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佐美長神社・佐美長御前神社(磯部町恵利原)〈伊雑宮所管社〉
佐美長神社(さみながじんじゃ) ・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)は ともに『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に記される伊雑宮の所管社です 『延喜式神名帳(927)』志摩国 答志郡 同島坐神乎多乃御子神社(おなしきしまにます かむをたのみこの かみのやしろ)の論社でもあります
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四至神〈豊受大神宮(外宮)所管社〉&九丈殿・五丈殿(外宮境内)
四至神(みやのめぐりのかみ)は 元々は 豊受大神宮(外宮)の神域各所〈二百除前〉に祭祀されていた四至(神域の四方の境界)を守る所管社です 中世に廃絶 近世に一所〈九丈殿南側 石畳に榊(さかき)が立つ所〉に再興されています その奥には・九丈殿(くぢょうでん)・五丈殿(ごぢょうでん)・玉串行事所〈石を敷きつめた広い石原〉があります
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下御井神社〈豊受大神宮(外宮)所管社〉(外宮境内)
下御井神社(しものみいのじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の所管社で 覆屋の中には井戸があり 外宮の祭りに供える水を汲む上御井神社の水に不都合があった場合は この井戸の御水をいただくと伝わります 元來 下御井は 多賀宮の御料水とされ 上御井神社に対し 下御井神社 又は少宮(わかみや)とも称せられます
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大山祇神社・子安神社〈皇大神宮(内宮)所管社〉
大山祇神社(おおやまつみじんじゃ)・子安神社(こやすじんじゃ)は 宇治橋の東詰(内側)から約五〇メートル 神宮司廳の南側(内宮境内)に鎮座する皇大神宮(内宮)の所管社です 鎌倉時代初期の(1192年)『建久三年皇太神宮年中行事』には記載のある古社です
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御酒殿神・由貴御倉〈皇大神宮(内宮)所管社〉&忌火屋殿(内宮境内)
御酒殿神(みさかどののかみ)は 古くは諸神にお供えする神酒を醸造する所・由貴御倉(ゆきのみくら)は 古くは御饌祭(みけさい)の御贄(みにへ)時菓(ときじく)〈果物〉などを納めておく倉 どちらも皇大神宮(内宮)所管社です 忌火屋殿(いみびやでん)は忌火〈清浄な火〉神饌を調理する殿です
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四至神〈皇大神宮(内宮)所管社〉&五丈殿(内宮境内)
四至神(みやのめぐりのかみ)は 皇大神宮(内宮)所管社で『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉の「一、年中行事幷月記事の條」に゛宮廻神百二十四前を祭る゛ことが二月十三日・六月・九月の十八日に記され 古くからの神であることが分ります 五丈殿(ごじょうでん)は 雨儀の時に祓の行事等の行われる所です
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御稲御倉〈皇大神宮(内宮)所管社〉&外幣殿(内宮境内)
御稲御倉(みしねのみくら)は 神宮神田から収穫した抜穂(ぬいぼ)〈三節祭で大御饌(おおみけ)として神前にお供えされる〉御稲が納められます 祭神は御倉の守護神とされ 皇大神宮(内宮)の所管社です その少し北側には かつて天皇以外のものから奉られた幣帛も納めた外幣殿(げへいでん)があります
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滝祭神〈皇大神宮(内宮)所管社〉(内宮境内)
滝祭神(たきまつりのかみ)は 社殿を持ちませんが『皇太神宮儀式帳(こうたいじんぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛瀧祭神社(たきまつりのかみのやしろ)゛と載せられている古社です 格式は 皇大神宮(内宮)所管社とされていますが 神饌は別宮に准じられ 幣帛は攝社格に據って祭祀されています
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官舎神社(伊勢市小俣町本町)
官舎神社(かんしゃじんじゃ)は 大神宮司(だいじんぐうじ) (今の神宮司廳(じんぐうしちゃう)の如き役所)役所が設けられ 沢山の官舎(廳院(ちゃういん)と云い御厨(みくりや)調御倉(つきのみくら)宮司宿館(ぐうじのしゅくかん)等の建物)が立ち並んでいたので それらの官舎の守護の神を祀った神社であるため この名が起つたものとされます
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打懸神社〈豊受大神宮(内宮)末社〉
打懸神社(うちかけじんじゃ) は 撫懸(ナデカケ)社とも呼ばれます 豊受大神宮(外宮)の末社で『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』には〈延暦23年(804)〉には゛打懸社゛と載る古社です 中世に廃絶して旧跡地は不明でした 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果〈志等美神社・大河内神社〉が再興された地の横に遷座されました
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大河内神社(伊勢市辻久留)〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
