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鳴雷神社&高山神社〈春日大社末社〉(奈良市春日野町 春日山内)
鳴雷神社(なるいかづちじんじゃ)&高山神社(こうせんじんじゃ)は 佐保川と能登川の源流 春日山の分水嶺 香山(こうせん)に鎮座する水神様 水源祭祀の御神体として龍王池を祀る鳴雷神社は 明治8年(1875)までは香山龍王社とも呼ばれ 又『延喜式神名帳AD.927』所載 宮中神 36座 主水司坐神(もいとりのつかさにましますかみ)1座 鳴雷神社は 大和国の式内大社 鳴雷神社〈当社〉を遷座したものとされます
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穴栗神社(奈良市横井)
穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は 元々は 横井村の北西に鎮座していたが 江戸時代初期の寛文年間〈1661~1673年〉に現在地〈古市村〉に遷座したと伝わります 二つの式内社「宇奈太理坐高御魂神社(うなたりにますたかみむすひの かみのやしろ)」「穴次神社(あなつきの かみのやしろ)」の論社とされています
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宇奈多理坐高御魂神社(奈良市法華寺町)
宇奈多理坐高御魂神社(うなたりにいますたかみむすびじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 奈良時代中期〈天平17年(745)〉法華寺(ほっけじ)が創建されるとその後 鎮守社になったと云われていて 江戸時代には楊梅神社とも云われていました 境内一帯は 第51代 平城天皇〈在位806~809年〉の楊梅宮址とか春日斎宮の斎院址とかの学説もあります
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井栗神社・穴栗神社〈春日大社境内社〉(奈良市春日野町)
井栗神社(いぐりじんじゃ)・穴栗神社(あなぐりじんじゃ)は もとは奈良市横井町付近〈横井村〉に鎮座していた 井栗神社は 雨多利(ウタリ)と云う田畝にあり 式内社の宇奈太理坐高御魂(うなたりにますたかみむすひ)神社とされていました 保延元年(1135)八月三日 穴栗(穴吹)・井栗の二社を現在地の春日大社境内へ遷座したと伝わります
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初宮神社(奈良市鍋屋町)
初宮神社(はつみやじんじゃ)は 平城京〈710~794年頃〉奈良時代 宮中の神祇官にて祀られていた八神殿の跡〈第九代 開化天皇の時代〈BC.157~BC.98年〉の八神殿であるとも伝〉とされる聖地です 八神殿は その後 京都への遷都とともに京都に遷り 現在は東京の皇居に鎮座しています 現在の初宮神社は 世界遺産・春日大社(かすがたいしゃ)の境外末社となっています
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富知六所浅間神社(富士市浅間本町)
富知六所浅間神社(ふじろくしょせんげんじんじゃ)は 創建年は不詳ながら第五代 孝昭天皇の御宇と伝えられ 大同5年(806)浅間五社を勧請するにあたり当神社を首座と定めた 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 駿河国 富士郡 富知神社(ふぢの かみのやしろ)の論社でもあります
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富知神社(富士宮市朝日町)
富知神社(ふくちじんじゃ)は 第五代 孝昭天皇二年〈BC474年〉の御世 富士山の神〈水神・農耕神〉が祀られたのが始まりとされ 当初の社地は 現在の富士山本宮浅間大社の鎮座地 大宮であったが 大同元年(806)平城天皇の勅命で坂上田村麻呂が社殿を造営し 浅間大神〈火神〉が遷座し祀られた為 富知神社は 現在地 立宿の地に遷し奉られたと伝えます
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倭文神社(富士宮市星山)
倭文神社(しどりじんじゃ)は 古代 布織技術を誇った倭文氏が 祖神 健羽雷神(たけはつちのかみ)〈織物の神〉を祀った『延喜式神名帳927 AD.』所載の 駿河国 富士郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)とされます 又 鎮座地の星山は 星神として君臨して居た香々背男との関連も示唆し 常世国神(とこよのかみ)を奉じて大和朝廷に反した大生部 多(おおうべ の おお)〈不尽河〈富士川〉の辺に住む人〉の伝承にも通じています
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山宮浅間神社(富士宮市山宮)
山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は 第11代 垂仁天皇の時 山足の地〈山麓全体〉に祀られた浅間大神を 第12代 景行天皇の時 日本武尊が 当地 山宮の地に 磐境を設けて大神を祀り 大同元年(806)坂上田村麿が勅命により 現在の富士山本宮浅間大社の地に社殿を造営し 遷座した富士山の山宮斎場の元宮です 今でも本殿はなく 溶岩を用いた石列が原始的な祭祀形態を留めています
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天降神社(高松市香川町)
