坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】(三宅島 坪田)

坪田観音(つぼたかんのん)『延喜式神名帳(927年12月編纂)所載の由緒(格式ある歴史)を持っています 現在は「二宮神社(坪田)」に合祀されている「伊波比咩命神社(いはひめのみことの かみのやしろ)」の当初の鎮座地であると云われる「伊波耶観音神社(いわのかんのんじんじゃ)」の旧蹟です

目次

1.ご紹介(Introduction)

この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

坪田観音Tsubota kannon)
【旧蹟 伊波耶観音神社】【Old location Iwanokannon Shrine
(つぼたかんのん)【きゅうせき いわのかんのんじんじゃ】

 [通称名(Common name)]

【鎮座地 (Location) 

東京都三宅島 三宅村坪田

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》不詳
  観音様 伊波乃比咩命神社(Iwanohime no mikoto)

【御神格 (God's great power)】

【格  (Rules of dignity)

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

不詳

※現在 二宮神社(坪田)に合祀されている「伊波比咩命神社Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)」の当初の鎮座地と云われいています

三宅村指定文化財 天然記念物 坪田観音

所在地 東京都三宅島 三宅村坪田
指定日 平成26年11月7日

坪田観音の溶岩トンネルは、奥行きは2メートルほど、高さ1メートルほどである。観音像として信仰の対象となった石筍は、高さ50センチ゜ほどで、唐金の色を帯び光沢があり、そのそばにいくつか短い石筍が並ぶ。

『伊豆七島学術調査報告書(昭和32年/1957年:東京都刊行)』によれば、「天上にはラーヴェ・スタラクライトが鋭く尖って、大きい鋸歯を並べたように垂れ下がり、これまた赤銅色に光っている。」とある。

また、『伊豆七島志(明治34年/1901年:刊行)』によると、
二宮神社は、はじめ坪田村の北2町ほどの此山岩窟に鎮座したが、のちに坪田村小倉山に遷り、跡には 観音堂が置かれたとしている。
そして、

「洞窟中ニ鍾乳石ノ垂下セルヲ本尊トシテ崇敬シ、遠近来賓スル者少ナカラズ」とある。

観音像のある溶岩トンネルの前庭には、同じく明治34年に坪田村氏子中が奉納した水盤が1基現存しており、少なくとも同時期までには、坪田観音として島民の信仰を集めていたことがわかる。

三宅村教育委員会

現地案内板より

【由  (history)】

※現在の合祀先について

にのみやじんじゃ
二宮神社

「伊波乃比咩命神社」として延喜式内社に数えられます。御笏神社の御祭神の姉にあたり、その第二王子さまもお祀りすることから「二宮」とよばれているといわれます。
現在坪田地区の中心にご鎮座し、多くの合祀社・境内社があります。かつてのご鎮座地は大路池の近くです。毎年正月に御刀様が巡る若菜祭では、二宮神社を訪れ直会が開かれています。

<御祭神>伊波乃比咩命(いわのひめのみこと)
(大明神の御后神)

神主・壬生家が運営する
公式HPよりhttps://miyakejima-jinja.jimdofree.com/

【境内社 (Other deities within the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています

延喜式神名帳】(engishiki jimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 ] 伊波比咩命神社
[ふ り が な  ](いはひめのみことの かみのやしろ)
[How to read ]Iwahime no mikoto no kaminoyashiro) 

国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)(927年12月編纂)の論社について

三宅島は 活火山島のため 噴火による遷座が繰り返されています

伊豆国(izu no kuni) 賀茂郡(kamo no kori)
 伊波比咩命神社Iwahime no mikoto no kaminoyashiro)の論社

・【当初】坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】

・【次に】二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)

・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)〈当社〉

・【論社】雲見浅間神社(松崎町雲見)

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 神社にお詣り(Pray at the shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

三宅一周道路に面している「二宮神社(坪田)」から 北西方向 山に向かい約900m 徒歩20分程度
坪田観音の案内板が設置されていて その右側に参道らしき入口があります

参道は 古木の茂る原生林を上ります

巨木の下をくぐり抜ける幻想空間のようです

比較的広い空間に出ると案内の看板が設置されています

坪田観音Tsubota kannon)
【旧蹟 伊波耶観音神社】【Old location Iwanokannon Shrineに参着

溶岩の観音像が祀られている岩窟は正面の木戸の中のようです
その前面は境内地のように 一段高い敷地になっていて 浜から運んだのであろう玉石が積まれ 石段が設けられています

案内に書かれていた水盤「同じく明治34年に坪田村氏子中が奉納した水盤が1基現存しており」は 石段の上に苔生してありました

岩窟にすすみます 

岩窟の前は 木戸が施錠されていて 中は暗く 横の隙間から覗いても 肉眼では拝めませんが
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

