本宮八幡神社(ほんぐうはちまんじんじゃ)は 社縁起に兵主神社であり八幡宮と称すとあり 聖母縁起に 本宮八幡宮は 中住吉大明神 左誉田尊 右息長帯姫尊を祭る 神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神の出現ありて神力を添へ給ふ故 当社住吉大明神を兵主神社と称す也とあり 式内社 兵主神社であると有力視されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
本宮八幡神社(Honguhachiman shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市勝本町本宮西触1437−1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》中殿 住吉大神(すみよしのおほかみ)
東殿 聖母大神(しょうものおほかみ)
西殿 八幡大神(はちまんのおほかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・安産・縁結び等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
聖母縁起に曰、本宮八幡宮 中住吉大明神、左誉田尊、右息長帯姫尊也、神功皇后 三韓退治の時 住吉大明神 出現ありて神力を添へ給ふ故 当社 住吉大明神を兵主神社と称す(神社考)
【由 緒 (History)】
村社 八幡神社
当称は本宮八幡宮、又当記には兵主大明神とあり
祭神 中殿 住吉大神 東殿 聖母大神 西殿 八幡大神
祭日 十月十五日 以前八月十五日由緒沿革
一、兵主神社縁起に曰、大日本豊秋津洲西海道蓬来伊岐国萬代伊岐郡風早郷本宮村兵主神社戊亥向所祭底筒男中筒男表笥男、中昔神功皇后、応神天皇為相殿奉称八幡宮也(沿革考)一、聖母縁起に曰、本宮八幡宮中住吉大明神、左誉田尊、右息長帯姫尊也、神功皇后三韓退治の時住吉大明神出現ありて神力を添へ給ふ故当社住吉大明神を兵主神社と称す(神社考)
一、神名記に曰、本宮村八幡宮三所、大、改以前式内、桓武天皇延暦年中一国一社八幡宮建立是也。
一、神名帳に曰、久榮八幡宮奉官社古来勧請年数不知、有宝殿拝殿定祭八月十五日、神主吉野内記
一、式社沿革考に曰、兵主神社の当記悉本宮村とあり又縁起の文に依る時は本宮村の宗社八幡宮が式内の兵主神社たる炳焉、延宝以前八幡宮を式内とし且古今御崇敬七社の其の一なれは小縁の社にあらず。
一、壱岐節用集に曰、当島西戎襲来の警あり故に宇佐大神を勧請して外寇に備ふ皆珍異也、光明天皇暦応二年十二月十二日大貮達阿通眼等命を承けて御殿を作る真(貞の過か)義明を奉じ之を斎き奉る。
大宮司吉野冶都左衛門
境内東西町四十九間半、南北町四十八間、周匝三十二町二十五間、柄杓江(一の名は御盆江、一の名は内海)筥島、碇石、廻石、飛礫、神領二石、云々(太宰管内誌抄録)
一、棟札の存するものは寛永七年宝殿再建、本宮八幡宮と記す。
慶安七年の棟札に曰、報勧請当国七社神明御部類眷族降臨影向守護所殊祈祷惣廟神岳三所大権現宮別住吉大神、聖母大神云々。 大宮司吉野冶部左衛門一、寛延二年六月二十日国主松浦減信公本宮八幡宮御参拝の時、宝殿内殿の神前に於て折敷を置き料紙二孜を重ね敷き紙石を載せて国主の観覧に供したり、同時に又広庭にて存する碇石二個をも点検に供せり、云々(吉野古条録)
一、明治四十三年十月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。
「壱岐神社誌」より抜粋 建立平成二十七年十月吉日
現地案内板より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・若宮神社・鳥居神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
・タンス湾内 七社八幡神社の鳥居
