阿蘇神社(あそじんじゃ)は 社伝によれば 第7代 孝霊天皇九年(西暦前280年)健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)〈初代 阿蘇国造〉が 阿蘇宮を創建と傳う 神職家の阿蘇大宮司家は連綿として九十一代現宮司に至る日本屈指の名家です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
阿蘇神社(Aso shrine)
[通称名(Common name)]
肥後一の宮(ひごいちのみや)
【鎮座地 (Location) 】
熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
[地 図 (Google Map)]
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【御祭神 (God's name to pray)】
向かって左 一の神殿〈男神〉
一宮 健磐龍命(たけいわたつのみこと)〈阿蘇都彦命 神武天皇の孫〉
三宮 国龍神(くにたつのかみ)〈神武天皇の子 二宮の父〉
五宮 彦御子神(ひこみこのかみ)〈阿蘇大宮司家の祖 一宮の孫〉
七宮 新彦神(にいひこのかみ)〈三宮の子〉
九宮 若彦神(わかひこのかみ)〈阿蘇神社社家の祖 七宮の子〉
向かって右 二の神殿〈女神〉
二宮 阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)〈三宮の娘 一宮の妃〉
四宮 比咩御子神(ひめみこのかみ)〈三宮の妃〉
六宮 若比咩神(わかひめのかみ)〈五宮の妃〉
八宮 新比咩神(にいひめのかみ)〈七宮の娘〉
十宮 弥比咩神(やひめのかみ)〈七宮の妃〉
向かって正面奥 三の神殿〈男神〉
十一宮 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)〈初代 阿蘇国造〉
十二宮 金凝神(かなこりのかみ)〈第2代綏靖天皇 一宮の叔父〉
配祀神 延喜式内社三一三二神
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・殖産、農工、商の守護神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 肥後国一之宮
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
阿蘇神社由緒略記
一、御祭神
併せて十三座のうち延喜式所載三座
一の宮 建磐龍命(たけいわたつのみこと)
二の宮 阿蘇都媛命(あそつひめのみこと)
十一の宮 国造速瓶玉命(くにのみやつこ はやみかたまのみこと)
二、御由緒
神社の創立、社伝に孝霊天皇九年(西暦前280年)御子
速瓶玉命(はやみかたまのみこと)阿蘇宮を創建すと傳ふ(二八〇年)
景行天皇十八年惟人命(これひとみこと)初代大宮司として祭祀を司る
爾来(じらい)連綿として九十一代現宮司に至る、
三、御神徳
国土開拓の功業を第一とし殖産、農工、商の守護神、
また肥後国の一の宮 総鎮守の大神として広く氏子崇敬者の生業、
家庭の安全を守護さる
四、御社殿 建立年度
一の御殿(正面向かって左) 天保十一年
二の御殿(正面向かって右) 天保十二年
別 殿 (真正面) 天保十三年
楼 門(二層楼山門式) 嘉永 二年
拝殿、祝詞殿、翼廊 昭和二十三年
五、年間の祭事
御田植神幸祭 通称おんだ祭、七月二十八日
卯の祭、田作祭 三月中卯の日より卯の日の間
火振神事(御前迎へ) 田作祭の中 申(さる)の日の神事
参道は火の海と化す
祭りあげ(田作神事) 田作祭、亥の日の神事
田實神事(放生會) 九月二十五日、流鏑馬あり
節分祭 二月節分当日、古式による疫神鎮めの神事あり現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
御主神 健磐龍命は 一代神武天皇の勅命に依って九州鎮護の大任に当られた。後に命は、紀元76年春二月 阿蘇に下られ草部吉見神の娘 阿蘇都比咩命を娶り、矢を放ち居を定められ、四方統治の大計を樹て 阿蘇の国土開発の大業を始められた。
当時 大湖水であった阿蘇火口湖を 立野火口瀬より疎通し 阿蘇谷の内に美田を開拓せられ、住民に農耕の道を教えられた(7月28日の御田祭神事の起り)。
また歳ノ神を祭り(3月の田作神事の起り)、更に霜神を祭り(霜宮火たき神事の起り)、風神を鎮め給う(風宮社の風祭の起り)等国利民福の為に尽くされた。
業成っては 阿蘇山麓に大巻狩を行い 鳥獣の害を除き(9月25日田実神事に執行の流鏑馬の起り)※これは下野の狩りとも云い 中昔 源頼朝が富士の牧狩を行なうに先ち使者を遣わし、この狩りの古実を学ばせたと云う。この巻狩りは天正以後廃絶した
