい」と言って姿を消した。
翌朝、驚いたことに、水足池は、水のない平らな地に変わっていた。そこで、藤時は、大工を呼んでご殿を建てた。これを水(みず)足(たる)明(みょう)神(じん)という。
このことを、急いで朝廷に伝えると、天皇の使いである勅(ちょく)使(し)の人たちがきて、厳かにお祭りをされたという。
*
廣瀬神社の創建にまつわる言い伝えも、ほぼ同じ。崇神天皇のとき、水足池が一夜にして陸地となり、橘(たちばな)の木が多く生えた。これが天皇に伝わり、社殿を建ててお祭りをした、と。
今、朱色の大鳥居をくぐると、長い参道が続く。大樹が深々と天をおおい、冬の柔らかな木洩れ日と鳥の声が、ゆっくりと古代の神域にいざなってくれる。
白(はく)砂(さ)の斎(ゆ)庭(にわ)に、黄色い実をいっぱいに付けた橘の木が数本。その向こうに荘厳な拝殿と本殿。
西へ曲がると、昔話に登場する「水足明神」を祀る小さな社と、横に沼のような小池が残る。向こうには、今もいくつもの川を集めて流れる大和川の高くどっしりとした土(ど)堤(て)が見える。静寂の境内は、古代が甦ったかのような懐かしさにつつまれていた。
奈良県庁HPより
https://www.pref.nara.jp/38484.htm
参考 廣瀬神社の創建にまつわる言い伝え
廣瀬神社の社伝
社地は元水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、里長廣瀬臣藤時に御神託があり、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。今拝殿の西側に小池がある。これを水足池という。又、当社の社紋『橘』はこの社伝による。天武天皇13年7月、当社行幸のみぎり、新たに廣瀬川(現大和川)に架橋して龍駕を奉納したことから、この所を御幸瀬(ごごかぜ)と称し、橋を御幸橋(みゆきばし)と名付けられた。
廣瀬神社公式HPより
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
廣瀬郡の式内社5社について 記されています
【抜粋意訳】
廣瀬郡五座 大一座小四座
廣瀬は 比呂世と訓べし、和名鈔、部名部 廣瀬、假字上の如し
廣瀬坐和加宇加乃賣命神社 名神大月次新嘗
廣瀬は郡名に同じ、和加字加乃賣は假宇也、
○祭神明か也、但し鎮坐の時より大忌神と称す、
○廣瀬河合村に在す
○式三、(臨事祭)名神祭二百八十五座、大和國廣瀬神社一座、』祈雨祭神八十五座(並大)云々、廣瀬社一座、
○江家次第、(祈年穀奉幣)廣瀬(五位)」廿二社注式云(中七社)広瀬、(幣数一本)
○日本紀神代巻上、一書云、伊弉諾尊曰、我所生之国唯有朝霧云々、又飢時坐児號倉稲魂命、」古事記上云、和久産巣日神、此神之子謂豊宇氣毘売神、鎮座
日本紀、天武天皇四年四月癸未、遣小錦中間人蓋、大山中曾根連韓犬、祭大忌神於廣瀬河曲、』式八、(祝詞)贋瀬乃川合爾称辞竟奉流、皇神能御前爾自久、御膳持須留若宇加能売能命登御名者白弖云々、神位
日木紀略、弘仁十三年八月庚申、奉授廣瀬神從五位下、
文徳実録、嘉祥三年七月丙戌、大和國若宇加乃売命神加從五位上、仁寿二年七月庚寅、大和國若宇加乃売命神加從四位下、同年十月甲子、大和國若字加乃賣命神加從三位、
三代実録、貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和國從三位廣瀬神正三位、官幣
三代実録、貞観元年九月八日庚申、大和国廣瀬神、遣使奉幣、為風雨祈焉、神財
三代実録、元慶三年六月十四日癸酉、遣使於大和國広瀬神社奉神財、祭祀
神祇令曰、・・・・雑事
三代実録、元慶二年七月二十六日己未、大和国広瀬寵田両社、造立倉各一宇、為納神宝也、
〇式三(臨時祭)凡廣瀬社鍮匙者、納置官庫、祭使官人臨祭請取、事畢返納、
○中右記、天永二年四月二十四日、広瀬龍田祭也、召僧事如何、殿下仰云、件事思食忌也、仍被渡御読経於東馬場屋、有御祓、
○前件廣瀬龍田両社鎮座以來同等にして、卿和替る事なし、讃岐神社
讃岐は佐奴岐と訓べし、和名鈔、(郷名部)散吉、
○祭神 讃岐公祖歟
〇濟恩寺村赤部村の界に在す、(大和志)
〇姓氏録、(右京皇別下)讃岐公、大足彦忍代別天皇子、五十香足彦命之後也、
連胤云、考証は讃岐公の氏社として、神位をば別社とす、祭事記、大和志等は、神位を当社に定め、比保古は飯依比古神(讃岐国亦名)とす、未熟れか是なるを志らず、
神位
三代実録、元慶七年十二月二日甲午、授大和国正六位上散吉大建命神、散古伊能城神、從五位下、櫛玉比女命神社
櫛玉は久志多麻と訓べし、比女は假字也、
○祭神明か也
○弁財天村に在す、今弁財天と称す、(大和志、同名所図会)穗雷命神社
穂雷は保乃伊加都知と訓べし
○祭神明か也
○在所詳ならず考証云、保田村乎、今属城下郡、
神位
三代實録、貞観七年十月九日丁巳、授大和国正六位上武雷神、保沼雷神、從五位下、同九年八月十六日壬午、大和国從五位下武雷神、保沼雷神、從五位上、連胤云、考証は軻遇突智命として、神位をぱ別社とす、祭事記、大和志等は、神位を当社に定め、比保古は火雷命(山城国乙訓坐)とす、未熟れか是なるを志らず、
