阿太賀都健御熊命神社(鳥取市御熊)

阿太賀都健御熊命神社あだかつ たけみくまのみこと じんじゃは 社殿一帯に玄武岩柱状節理みられ これは「御祭神 健御熊命一夜で 隠岐島に石橋をけ造ろうとしが にわかに明けと思事成らず捨置き給ふ趾」伝説があります 式内社の阿太賀都健御熊命神社(あたかつ たけみくまのみことの かみのやしろ)とされます

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

阿太賀都健御熊命神社Adakatsu takemikumanonikoto shrine

 [通称名(Common name)]

御熊神社(みくまじんじゃ)

【鎮座地 (Location) 

鳥取県鳥取市御熊612

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》御熊命(みくまのみこと)

天日一箇神(あめのまひとつのかみ)
   保食神(うけもちのかみ)
   木花開耶姫命(こりはなさくやひめのみこと)

【御神格 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

阿太賀都健御熊命神社たが たけみくまみこと じんじゃ

(通称 御熊〈みくま〉神社)

鳥取市御熊六一二(旧高草郡 旧村社)

《祭 神》御熊命 木花開耶姫命 天日一箇神 保食神
《建 物》本殿(流造五尺二寸×四尺六寸) 神楽所

《境 内》面積二六四㎡ 境内は六角柱玄武岩でおおわれ、一帯が鳥取市文化財に指定(昭和四九年)されている。玄武岩の自然石を八〇段険阻に積み上げた急な石段が神秘の趣を与え、周辺にタブノキの古木(幹周川五・五m)、スギ(幹周四.六m)をはじめケヤキやカブノキの大木がある。

《由 緒》勧請年月は不明だが、『三代實録』巻一一貞観七年(八六五)六月の条に『因幡國無位阿太賀都健御熊命・・・中略・・・授従五位下』と記されており、『延喜式』神名帳(九二七)にも.「高草郡 阿太賀都健御熊命神社」と記されている。
近世、当社を柱ノ大明神と称したのは境内地の形容(石柱)によるものであろうが、往古より岩山を神と崇めたものと思われる。略して御熊神社と祢する。

明治元年に摂社鍛冶殿(天日一箇神)と稲荷神(保食神)を合紀し.大正三年九月に内海中の山田神社(もと山田明神 木花開耶姫命)を合祀した。

 むかし、卸熊の神が石橋を作り隠岐國へ懸け渡そうとしたが、一夜で造る計画が.俄に夜が明けて成就せず.拾て置かれた跡であると伝えられている。また、明治の終わり頃 氏子一同の奉仕で、神楽殿の平地より本殿までその玄武岩を用い数日がかりで石段を造り上げたが、翌日はもとのようになり、石段はなくなっていたという話も伝わる。

 歌枕、因幡の「みくらのやま」は当地、卸熊のこととされ、『更科日記』にも.「わが身も、み倉の山に積み余るぱかりにて」-財(財)を積み豊かになっての意-の記述がある。

新修鳥取県神社誌『因伯のみやしろ』転載

現地案内板より

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【由  (History)】

鳥取市指定文化財

御熊神社 玄武岩柱状節理

昭和四十九年四月四日 指定

 御熊神社 社殿一帯にみられる玄武岩は、径約五十センチ、長さ百五十~二百センチの六角状の玄武岩で形成されており、その数量及び範囲については確かなところ不明である。社殿への参道階段や民家の石垣などにはこれらの玄武岩が多く利用されている。
 玄武岩の産地は市内にもみられるが、そのほとんどが縦型柱状節理のものであって、当御熊神社にみられる横型柱状のものは珍しいものである。
鳥取市教育委員会

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)因幡国 50座(大1座・小49座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)高草郡 7座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 阿太賀都健御熊命神社
[ふ り が な ](あたかつ たけみくまのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Atakatsu takemikuma no mikoto no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

御祭神 健御熊命(たけみくまのみこと)について

健御熊命(たけみくまのみこと)は 記紀神話に次のように表記されます
『古事記』 ⇒建比良鳥命(たけひらとりのみこと)
『日本書紀』大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)武三熊之大人(たけみくまのうし)武日照命(たけひなてるのみこと)武夷鳥命(たけひなどりのみこと)天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)

亦のを 天鳥船(あめのとりふね)とも云う

記紀神話では 葦原中国の平定の段 大背飯三熊之大人(武三熊之大人)が 父の天穂日命に次いで葦原中国に遣された しかし 父と同様に何も報告して来なかったと記されています

