藤白神社(海南市)

藤白神社(ふじしろじんじゃ)は 熊野古道沿い 九十九王子(クジュウク オウジ)〈皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験〉の中でも別格とされた藤代王子の旧址です 「藤白鈴木氏」が 代々神職家を務めた「鈴木屋敷」があり 日本に200万人を超すといわれる鈴木姓の元祖(ルーツ)ともされています

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

藤白神社Fujishiro shrine)
(ふじしろじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

和歌山県海南市藤白466

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》饒速日命Nigihayahi no mikoto)

   熊野坐大神Kumanunimasu okami)
   熊野速玉男神Kumano hayatama no okami)
   熊野夫須美神Kumano fusumi no kami)
   天照大神Amaterasu okami)
《配》事解男神Kotosakao no kami)
《合》玉依姫命Tamayorihime no mikoto)
   祓戸王子Haraido oji)(明治42年(1909)合祀

【御神格 (God's great power)】

子授け Children will be born as desired
安産  Healthy childbirth
子育ての守護神 God of parenting

【格  (Rules of dignity)

・熊野詣の藤代王子(藤白王子)の旧址

県史跡「藤白王子」

平安から鎌倉にかけての時代、
蟻の熊野詣(ありのくまのもうで)といわれるくらい熊野三山への信仰が旺んであった。

道中には熊野九十九王子社が設けられ、道者の潔斎(けっさい)、遥拝(ようはい)の社(やしろ)であったが、当社はその中で最も格式の高い五躰王子の一となり、歴代上皇、法王が百回に及ぶ熊野御幸(ごこう)の度(たび)に 必ず休泊され、神前で和歌会(わかえ)、白拍子、里神楽(獅子舞)、相撲等特別な催物(法楽)が行われた。

当時、神官は鈴木氏であった。

現地案内板より

【創  (Beginning of history)】

景行天皇五年の創建

和歌山県指定文化財
 史跡 藤白王子跡
指定年月日 昭和33年4月1日

 この藤白王子社(現 藤白神社)は平安時代から盛んに行われた熊野詣での礼拝所で、熊野九十九王子のうち五躰王子の一として特に格式の高かった神社である

 中世の熊野御幸(ごこう)の際には 当社を御宿泊所とせられ、御歌会、相撲会等が催された。

 特に藤原定家の「熊野御幸記」に記載されている建仁元年(1201年)に後鳥羽上皇が催された藤皇子 和謌会(わかえ)が有名で、そのときの「熊野懐紙(くまのがいし)」御宸翰(ごしんかん)は国宝となっている。

  深山紅葉

うばたまの よるのにしきを たつたひめ
 たれみやまぎと 一人そめけむ

白藤の下に歌碑があり、傍らに「御歌塚」がある。
また、神社の「本殿」「藤白の獅子舞」「本堂の熊野三所権現本地仏三躯「藤白王子」の本地仏も和歌山県指定の文化財である。

平成17年5月31日
和歌山県教育委員会
海南市 教育委員会
藤 白 神 社

現地案内板より

【由  (history)】

御祭神
 饒速日命   (邇芸速日命・藤白鈴木氏の氏神)
本地仏
 熊野坐大神  (家津御子大神・本地 阿弥陀如来・熊野本宮)
 熊野速玉大神 (伊弉諾尊・本地 薬師如来・熊野新宮)
 熊野夫須美大神(伊弉冉尊・本地 千手観音菩薩・熊野那智山)
 天照大神   (藤白王子若宮・本地 十一面観音菩薩)

 海南市を眼下に、遠く和歌の浦、紀淡の海をみはるか万葉故地「藤白のみ坂」の入り口に位置し、太古さながらの楠の大樹に抱かれた当社の由緒は古く、景行天皇五年の鎮座に始まる。

 聖武天皇が玉津島行幸に際し、当社に僧行基を詣らせ、熊野三山に皇子誕生を祈らせたところ、高野皇女ご誕生、よって御母光明皇后は神域を広め、整え、熊野三山の御祭神を勧請し、ここを末代皇妃夫人の熊野遙拝所と定められたことから、子授け、安産、子育ての守護神として崇められるようになった。