※祀典の範を定め庶民のために其の憂苦を除き給いて吾が大阿蘇開発の先駆者として不滅の功績を遺された。是に土地開け住民この地に安住して今に至るまでその恩沢を享け皆夫々生業を営めるは命の偉大なる御事蹟に外ならず、洵に命の大業は吾が日本建国史に不滅の光彩を放つものと云うべきであり 現今 国土開拓の神、農耕道の祖神として汎く世人の崇敬をうけ11世紀以降 肥後一の宮と仰がれ 肥後の国 熊本の総鎮守神として尊崇をうけております。
国土の開拓とは ただ産業の振興のみならず 吾々人間生活に関わりある交通・文化・学芸・結婚・医薬・厄除等の生活守護の神として限りない御神徳をいただいています。
第七代孝霊天皇の9年6月御子速瓶玉命に勅して 大神を祭られたのが 当社創建の始めで平成3年より2273年前であり、第十二代景行天皇の18年惟人命に勅して 特に崇敬を尽くされ永く祭祀を廃せざる様命ぜられた。これが阿蘇大宮司職の始であって現在に至まで連綿九十一代世々祀職を継承されており皇室に次ぐ日本最古の家柄である。◎皇室、国家の尊崇 第五十三代淳和天皇(弘仁14)、従四位下勲五等に叙し健磐龍命に封2000戸を充て奉り順年昇位し貞観元年正二位、次いで延喜の制明神大社に列し名神祭に預かり、寛仁元年一代一度の大奉幣に預かる等朝廷の御尊崇極めて篤く 肥後の国の一の宮とせられた。爾来 禁裏将軍家を始め武家武将の崇敬を享け、阿蘇氏の武門としての勢力は肥後一円に及び厖大な社領を有していたが、秀吉九州征伐の時 阿蘇神領を没収し 改めて天正15年300町の地を寄せられ、ここに往時の勢力を失墜するに至った。
後に加藤清正、細川氏藩主たるに及んで畧代社領の寄進、社殿の造営等を為し崇敬の誠を表された。
明治4年5月国幣中社、明治23年4月官幣中社に、大正3年1月官幣大社に列せられた。◎社殿 社殿の配置結構は皇居の制に準い、旦つ33年毎に肥後の棟別に賦課して改築せらるゝを例としていた。神殿は最も古くは十二殿、下っては六殿、更に三殿と時代と倶に変遷しているが、現今の神殿は天保6年斧初め、同11年一の本殿、同12年二の本殿、同13年別殿、嘉永2年神幸・還御両門及び樓門と竣工したが何れも藩主細川氏の建立によるものである。
拝殿、祝詞殿、翼廊、神饌所、神輿庫等は昭和16年以降の政府事業及び造営奉賛会の造営計画により昭和23年に竣工した。尚、三神殿、拝殿、翼廊、神饌所、神輿庫及び樓門、神幸・還御両門の御屋根銅版葺替工事、並びに廻廊、透塀の復元工事を昭和49年に完工した。
本殿、樓門等の構造は特例の阿蘇式であって、一・二の本殿は千鳥破風の曲線美妻は入母屋、千木外そぎ八本の鰹木を据え何れも欅材の白木造り樓門は二層樓の山門式、同時代最優秀の彫刻美を誇っている。◎阿蘇大神神幸分布 阿蘇神社及び阿蘇大宮司家は 往古より肥後国の精神的中心であったが、同時に肥後国及び豊後国の一部の事実上の支配者であった。阿蘇大神信仰の発展を知るうえには各地各所の同神神社を知ることが適切と思われるが多数に及ぶので列記しがたいが肥後熊本県内だけでも400社に達する。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
・一之神陵 健磐龍命
・第一神陵の神杉
阿蘇の大火口に鎮座坐します当神社主祭神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 江戸時代に雷霊と共にお降りになったと言われる神杉の幹根です 落雷による火災の跡がみられます(樹齢約七百年)
現地立札より
・二之神陵 阿蘇都姫命
・門守社《主》豊磐間戸神,櫛磐間戸神
・山王社・庚申社
・山王社・庚申社の御由緒
阿蘇神社境内(南側)に祀ってある山王社・庚申社は、慶安三年(1650)に創立されたもので、大変古くから崇敬されています。
山王社は大国主命・庚申社は猿田彦命を祀ってあり、共に福徳増進、息災延命の御神徳新たかな神様であります。
特に子供の夜泣きや、かん虫の難病には格別の御利益があるとして深く信仰されています。
病気がなおったら、神前に猿の人形をお供えして、お礼の気持ちをあらわす習わしがあります。
平成十七年十月吉日記之現地立札より
・神の泉
神の泉の由来
一の宮町はむかしより地下水の噴出する〔清泉の町〕として知られております。とくにこの神域に湧き出ずる水は、美味豊穣な神の泉として珍重され、不老長寿の水として多くの人々に飲用されています。 阿蘇神社
現地立札より
・願かけ石
願かけ石の由来
往時(弐千年前)当神社の祭神 阿蘇大明神がもろもろの願いをこめて祖神の霊に額(ぬか)づかれたという
これは当時の「霊場の岩石」の一部といわれ古来(昔)より神石として伝承保存されてきた。
