-
天諸羽神社(対馬 吉田)
天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 対馬の卜部の系列の神社とされ その卜術は 亀の甲羅を火に焙って 占を行う「亀卜」と呼ばれるもので 神功皇后に従って三韓に渡り 帰途 対馬に留って縣直(あがたのあたい)となった 中臣鳥賊津使主が 亀卜の法を伝えたといわれ 対馬では 雷大臣命として卜部の神社に祀られています 当神社も卜部の関係した『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社」の論社です
-
能理刀神社(対馬 西泊)
能理刀神社(のりとじんじゃ)は 社伝によれば「神功皇后が新羅征伐の時 海上安全 戦捷祈願 行宮の古跡の社であり 延喜式神名帳に 能理刀社・・・亀卜所 占祈祷の神霊神をまつる古社とされています この権現山は 古神道の霊神山で 中世に至り 熊野系の修験道者山伏が 入山して修練した 亀卜所であったとされている 」又「文永11年(1274)元寇の時 三所大権現神に祈れば 荒神権現山の中腹より 神石三ツ飛出し来りて 異賊船を打砕き給ひて 浦合の村人を助け給うた神石」とあります
-
住吉神社(対馬 鶏知)
住吉神社(すみよしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 住吉神社 名神大」の論社です 式内社の「住吉神社」は もともとは 鴨居瀬(カモイセ)に鎮座し それを後に 鶏知(ケチ)に遷座したのは確かです しかし 遷座の時期は古く 一説には〈延喜式(927年)制定の前とも伝わり 制定時はすでに鶏知(ケチ)に遷座していた〉ともあり 双方が式内社であるとしています
-
胡禄神社(対馬 琴)
胡禄神社(ころくじんじゃ)は 琴(キン)地区に鎮座し 伝説では 神功皇后(ジングウコウゴウ)が 三韓征伐への出陣の際 琴崎東沖を過ぎて 御船の碇が海底に沈んだ時に 舵取りの「安曇磯武良(アズミイソラ)」=〈御祭神 磯武良(イソタケラ)〉が 海中に入って 御船の碇を取り上げたと伝わります まさしく海神(わたつみのかみ)を祀ります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社で 「胡禄御子神社」或いは「和多都美御子神社」であるとの説もあります
-
島大國魂神社(対馬 豊 白水山)〈旧 鎮座地〉
島大國魂神社は かつて 上対馬 豊(豊漁港)の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していました〈旧 鎮座地〉 この白水山に続く海岸沿いは 不通浜(トオラズガハマ)と呼ばれて 神聖ゆえに近づくことすら許されず 禁足地としての掟が厳しく 立ち入ると大風が吹く 腹痛に見舞われる 災害が起きる さらに 白水山には老人が住んでおり そこで見聞きしたことを他言すると死んでしまう という伝承もあります 決して近づいてはならない神域です 下の写真は望遠にて撮影
-
和多都美神社〈鷄知住吉神社 境内脇宮〉
和多都美神社(鷄知)は 鷄知住吉神社の本殿の脇に鎮座する境内社です 但し 住吉神社の本殿に祀られる御祭神を考慮すると 本来は 住吉神の・上箇之男命・中箇之男命・底箇之男命「墨江之三前大神」の筈ですが 和多都美神の系統である・鵜葺草葺不合尊・豊玉姫命・玉依姫命が 本殿に祀られていて 脇宮と本殿が入れ替わったのではないかとの説もあります
-
行相神社(対馬 田)
行相神社(ゆきあいじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 行相神社(ゆきあいの かみのやしろ)」の論社とされています 鎮座地は 豊玉町 田ですが この地は もともと 寛元4年(1246)以前は 上県郡に属していたとしています
-
小牧宿禰神社(対馬 三根)
小牧宿禰神社(おひらすくねじんじゃ)は 現在の御祭神を天菩比命(アメノホヒノミコト)の御子神「建比良鳥命(タケヒラトリノミコト)」であるとしています 一方 社号とされている神号「小牧宿禰命(ヲヒラスクネノミコト)」は 六国史『日本三代実録 901年成立』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「小枚宿祢神(ヲヒラノスクネノカミ)」とあり『延喜式神名帳』(927年12月編纂)には「小枚宿祢命神社(をひらすくねのみことの かみのやしろ)」と所載されています こちらが本来の神であろうとされています
-
伊奈久比神社(対馬 伊奈)
伊奈久比神社(いなくひじんじゃ)は 由緒書きには 白鶴が 伊奈の原に 稲穂を落とし その所を穂流川と云う 里人がその穂を取り 榎田に植えて 御食(ミケ)として神田(カンダ)としたのが 対馬の稲作の起りで それで「伊奈(イナ)」という地名となった「穂落し神」として「大歳神」を祀ると伝わります
-
那須加美乃金子神社(対馬 小鹿)
那須加美乃金子神社(なすかみのかねこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の論社です 由緒書きには「素戔嗚尊 五十猛命を卒い〈引き連れて〉八十木種〈沢山の木の種〉を持ち 韓国 曽尸茂利(ソシモリ)の地に往(ユ)き その地には植えさせたまはずに この山に植えたまう」と『日本書紀』にある 素戔嗚尊の伝承の発祥地ではないかと思う程 とても似ている伝承を持ちます