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道諸神267社とともに神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻二 貞觀元年(八五九)正月廿七日〈甲申〉の条
○廿七日甲申
京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社
奉授 淡路國无品勳八等伊佐奈岐命一品 備中國三品吉備都彦命二品
・・・・・
・・・・・壹岐嶋 從五位下 海神 住吉神 兵主神 月讀神 並 從五位上
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
名神ノ祭 二百八十五座
・・・
・・・
兵主神社 一座
月讀神社 一座
中津神社 一座
天手長男(あまのたなかをの)神社 一座
天手長比賣(あまのたなかひめの)神社 一座 巳上 壱岐嶋・・・
・・・
・・・座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩
嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉
加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 兵主神社(名神大)
[ふ り が な ](つはものぬしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tsuhamononushi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 壱伎郡 兵主神社(名神大)(つはものぬしの かみのやしろ)の論社について
・兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)
・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
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゛神の坐ます島 壱岐゛で崇敬されている 壱岐七社について
壱岐の人々には お正月に初詣に・豊作・大漁・家内安全・健康長寿 等を祈願して七社巡りをする習慣があります
参拝の順番は 家に近い神社を起点に時計回りに回るのがいいとされているそうです
壱岐七社は いづれも 延宝四年(1676)延寶の調〈旧平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉以前は 延喜式内社の大社と考えられていた由緒ある神社で 旧平戸藩の藩主が特別に崇敬をした七つの神社です
1.白沙八幡宮
〈 延喜式内社 海神社(大)の論社〉
・白沙八幡神社(壱岐市石田町筒城仲触)
2.興神社
〈延喜式内社 天手長男神社(名神大)の論社〉
・興神社(壱岐市芦辺町)
3.住吉神社
〈延喜式内社 住吉神社(名神大)の論社〉
・住吉神社(壱岐市芦辺町住吉東触)
4.本宮八幡宮
〈延喜式内社 兵主神社(名神大)の論社〉
・本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)
5.箱崎八幡宮
〈延喜式内社 月讀神社(名神大)の論社〉
・箱崎八幡神社(壱岐市芦辺町箱崎釘ノ尾触)
6.國片主神社
〈延喜式内社 天手長比売神社(名神大)の論社〉
・國片主神社(壱岐市芦辺町)
7.聖母宮
〈延喜式内社 中津神社(貞・名神大)の論社〉
・聖母宮(壱岐市勝本町)
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
勝本町のタンス浦には 神功皇后が「皇后の御舟をつなぎ給いし石柱」とされる「柱岩」”柄杓粒の柱状節理”があります
「柱岩」”柄杓粒の柱状節理”から タンス湾沿いに南下すると 湾内に七社八幡神社の鳥居があります
境内に掲示の 八幡宮 艮面〈北東面〉 の図
本宮山に鎮座する
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)に参着
拝殿にすすみます
拝殿の手前には 神功皇后のゆかりの地として 産舎(うぶや)の鐘 があります
奉納 産舎(うぶや)の鐘
この鐘は、聖母(しょうも)の神功皇后のゆかりの地である当地にふさわしい、御子 応神天皇をやさしく包み込むような音色で想いを伝える鐘です。
特に安産・縁結び等、三回ならして想いを込めます
鐘の音にのせて願いを運び叶えてくれます。平成二十二年(二〇一〇)一月一日 斎藤工務店 斎藤豊
現地石碑より
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿の覆い屋 その隣に境内社が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻22 本宮村之部 八幡宮〈現 本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)〉は 神功皇后の三韓征伐の帰途 出産を抑えた鎮懐石について 絵図には鎮懐石と碇石が描かれています
【抜粋意訳】
巻22 本宮村之部 八幡宮
在 本宮山村中の産神 例祭八月十五日
祭神 中殿 住吉大神 東殿 聖母大神 西殿 八幡大神
・・・・
・・・・
續風土記云
当社は 豊前国 宇佐郡八幡を勧請す 故当所を本宮と名づくをへく 宇佐を以て各八幡の本宮とに 或云 桓武天皇の御宇 異国降伏の為 一国一社を建立す云々
〇往昔 芦仲彦天皇 築紫の訶志此宮に座 熊曽国を撃てらし給時 天皇御琴を控え建内宿祢大臣 沙庭に居を神の命を請給に大后神に帰給ひ言教覚し招く西方に国なり 金銀を本とに目の炎輝種々の瑞宝多に其の國にあり 吾今 其の國を帰賜 天皇 高地に登り西方を見ても国土みえず 唯大海あり 詐るをの神との給ひを御琴を押退き控給ひに黙りましに弥 其の神大に忿りて曰 凡茲天下は汝知へ 此国になりを 汝に一道に向へ に武内宿祢大臣曰 恐し我天皇尚 其大琴をなおいせ・・・・〇古老傳云
神功皇后 新羅國より帰りますの時 誉田天皇を壱岐にあれます 故 時人其産所を名付て 宇布夜(うぶや)といふ 一余柄杓江を杓て産湯とし給 故に其所を名付て御盥(みたらい)といふ〇壱岐廻云 みたらひ塩の指引あり 勝本より八月は来りて江きりをして鰡(なよし)〈ボラ〉をとるよし 亦 大便し給故 其の所を筥島といふ
一云 本宮八幡宮は則 御誕生の地と申伝ふ 御盥・柄杓・産舎の松などあり ミたらひは海入りてたらしひこみことし 柄杓に以て柄もあり また皇后の御舟をつなぎ給石柱 海中にあり 俗呼び産の柱といふ秀正云
神功皇后 御舩を壱岐につるかせ給ひし時 既に御子なるとなれどに 故に今いふ 産舎の松の下に産殿を揖立給ひしと 延て筑紫の蚊田になれなしに給ならん 亦この御舩をつなるる碇 及 御裳にまつへる石は 本宮八幡宮にありといふ 今按に狭石は内殿にあり 碇石は社前にありされとも筑前風土記 及 萬葉集五には筑前國怡土郡深江の子負原になりと志るへし〇懐中暦には 欽明帝二年八月伊吉公乙等を筑紫伊覩縣に遺し神石を求しめの一巻石字山城國月讀宮に納む 其の二片石は 今尚 伊覩縣 及 壱岐島 月讀祠になりと志るし 筑前續風土記 及 筑前名寄には 被二つともに近代 盗人取て 今は負原にはなしと志るせり 何まつり是ならんいふよし
不侒山城 月讀宮 当国 月讀社 及 筑前深江子負原 或いは歴覧し或いは尋ね問といへとも何所とも今はなし 唯当社にあるなり・・・・・・〇村民の説云
八幡大神鬼類に謂て曰 汝一夜の中に曲江 今云柄汐江を 築合せるは 此国に付属すべし志からんとは付属・・・・・・〇古老傳云
此宮むかしのはたつかうといふ所になり 然るとも沖を通る船帆をさけるには 必ず神罰を蒙る故 中葉鳥居の東に迁し奉る 其の後今の社地に迁座し奉ると