 孝謙天皇玉津島行幸の際には、供奉した熊野広浜が祖神であるから当社に詣で、「日本霊験根本熊野山若一王子三所権現社」と号した。以来、藤白王子、あるいは藤白若一王子権現社と呼ばれ「藤代」とも表記された。

 平安から鎌倉に掛けての時代、熊野信仰が高まる中で、この地に大鳥居を建て、熊野一の鳥居として熊野九十九王子中、最も格式の高い五躰王子の一つとなり、熊野聖域の入口、門として、祓戸王子を鳥居の近くに設けた。歴代上皇法皇の熊野御幸は延べ百回に及び、当社に必ず宿泊され、特別な催事が行われた。

 『吉記』(藤原経房)承安四年(1174)九月廿五日の条に「・・・藤代王子において里神楽(県指定無形民俗芸能藤白の獅子舞のルーツ)を行い、白米を給ふ・・・宝前信心殊に凝らす感応の甚だしきなり」とあり、藤原定家は建仁元年(1201)『後鳥羽院熊野御幸記』「十月八日に祓戸王子から御所へ二町ばかりの小宅泊 翌九日 天晴 朝出立頗る遅々の間王子御前に於いて御経供養等有と云々 白拍子の間 雑人多く立隔て路なし 強に参る能はず 逐電し藤代坂を攀じ昇る 五躰王子 相撲等ありと云々」と記し、同日の藤代王子和謌会 詠二首倭歌(題深山紅葉 海辺冬月)の後鳥羽院の詠草は国宝「熊野懐紙」としてのこり、境内に歌塚と歌碑がある。宇多・花山・白河聖王三代の重石、鈴木屋敷庭園、藤白王子権現本堂とともにこれら当時の面影をいまに伝える貴重な文化財である。

藤白神社HPよりhttp://fujishiro-jinja.net/yuisyo.html

【境内社 (Other deities within the precincts)】

有間皇子神社Arima no miko shrine)

《主》有間皇子Arima no miko)

子守楠神社Komori kusu shrine)

《主》熊野杼樟日命kumano kusubi no mikoto)

恵比須神社Ebisu Shrine)

《主》大国主命Okuninushi no mikoto)

※もとは市場のあった名高字蓬莱丁に鎮座 明治神社合祀令により 境内社として祀られ
・秋葉神社Akiba Shrine)
・住吉神社Sumiyoshi Shrine)
・塩釜神社Shiogama Shrine)

祇園神社Gion Shrine)

《主》素盞嗚尊Susanowo no mikoto)

藤白王子権現堂Fujishiro oji gongendo)

祭神の本地仏3体が祀られ
・阿弥陀如来 - 熊野坐大神の本地仏
・薬師如来 - 熊野速玉大神の本地仏
・千手観音 - 熊野夫須美大神の本地仏

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

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藤白鈴木氏Fujishiro suzuki uji鈴木屋敷Suzuki yashiki)について 《 鈴木姓の元祖(ルーツ)

藤白鈴木氏Fujishiro suzuki ujiとは

「饒速日命Nigihayahi no mikoto)」に始まります

『日本書紀』の記述によれば 神武東征に先立って 天照大神から十種の神宝を授かり 天磐船に乗り河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り その後大和国(奈良県)に移ったとされています

『古事記』では 神武天皇の東征で 大和地方の先住豪族であった那賀須泥毘古が奉じる神として登場します 那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(『日本書紀』では三炊屋媛)を妻として宇摩志麻遅命をもうけます 宇摩志麻遅命は 物部連・穂積臣・采女臣の祖と記しています

この神武天皇よりも早い時期に大和入りをしていたとされる「饒速日命Nigihayahi no mikoto)を祖神とする物部Mononobe)氏族の正統に「穂積氏Hozumi uji)」がいます

穂積氏Hozumi uji)は 『記紀神話』にも記される正統そはな氏族で 天津神・国津神の子孫「神別」とされています

大和国山辺郡穂積邑および十市郡保津邑を本拠地とした有力な豪族でした
藤白鈴木氏Fujishiro suzuki ujiは この「穂積氏Hozumi uji)」の嫡流とされます

