原鹿神社(はらしかじんじゃ)は 現在地に鎮座していた榎神社〈『出雲國風土記733 AD.』所載の出雲郡 不在神祇官社「間野社(まの)のやしろ」の論社〉に 明治40年(1907)1月14日 原鹿字前久庁に鎮座の熊野神社を合祀し 社号を原鹿神社と改称しました
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳』
➂最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
原鹿神社の本殿に合祀 上鹿塚 榎神社 を論社としています
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 出雲郡(izumo no kori)
不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)
【社名】間野社
【読み】(まの)のやしろ
【How to read】(mano no) yashiro
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
官社ではない為 該当しません
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
原鹿神社(Harashika shrine)
【通称名】(Common name)
【鎮座地】(location)
島根県出雲市斐川町大字原鹿1588
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》吉備津彦命(きびつひこのみこと)
大鷦鷯命(おほさざきのみこと)
《合》大歳大神,伊邪冉命,速玉男命,事解男命,神功皇后,武内宿禰,天照皇大神,大国主神,事代主神,稲倉魂命,土御祖神,菅原道真,高神,闇神,
【御神格】(God’s great power)
・五穀豊穣・家内安全・商売繁盛
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)733 AD.』所載社
【創建】(Beginning of history)
創建年代不詳
当社は明治40年(1907)1月14日、元久木村大字原鹿字原(現鎮座地)に鎮座せる榎木神社に同村大字原鹿字前久庁に鎮座せる熊野神社を合祀し社号を原鹿神社と改称せり
神社史研究会HPより
【由緒】(history)
原鹿神社 由緒略記
島根県簸川郡斐川町原鹿一五八八番地鎮座当社は明治40年(1907)1月14日、元久木村大字原鹿字原(現鎮座地)に鎮座せる榎神社に、同村大字原鹿字前九丁に鎮座せる熊野神社を合祀し、社号を原鹿神社と改称せり。
榎神社
祭 神 吉備津彦命 大歳神 大鷦鷯命 他一神
境内社 土御祖大神
由 緒 往古は一宮明神と称し寛永十六年(1639)七月十六日建立せしも、正保二年(1640)の洪水、天保年間の火災により古文書、神宝等を失い、為に創建年代不詳なるも寛永十六年建立の棟札写及び寛文年間再興の棟札写残存す。
雲陽誌に「一宮明神、榎を神木とし榎明神と称す」、出雲神社順拝記に「上鹿塚村 榎大明神、風土記に云う間野社」、風土記抄に「風土記に云う間野社、上鹿塚榎大明神」とある。
熊野神社
祭 神 伊弉册命 速玉男命 事解男命 他八神
由 緒 天正八年(1580)九月九日、森氏建立の氏社王子権現に宝永元年(1704)十二月六日、熊野三神を勧請し、熊野権現と称す。
雲陽誌、中原の条に、熊野権現とある。社頭の石板より
【境内社】(Other deities within the precincts)
・土御祖大神 & 社日碑
・静和養氣霊神之碑
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
『出雲國風土記733 AD.』所載の出雲郡 不在神祇官社「間野社(まの)のやしろ」の論社について
『出雲国風土記考証〈大正15年(1926)〉』には
「何れの社であったかわからぬ。上鹿塚(かみしかつか)の榎大明神(えのきだいみょうじん)といって居るのも 拠り所がない。
雲陽誌に、所在の知れぬ神社を日御碕にあつめて書いてあるが、その中、間野社は日御碕であったかも知れぬ。それは、同地の小野塚は眞野を苗字としていた時代もあるから、何等かの関係がないとも云はれぬ。」とあり
参考に
日御碕神社(出雲市大社町)に境内社「十九社」があり この第8末社に「真野社(まののやしろ)」があります
日御碕神社(出雲市大社町)の記事をご覧ください
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【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
一畑電車の旅伏駅から南下 斐伊川架かる西代橋を渡り 約2km 車5分程度
西代橋の南詰近くに鎮座
社号標には「原鹿神社」とあります
原鹿神社(斐川町原鹿)に参着
一礼をして鳥居をくぐると この犬が座し 傍らに手水舎があり 清めます
参道は直線で本殿に向かっています
入母屋造りの拝殿へと進みむと 狛犬が座し 賽銭箱が置かれています
賽銭を入れ 拝みます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって左手奥には鳥居が建っています
拝殿の奥 幣殿と本殿が鎮座し その横に鳥居を構えているのは 境内社の土御祖大神 & 社日碑
本殿の右手には 静和養氣霊神之碑
社殿に一礼をして 参道を戻ります
北北西向きの社殿から続く参道の先には『出雲國風土記733 AD.』に「楯縫郡 神名樋山(かんなびやま)」と記される大船山から続く山々が見えます
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『雲陽志(unyo shi)1835AD.』出雲郡 にある伝承
現 原鹿神社(斐川町原鹿)に合祀された 上鹿塚「一宮明神」と中原「熊野権現」について記しています
『雲陽志(unyo shi)』では
上鹿塚「一宮明神」〈現 原鹿神社(斐川町原鹿)〉と記され
「吉備津彦命を祀る 相殿二座 若日女命(わかいちひめのみこと) 大鷦鷯命をあわせてまつる
往古 備中國より この所へ勧請せる時
本社なし 榎を神木とし 故に土俗 今に至りて榎明神と称す
寛永十六年 社を建立と寛文年中の棟札あり
本社 一間四方 拝殿 一間半
祭日 九月九日なり古老伝え 昔日 鹿来て常に神前小徘徊す この鹿 社辺りの沼に落ちて斃(たお)れる 里人 鹿を土中に埋め これにて村の号として神鹿塚といふ 今 土人 鹿塚と書するは非なり
正保二年 洪水 社檀に入て転倒す 古記 神宝ことごとく流失す」
中原「熊野権現」〈現 原鹿神社(斐川町原鹿)に合祀の熊野神社〉と記され
「速玉男命 事解男命 伊弉册命 三神を祀る
勧請年代しらず
本社 五尺 拝殿 一間
寛永年中造営 祭日 重陽」 と記しています
【原文参照】
『出雲国風土記考証(Izumonokuni fudoki koshiyo)〈大正15年(1926)〉』に記される伝承
間野社は、何処にあったか不明であり 上鹿塚(かみしかつか)の榎大明神(えのきだいみょうじん)〈現 原鹿神社(斐川町原鹿)〉とも云われるが確証はない
日御碕にあったかも知れないと 記しています
【意訳】
間野社(まの)のやしろ
何れの社であったかわからぬ。上鹿塚(かみしかつか)の榎大明神(えのきだいみょうじん)といって居るのも 拠り所がない。
雲陽誌に、所在の知れぬ神社を日御碕にあつめて書いてあるが、その中、間野社は日御碕であったかも知れぬ。それは、同地の小野塚は眞野を苗字としていた時代もあるから、何等かの関係がないとも云はれぬ。
【原文参照】
原鹿神社(斐川町原鹿)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)