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小内八幡神社(中野市安源寺)
小内八幡神社(おうちはちまんじんじゃ)は 貞観年間(859~877)の草創といわれ『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされます 永禄4年(1561)社殿が 戦火にかかり烏有に帰し 寛文5年(1665)飯山藩主松平忠倶により再建されました 明治6年4月には郷社に列しました
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諏訪社(長野市若穂綿内)
諏訪社(すわしゃ)は 式内社 越智神社(をちの かみのやしろ)の旧社地とされ その跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです 越智神社の創建は 天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀ったのが開基で 『延喜式神名帳(927年編纂)』の頃は 現 宮王神社(長野市若穂綿内)に鎮座 鎌倉時代頃(1192~)清水の片山地籍〈当社 諏訪社〉へ さらに室町時代後期の永正元年(1504~)現 小内神社に遷座と伝わります
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宮王神社(長野市若穂綿内)
宮王神社(みやおうじんじゃ)は 創建は天平9年(737)霊峰妙徳山頂に祠を祀り「越智神社」本宮を開基したときの「前宮」で『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の頃には この地に鎮座したと伝わります 越智神社は 鎌倉時代(1192~)に清水の片山地籍へ さらに室町時代後期の永正元年(1504)に現 小内神社に遷座しました 現在の宮王神社はその跡地に諏訪神を祀って氏神としたものです
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小内神社(長野市若穂綿内)
小内神社(おうちじんじゃ)は 社伝及び古文書に 住古は妙徳山頂の小祠が本社で 越智神社と称し 幾度かの水害により社号額流失の伝承が残る 永正元年(1504)2月現在地に遷宮 寛延年間の式内社定め時(1624~1644)互いに論争を醸し 幸高村が旧社号 越智神社の許可を得たりと聞き驚き 小内神社の称号は未定であったためにそれを願い出て寛永3年(1624)現小内神社称号を拝載する
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越智神社(中野市越)
越智神社(おちじんじゃ)は 口碑によれば 天武天皇 白鳳13年(684)の勧請 往古 越智山の頂上に鎮座し その嶺が険しく里社を造営し後 現地に奉遷 旧地には石祠を建て天神社と称し 旧越村の産土神である 即ち延喜式神名帳に高井郡 越智神社とあるはこれなりとする 式内社の論社です
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越智神社(須坂市幸高)
越智神社(おちじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載「信濃國 高井郡 越智神社」の論社です 湧水池の多いこの地に移住した越智氏の祖神 饒速日命を産土神として 後 諏訪神 建御名方神を勘請し神社名を諏訪大明神とし 寛延3年(1750)神社名を越智神社に改め 延喜式内社として今日に至ります
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伊勢天照御祖神社〈大石神社〉(久留米市大石町)
伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社とされていますが 久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれています 当社の祭神は天照国照彦天火明尊〈饒速日命〉とされ 物部氏の日神祭祀に関連していたと思われます
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伊勢天照御祖神社(久留米市御井町)
伊勢天照御祖神社(いせあまてらすみおやじんじゃ)は 中世に廃絶したとも云われます 室町時代末の『高良社画縁起』では 山麓大鳥居の北(現御井小学校正門付近)に「伊勢」の小祠が描かれていて 明和4年(1767)の府中大火を機として 現在地に遷座されたと伝わります
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笠原神社(中野市大字笠原字下河原)〈延喜式内社〉
笠原神社(かさはらじんじゃ)は 延喜式内社です 元々は現在地より東北300mほどの字天神前に鎮座しましたが 寛文11年(1671)湯交川〈夜間瀬川〉の大洪水により社殿を流失 その後 祭祀を委ねた若宮八幡宮が笠原神社の額を掲げたが 江戸寺社奉行の決裁で笠原村の勝訴となり 文化12年(1815)現在地に再建
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伊豆毛神社【旧鎮座地】(長野市豊野町)
伊豆毛神社【旧鎮座地】は 八雲台古墳の上に鎮座しています 里俗の口碑によれば 太古には水内海の沿岸に在ったとされ 大湖の水理に関連する出雲族の神社とも考えられます『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載の古社で 大永3年(1523)上伊豆毛(八雲台)から 下伊豆毛の現在地に遷座しました
