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服部天神宮(豊中市服部元町)

服部天神宮は 服部(ハトリ)と云う地名の通り 秦氏(ハタウジ)が集団で居住し 社伝によれば かつて服部連(ハトリノムラジ)の本拠とした場所に医薬の神「少彦名命」を祀る祠があった〈これが服部天神宮の前身〉その後 延喜元年(901)菅原道真公が 大宰府への左遷途中で 持病の脚気に襲われて身動きが取れなくなったが 一心にその平癒を祈願されたところ脚気はたちどころに治った伝承地になります ゆえに「足の神様」として有名です

呉服神社(池田市室町)

呉服(クレハ)神社は 「呉服(ゴフク)」〈絹布類〉の語源の地です『日本書紀(nihon shoki)』第15代応神天皇の条に記される「呉服(クレハトリ)・穴織(アヤハトリ)」という姉妹が 我が国(日本)に伝えた 機織(ハタオリ)・栽縫(サイホウ)の技術は この地から発祥したとされています その由来から 機織・染色・裁縫の上達・衣服の神として 服飾関係者の信仰も集めています

神服神社(高槻市宮之川原元町)

神服神社(かむはとりじんじゃ)は 第19代 允恭天皇(インギョウテンノウ)〈在位412~453年頃〉の時代に服部氏の氏神として創建し「服部神(ハトリノカミ)」と称した古社です この地は服部連(ハトリノムラジ)の本拠地であったとされ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に「神服神社(カムハトリノカミノヤシロ)」と所載されます 

隼神社・梛神社(京都市)

隼神社(はやぶさじんじゃ)・梛神社(なぎじんじゃ)は 一つの境内に二社が並立する神社です 隼神社は『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 京中坐神三座の内 唯一現存する式内社で 大正7年(1918)現在地に遷座した古社です 梛神社は 貞観11年(869)の創建 京都祇園の八坂神社の旧跡にあたり「元祇園梛神社(Motogion Nagi Shrine)」と呼ばれています

新屋坐天照御魂神社(西河原)

新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ)は 3社(・西福井・宿久庄・西河原)があり その中で中心的とされるのが(西福井)です 異説では『倭名類聚抄』にある「新屋郷」は 当地(西河原)の事であり元社とする説 又 享保14年(1729~1734)編纂『五畿内志(ごきないし)』や『摂津名所図会(せっつめいしょずえ)』〈寛政8年(1796)-寛政10年(1798)刊行〉でも 当地(西河原)を 3社の中心地としています

新屋坐天照御魂神社(宿久庄)

新屋坐天照御魂神社は 3社(西福井)(宿久庄)(西河原)があり その中で中心的な地位を占めるのが(西福井)で背後にある「日降丘」に神が降臨したのが創建とされ その後 神功皇后が荒魂を当地(宿久庄)に勧請したと伝えられています

和爾坐赤阪比古神社(和爾町)

和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の古社ですが 創建はさらに古く不詳です 鎮座する場所についての記述としては『日本書紀』〈養老4年(720)編纂〉に 第10代 崇神天皇(スジンテンノウ)〈在位 BC97~BC 37年頃〉10年の条に「忌瓮(イワイベ)〈儀式用の瓶〉を 和珥(ワニ)の武鐰坂上(タケスキサカノウエ)に鎮座(チンザ)」と 祭祀の場として記されています

和爾下神社(大和郡山市横田町)

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 二座あり 櫟本(イチノモト)と横田(ヨコタ)に鎮座します 横田に鎮座する当神社「和爾下神社」は 本来は 横田(ヨコタ)氏の氏神であると伝わり 横田氏の本姓は 物部(モノノベ)氏であり『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』にいう饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の降臨の際に 随従した天物部(アメノ モノノベ)25部の中に横田物部(ヨコタモノノベ)氏があり その苗裔(ビョウエイ)との説があります

新屋坐天照御魂神社(西福井)

新屋坐天照御魂神社(にいやにます あまてるみたまじんじゃ)は 第10代 崇神天皇〈推定在位 BC97~BC30年〉が 伊香色雄命(いかがしこをのみこと)に命じ 天照御魂大神(あまてるみたまのおほかみ)を奉祀とあり 亦名を 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテル クニテルヒコ アメノホアカリクシダマ ニギハヤヒノミコト)と云い 神武天皇即位前に大和国を治められていた尊い神であるとされます 創建から2100余年の長い歴史と高い社格を誇る延喜式内名神大社です(西福井)(宿久庄)(西河原)に3社の論社があり その中で中心的な存在が 一般に当神社(西福井)です

月日磐(氷室神社の祭祀の始まり地)

月日磐(ツキヒノイワ)は 和銅3年(710)3月10日〈旧暦〉に藤原京から平城京に遷都した時に 若草山に近い「吉城川」上流の石〈日と三日月の陰刻がある〉「月日磐(ツキヒノイワ)」に「氷神(ヒノカミ)」をお祀りして 氷池(ヒイケ)〈冬に氷を製造〉と氷室(ヒムロ)〈氷を夏まで保存〉を設け 貴重な氷として春~夏に平城宮へ献上しました これが氷室神社の祭祀の始まりとされています 又 朝廷の食膳を司る家柄「高橋(タカハシ)氏」の氏神「高橋神社」の旧鎮座地とも云われています