振り返ると 水盤が一つと その先に参道が延びています

かつて島民が信仰の道として歩んだであろう下りの参道を歩きながら 何故か色々と思いが浮かんできます

参道の入口まで戻り 振り返り一礼をします

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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

三島大明神が 箱根芦ノ湖辺の老翁の娘3人を三宅島に迎え 后として3人を置きました

長女后神社Kisaki Shrine)
《主》伊賀牟比賣命(Ikamuhime no mikoto)王子が4人

次女二宮神社Ninomiya Shrine)
  《主》伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)王子が2人

御笏神社Oshaku Shrine)
  《主》佐伎多麻比咩命(Sakitamahime no mikoto)王子が8人
とされていて 王子は14人が記されています

この次の后(次女)〈伊波乃比咩命Iwanohime no mikoto)二宮神社Ninomiya Shrine)」のご祭神です
「未の方角(南南西 方向)」に置かれました その御腹には王子が 2人いらっしゃいました 1人は「うらみ子」といって 大明神の側を離れずにいらっしゃいます 又 1人は「二宮(にのみや)」といって母御前のもとにいらっしゃいましたと記されています

意訳

又 三島大明神は 見目に
「この后の姉たちは 何処へいらしゃったのか お捜しなさい」と言いつけられました
見目は御言葉に従って捜されると白根ヶ嶽(芦ノ湖と富士山の間にある白根山)におられました

「大明神の言いつけですので(三宅島に)お入りください」と申し上げました
「それは出来ないことです」と返事をされました
見目は様々になだめて 2人共に誘い参上されたので 大明神は大いに喜ばれて御寵愛になりました

こうして「ちゃく(嫡)女」〈伊賀牟比賣命Ikamuhime no mikoto)を 島の「酉の方角(西 方向)」に置かれました
その御腹には王子(名称不詳)が4人いらっしゃいました
この后は「みとくちの大后(新島の泊大后大明神)」を妬まれて 幼少の王子をお抱きになられて「いかゐ(イカイ)の海」(伊ケ谷の海)に飛び入られて石となって 海中にいらっしゃいます

あと2人の(王子の)うち 1人は「丑寅の方角(北東 方向)」で海中にお入りになりました
もう一人は 「辰巳の方角(南東 方向)」の渚で思いつめて亡くなられました
残った1人は 大明神に付き添われています

又 次の后(次女)〈伊波乃比咩命Iwanohime no mikoto)は この島の「未の方角(南南西 方向)」に置かれましたその御腹には王子が 2人いらっしゃいました 1人は「うらみ子」といって 大明神の側を離れずにいらっしゃいます 又 1人は「二宮(にのみや)」といって母御前のもとにいらっしゃいました

三女〈三島大明神の第三の后神(佐岐多麻比咩命(sakitamahime no mikoto)は 三宅島の丑寅(うしとら)〈北東〉の方に置かれました
かまつけ(神着)という所です
その腹から8人の王子が 一度にお産まれになりました
1番は「ナコ」
(南子命)〈南子神社or后神社境内社〉
2番は「カネ」
(加彌命)〈カミイノ宮〉
3番は「ヤス」
(夜須命)〈御嶽神社〉
4番は「テイ」
(氐良命)〈神澤神社or湯船神社〉
5番は「イタヒ」
(志理太宜命)〈椎取神社or志理太乎宜神社(片瀬白田)〉
6番は「クライ」
(久良惠命)〈久良浜神社【出張(でばり)】〉
7番は「カタスケ」
(片菅命)〈片菅神社or若宮神社or片菅神社(片瀬白田)〉
8番は「ヒンスケ」
(波夜志命)〈峯指神社or走湯神社(下田市大賀茂)〉
と申します

又「ななはしら」と言うところでお育てになられました
ところどころに宮々を置かれました

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

『三宅記(miyakeki)』に記される伝承

三島大明神の遺言として 島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めるくだりがあります

三姉妹の次女が「伊波乃比咩命(Iwanohime no mikoto)」です

「次女は 坪田の水乃海(湖)「古澪(フルミオ)池(大路池)」の並びに峰があるのでそこにお祀り」と記されているのが「伊波乃比咩命神社(Iwanohime no mikoto no kaminoyashiro)」の旧鎮座地です

「古澪(フルミオ)池」・古澪(フルミオ)・新澪(シンミオ)池跡は 現在の「大路池」です 「爆裂火口地形(マール)」で 地質学では「古澪マール」と呼ばれて 2000年以上の昔に水蒸気爆発によって形成された火口湖とされています