南北朝の時代より祈願成就の神石として独自の信仰を得てきたが室町(六百年前)の頃より、神霊を更に具現(ぐげん)してその恩恵にあやからんものと人々、この神石に手をふれて願いごとを口々に唱えたという。
すなわち「願かけ石」の起こった所以(ゆえん)である。
※なお祈念にあたってっは、先ず心に願いごとを念じ この神石を撫でること三度 更に願いごとを唱えるべしとある
現地案内板より
・高砂の松
・阿蘇神社の大楼門〈平成28年熊本地震により倒壊 復旧工事中〉
・魔除けの龍
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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・阿蘇山上神社《主》健磐龍命,阿蘇都比咩命,彦御子神
・阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
・霜神社《主》天神七柱
・霜神社(阿蘇市役犬原)
・年禰神社《主》国龍神
・風宮神社《主》志那都比古神,志那都比売神
・田鶴原神社《主》比咩御子神,若比咩神,新彦神,新比咩神,弥比咩神
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・阿蘇神社の北方に鎮座するため 北宮と称される国造神社
・国造神社(阿蘇市一の宮町手野)
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神祭 二百八十五座
・・・
・・・健磐龍命(タケイハタツノミコトノ)神社 一座 肥後國
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
二つの式内社〈①一宮 健磐龍命 ➁二宮 阿蘇都比咩命〉が比定され
一つの式内社〈➂十一宮 速瓶玉命〉の論社です
①一宮 健磐龍命
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 健磐龍命神社(名神大)
[ふ り が な ](たけいはたつのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takeiwatatsu no mikoto no kamino yashiro)
➁二宮 阿蘇都比咩命
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 阿蘇比咩神社(貞)
[ふ り が な ](あそひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asohime no kamino yashiro)
➂十一宮 速瓶玉命
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)肥後国 4座(大1座・小3座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)阿蘇郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 國造神社
[ふ り が な ](くにつくり かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kunitsukuri kamino yashiro)
【原文参照】
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
御祭神12柱の神々 阿蘇十二明神について
阿蘇神社は 肥後國一之宮(ひごのくにいちのみや)
主祭神は 健磐龍命(たけいわたつのみこと)
祭 神は 一宮から十二宮まで12柱(いずれも健磐龍命の一族)
阿蘇神社の起こりは 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の御子である速瓶玉命(はやみかたまのみこと)が 孝霊天皇の御代に初代阿蘇国造に任ぜられた際 親神を祀ったとされ それ以降 一族の十二柱の神々を祀り 速瓶玉命の子孫が阿蘇氏を名乗り 代々宮司を務めている(現在で91代目を超える日本屈指の名家)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)は 神武天皇の孫〈神武天皇第二之王子 神八井耳命の第5子〉にあたり 神武天皇76年に神武天皇の命により 阿蘇へ赴き 開拓の神となったとされます
健磐龍命は 山城国宇治の郷から阿蘇に下向し 途中 宮崎で神武天皇の宮跡に神霊を祀り宮崎神宮を創祀したとされ 延岡を経由して 五ヶ瀬川を遡り御嶽山の麓(御岳村)から 馬見原に入り 幣立宮を建立し天津神・国津神を祀り 阿蘇へ入ったと伝わります