鈴木屋敷Suzuki yashiki)とは

代々神職であった藤白鈴木氏Fujishiro suzuki ujiが 社家としてかつて居住していた屋敷で 現在 文化財として復元が開始されています

「穂積(Hozumi)」の姓は「稲穂を積む」由来を持ち
熊野地方の方言で「スズキ」は「積んだ稲の穂」を意味していて 同じ意味を持ちます

こうしたことから 穂積氏(Hozumi uji)が 平安時代に称したと伝わる「鈴木」の由来は 神の祭礼に関係する姓氏ともされて「祭礼の際に奉る神木のこと」とも云われます 

紀伊国 藤白(現在の和歌山県海南市)の鈴木氏は 12世紀頃(平安時代後期から鎌倉時代最初期)に 熊野から同じ紀伊国内の藤白に移り住んで以来 王子社(現在の藤白神社)の神官を代々務めた家です
全国の穂積姓 鈴木氏中でも本家筋とみなされている家で・雑賀の鈴木氏・三河の鈴木氏も いずれも 藤白の鈴木氏の分家とされています

日本に200万人を超すといわれる鈴木姓の元祖(ルーツ)ともされています

ただし昭和17年(1942年)122代目当主の死によって総本家は断絶しています

現地の案内板によれば

ここは全国二百万と言われる鈴木姓の元祖(ルーツ)とされる藤白の鈴木氏が住んでいた所です。
(昭和十七年百二十二代没)

平安末期ごろ(西暦一一五〇年頃)上皇や法皇の熊野参詣が盛んとなり熊野の鈴木氏がこの地に移り住み熊野三山への案内役をつとめたり、この地を拠点として熊野信仰を全国に普及すべく 三三〇〇余の熊野神社の建立につとめたと伝えられています。

なかでも鈴木三郎重家と亀井六郎重清の兄弟は有名で、幼少の頃、牛若丸(源義経の幼名)が熊野の往還にこの屋敷に滞在し 重家・重清 らと山野に遊んだとも伝えられています。

後に義経の家臣として衣川の戦いで共にその生涯を終えたと伝えられていますが 三郎重家は秋田の山奥に難を逃れ落ち武者として土着帰農し 鈴木家の分家として現在の秋田県羽後町に歴史を継承し、その屋敷は国の重要文化財に指定されています。

(海南市教育委員会)

藤白のこの地は約八五〇余年の歴史を刻み 歴史史跡として貴重な存在で、また全国鈴木家のふるさとであり 鈴木家の宗家として 当時の武家屋敷を復元し 歴史と共に後世に継承して行く必要があります。(紀州 藤白 鈴木屋敷を育てる会)

現地案内板より

『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』に記される 鈴木三郎の宅

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『紀伊国名所図会』選者:高市志友/画家:西村中和 23冊 刊本 ,文化09年 ~  刊本 ,天保09年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002333&ID=&TYPE=&NO=

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

境内社 有間皇子神社Arima no miko shrine) について

有間皇子Arima no miko)」は 飛鳥時代の皇族で 第36代孝徳天皇の皇子です 政争に巻き込まれ 19歳の若さで処刑された刑場跡が 藤白坂です

この皇子を祀ったが 藤白神社の境内社 有間皇子神社Arima no miko shrine)です

有間皇子(ありまのみこ)神社 由緒

 今から千三百数十年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承をめぐる複雑な争いの中で、19才の若さで散っていった悲運な方です。
政敵であった中大兄皇子が 蘇我赤兄をさそい有間皇子に天皇に謀叛をすることをすすめました。
うまく、わなにかかった皇子は、その釈明のために牟婁(白浜)の温泉にいる斉明天皇のところに参り、その帰路この藤白坂で絞殺されてしまったのです。

途中で皇子の詠まれた

”家にあら(れ)ば 笥(け)に盛る飯(いい)を草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る”
”磐代(いわしろ)の浜松が 枝を引き結び 真幸(さき)くあらば また還り見む”

