近津神社(上野宮)

野宮近津神社(うえのみや ちかつじんじゃ)は 社伝によれば 慶雲4年(707年)に 池田鏡山城主「藤原富得」が勧請して 神鏡 霊剣 金鈴を奉納されたと伝わります 坂上田村麻呂(758~811)が 八溝山の岩竹丸討伐の際は 當社に参籠したとも伝わる由緒ある古社です

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(shrine name

近津神社(Chikatsu Shrine)
 (ちかつじんじゃ)

 [通称名(Common name)]

野宮近津神社(Uenomiya Chikatsu Shrine)

【鎮座地 (location) 

茨城県久慈郡大子町大字野宮3208-1

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》面足尊Omotaru no mikoto)
   惶根尊Kashikone no mikoto)
   級長津彦命Shinatsuhiko no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

旧郷社

【創  (Beginning of history)】

慶雲4年(707年)勧請

近津神社 大子町上野宮3208

祭  神 面足命・惶根命・級長津彦命

慶雲4年勧請、下野宮・町付と共に近津三所明神と尊称。
宇本宮の地依り 永禄13年現神地に遷座。

藤柄祭(旧2月1日)当日 八溝山産の藤の繊維に依り、織布の市を開くので此の祭名と成る。

大子町鎮座神社マップ 発行 大子町氏子総代会より

【由  (history)】

由緒沿革

当社 御鎮座は文武天皇御宇 慶雲4年 池田鏡山城主 藤原富得 勧請する所にして 神鏡霊剣金鈴を奉納せられる

坂上田村麻呂 八溝山の岩竹丸討伐に當社に参籠せり

源義家公 奥州征伐に際し 参籠 戦勝祈願し 依上保三千貫文を寄進せり

佐竹義久より近津造営に付き 保内役銭の儀 如前こ之催促被請取事と沙汰せらる

永正中當郷 白川領となり 深谷伊豆守 黒澤城代となり関入道義近代参し 十月晦日 正月晦日 當社に参籠 領内安穏を祈る

佐竹義治より 依神保黒澤天田野内650貫文之所寄進の沙汰あり

佐竹義重より 近津造営に付き通達あり 永禄12年末 本殿造営遷宮をなす

岩城に主岩城攻降より 敬白

近津大明神 上野宮 御立願之事 所帯一處寄進 右祈願の趣は寄神保内悉く本意満足當城堅固万民豊楽之故也如件と寄せられる

徳川幕府よりご朱印地十石余りと賜はる

享和2年4月24日社殿造営遷宮祭典を斉行す 造営年間5ヶ年を要し竣工す 隋神門屋根替 石垣の付直し等を行い 此の費用79両3分 30貫 米20石 外に人足500人の扶持米 水戸藩より寺社奉行 高橋多一郎随員8人を伴ひ来宮し藩公より燈明料 奉行より御旗1流を寄進せらる
当日 祭典は 大宮司の外に祢宜高信筑後、下野宮菊池志摩、同丹後町付菊池肥後下谷田鈴木伊豆南田氣御代左膳庄屋益子當衛門他に氏子多数供奉せり
保内有志より本殿擬宝珠を浅川村長山本エ門より青銅釣灯籠寄進あり

高信家世襲によって 本殿御鍵取を奉仕す
出社祭典は 正月27.8日に渡御祭執行し 保内郷に七箇の御枡ありて 廻祭の順序あり、頭人と呼び世襲なり2人有り 大頭小頭と呼称す 第一上江 第二八田野 第三醍醐 第四初原加左貫 第五山田加栃原 第六此藤 第七高柴御幣所五ヶ村 大野、九之瀬北田氣西全高岡真木野地なり

五年毎に當社の御幣神幸す 

明治6年村社に列格
明治40年供進使指指定村社となる
大正6年郷社昇格運動を起し 大正12年郷社に列格す 社務所を新築 例祭を4月3日となせり
終戦により神道指令により神社改変ありて 昭和25年国有境内地無償譲渡
27年宗教法人 近津神社を設立登記を完了せり 銅板を以て屋根替 大鳥居改修 神典を賜ひに社運念じ隆昌を極む云弥

昭和49年甲寅歳次冬12月 宮司 谷田部尅熈恭書
氏子総代 本多清寿 関本子之次 戸辺朝治 松浦忠司 佐藤良一 鈴木興四郎 大河原喜作 鈴木市郎 丹治忠雄
鍵取 高信一
扁額用材寄進 上野宮 伊藤忠

拝殿に掲げられた由緒板

【境内社 (Other deities within the precincts)】

稲荷神社(Inari Shrine)
《主》倉稲魂命(ukanomitama no mikoto)

満宮(tenmangu
《主》菅原道真(sugawara no michizane no mikoto)

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています 

下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)では 水戸藩の治世で 寛文年間(16611673年)の頃に 町付に「近津中の宮」上野宮に「近津上の宮」を分祀(ぶんし)創建したと伝えていますが
上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)〈当社〉 拝殿に掲げられた由緒書きによれば 

御鎮座は 文武天皇御宇 慶雲4年 池田鏡山城主 藤原富得 勧請する所にして 神鏡霊剣金鈴を奉納せられる

と下野宮と同じ由緒を持っている古社となります

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

稲村三社(inamura sansha)」の総称として
 「近津三社Chikatsu Sansha)とも呼ばれています

下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)の社伝では
水戸藩の治世で 寛文年間(
16611673年)の頃  八溝嶺山Yamizomine yama)を源とする八溝川をさかのぼるように新たに 町付に「近津中の宮」上野宮に「近津上の宮」を分祀(ぶんし)創建しましたとあります