阿蘇における健磐龍命(たけいわたつのみこと)の蹴破り伝承
太古 阿蘇のカルデラの内側は 巨大な大湖水で阿蘇火口湖であった 宮崎方面から阿蘇に入った健磐龍命(たけいわたつみのみこと)は 大カルデラ湖を見て この水を抜いて田畑を造り豊穣の地にしようと決めた 外輪山の低いところを蹴破ろうと試みたが 最初に蹴った場所が峠が二つもあって破れず 隣を見事に蹴破って水を抜いた
峠が二つもあって 蹴破れなかった場所が「二重峠(ふたえのとうげ)」
蹴破った際に命が尻もちをつき「立てぬ」と言ったので その地を“立野(たての)”と呼ぶようになったのが地名の由来という
健磐龍命(たけいわたつのみこと)は 阿蘇開拓の主神祭として阿蘇神社に祀られています
・阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)
蹴破り伝承と阿蘇山 阿蘇神社の位置関係
阿蘇は 世界最大級の規模を誇るカルデラ〈周囲の距離は約128㎞にも及ぶ〉火口原に5万人もの人々が生活する世界に類例のない地域で 現在も活発に活動を続ける中岳は 古くから信仰の対象として崇め 人々も巧みにこの地を開拓し 火山とともに共存してきました
立野(たての)〈蹴破り伝承の地〉
阿蘇の外輪山には 西側に一カ所だけ割れ目があります 蹴破り伝承の地 南阿蘇村の立野(たての)峡谷です 実際に阿蘇カルデラ内の水は 白川となって ここから流れ出て 熊本平野を造っていきました
現在 立野ダム建設中
阿蘇神社(あそじんしゃ)〈蹴破り伝承の祭神を祀る神社〉
阿蘇山の南には 阿蘇神社が鎮座します 神社は横参道〈社殿に対して正面ではない参道〉は 南に真っ直ぐ阿蘇山へ通じていて 阿蘇山そのものを信仰の対象としたのが神社の始まりではないかとの説があります
阿蘇山上神社(あそさんじょうじんじゃ)〈阿蘇神社の奥宮〉
実際 阿蘇山頂の火口湯溜まりは 古より「神霊池」とよばれ 阿蘇神のご神体とされてきました
北の御池(噴火口)一の宮 健磐龍命荒魂
中の御池(噴火口)二の宮 阿蘇都比咩命荒魂
南の御池(噴火口)五の宮 彦御子命神霊
阿蘇山上には 火口を遥拝する拝殿〈阿蘇山上神社〉のみが佇みます 歴史的に麓の阿蘇神社「下宮」対して「上宮」と呼ばれ 古代より火口は国家祈祷の対象でした
・阿蘇山上神社(阿蘇市黒川)
蹴破り伝承の後 湖底に出現した大鯰(オオナマズ)
蹴破り伝承の後 立野火口瀬より疎通し 流れ出た水は白川となって海へ注ぐことになりましたが 水が抜けていくと阿蘇の湖底に大きな鯰(ナマズ)がいるのが分かりました 命はそれを退治し 全ての水を流すことができたと伝わります
国造神社(阿蘇市一の宮町手野)の境内には 鯰(ナマズ)社が祀られています
鯰(ナマズ)社
健磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破り干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分かけて横たわっていた。ミコトが鯰に向かって「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事も出来ぬ」と言われると、鯰は頭をたれてミコトに別れを告げるように去って行ったと伝えられている。
ミコトはその湖の精であった鯰の霊をまつると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。
祭神が鯰の霊ということで、皮膚病ことにナマズハダに霊験があり、今でも全快すると鯰の絵を書いて、神社に奉納する風習が残っている。
一の宮町現地案内板より
蹴破り伝承の後 阿蘇谷に広がる美田
〈阿蘇カルデラを開拓 農耕の道を拓く健磐龍命(たけいわたつのみこと)〉
健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 蹴破った大湖水 阿蘇火口湖〈カルデラ湖〉は 立野火口瀬より疎通し 阿蘇谷の内に美田を開拓され 命が里人に農耕の道を教えられた事は 現在まで 農耕祭事として伝承されています
阿蘇(あそ)の農耕祭事(のうこうさいじ)
国指定重要無形民俗文化財(くにしていじゅうようむけいみんぞくぶんかざい)昭和57年1月14日指定阿蘇神社をはじめ、国造神社や霜神社など阿蘇谷の関係神社には、全国的にも貴重な農耕祭事(農業のお祭り)が、古式のまま伝えられています。
耕作の開始に豊年を祈り、収穫を感謝するまでの御祭りが、農事に合わせて執り行われます。「阿蘇の農耕祭事」は、わが国の農業生活の移り変わりや、人々の信仰をよく表している典型的なお祭りとして評価されています。
さらに 阿蘇の開拓は 国造神社の創建へとつながります
社伝によれば