『出雲国造神賀詞いずもくにのみやつこかむよごと)』に 記される御祭神

出雲国造神賀詞では
「天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)に布都怒志命(ふつぬしのみこと)を副へて天降し」と表記され 

天穂日命(あめのほひのみこと)が 天神の使者となり 地上の様子を視察し 復命のうえ 子の天夷鳥命と布都怒志命を派遣し 荒ぶる神々を鎮圧し 大国主神を媚び鎮めて〈神意に沿った祭りを行い 神の御心を鎮めて〉国譲りを誓わせた 使命を遂行した平定の功労者として語られます

 

社伝に記される御祭神について

健御熊命(たけみくまのみこと) この辺りから石柱を切り出し 一夜で 隠岐島に石橋をけ造ろうとしが 天邪鬼(あまのじゃく)が夜明けの鶏鳴を真似たため にわかに明けと思事成らず捨置き給ふ趾と伝わります

そのため社地への八十段の柱状の自然石階段は その名残りであると云い 健御熊命神社は柱大明神とも称されていました
また 明治の終わり頃 氏子一同の奉仕で 神楽殿の平地より本殿までその玄武岩を用い数日がかりで石段を造り上げたが 翌日はもとのようになり 石段はなくなっていたという話も伝わる

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因幡国 髙草郡(たかくさの こおり)に鎮座する「天穂日命(あのほひのみこと)」に関連する5つの式内社 それぞれの論社について

3.因幡國 高草郡 天穗日命神社(あまのほひのみことの かみのやしろ)

・天穗日命神社(鳥取市福井)

・天穂日命社〈日吉神社 境内摂社〉(鳥取市布勢)

4.因幡國 高草郡 天日名鳥命神社(あまひなとりのみことの かみのやしろ)

・天日名鳥命神社(鳥取市大畑)

5.因幡國 高草郡 阿太賀都健御熊命神社(あたかつたけみくまのみことの かみのやしろ)

御熊神社鳥取市御熊

6.因幡國 高草郡 大和佐美命神社(おほやまとさみのみことの かみのやしろ)

・大和佐美命神社(鳥取市上砂見)

7.因幡國 高草郡 大野見宿禰命神社(おほのみのすくねのみことの かみのやしろ)

・大野見宿禰命神社(鳥取市徳尾)

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

白兎神社が鎮座する 白兎海岸から 県道258号を4km程南下した辺り
阿太賀都健御熊命神社への参道入口があります

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御熊神社玄武岩柱状節理案内図」が設置されています これを見る限り 社頭の鳥居までは まだありそうです 横に「急傾斜地崩壊危険区域」ともあります

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簡易舗装の道を上がり始めると 暫くして草に覆われてきます

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鳥居が見えてきました
阿太賀都健御熊命神社(鳥取市御熊)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐり 参道を進みます

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ますます草深くなります 蚊には要注意です

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汗をかきながら 自然石の石段を上がりながら
殿にすすみます 

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本殿の周りは 玄武岩柱状節理だらけの神域

賽銭をおさめ お祈りをします 
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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草深い参道を戻ります

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承

神階の奉授が 記されています

【抜粋意訳】

貞観七年(865)六月八日丁己の條

因幡國(いなばのくに)無位(むい)
阿太賀都御熊神
大和佐美神
に並びに くに 従五位下

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

祭神の健御熊命は 日本書紀 神代下を引用し 天穗日命(あめのほひのみことの御子 武三熊之大人(たけみくまのうしと記しています

【抜粋意訳】

阿太賀都健御熊命神社

阿太賀都は假字なり、健御熊は多氣美久麻と訓べし、
〇祭神明らかなり
〇末常保御熊村に在す、今 柱大明神と称す、因幡志
〇日本紀 神代下
高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中国之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之、然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞

高皇産靈尊たかみむすひのみこと 八十諸神(やそもろかみたち)を集めて尋ねられた
「わたしは 葦原中国の邪神を追い払い 平定しようと思う 誰を遣わしたらよいだろう ここに居る神々よ 知ってることは隠さず言ってくれ」
神々が答えるには
「天穗日命(あめのほひのみこと大変優れた神です
されるべきです」
そこで 高皇産靈尊は 神々の意見に従い 天穗日命を葦原中国に送り 平定しようとしました
しかし この神は 大己貴神(なむちのみこと)に媚びるばかりで3年たっても復命しなかった
そこで その子の大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)大人は于志(うし)と読む 亦の名を 武三熊之大人(たけみくまのうし
これ遣わしたが 父親に恭順しい 遂に何も聞こえてはこなかった

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

祭神の健御熊命は 日本書紀 神代下には 天津神の命に従わなかったと記されているが 《出雲国造神賀詞(いずもくにのみやつこかむよごと)》では復命のうえ 本来は 父神 天穗日命らと共に力を合せ 荒振神を媚和して掃ひ平け玉ひし と記しています

【抜粋意訳】

阿太賀都健御熊命神社

祭紳 健御熊命 稲三倉社大明神

今按〈今考えるに〉
健御熊命は 神代巻 上の天穗日命神社の條に引るさしつきに 故、仍遣其子大背飯三熊之大人大人、此云于志、亦名武三熊之大人。此亦還順其父、遂不報聞そこで その子の大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)大人は于志(うし)と読む 亦の名を 武三熊之大人(たけみくまのうし
これ遣わしたが 父親に恭順しい 遂に何も聞こえてはこなかった》とみえて 天神さきに遣せる穂日命の三年まで復命し給はぬを待蒙玉ひて 再び 此神を遣しつるに此神も その父に順て報聞せざりし趣なれど こも既に述べるるが如く 穂日命夷鳥命と力を合せ心を同じくして 荒振神を媚和して掃ひ平け玉ひし功烈ありしなるべく将野見宿祢命の祖先なるよりて此地には祭られたるものと見えたり

神位 清和天皇 貞観七年六月八日 丁己 因幡國 無位 阿太賀都建御熊神 授従五位下
祭日 五月十七日
社格 村社
所在 御熊村御熊山(氣高郡末恒村大字御熊)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『鳥取県神社誌(Totoriken jinjashi)〈昭和10年(1935)〉』に記される伝承

御祭神〈御熊命〉が 隠岐国へ架ける石橋を一夜に造り立てようとしたが 夜明けて事成らず捨置き給ふ趾と云い伝わる と記しています

【抜粋意訳】

阿太賀都健御熊命神社

祭神 御熊命、天目一箇神、保食神、木花咲耶姫

由緒
延喜式所載の神社なり、三代実録 巻十一 貞観七年六月の條に「八日丁己 因幡国 無位 阿太賀都健御熊命神 中略 従五位下」と記し 略して 御熊神社と称す、
因幡誌に「御熊の神社、村より神楽堂へ一町、其より石階あり凡そ八十段皆材木の如き自然石にて険阻に積み上げたれば容易くは登り難し、其上に平地あって神廟を安ず 中略 其側に奇石あり、細く長く大さ屋宇の柱梁の劉成せるが如く積みて山岳をなせり、土俗 柱大明神と云ふ、
相伝ふ 此神 石橋を作り、隠岐国へ架渡さんとて一夜に造り立てんとし、俄に夜明けて事成らず捨置き給ふ趾と云伝ふ、
葛城の一言主神の故事に髣髴たり、凡 此山の尾続き 彼の隠岐国へ橋掛給はんと、杖衝坂の鼻まで五十町許の間、土中 此の石の柱なりと云へり、天工絶異の境地と云ふべし」と載せ 本社の付近には鍛冶殿社あり
この神石柱造り給ふ時、鉄を鍛へ給ひし處なりと伝ふ、
総て 此の辺を鍛冶屋谷と称す、この他 細工谷 若しくは 石屑谷等称する地名ありて、石の削屑積みて山を為す、蓋し此等地名によりても祭神の遺徳を窺ふに足るべし、
明治元年 天目一箇神、保食神を合祀し、同年四年村社に列格せらる、降って大正三年九月十七 末恒村大字内海中字南田 鎮座 無格社 山田神社(祭神 木花開耶姫命)を合祀す。

例祭日 四月十七日
建造物 本殿、拝殿、神楽殿
境内坪数 四百
氏子戸数 四十六

【原文参照】

『鳥取県神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476出版 昭和10年(1935)著者 鳥取県神職会 編 出版者 鳥取県神職会

阿太賀都健御熊命神社(鳥取市御熊)に (hai)」(90度のお辞儀)

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”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 の記事を見る 

因幡国 式内社 50座(大1座・小49座)について に戻る      

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

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