天降神社(あまくだりじんじゃ)は 田村大神示顕の地と云われ 往古 田村神社の御旅所とされていました 現在の神社は 享録年中(西暦一五二八~三二)大野北城内に神が降臨して霊異が現れ その啓示に基づき城の南東に天下権現(あまくだりごんげん)社(現在の天降神社)を建立したという
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當島八幡神社〈相殿 多理比理神社〉(福山市駅家町上山守)
當島八幡神社(とうしまはちまんじんじゃ)〈相殿 多理比理神社〉は 大同二年(八O七年)豊後の国(大分県)宇佐八幡宮の御分霊を勧請して祀られた 延元元年(一三三六年)『延喜式神名帳927 AD.』所載の多理比理神社を相殿に合祀し 現在地に社殿を再建して以後 當島八幡神社として祭祀が執り行われています
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多理比理神社〈吉備津神社 境内〉(福山市新市町)
多理比理神社(たりひりじんじゃ)は 一説に もとは品治郡服部村大字服部本郷に鎭座していたが 何時の頃か社が荒廃し 吉備津神社の境内に移された また一説に 多理比理神社が 品治郡宮内村に当初より鎭座していて 後に分祠であった吉備津神社が備後一宮として移されたとする説もあります 『延喜式神名帳』には 多理比理神社は記載があり 備後吉備津神社は記載がありません
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吉川八幡宮(吉備中央町吉川)
吉川八幡宮(よしかわはちまんぐう)は 永長元年(1096)京都 石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり その後 慶長年中(1596~1615年)に断絶したが 後光明天皇 寛永21年(1664)に寄付の記録があります 『備中誌』に 吉川村の村内に布郡(ふこほり)と呼ばれる地名があり ここが式内社 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の所在ではないかと記しています
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古郡神社(総社市総社)& 古郡神社々跡
古郡神社(ふるこおりじんじゃ)は 創建年代は不詳 正長元年(1428)の大風により倒壊し 久米村御崎神社に合祀奉遷された 嘉永四年(1851)足守藩木下利成の援助により 西山の旧社地に社殿を造営し再興された 明治初期造営の社殿は倒壊していて 現在は 小祠と古郡神社々跡の石碑が残ります
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池田神社(総社市槙谷市井谷)〈元槇谷鎮座 古郡神社を合祀〉
池田神社(いけだじんじゃ)は 『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国(びっちゅうのくに)賀夜郡(かやのこおり)古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社であった 元 槇谷鎮座 村社 古郡神社を 大正二年(1913)十二月十三日に合祀していて 現在 式内社の論社となっています
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阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)は 阿蘇神社の奥宮〈奥の院〉とされ 古くから阿蘇火山を鎮める神社として朝廷の崇拝を受けてきました 社記には「欽明天皇十四年三月(552)阿蘇山火起って天に接す阿蘇宮の御三社を祀り社家の内笠忠基をして奉仕せしむ これを天宮祝と云う」と伝わります
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美和神社(長野市三輪)〈『延喜式』美和神社〉
美和神社(みわじんじゃ)は 善光寺七社の一つで 長野電鉄本郷駅の西側に鎮座し付近の住所は三輪(みわ)と呼ばれています 社頭には三輪鳥居が構え 三輪山をご神体とする奈良県〈大和国〉の大神神社と同じく古代の大三輪氏大神一族によって祀られたとされている『延喜式神名帳927 AD.』信濃国 水内郡九座の筆頭に記される式内社です
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讃岐国 式内社 24座(大3座・小21座)について
讃岐国(さぬきのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 讃岐国 24座(大3座・小21座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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若狭國 式内社 42座(大3座・小39座)について
若狭国(わかさのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 若狭国には 42座(大3座・小39座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています
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出羽國 式内社 9座(大2座・小7座)について
出羽国(でわのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 出羽国には 9座(大2座・小7座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています