延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)

伊勢天照御祖神社〈大石神社〉(久留米市大石町)

伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされていますが 久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれています 当社の祭神は天照国照彦天火明尊〈饒速日命〉とされ 物部氏の日神祭祀に関連していたと思われます

伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)

伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 中世に廃絶したとも云われます 室町時代末の『高良社画縁起』では 山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれていて 明和4年(1767)の府中大火を機として 現在地に遷座されたと伝わります

笠原神社(中野市大字笠原字下河原)〈延喜式内社〉

笠原神社(かさはらじんじゃ)は 延喜式内社です 元々は現在地より東北300mほどの字天神前に鎮座しましたが 寛文11年(1671)湯交川〈夜間瀬川〉の大洪水により社殿を流失 その後 祭祀を委ねた若宮八幡宮が笠原神社の額を掲げたが 江戸寺社奉行の決裁で笠原村の勝訴となり 文化12年(1815)現在地に再建

伊豆毛神社【旧鎮座地】(長野市豊野町)

伊豆毛神社【旧鎮座地】は 八雲台古墳の上に鎮座しています 里俗の口碑によれば 太古には水内海の沿岸に在ったとされ 大湖の水理に関連する出雲族の神社とも考えられます『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の古社で 大永3年(1523)上伊豆毛(八雲台)から 下伊豆毛の現在地に遷座しました

伊豆毛神社(長野市豊野町)

伊豆毛神社(いづもじんじゃ)は 大永3年(1523)上伊豆毛(八雲台)から 下伊豆毛の現在地に遷座した『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 里俗の口碑によれば 神代には水内海の沿岸に在ったとされ 大湖の水理に関連する神ともされます

下立松原神社(南房総市千倉町)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺』〈大同2年(807年)〉に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社です 鎌倉幕府を開いた源頼朝公が自らが書写した大般若経600巻を奉納しています 又 同名の下立松原神社が千倉町と白浜町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに式内社の論社となっています

下立松原神社(南房総市白浜町滝口)

下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社ですが 同名の下立松原神社が 白浜町と千倉町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の論社となっています

久保島大神社(熊谷市久保島)

久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)は 明治42年(1909)政令により『一村一社』とする為 久保島村にあった 二柱神社 及び 神明社をはじめとする無格社7社をそれらの境内社と共に 村で規模が最も大きい 山神社 に合祀して 山神社を村社に昇格の上 改称して 久保島大神社が誕生しました この山神社は 式内社の参考論社でもあります

楡山神社(深谷市原郷)

楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です

莫越山神社(南房総市沓見)

莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は 社伝には神武天皇元年 天富命が 阿波の忌部の諸氏を率いて安房に開拓の為 移り住んだ時 安房の東方の開拓をした 天富命の孫 小民命(おたみのみこと)その御子 御道命(みぢのみこと)が 莫越山に手置帆負命を祀り 彦狭知命を合祀したと伝わります 式内社の論社としては ここ沓見と宮下の2社が挙げられます

莫越山神社(南房総市宮下)

莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は ご神体山〈莫越山〉の麓に遥拝所として造営され 往古境内は広大 神殿は壮麗でしたが 中世を経て荒廃したと社伝は云い 古代の祭祀遺跡が周辺に点在し 古くから信仰があることがわかります 式内社の論社としては ここ宮下と沓見の2社が挙げられます

天神社〈下立松原神社の境内〉(南房総市白浜町)

天神社(あまつかみのやしろ)は 下立松原神社の拝殿の向かって右側に鎮座します 高御産巣日神(タカミムスビノカミ)神産巣日神(カミムスビノカミ)を祀る式内社の論社で 本郷 谷(ヤツ)部落から昭和3年に下立松原神社本殿に合祀されました その後 昭和12年(1937)に改めて天神社を祀ったものです

和気能酢神社(隠岐 隠岐の島町下西)

和気能酢神社(わけのすじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社です 酒造りに関連した神社のようで『隠州神名帳(Onshu Shinmeicho)』〈貞観5年(863)国内神名帳〉には 従1位 和氣能酒大明神とあり 松尾神社(まつのおさん)とも呼ばれていました

洲宮神社(館山市洲宮)〈延喜式内 大社・安房國一之宮の論社〉

洲宮神社(すのみやじんじゃ)は 元々は南側の魚尾山(とおやま)山上に鎮座しましたが 文永10年(1273)火災により古書などを焼失して現在地へ遷座します 明治5年(1872)教部省が式内社と認定しますが 翌6年(1873)洲崎神社を式内社であると覆し 式内社論争となります 両社とも近代社格制度では縣社に列格されました

加紫久利神社(出水市下鯖町)

加紫久利神社(かしくりじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社で 薩摩国の二ノ宮とされる古社です 社名は元宮とされる「箭筈嶽〈加紫久利山〉」 薩摩國の建国と同時(702年)に肥後との国境にそびえる 加紫久利山からの由来と伝わります

比奈麻治比賣命神社(隠岐 西ノ島町宇賀)

比奈麻治比売命神社(ひなまちひめのみことじんじゃ)は 旧鎮座地の西ノ島町の北東端の『済』という地から昭和3年(1928)に現在地に遷座します 六国史の『日本後紀』延暦18年(799)5月の條に 渤海国から我国の遣渤海使(ケンボッカイシ)らが 海を渡り帰国の途 海中の夜闇の中で迷うと 遠くに火光が見え これを目指して嶋の浜に無事に着く 暗夜の航海を火光で助けた比奈麻治比売命の霊験であると官社にして頂きたいと上奏が記されています

宇受賀命神社(隠岐 海士町宇受賀)

宇受賀命神社(うつかみことじんじゃ)は 中ノ島〈海士町〉に鎮座する『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の名神大社です 島内の伝説によれば 御祭神の宇受賀命は 隣島の西ノ島の大山神社の御祭神と 姫神〈西ノ島・宇賀地区の比奈麻治比賣命神社の御祭神 比奈麻治比賣(ヒナマチヒメノ)命〉との結婚をめぐって争い これに勝利した神と伝わります

焼火神社(隠岐 西ノ島町美田)

焼火神社(たくひじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の参考論社ですが むしろ式外社と考えられています 島前(とうぜん)の西ノ島の最高峰である焼火山(たくひやま)は 隠岐の島前カルデラを生み出した火山島の中央火口丘の名残りです 約600万年前に現在の島の原型が造り出されました 隠岐を創り出した源を神体として祀る神社です

水祖神社(隠岐 隠岐の島町城北町)

水祖神社(みおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の参考論社とされています 洪水で当神社が流れて祀られたのが 八尾川の河口近く天神原に鎮座する水祖神社との伝承があり 或いは 当神社が天神原からの分祀であるとの説もあるようです

水祖神社(隠岐 隠岐の島町港町)

水祖神社(みずそじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の論社です 大昔 八尾川上流沿いにあった小さな祠が洪水で流れ着き これが合祀されている天満宮とのこと 隠岐の島町に住んでいる人の大半は この神社を天神さんと呼び慣れ親しんでいるようです

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