肥後一ノ宮 阿蘇神社の主神 健磐龍命(たけいわたつのみこと)の第一の御子神 速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は 父神〈健磐龍命〉の聖業を継がれて 阿蘇の開拓や水利に国土開発の大業をなされ 庶民に農耕を教え畜産に植林に万幸を与え衆庶を愛撫し 人徳を施された
この御聖徳と御功業により 第十代 崇神天皇の朝に 阿蘇初代国造と定められ 同18年(紀元581)御子 惟人命(彦御子神)に勅せられて 阿蘇国造の神として 御居住の地(現在地)を卜して鎮祭せられ 茲2071年の歴史ある古いお社であります
・国造神社(阿蘇市一の宮町手野)
国造神社に伝わる 阿蘇の農耕祭事
阿蘇(あそ)の農耕祭事(のうこうさいじ)
国指定重要無形民族文化財 昭和57年1月14日指定
阿蘇市に所在する阿蘇神社(あそじんじゃ)及び国造神社(こくぞうじんじゃ)では、全国的にも貴重な農耕祭事(農業のお祭り)が、古代から途絶えることなく現在も変わらず伝えられています。
四季を通じ、豊年のお祈りから豊作を感謝するまでのお祭りや、風や霜の害を防ぐお祭りが毎年執り行われています。
「阿蘇の農耕祭事」は、農業生活の移り変わりや、人々の信仰の様子を知ることができ、わが国の文化をよく表しているお祭りです。「阿蘇の農耕祭事」国造神社関係
期 日
名 称
場 所
旧1月16日
歌い初め
国造神社
3月28日
春 祭
国造神社
旧4月4日 旧7月4日
風 祭
風宮社
7月26日
御田祭
国造神社
8月 6日
ねむり流し
国造神社
9月23日・24日
田実祭
国造神社
平成18年3月 阿蘇市教育委員会
参道掲示案内板
霜の害を防ぐお祭り 火焚神事(ひたきしんじ)にある 鬼八(きはち)の伝承について
霜神社(しもじんじゃ)は 伝承によれば 阿蘇を開拓された健磐龍命(たけいわたつのみこと)が 鬼八(きはち)の首を切り落とした すると農作物に霜を降らせる祟りがあり これを鎮める為に 阿蘇の中央の役犬原に 御神体を綿に包み 鬼八の霊を祀る霜宮を創建した 御神体の肌を温め霜の害から農作物を守ったので これが火焚き神事の始めとされます
・霜神社(阿蘇市役犬原)
国造神社 祭神 速瓶玉命とその妃・雨宮媛命の御陵について
國造神社の鳥居の西60mの地点には 祭神の速瓶玉命の御陵とされる上御倉古墳とその妃・雨宮媛命の御陵とされる下御蔵古墳(下御倉古墳)があります
古墳は6世紀後半の横穴式石室をもつ円墳で 有力豪族・阿蘇氏が古墳時代からこの地域を支配していたことがわかります
古墳辺りの高台からは 阿蘇のカルデラ越しに中岳を望めます
県指定史跡 下御倉古墳(しもみくらこふん)(昭和34年12月8日指定)
下御倉古墳は直径約30m、高さ約4.5mの円墳で。内部には複式の横穴式石室があります。北側にある上御倉古墳に比べてやや規模が小さいですが、石室全体の奥行は8.7mあります。古くから土砂が流れ込み、正確な高さは不明です。石室の奥には遺体が葬られた玄室があり、玄室の構造は、奥行2.9m、幅2.47m、高さは約2mです。正面奥壁にそって石屋形が置かれ、この部分に遺体が納められていました。石材は上御倉の場合と同じく阿蘇溶岩を用いていて、大きな石材を利用しているのが特徴です。
上御倉・下御倉古墳は古墳時代後期(6世紀頃)の特徴を示す典型的な石室構造をしており、県内にある横穴式石室を採用した古墳のなかでも比較的規模が大きいものです。
両古墳が作られた時期は、県内最大規模の長目塚古墳を有する中通古墳群に後続する時代で、日本書紀にみえる「阿蘇君 あそのきみ」が「国造 くにのみやつこ」として阿蘇一帯を治めるなかで中通から手野の地へと本拠地を移したと推測されています。
古墳の眼下に広がる平野は、古くから開発が始められたところであり、古代の土地区画である「条里制」に基づいて、いち早く土地が開拓されました。上御倉・下御倉古墳に葬られた人物は、このような阿蘇谷の開拓を指揮した有力は指導者であったと想像できます。現地案内板より
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時〈平成22年〉の様子をご紹介します
現在は
〈平成28年熊本地震により倒壊 復旧工事中〉
JR豊肥本線 宮地駅から北方向へ約1.1km 車3分程度
JR豊肥本線 阿蘇駅から東北方向へ約4.5km 車10分程度
R57号を東方向へ仙酔峡入口を左折〈北〉します
阿蘇駅近辺からの阿蘇中岳
横参道の入り口には鳥居が建ち その先には阿蘇中岳が聳えます
阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 横参道をすすみます
太古 カルデラ湖の底であった阿蘇谷の地 横参道には 神の泉 と呼ばれる豊富な水が湧き出ています