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伊豆毛神社(長野市豊野町)
伊豆毛神社(いづもじんじゃ)は 大永3年(1523)上伊豆毛(八雲台)から 下伊豆毛の現在地に遷座した『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の古社です 里俗の口碑によれば 神代には水内海の沿岸に在ったとされ 大湖の水理に関連する神ともされます
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下立松原神社(南房総市千倉町)
下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺』〈大同2年(807年)〉に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社です 鎌倉幕府を開いた源頼朝公が自らが書写した大般若経600巻を奉納しています 又 同名の下立松原神社が千倉町と白浜町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに式内社の論社となっています
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下立松原神社(南房総市白浜町滝口)
下立松原神社(しもたてまつばらじんじゃ)は 『古語拾遺〈大同2年(807年)〉』に記される神武天皇元年の安房開拓に纏わる忌部氏の伝承が残る古社ですが 同名の下立松原神社が 白浜町と千倉町にそれぞれ鎮座していて 双方ともに『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載の式内社の論社となっています
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久保島大神社(熊谷市久保島)
久保島大神社(くぼじまだいじんじゃ)は 明治42年(1909)政令により『一村一社』とする為 久保島村にあった 二柱神社 及び 神明社をはじめとする無格社7社をそれらの境内社と共に 村で規模が最も大きい 山神社 に合祀して 山神社を村社に昇格の上 改称して 久保島大神社が誕生しました この山神社は 式内社の参考論社でもあります
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楡山神社(深谷市原郷)
楡山神社(にれやまじんじゃ)は 創建年代等は不詳ですが 第5代 孝昭天皇の御代〈紀元前〉の御鎮座という言い伝えがあり 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の「武蔵国 幡羅郡 四座」のうちの一社「楡山神社」の論社です
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莫越山神社(南房総市沓見)
莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は 社伝には神武天皇元年 天富命が 阿波の忌部の諸氏を率いて安房に開拓の為 移り住んだ時 安房の東方の開拓をした 天富命の孫 小民命(おたみのみこと)その御子 御道命(みぢのみこと)が 莫越山に手置帆負命を祀り 彦狭知命を合祀したと伝わります 式内社の論社としては ここ沓見と宮下の2社が挙げられます
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莫越山神社(南房総市宮下)
莫越山神社(なこしやまじんじゃ)は ご神体山〈莫越山〉の麓に遥拝所として造営され 往古境内は広大 神殿は壮麗でしたが 中世を経て荒廃したと社伝は云い 古代の祭祀遺跡が周辺に点在し 古くから信仰があることがわかります 式内社の論社としては ここ宮下と沓見の2社が挙げられます
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天神社〈下立松原神社の境内〉(南房総市白浜町)
天神社(あまつかみのやしろ)は 下立松原神社の拝殿の向かって右側に鎮座します 高御産巣日神(タカミムスビノカミ)神産巣日神(カミムスビノカミ)を祀る式内社の論社で 本郷 谷(ヤツ)部落から昭和3年に下立松原神社本殿に合祀されました その後 昭和12年(1937)に改めて天神社を祀ったものです
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和気能酢神社(隠岐 隠岐の島町下西)
和気能酢神社(わけのすじんじゃ)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載の式内社です 酒造りに関連した神社のようで『隠州神名帳(Onshu Shinmeicho)』〈貞観5年(863)国内神名帳〉には 従1位 和氣能酒大明神とあり 松尾神社(まつのおさん)とも呼ばれていました
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牛床詣所(うしどこもいしょ)〈山に参った男達を出迎えた里人の聖地〉
牛床詣所は 屋久島中央部の三岳の神の遥拝所です 里人が山に守られている畏怖の念と感謝をお山に詣でて お伝えする原初の山岳信仰の形式を今に伝えています 標高1936mの宮之浦岳は益救神社の奥宮で かつては毎年春と秋の2回 男衆の「嶽参り」があり 牛床詣所で女子供は山に参った男達を出迎えた里人の聖地とされています