毎年八月十四日夜 大神楽 十五日国主名代参詣奉幣種々の儀式なりて 御輿を御盟の濱に渡所なりし奉り それより浮殿に着御流鏑馬とふなりて還幸なし奉ふ
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 兵主神社の所在は 河北村〈現 兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)〉
【抜粋意訳】
兵主神社
兵主は 比夜宇須と訓べし
〇祭神 素戔嗚尊歟 略誌 大己貴命といふ、今は従わず
〇河北村に在す 土俗日吉山王と称す
〇式三 臨時祭 名神祭二百八十五座 中略 壱岐島 兵主神社一座類社
大和國 城郡上穴師坐兵主神社の條見合べし
神位
三代実録 貞観元年正月廿七日甲申 奉授 壹岐嶋從五位下海神。住吉神。兵主神。月 讀神並從五位上
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 兵主神社の所在について 延宝四年(1676)延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉で 川北邑〈現 兵主神社(壱岐市芦辺町深江本村触)〉とされたが 川北は昔は石田郡ではなかった 旧記は悉く 伊岐郡風早郷 本宮邑 兵主神社〈現 本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)〉としていると記しています
【抜粋意訳】
兵主神社
祭神
今按〈今考えるに〉
本宮邑 兵主神社縁起に所祭 底筒男命 中筒男命 表筒男命なり
中昔 祭神 神功皇后 応神天皇為 相殿奉 称八幡宮なりとみえ
延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に川北邑なる社の祭神 素盞嗚尊 大己貴神 事代主神とあるは 兵主神に由縁あるか如くなれど 兵主神と云ひ もと住吉三座とあるによりて この三神を付会せるにはあらざるかされど 兵主神社 住吉三神を祭れるも如何あらん神位 清和天皇 貞観元年正月廿七日甲申 奉授 壹岐嶋從五位下海神。住吉神。兵主神。月 讀神並從五位上
祭日 九月廿五日
社格 (深江村宇徳山とあり村社)(村社)所在 長崎縣(壱岐郡田河村大字深江)
今按〈今考えるに〉
式社所名徴に 兵主神社 今在ニ川北村
壱岐廿四座記には 本宮村 とあり
式社沿革考に 神社考云 川北は昔は石田郡にあらず 承慶の頃 壱岐郡内に属す 寺社は昔より石田郡にあらず徴に記すか如く 旧記悉く本宮邑とあり 其の縁起に伊岐郡風早郷 本宮邑 兵主神社戌亥向 云々ともみえたれば兵主神社なる事 炳焉歟とあり然るに 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に川北邑とせし由なるが 明細帳また長崎縣式内社記には共に深江村と定めたるは如何あらん尚よく考べし
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
村社 八幡神社 (旧称 八幡宮)
鎮座地 鯨伏村本宮
祭 神 東殿 聖母大神 中殿 住吉大神 西殿 八幡大神
例祭日 十月十五日 神幸式 流鏑馬、船競、大神楽
特殊神事 十一月二十五日 報賽祭
境内地 2128坪
(由緒沿革)
一、兵主神、社縁記ニ日、大日本豊秋津州西海道蓬來伊岐國萬代伊岐郡風早郷本宮村兵主神社戊亥向所祭底筒男中筒男表筒男。中昔神功皇后、応神天皇爲相殿奉称八幡宮也(沿革考)一、聖母縁記ニ日、本宮八幡宮申住吉大明神、左、誉田別尊右、息長帯姫尊也、神功皇后三韓退治ノ時住吉大明神出現アリテ神力ヲ添へ給フ故当住吉大明神ヲ兵主神社ト称ス(神社考)
一、神名記ニ日、本宮八幡宮三所大、改以前式内、桓武天皇延暦年中一国一処八幡宮建立是也。
一、神名帳ニ日、久榮八幡宮本説古來勧請年数不知、有宝殿拝殿定祭八月十五日。神主吉野内記