於神社 鍬
於は宇倍と訓べし、
〇祭神詳ならず
○大塚村に在す、城宮と称す、今巳に廃す、(大和志)類社
越前國足羽郡、讃岐國刈田郡於神社(各一座)因幡國法美郡宇倍神社、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
廣瀬郡の式内社5社について 記されています
【抜粋意訳】
廣瀬郡五座 大一座小四座
廣瀬坐和加宇加乃賣命(ひろせにますわかうかのめのみことの)神社
之を大忌神、又 廣瀬河合神と云ふ、日本書紀、新抄格勅符
今 廣瀬河合村にあり、
御食の事を知り持ち給ふ神、若宇乃賣神を祀る、延喜式天武天皇 四年四月癸未〈4月10日〉、遣小錦中間人連大蓋大山中曾禰連韓犬をして、大忌神を廣瀬河合に祭り、次年七月、又之を祭る、日本書紀
文武天皇 大寶の制、又之に依る令 後世四日を式とす、延喜式
聖武天皇 天平二年、廣湍川合神に神戸稲祖二十束を充奉り東大寺正倉院文書
光仁天皇 寶亀九年六月辛丑、参議左大辨 藤原朝臣是公等をして 幣帛を奉り、雨風調和ひ、秋稼豊稔ならむ事を祈り給ひ、續日本紀
平城天皇 大同元年、神封三戸を充奉り、新抄格勅符
嵯峨天皇 弘仁十三年八月庚申、従四位下を加へ、壬辰、散位従五位上安宗王等を以て祈年の為に幣馬を奉り、十月甲子、従三位を授け、文徳実録
清和天皇 貞観元年正月甲申正三位に叙され、九月庚申、雨風の祈に幣を奉け、十二年七月壬申、幣を奉て河内堤を築に雨労の患なからむ事を祈り、
陽成天皇 元慶二年七月己未、神寶を納る為に、倉一宇を造らしめ、三年六月癸酉、神財を奉る、三代実録
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣祈雨の奉幣に預り、凡廣瀬祭に用ふる所の贄は、當國正税を以てし、国司次官以上一人、其の事を専當(あざか)る、其の日 王臣五位各一人、神祇官六位各一人を祭使に充しめ、延喜式
一条天皇 正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として、疫疾放火の祈申さしめき、本朝世紀、参取日本紀畧
讃岐(さぬきの)神社
今 散吉郷 済恩寺 赤部二村の堺にあり、大和志
蓋 散吉(さぬき)大建(おほたけの)命 散吉(さぬき)伊能城(いのきの)命を祀る、
陽成天皇 元慶七年十二月甲牛、正六位上 散吉大建命神 散吉伊能城命神に従五位下を授く、
櫛玉比女命(くしたまひめのみことの)神社
今 辨才天村にあり、大和志名所圖會
櫛玉比女命を祀る、此は蓋 饒速日命の妃 御炊屋媛也、
穗雷命(ほのいかづちのみことの)神社
蓋 伊弉冉尊の御子 火雷(ほのいかづちの)神を祭る、日本書紀、古事記
清和天皇 貞観七年十月丁巳、正六位上 保沼雷神に従五位下を授け、九年八月壬午、従五位上に叙さる、
於(うへの)神社
今 大塚村にあり、城官といふ、
醍醐天皇 延喜の制、祈年祭に鍬一口を加奉りき、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
廣瀬郡の式内社5社について 記されています
【抜粋意訳】
廣瀬坐和加宇加乃賣命(ひろせにますわかうかのめのみことの)神社 名神大月次新嘗 称大忌神
祭神 和加宇加乃賣命
神位
嵯峨天皇 弘仁十三年(822)八月庚申〈8月3日〉奉授 訓 廣湍〈廣瀬大社〉竜田〈龍田大社〉等神従五位下文徳天皇 嘉祥三年(八五〇)七月丙戌〈十一〉進大和國若宇加乃賣命神並加從五位上
仁寿二年(八五二)七月庚寅〈廿五〉大和國若宇加乃賣命神並加從四位下
仁寿二年(八五二)十月甲子〈二〉加大和國若宇加乃賣命神並加從三位清和天皇 貞観元年正月二十七日甲申、奉授大和國從三位廣瀬神正三位、
官幣
貞観元年九月八日庚申、大和国廣瀬神、遣使奉幣、為風雨祈焉讃岐(さぬきの)神社
祭神 散吉大建命 散吉伊能城神
神位 陽成天皇 元慶七年十二月二日甲午、授大和国正六位上散吉大建命神、散古伊能城神、從五位下
祭日 九月十日
社格 村社
所在 済音寺村赤部村(北葛城郡馬見村大字三ツ吉)櫛玉比女命(くしたまひめのみことの)神社
祭神 櫛玉姫命
祭日 十月一日
社格 村社
所在 辨才天村(北葛城郡箸尾村大字辨財天)穗雷命(ほのいかづちのみことの)神社
祭神 軻遇突智命(かぐつちのみこと)
神位 清和天皇 貞観七年十月九日丁巳、授大和国正六位上武雷神、保沼雷神、從五位下、同九年八月十六日壬午、大和国從五位下武雷神、保沼雷神、從五位上、
祭日 九月二十一日
社格 村社
所在 安部村(北葛城郡馬見村大字安部穂雷神社)於(うへの)神社
祭神 埴安姫命(はにやすひめのみこと)
祭日 六月九月並二十一日
社格 村社
所在 大塚村 字古垣内(北葛城郡馬見村大字大塚)
【原文参照】
廣瀬大社(河合町川合)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)