和爾下神社(天理市櫟本町)〈『延喜式』和邇下神社 二座〉

和爾下神社(わにしたじんじゃ)は 古くは〈櫟井臣(イチヒイノオミ)和珥臣(ワニノオミ)〈大和国添上郡 春日郷を本拠地とした古代氏族〉の祖神・第5代 孝昭天皇の皇子=天足彦国押人命・第6代 孝安天皇=日本帯彦国押人命の2柱の祭神を祀っていました 明治初年に延喜式内の和爾下神社に当たると考証があり和爾下神社と社号変更あり

高家神社(南房総市千倉町南朝夷)〈料理の祖神「磐鹿六雁(いわかむつかみの)命」〉

高家神社(たかべじんじゃ)は 料理の神様「磐鹿六雁命(いわかむつかみのみこと)」を祀り 料理関係者や味噌・醤油などの醸造業者からの崇敬が非常に篤い 文政2年(1819)京都の吉田御所に届け出て証を願い 神明社から改称し 高家神社が再興されたものです

高橋神社(奈良市八条町)

高橋神社(たかはしじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 内膳司(うちのかしわでのつかさ)として 朝廷の食膳を司る家柄「高橋氏(たかはしうじ)」が 当地「高橋邑(たかはしのむら)」に居住し 祖神を祀ったと考えられています

高椅神社(小山市高椅)〈日本一社禁鯉宮(キンリノミヤ)〉

高椅神社(たかはしじんじゃ)は 日本料理の祖神「磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)」を祀り「料理の神様」として信仰を集めます 長元2年(1029)には 社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異と奏上し 誠に霊異なことと思召され「日本一社禁鯉宮(キンリノミヤ)」の勅願を賜わったとされます

高橋神社(三島市)

高橋神社(たかはしじんじゃ)は 第40代 天武天皇(テンムテンノウ)〈即位AD673~686〉から 高橋朝臣(タカハシノアソミ)を賜り〈膳臣(かしわでのおみ)の姓(かばね)を改めた〉高橋氏の子孫が この地に住み 祖神を祀ったのが その起源とされています

佐々伎神社(豊岡市但東町佐々木)〈延喜式内社〉

佐々伎神社(ささきじんじゃ)は 社伝には 第10代 崇神天皇11年(BC 87年頃)但馬国の開拓の祖神 少彦名命を祀り創祀したと伝え 一説には天平19年(747) 佐々貴山君(ササキヤマノキミ)が出石小領に任じられ 祖神 大彦命(オオヒコノミコト)を佐々貴山に祀ったと云う 『延喜式』(927年編纂)に所載される古社です

沙沙貴神社(近江八幡市安土町常楽寺)〈延喜式内社〉

沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は 遠く神代に少彦名神を祀り 古代に沙沙貴山君(ササキヤマノキミ)が大彦命を祀り 景行天皇が 志賀高穴穂宮の遷都の時 大規模な社殿を造営と伝わり やがて 宇多天皇と皇子の敦實親王が 宇多源氏の祖 佐々木大明神として祀られ それ以降 佐々木源氏の氏神とされて子々孫々が篤く崇敬しています

別雷神社(静岡市)

別雷神社(わけいかづちじんじゃ)は 社伝によれば 創建を 第15代 応神天皇4年(273年頃)とする古社で 大宝3年(703)に創市の「安倍の市(静岡)」と称する物資交流の中心地の守護神とされていて 祭神は別雷神(ワケイカヅチノカミ)と玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を祀ります 静岡市葵区の七間町に鎮座する(927年12月編纂)『延喜式神名帳』所載社の論社です 

大避神社(赤穂市)

大避神社(おおさけじんじゃ)は 秦河勝公(はたのかわかつのきみ)を御祭神とします 公は中国より渡来した秦氏の子孫で 秦氏の長として 朝廷に仕え 特に聖徳太子に寵任されましたが 太子亡きあと蘇我入鹿の迫害を避けて 海路で坂越浦に漂着になられ この地の開拓を進めた後 大化3年(647)没した その御霊は神仙化し 地元の民が 朝廷に願い出て 祠を築き祀ったのが創建と伝えられています

大酒神社(京都 太秦)

大酒神社(おおさけじんじゃ)は 元の神社名称は「大避(おおさけ)」あるいは「大闢(ダイビャク)」とされていて この「大闢」は 中国(China)ではキリスト教の「ダビデ」を意味するとも伝わります 祭神はなんと 秦始皇帝(シンノシコウテイ)です 秦氏に纏わる諸説がある謎多き神社となっています 京都 太秦(うずまさ)の土地神で 元々は 広隆寺の寺内に鎮座していましたが 明治の神仏分離政策で現在地に遷座しています

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