近津三所大明神と呼ばれていた3つの近津神社と区別する意味で 当社は「上野宮」「上之宮」「上の宮」「上宮」とも呼ばれていまし

・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)〈当社〉
・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)
・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)

この3社を
近津神社の分祀なので「近津三社Chikatsu Sansha)とも
〈上野宮〉の鎮座地周辺が「稲村」と呼ばれた地名のため稲村三社(inamura sansha)」とも 呼ばれていました

スポンサーリンク

「近津三社八溝川沿いに並鎮座それぞれの記事をご覧ください

・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)〈当社〉

 

・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)

 

・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)

 

スポンサーリンク

八溝嶺山Yamizomine yama)を源とする八溝川

・八溝嶺神社Yamizomine Shrine)の記事をご覧ください

 

神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

下野宮駅から 県道28号経由 約8.7km 車15分程度
八溝山へ向かう途中 上野宮に鎮座します

野宮近津神社(Uenomiya Chikatsu Shrine)に到着

道路際にステンレスの旗竿建ち 階段を上がると 上に社号標と鳥居が建ちます

社号標には「近津神社」とあります

階段の上に上がると 鳥居の先に参道が続き 正面にこんもりとした鎮守の杜が見えます 一礼して 鳥居をくぐります

境内の入り口には 狛犬が構え 隋神門が建ちます 

隋神門には 注連縄が掛かり 頭を垂れて 抜けます

隋神門を抜けると 3段構えの境内になっていて 最上段に社殿が建つのがわかります

参道の両側に御神木の杉の大木が並び立ち その間を石段が抜けていて 参拝者は 御神木に挟まれた参道を正面の社殿へとむかうようになっています

ちょっと風変わりな手水舎(ライオンの口から神水)は御神木の根元にあり 清めます

御神木を抜けながら一礼をします

拝殿にすすみます 扁額には「近津神社 侯爵 徳川國順謹書」とあります

神紋も三つ葉葵ですので 水戸の徳川家からの崇敬が窺われます 

扁額の奥には 由緒書き

賽銭をおさめ お祈りです 

ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

境内社にお詣りをします

社殿向かって左側の境内社

社殿向かって右側の境内社

境内社には 朱塗りの鳥居が建ちます

同じく 覆屋が2棟建っていて 朱色の鳥居の後方にある一棟の覆屋は やはり朱色に塗られています
それぞれ中には 各村から合祀されたと思われる本殿や祠が祀られています 

こちら側からは 社殿の全体が見渡せます

近づいて仰げば 神明造の本殿の屋根が かつては茅葺きであったものに銅板を葺き替えていることがわかります 千木は 内削ぎ です

一礼して参道を戻ります

鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします

神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

下野宮と同じ由緒を持つ 野宮近津神社(Uenomiya Chikatsu Shrine)

ですが 「宇本宮の地依り 永禄13年(1570)現神地に遷座」ともあって 下野宮創建の由緒「前 に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふとは 上野宮の鎮座地にの様子に近く こちらが本宮である可能性も高まります

伝説なども記されていますので ご参照ください

意訳

「創建は 社伝によるには 文武天皇 慶雲4年(707年)、藤原富得、夢に神あり、白羽の矢を授けて曰く、吾 近勝明神なり云うと、よって八溝山の悪鬼を除去せしむるを得たりと、此事奏上に及びしか、勅して此地に社を営ましめら る、是れ本社の創建なりと云ふ、

本社は、元と陸奥に属し、彼の陸奥白川郡 馬場近津明神の下宮なりと、後小松天皇 應永13年(1406年)4月源兼保、地3000貫を寄奉る、
但、之れ義家の例に依ると、次いで永正11年(1514年)6月、佐竹義治 更に650貫の地を寄せ奉りしが、徳川氏天下の権を握るに至り、社領368斗、及除地15834合を寄奉る、

明治維新(1868年) 一度村社に列せしが、後9年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、其他神楽所あり、本殿は神明造りにして南に面す、壮麗にあらざるも瀟洒却て神威の高き を仰がしむ、境内は1275坪(官有地第一種)及近く編入せられし上地林2717歩より成る、「前 に八溝川を控ヘ、後に八溝山を負ふ、而かも東西老檜天を蔽ふ、蓋、自然の神地たり。

【原文参照】国立国会図書館デジタルコレクション『明治神社誌料』平安時代初期 著者 明治神社誌料編纂所 編
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088244映像利用

野宮近津神社(Uenomiya Chikatsu Shrine) (hai)」(90度のお辞儀)

「近津三社八溝川沿いに並鎮座それぞれの記事をご覧ください

・〈上野宮〉上野宮近津神社(Ueno miya Chikatsu Shrine)〈当社〉

 

・〈中野宮〉町附近津神社(Machitsuki Chikatsu Shrine)

 

・〈下野宮〉下野宮近津神社(Shimono miya Chikatsu Shrine)

 

八溝嶺山Yamizomine yama)を源とする八溝川

・八溝嶺神社Yamizomine Shrine)の記事をご覧ください

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-その他の神社
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.