大河内神社(おおこうちじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社で『止由気宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛大河内社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 大川内神社(おほかはちの かみのやしろ)と載る古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷
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志等美神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
志等美神社(しとみじんじゃ)は 豊受大神宮(外宮)の摂社として『止由気宮儀式帳(とゆけぐうぎしきちょう)』〈延暦23年(804)〉に゛蔀野井庭(シトミノヰバ)神社゛と載り 『延喜式神名帳(927年)』に伊勢國 度會郡 志等美神社(しとみの かみのやしろ)と所載ある古社 中世に廃絶して旧址も不明でしたが 明治十六年(1883)神宮司廳による研究の結果 現在地に奉遷
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上社(伊勢市辻久留)
上社(かみのやしろ)は むかし この社地には 外宮の摂社 志等美神社・同 大河内神社・同末社 打縣神社があったと考えられています 中世に廃絶しましたが 土地の住民が産土神(うぶすなかみ)として 今日まで祀り続けてきたと伝わっています
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賀多神社(鳥羽市鳥羽)
賀多神社(かたじんじゃ)は 聖武天皇の神亀元年(724)の御鎮座と云い 古くは八王子社と称されていましたが 明治四年(1871)郷社 賀多神社と改め 明治四十年に近郷の十二社を合祀して今日に至っています 豊受大神宮(外宮)末社の赤崎神社の旧跡とも伝わっています
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赤崎神社〈豊受大神宮(外宮)末社〉
赤崎神社(あかさきじんじゃ) は 豊受大神宮(外宮)の末社です 建久年間(1190~1199年)の皇太神宮年中行事〔贄海神事 六月十五日條〕に゛悪志(アクシ)・赤崎(アカサキ)加布良古(カブラコ)明神を祭る゛と記されています 御祭神は 荒崎姫命(あらさきひめのみこと)贄海〈海の海産物を捧げる〉の守り神とされています
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月讀神社(京田辺市大住池平)
月讀神社(つきよみじんじゃ)は 大隅國(おほすみのくに)〈鹿児島〉から当地へ来住した隼人らが祀ったともいわれ 大同四年(809)大住山に霊光を拝して神殿が造営され創建 貞観元年(859)八月に月讀宮と称え 延喜式(927)に月讀神社(大月次新嘗)(つきよみの かみのやしろ)とあり 承暦元年(1077)には天下疱瘡に悩むにつき勅使奉幣ありと伝わる古社です
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棒原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
棒原神社(すぎはらじんじゃ) は 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に所載される皇大神宮(内宮)の摂社で 奈良朝廷の時〈奈良時代(710~784年)〉に創建と伝わる古社です 「杉の森」と呼ばれる古墳丘の上に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』には 棒原神社(をいはらの かみのやしろ)とも読むことがあります
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御船神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟彌乃神社(内宮末社)〉
御船神社(みふねじんじゃ) 〈皇大神宮(内宮)摂社〉〈御同座 牟弥乃神社(むみのじんじゃ) (内宮末社)〉は 2社ともに゛倭姫命が祝ひ定め給ふ所゛と伝わります ともに中世に廃絶してしまいますが 御船神社は寛文三年(1663)の再興 牟弥乃神社は 御船神社の附近にあったとされますが確定されず明治四年(1871)に 御船神社に御同座奉祀されました
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川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
川原神社(かわらじんじゃ)は 『倭姫命世紀』によると倭姫命が宮川の上流から此の邊りを御通過の時 澤道(さはち)の野原を「澤道の小野(さはちのをの)」と名付け祝ひ定められた神社と云う 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)゛と記される古社で 皇大神宮(内宮)の摂社です
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神前神社(長浜市木之本町石道)
神前神社(かみさきじんじゃ)は 白鳳三年(663)役小角が神前大神を崇敬し 神亀元年(724)行基が ゛高尾寺゛を一宇建立するも焼失 延暦15年(796)最澄が行基の聖蹟をたどり 祠(神前神社の旧跡)の御前で゛杉の枝゛を玉串として地面に挿した この゛神前杉゛は「逆さの杉」と呼ばれる大木に成長し 現在も毎年4月29日 神前神社の氏子は参拝し 神前杉に御幣を捧げます