例えば『三宅記(miyakeki)』で 三島大明神が3人の后に等しく 宮処を定めたのだとすれば

次女は「坪田の水乃海(湖)」を授けるとなっており
この湖が「澪(フルミオ)」と呼ばれていて
「澪(みお)」の意味は《河川や海で船が航行する水路(航路)》を指すので 溶岩流に閉ざされる前 かつては海に通じる湖であったのであろうと推測をしてみました

長女は 伊豆に入海《海が陸地に入り込んだ入り江》
三女は 神着に浦《海や湖の 波が静かな入江

文中の3人の后には それぞれ港に相応しい地を授けていることになります

3姉妹への均等遺産の分配の遺言になっています
又 三宅島全体を捉えた時には
どの風向きにも島の港として対応する3つの港の機能を持ちます

意訳

又 三島大明神は 若宮 見目 壬生の館に
「この島を4つに分けて 末の代に后や王子たちにの宮処を定めようと思いますがいかがでしょう」とお尋ねがありました

「どのようにでもお計らいください」とお答えになりました

4つに分けられて
一つを 神着(カミツキ)とする

二つを 伊豆(イズ)と号す
三つを 阿古(アコ)と号す
四つを 坪田(ツボタ)と号す

嫡女(長女)は 伊豆に入海があるのでここにお祀りし
また 次女 は 坪田の水乃海(湖)の並びに峰があるのでそこにお祀りし
また 三女 は 神着に浦があって「シトリ」と名付けるので ここに祀り
また 阿古 は 末の代になってから 私の宮殿を造りなさい

【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ 『三宅記』鎌倉時代末期 [書誌事項]写本 ,明治04年[旧蔵者]教部省

『特選神名牒(tokusen shimmyo cho)』明治9年(1876年)に記される伝承

意訳

伊波乃比咩命神社(イハノヒメノミコト ノ カミノヤシロ)

祭神 伊波乃比咩命(イハノヒメノミコト) 坪田后(ツホタノキサキ)

今 思うに 此の神は
『三宅記(miyakeki)』
嫡女(長女)をば「伊豆の郷に いがい」と云う所に置きまいらせ給う云々

次の后(次女)をば「つほたの郷(坪田)」に置き給う云々
三人目(三女)は 「かめつきの郷(神着)」に置き給うと見えている

「つほたの后」とは 即ち「伊波乃比咩命(イハノヒメノミコト)」なるべし
それは
式内社考証に「いがいの后」は「伊賀牟比売命(イガムヒメノミコト)」に坐ます
「かめつきの后」は「佐伎多麻比咩命(サキタマヒメノミコト)」に坐ますこと 明らかなるが

「坪田后(ツホタノキサキ)」の式(式内社)に漏べき謂われは無く 決めて「伊波乃比咩命(イハノヒメノミコト)」なるべく思わるるに付(補足として)島々の諸神社を點検(点検)するに
この「比咩命(ヒメノミコト)」には「坪田后(ツホタノキサキ)」より外に思い合うべき神社はなく

この神「伊波乃比咩命(イハノヒメノミコト)」は 今は「二宮(二宮神社)」と云うに合祀してあるが


昔の社地は 今の地〈現在の二宮神社跡地〉より「20町(2.18 Km)」許(バカリ)村の北にある「神戸」と云う所の「石室なり」と聞くが
「この石室(イハ(ワ)ムロ)に鎮座する」により「伊波乃比咩命(イハ(ワ)ノヒメノミコト)」と称せ奉ることと思われると云える由縁がありと聞こえるなり

伊豆志に当郡 雲見村に浅間祠〈松崎町雲見に鎮座する浅間神社〉あり 御嶽山の嶺にます式内社なり と伝え云う「磐長姫命(イワナガヒメノミコト)」を祀る故に この山にて 駿州浅間のことを云うことを忌む
その妹「開耶姫(サクヤヒメ)」〈木花咲耶姫〉と隙あるが故なりと云うによりて
「玉襷(タマタスキ)」〈著 平田篤胤〉に「伊波乃比咩命神社(イワノヒメノミコトノカミノヤシロ)」の祭神を「磐長姫命(イワナガヒメノミコト)」と定めるのは誤りなること上に云う説にて弁ずべし

社格 (村社)
所在 (伊豆国 三宅島 坪田村 字 小倉山)

【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒(tokusen shimmyo cho)』出版 大正14年(1925年)磯部甲陽堂

『特選神名牒』

坪田観音Tsubota kannon)
【旧蹟 伊波耶観音神社】【Old location Iwanokannon Shrine
(hai)」(90度のお辞儀)

・【当初】坪田観音【旧蹟 伊波耶観音神社】

・【次に】二宮神社跡(伊波乃比咩命神社 旧鎮座地)

・【合祀】二宮神社(三宅島 坪田)〈当社〉

・【論社】雲見浅間神社(松崎町雲見)

伊豆国 式内社 92座(大5座・小87座)について に戻る       

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