-
天神神社(対馬 佐護北里)
天神神社(てんじんじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載「對馬嶋上縣郡 天神多久頭多麻命神社(あめのかみたくつまのみことの かみのやしろ)」の論社です もともと天神(あめのかみ)と称する祭祀所であったとされます
-
春日大明神(対馬 佐護東里)
春日神社(かすがじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の深山に鎮座します 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社(あまのもろはのみことの かみのやしろ)」の論社です 深山では「春日大明神(かすがだいみょうじん)」と呼ばれ 深山村落の鎮守のようです
-
天諸羽神社(対馬 佐護深山)
天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の深山に鎮座します 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 天諸羽命神社(あまのもろはのみことの かみのやしろ)」の論社との説もあり かつては「つのかみ明神」と呼ばれました 深山村落の裏山〈中々わかりにくい所〉に鎮座しています
-
天諸羽神社(対馬 佐護恵古)
天諸羽神社(あめのもろはじんじゃ)は 佐護郷6ヶ村〈恵古 深山 仁田ノ内 井口 友谷 湊〉の中心であった恵古に鎮座します 藩政時代には 島主の宗家は 対馬の吉凶を 亀卜(キボク)や太占(フトマニ)により占わせたと伝わり 豆酘〈下縣〉と佐護〈上縣〉の地では〈明治4年(1871)の廃藩までは〉毎年旧暦の正月3日に 亀卜神事が執り行われていたようです
-
島御子神社(対馬 曽)
島御子神社(しまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳〈927年〉』所載の「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の論社ともなっています 六国史の記録としては『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』 貞観12年(870)3月5日 丁巳の条に「嶋御子神(シマミコノカミ)従5位上」と 對馬嶋(上縣・下縣)の式内社の神々とともに記されていて 対馬でも有数の由緒を持つ古社です
-
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉
那祖師神社・島大國魂神社・若宮神社〈三社合祀〉は もともとは 豊(トヨ)の村人たちが 豊漁港の北東にある 椎根島の白水山(シロミズヤマ)に鎮座していた「島大国魂(シマオオクニタマ)神社の遥拝所」としていた処であったとされます ここに 旧 藩政時代 国主により「那祖師(ナソシ)神社」が建立されます やがて 島大国魂神社と 北東にあるナンガ浦〈豊と泉の中間辺り〉に鎮座する若宮(ワカミヤ)神社も合わせ 豊(トヨ)に鎮座する3社が合祀されて 現在に至ります
-
元嶋神社(対馬 唐洲)
元嶋神社(もとしまじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 上縣郡 大嶋神社(おほしまの かみのやしろ)」の論社です 写本によっては「大嶋(オホシマ)」が「本島(モトシマ)」と書かれている場合があり ここから当社が論社となっています
-
國本神社(対馬 瀬田)
国本神社(くにもとじんじゃ)は まさしく神社名に相応しい 対馬の国本の神を祀る古社です 六国史『日本三代実録』貞観12年(870)3月5日 丁巳の条には「国本神(クニモトノカミ)」として記されています 御祭神は『古事記』によれば 日本創成を語る「国生みの段」に 6番目に津島〈対馬〉が生まれていて その別名を「天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)」であると記されています この神が対馬国の大本であるとわかります
-
嶋大國魂御子神社(対馬 佐須奈)
嶋大國魂御子神社(しまおおくにたまみこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される「對馬嶋 上縣郡 嶋大國魂神御子神社」の有力な論社とされています 参道には 天然記念物であるムクロジと大杉の立派な御神木があります
-
乙和多都美神社(対馬 久和)
乙和多都美神社(おとわたつみじんじゃ)は 下縣で 唯一のワタツミの社号を伝へた神社である とされています 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の「對馬嶋 下縣郡 和多都美神社 名神大」の論社として 厳原八幡宮神社と並んで論社ですが どちらも「名神大 和多都美神」となる決め手と証がありません