大楼門へと近づきます
一礼をして 大楼門をくぐります
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 一の神殿 二の神殿 三の神殿が鎮座します
向かって左手には 一の神殿
向かって右手には 二の神殿 その奥に三の神殿
授与所は大楼門の隣
社殿に一礼をして 楼門を戻ります
横参道を中岳の方角 南へと戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』景行天皇の段に記される伝承
第12代景行天皇の段に阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の二神について記されています
【抜粋意訳】
即位十八年 六月三日の条
高来県(たかくのあがた)から玉杵名邑(たまきなのむら)に渡られました
その土地の土蜘蛛津頰(つちぐものつつら)を殺しました
即位十八年 六月十六日の条
阿蘇国(あそのくに)に到りました その国は 郊原〈野原〉が曠(ひろ)く遠く 人の居〈人家〉が見えきせんでした
天皇は曰く「この国に人はいるのか」
そのときに二神が有り 阿蘇都彦(あそつひこ)と阿蘇都媛(あそつひめ)といいます たちまち人と化して詣でて言いました
「私たち二人がおります どうして無人なのでしょう」
故に その国を号して 阿蘇(あそ)といいます
【原文参照】
『先代旧事本紀(Sendai KujiHongi)』〈平安初期(806~906)頃の成立〉に記される伝承
國造本紀には 阿蘓(アソノ)國造は 神八井耳命の子孫 速瓶玉命と記しています
【意訳】
國造本紀
阿蘓(アソノ)國造(クニノミヤツコ)
瑞垣〈崇神〉朝の御世 火の國造の同祖 神八井耳命(カンヤヰミミノミコト)の孫 速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト)を定め賜う國造
【原文参照】
『続日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
肥後國 健磐龍命神に 神階の奉授と神主の把笏 が記され
國造神社が官社となったと記しています
【抜粋意訳】
承和七年(八四〇)四月廿一日〈丙寅〉の条
奉(たてまつり)授(さずく)
肥後國(ひごのくに)從四位下勳五等 健磐龍神 從四位上 餘如故
筑前國(ちくぜんのくに)從五位下 竃門神
筑後國(ちくごのくに)從五位下 高良玉垂神 並從五位上
又 勳八等 宗像神 從五位下 餘如故承和七年(八四〇)七月廿二日〈乙未〉の条
奉(たてまつり)授(さずく)
肥後國(ひごのくに)阿蘇郡 從四位上勳五等 健磐龍神 從三位 餘如故
以正五位下 楠野王爲中務大輔 從五位下 藤原朝臣並藤爲陰陽頭 從五位下高階眞人清上爲治部少輔 正五位下 藤原朝臣輔嗣爲越前守 從四位下 紀朝臣長江爲備中守承和十年(八四三)六月乙丑〈八日〉の条
肥後國 阿蘇郡 從三位勳五等 健磐龍命神社神主
河内國 河内郡 從二位勳三等 平岡大神社神主等 永預把笏承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉の条
修造
攝津國 大依羅社
肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承〈肥後國 健磐龍命神〉
肥後國 健磐龍命神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
嘉祥三年(八五〇)十月辛亥〈七日〉の条
進(すすめて)
山城國 稻荷神階授從四位上
授(さずくに)
攝津國 廣田神 從五位下
進(すすむに)
大和國 大和大國魂神 階授從二位 石上神 及大神大物主神 葛木一言主神等 並正三位 夜岐布山口神 從五位下
河内國 恩智大御食津彦命神 恩智大御食津姫命神等 並正三位 丹比神 從五位上
伊勢國 阿耶賀神 從五位上
尾張國 熱田神 正三位
越前國 氣比神 正二位
筑前國 宗像神 從五位上 竃門神 正五位上
筑後國 高良玉垂命神 從四位上
肥後國 健磐龍命神 正三位
伊豆國 三嶋神 從五位上仁寿元年(八五一)十月丙午〈八日〉の条
進(すすむに)
肥後國 健磐龍命大神階加從二位
長門國 鹿集 福賀磨 能峯 壬生等四神 並授從五位下
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承〈肥後國 阿蘇比咩神〉
肥後國 阿蘇比咩神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
仁寿二年(八五二)正月戊寅〈十一日〉の条
加(くわへたまふ)
肥後國(ひごのくに)阿蘇比咩神(あそひめのかみ)從四位下を