一、式社沿革考ニ日、兵主神社ノ旧記悉本宮村トアリ又縁記ノ文ニ依ル時ハ本宮村ノ宗社八幡宮ヲ式内トシ且藩主崇敬七社ノ其ノ一ナレバ小縁ノ社二アラズ。
一、神社書上ニ曰、社伝旧記ニ云壱岐郡風早郷本宮村兵主神社是也、所祭三筒男大神也、中昔神功皇后、応神天皇ヲ相殿ニ祀リテ八幡宮ト称シ奉ル、然ルニ延宝四年式内改ノ時今深江村ノ内川北日吉山王社ヲ以テ兵主神社トセリ。一、壱岐節用集ニ曰、当嶋西戎襲來ノ警アリ故ニ宇佐大神ヲ勧請シテ外寇ニ備フ皆珍異也、光明天皇暦応二年十二月十二日大貮進阿適眼等命ヲ承ケテ御殿ヲ眞(貞ノ過力)義命ヲ奉ジ之ヲ齋キ奉ル、大宮司吉野治部左衛門。
境内東西十町四十九間、南北七町四十八間、周匝三十二町二十五間、柄■江(一ノ名ハ御盥江 一ノ名ハ内海)筥島、碇石、廻石、飛礫、神領二石寛永二十年平戸恩師ト云フ事見ユ。一、棟札ノ存スルモノ
寛永七年寛殿再建、奉宮八幡ト記セリ。
慶安七年ノ棟札ニ日、奉勧請当國七社神明御部類眷族降臨影向守護所殊祈願惣廟神岳三所大権現宮別住吉大神、聖母大神云々。
大宮司吉野治部左衛門
一、社領二石寄附状、寛永廿年正月十一日以降ノモノ数通アリ、但シ元和三年ノモノ見当ラズ。一、神社考ニ日、
イ、当社神殿ニ神功皇后ノ挾石二ツアリ國史ニ此ノ石ハ月読神社ニアリト云ヘルモノニ当ルカ。
ロ、新庄村神岳熊野権現再建、寛永十二年ノ棟札ニ兵主軍神トアリ、是ハ古來兵主軍神卜書キ記スヲ後世熊野神ヲ合祀シテ元ノ社號ヲ棄テシモノナリ。
ハ、延暦七年異賊襲來ニヨリ壱岐嶋五社勧請アリ、本宮箱崎、筒城ノ三八幡印鎗聖母コレニシテ当社ハ共ノ一也。
二、延宝四年川北村日吉ヲ以テ兵主神社トスルモ川北村ハ昔ハ、石田郡ニシテ承応ノ頃ヨリ壱岐郡トナル、由來兵主神社ハ壱岐郡ニ属セリ、
ホ、延宝四年可須村宗廟聖母大明神ヲ兵主神社トシ西間郷川北村ノ宗廟日吉山王権現ヲ聖母大明神トセリ。因テ聖母ノ石鳥居ノ石額ヲ取外シテ日吉山王ニ納メ聖母大明神ニハ更ニ兵主ノ石額ヲ掛ケタリ依之延宝九年ノ冬聖母大明神助祠官吉野掃部未益其ノ非ヲ具シテ曰、聖母大明神ハ神功皇后ヲ祀リ且勝本ハ皇后ノ御着津ノ地ナルガ故ニ同社ハ決シテ兵主神社トミルベカラズ、又何スレゾ聖母ノ石額ヲ日吉山王ニ移スベケンヤ、唯日吉山王大宮ノ祭神ハ大己貴命ナレバ兵主神社トスルニ拠アリ(八千戈ノ廣戈ノ神ナレバ爾言ヘルナラムカ)速ニ神体ノ木鏡ヲ取替テ兵主ノ石額ヲ日吉ニ納メ日吉ニ掛ケタル聖母ノ石額ヲ勝本ニ移シテ元ノ聖母ニ納ムベキ也下略此ノ事途ニ行ハレテ元ノ如クナレリ云々。(抄録)
一、萬治元年当國飢饉ニヨリテ奉行所ヨリ香椎布代ノ両村民ニ仰セテ本宮ノ樹ヲ伐採セシム、此時樵夫等ノ使用スル斧山刀或ハ牛馬ノ鞍具等自然ニ大木ノ梢ニ懸リナドシテ衆庶怪訝ノ思ヲナシタリシガ十二月二十一日ノ夜丑刻八棟ノ内殿ノ中央ノ廓二ツニ割レ御殿ノ大戸左石二開キ神光閃々トシテ東ヲサシテ飛去リ給フ、其ノ状恰モ数反ノ布ヲ曳キタルガ如シ、見ル人肝ヲ消サヌハナシ依之二十五日本宮中触神樂場ト云フ地ニ假屋ヲ構へ社家十六人集リテ三昼夜ニ亘リ丹誠ヲ籠メテ神樂ヲ奏シ還御ヲ祈レル所、二十七日晩丑刻神光山海ヲ照シ渡リテ飛來リ忽チニ殿内二入り給フ上下共ノ神瑞ヲ仰ギテ感涙ニ咽ピケリ中略依テ先ニ伐採セシ樹木ハ共ノ儘森ノ中ニテ朽チ果テシトゾ、古來本宮山ノ樹木ヲ伐出ス事ハ神慮ニ叶ハズト云ヒ伝へタリ。(続風土記抄訳)
又曰、本宮八幡ノ森ニマムシ蛇多キモ人ヲ咬マズ、注連ノ本ヨリ内ノ水田ニ蛭多キモ人ノ血ヲ吸ハズ、何レモ神ノ警メ置給フ所也トゾ。
一、寛延二年六月二十日國主松浦誠信公本宮八幡宮御参拝ノ時宝殿内殿ノ神前ニ於テ折敷ヲ置キ料紙二牧ヲ重ネ敷キ神石ヲ載テ國主ノ観覧供シタリ、同時ニ又廣庭ニ存スル碇右二個ヲモ点検ニ供セリ、云々(吉野古條録)
一、明治九年十二月四日村社ニ列セラル。
一、明治四十三年十月神饌幣帛供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
本宮八幡神社(壱岐市勝本町本宮西触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)