の2首が万葉集にのせられていますが、絶唱として、ひとびとの涙をさそいます。

 ここから200メートル西の藤白坂の上り口に、皇子の墓と佐佐木信綱博士揮毫の歌碑がありますが、有間皇子神社はその御魂をお祀りしております。

境内の歌碑(雑賀紀光筆)と、歌曲碑(打垣内正作曲)の

”藤白の み坂を越ゆと白たへの わが衣手は ぬれにけるかも”

の歌は、それから43年後、持統、文武 紀の温泉行幸の途次、お伴の人が皇子への同情と追慕から詠んだもので、これも万葉集にのせられています。

現地案内板より

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神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

海南駅から県道135号を経由南下 約1.5km 車5分程度
R42号の藤代神社入口交差点手前で 藤代坂を上がるとすぐです

駐車場からの参道には社号標があり「藤白皇大神社」と刻まれています

藤白神社Fujishiro shrine)に参着
鳥居の手前に手水舎があり 清めます

一礼して 鳥居をくぐり抜けます 右手には 楠の大木があり 神域となっています

この楠木が御神体となっている 境内社にお詣りです

子守楠神社Komori kusu shrine)
《主》熊野杼樟日命kumano kusubi no mikoto)

境内の右手にも楠の大木があり 漆喰の白塀に囲まれています

「聖武三代重石」

平安時代 宇多・花山・白河 三上皇の熊野御幸を記念して建てられたもので「文明記」等の古文書にも出ており県下でも稀な記念塔である。 

境内の中程には「宮水 紫の水」があります

拝殿へは 授与所の中を通り抜けるような感じです

拝殿にすすみます 幟旗には「全国の鈴木さんいらっしゃい」とあります

賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内社にお詣りをします

正面の鳥居を抜けて 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『紀伊国名所図会(kiinokuni meisho zue)』
二編(高市志友編)文化9年(1812)の「五之巻 海士郡に記される伝承

挿絵とともに 文化9年(1812)〈江戸時代〉の境内の様子がわかります

後鳥羽院(第82代 後鳥羽天皇の院政期)の建仁元年(1201年)の熊野詣の際に 藤白の歌会の様子が 記されています

意訳

藤白若一王子社(ふぢしろにゃくいちいちおうじのやしろ)

同村の南にあり 廿四ヶ村の生土神(うぶすなかみ)

四季祭礼(しきさいれい)三月三日 六月十五日 九月九日 十一月十日

祀神(まつるみこと)

左 伊弉奈岐尊 伊弉奈美尊  火結命
 (いざなぎのみこと)(いざなぎのみこと)(ほむすびのみこと)

中 饒速日命
 (にぎはやひのみこと)

右 速玉之男命  事解之男命
 (はやたまのおのみこと)(ことさかのおのみこと)

(中略)

宝塔三基・・・・・・
楠神社・・・・・・
白雉子絵馬・・・・・・
相生松・・・・・・

建仁元年十月 後鳥羽院御幸記 曰
(けんにん)(ごとばゐんごみゆき)

九日天晴
朝出立(あさいでて)。頗遅之間(すこぶるおくれるとのあいだ)。已於王子御前(すでにおおじのおんまえにおいて)。有御経供養等(おきょうくようなどあり)。云々

雖営参白拍子之間(ではあるがしらびょうしのあいまにこしらえてまいる)。雑事人多立隔無路(ざつじにんおおくみちにたちへだてなく)。強不社参逐電(ちくでんにやしろにまいるはあえていらず)。攀昇藤代坂(ふじしろのさかをよじのぼり)五躰王子有 相撲等(すもうなど ごたいおうじにあり )云々

藤代王子和歌会(ふじしろのおうじわかのかい) 建仁(けんにん)元年十月十日

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス『紀伊国名所図会』選者:高市志友/画家:西村中和 23冊 刊本 ,文化09年 ~  刊本 ,天保09年 [旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002333&ID=&TYPE=&NO=

 

藤白神社Fujishiro shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

鎌倉時代から室町時代にかけて 西伊豆の江梨を本拠地とした 藤白鈴木氏の一族 「江梨鈴木氏(enashi suzuki shi)」の神社

〈※藤白鈴木氏の一族 日本書紀・古事記にも記される穂積氏を本姓とし藤白神社の社家として続いた名門〉

神明神社(西浦江梨)の記事をご覧ください

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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