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承〈肥後國 健磐龍命神 阿曾比咩神〉
肥後國 健磐龍命神 阿曾比咩神に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授
淡路國 无品勳八等伊佐奈岐命一品
・・・云々
肥後國 從二位勳五等 健磐龍命神(たけいわたつのみことかみ)正二位
從四位下 阿曾比咩神(あそひめのかみ)從四位上貞觀元年(八五九)五月十七日〈壬申〉の条
雷電雨雹す
肥後國 從四位上 阿蘇比咩神(あそひめのかみ)列に於 官社に貞觀十年(八六八)閏十二月廿一日〈庚戌〉の条
授(さずくに)
肥後國 從四位上 阿蘇比咩神(あそひめのかみ)正四位下貞觀十五年(八七三)四月五日〈己亥〉の条
授(さずくに)
美濃國 從二位 中山金山彦神 正二位
出羽國 從三位勳五等 大物忌神 正三位
肥後國 正四位下 阿蘇比咩神(あそひめのかみ)正四位上
和泉國 從四位下 積川神 從四位上
飛騨國 正五位上 水無神 從四位下
筑前國 從五位下 鳥野神
信濃國 五位下 出早雄神 並從五位上
信濃國 正六位上 鹽野神 和世田神
薩摩國 正六位上 多夫施神
伯耆國 無位 國廳裏神 並從五位下貞觀十七年(八七五)十二月廿七日〈丙子〉の条
授(さずくに)
肥後國 正四位上 阿蘇比咩神(あそひめのかみ) 從三位
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社の三社〈・健磐龍命神社・阿蘇比咩神社・國造神社〉の所在について 阿蘇神社の同所に祀られていると記しています
【抜粋意訳】
健磐龍命神社 名神大
健磐龍は 多氣伊波多都と訓べし
〇祭神 明らかなり 一宮記云、人皇十二代景行帝御出現阿蘇都彦
〇宮地村に在す、社家注進
〇式三、臨時祭 名神祭 二百八十五座、中略 肥後國 健磐龍命神社 一座
〇当國一宮なり 一宮記
〇舊事紀、国造本記 神八井耳命孫 速瓶玉命」当宮 大宮司系図云、神武天皇第二之王子、即 阿蘇権現なりといへるは、即ち神八井耳命に當れり、こは山城の鴨社を、神武天皇と云るの類にてあれば今従はず
〇筑紫風土記云、釈日本紀所引用 肥後國・・・・・・神位
續日本後紀、承和七年四月丙寅 奉授肥後國從四位下勳五等健磐龍神從四位上、同年七月乙未 奉授肥後國阿蘇郡從四位上勳五等健磐龍神從三位
文徳実録、嘉祥三年(八五〇)十月辛亥 肥後國健磐龍命神正三位、仁寿元年(八五一)十月丙午 進肥後國健磐龍命大神階加從二位
三代実録 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 肥後國 從二位勳五等 健磐龍命神 正二位封戸
日本紀略 弘仁十四年十月壬寅・・・・・
文徳実録 齊衡元年(八五四)六月壬午〈廿九日〉加肥後國健磐龍命神封卅戸社職
百練抄・・・・・
太平紀・・・・・
玉勝間に、大宮司の姓宇治朝臣といふは、いかなるよしにていつの代よりのことならむ、古事記に、阿蘇君とあるこそ、此氏とは聞えたれと云り、
連胤 按るに、大宮惟肇公、享和把笏
續日本後紀 承和十年(八四三)六月乙丑〈八日〉肥後國 阿蘇郡 從三位勳五等 健磐龍命神社神主 永預把笏雑事
三代実録 貞觀九年(八六七)八月六日壬申 大宰府言 肥後國 阿蘇郡 正二位勳五等 健磐竜命神 正四位下 姫神 所居山嶺 去五月十一日夜奇光照耀 十二日朝震動乃崩 廣五十許丈 長二百五十許丈
〇後二條関白記・・・・・阿蘇比咩神社
阿蘇比咩は 假字なり
〇祭神明らかなり
〇同前社地に在す、社家注進神位
文徳実録
仁寿二年(八五二)正月戊寅〈十一日〉加 肥後國 阿蘇比咩神 從四位下三代実録
貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 肥後國 從四位下 阿曾比咩神 從四位上
貞觀元年(八五九)五月十七日〈壬申〉肥後國 從四位上 阿蘇比咩神 列於官社
貞觀十年(八六八)閏十二月廿一日〈庚戌〉授 肥後國 從四位上 阿蘇比咩神 正四位下
貞觀十五年(八七三)四月五日〈己亥〉授 肥後國 正四位下 阿蘇比咩神 正四位上
貞觀十七年(八七五)十二月廿七日〈丙子〉授肥後國正四位上阿蘇比神從三位國造神社
國造は久爾乃美夜都古と訓べし
〇祭神 速瓶玉命 社家注進
〇同前社地に在す 同上続日本後紀 承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉
前件三社の三社の鎮座の図
玉勝間に、肥後國 阿蘇山は、麓より三里のぼりて、山上に大なる池ありて、常に湯わきあかりて玉をちらし、いみじく火のもゆるを、其火のもゆること熾なる時には、石をとばして池のほとりにちかづきがたし、神社は、山の下なる宮地村といふにたたせ給へり、中略
一の宮は健磐龍命の神社、二の宮は阿蘇比咩の神社、國造神社は速瓶玉命、金凝神社は綏靖天皇におはします也 中略
また金凝神社を、綏靖天皇と申すも、神八井耳命を誤れるなるべしと云り
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社の三社〈・健磐龍命神社・阿蘇比咩神社・國造神社〉の所在について ・健磐龍命神社・阿蘇比咩神社は 阿蘇神社の同所に祀られている
・國造神社は 手野村であると記しています
【抜粋意訳】
健磐龍命神社 名神大
祭神 健磐龍命 称 阿蘇大神
神位
仁明天皇 承和七年四月丙寅 奉授肥後國從四位下勳五等健磐龍神從四位上、同年七月乙未 奉授肥後國阿蘇郡從四位上勳五等健磐龍神從三位、嘉祥三年(八五〇)十月辛亥 肥後國健磐龍命神正三位
文徳天皇 仁寿元年(八五一)十月丙午 進肥後國健磐龍命大神階加從二位
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 肥後國 從二位勳五等 健磐龍命神 正二位祭日 六月二十六日
社格 國幣中社(官幣大社)
所在 宮地村(阿蘇郡宮地町)
阿蘇比咩神社
祭神 阿蘇都比賣命
神位
文徳天皇 仁寿二年(八五二)正月戊寅〈十一日〉加 肥後國 阿蘇比咩神 從四位下
清和天皇 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉奉授 肥後國 從四位下 阿曾比咩神 從四位上、
貞觀元年(八五九)五月十七日〈壬申〉肥後國 從四位上 阿蘇比咩神 列於官社、
貞觀十年(八六八)閏十二月廿一日〈庚戌〉授 肥後國 從四位上 阿蘇比咩神 正四位下、
貞觀十五年(八七三)四月五日〈己亥〉授 肥後國 正四位下 阿蘇比咩神 正四位上、
貞觀十七年(八七五)十二月廿七日〈丙子〉授肥後國正四位上阿蘇比神從三位祭日 六月二十六日
社格 (阿蘇神社の二ノ宮)(明細帳宮地村になし同村 健磐龍命神社合殿ならんか取調の事)
所在 宮地村(阿蘇郡宮地町)國造神社
祭神 速瓶玉命
官社 仁明天皇 承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉祭日 六月二十四日
社格 縣社
所在 手野村(阿蘇郡古城村大字手野)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
式内社 國造神社の所在について 手野村としていますが 阿蘇神社の三之宮との説も紹介しています その上で「神社覈録、神祇志料等の書、共に同郡 宮地村 阿蘇神宮の三宮なりとなす、なほ後考を俟つべし」と記しています
【抜粋意訳】
○熊本縣肥後國阿蘇郡古城村大字手野
縣社 國造(クニノミヤツコ)神社
祭神 國造速瓶玉(クニノミヤツコ ハヤミカタマノミコトノ)命
相殿 雨宮媛(アメノミヤヒメノ)命
髙橋(タカハシノ)神
火宮(ホノミヤノ)神速瓶玉命は 健磐龍命の子にして、阿蘇国造なり、国造本紀に「阿蘓國造 瑞垣〈崇神〉朝の御世 火の國造の同祖 神八井耳命(カンヤヰミミノミコト)の孫 速瓶玉命(ハヤミカタマノミコト)を定め賜う國造」とあり、景行天皇十八年、勅して社殿を造営し、速瓶玉命を祭らしめ給ふ(社伝)延喜の制 式内小社に列す
続日本後紀に「承和十四年(八四七)七月丁卯〈四日〉修造 肥後國 阿蘇郡 國造神社 爲官社焉」
土俗 北宮と称す、宮地村なる阿蘇神宮の北に当るを以てなり(肥後國志、陳述志、地名辞書)
明治五年縣社に列す、社殿は本殿、祓殿、拝殿、社務所を具備し、境地二千四百十七坪あり、境内に陰陽杉と称る老杉二株あり、一株は周囲十三抱、一株は十一抱に及び、轟々として天に聳ゆ、凡そ九百年に及べりといふ(大宰管内志、肥後國志)、
又この地は、速瓶玉命の石隠れし給ふ處なりとて、御穴の故蹟あり、土俗 御蔵穴と称す、上下の二あり、外形は円形の小丘にして上に竹藪繁茂せり、穴の口は西南に開きて、形竃の口の如く、五間程入れば、高さ九尺、上下左右 石を以て畳む、奥に幅二間、高さ八尺餘の切石あり、之を障子石といふ、その前に幅三尺、長さ七尺、高さ三尺の石棺あり、下御蔵の穴は、埋もれて入ることを得ず、弘化元年 手野の里長某が、字古城といふ岡山を開墾せし時、岩穴三つに開き当れり、この穴の中より直刀、短刀、鐡響、玉、土器等種々の古器を得たり、骸骨とおぼしきものありしも、朽ちてさだかならずといふ
附言、式内 國造神社に就ては、神社覈録、神祇志料等の書、共に同郡 宮地村 阿蘇神宮の三宮なりとなす、なほ後考を俟つべし。
境内神社
鯰(ナマズノ)神社
闇神(クラオカミノ)社
水(ミマクリ)神社
【原文参照】
阿蘇神社(阿蘇市一の宮町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)