奈具神社(なぐじんじゃ)は 『丹後国風土記』にある天女の言葉「ここに来て わが心 奈具志久(なぐしく)なれり」とある この心が奈具(なぐ〈なごむ〉)が由来です 丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社゛が所載されますが 当社は 延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
奈具神社(Nagu shrine)
【通称名(Common name)】
・天避社とも 天酒社とも
【鎮座地 (Location) 】
京都府宮津市由良宮ノ上3537-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊宇賀能賣命(とようかのめのみこと)
延喜式内社 奈具神社
丹後国加佐郡十一座の一社祭神
豊宇賀賣命(とようがのめのみこと)祭儀
祈年祭(としごいのまつり)四月十日 氏子安全 五穀豊穣祈願
例祭(れいさい)十月十日 年一回 秋の大祭奉納太鼓等
新嘗祭(にいなえのまつり)十一月二十三日 新穀を献じ収農奉告現地石碑より
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『加佐郡誌』〈大正14年(1925)〉に記される内容
【抜粋意訳】
奈具神社(式内)(由良村字由良小字岩出鎭座)
祭神 豊宇賀賣命
由緒 弘化三年三月建立 後更に明治十四年三月廿八日改營した。其他の由緖は詳でない。但し 延喜式神明帳所載の神社であるのは明である。
境内神社
大川神社(祭神五元神)
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『丹後史料叢書』第5輯〈昭和2年(1927)〉に記される内容
【抜粋意訳】
村社 奈具神社
○【田志】に天避社とも天酒社とも云へり 宇賀乃咩命也 豊宇氣比女神也と云ふ
〇竹野郡にもあり可考
【明細帳】由良村
【道】同上 俗に山庄太夫の故事は 天女の和奈佐老夫が家に子となりて 酒を作り 人に賣て 其の家 富饒ひ土形廣く大くなりて 後吾子に非ずと逐出され 悲みの有狀を 翻案したる作者の巧意なるべし
【式考】天女のことは 竹野郷にて 八人天降りしを ー人止りしにて 兄弟二人にあらず 同社名なりとて かく附曾すべきにあらず
【豊】由良村字宮本 豊受比賣命を祭る九月十四日
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・奈具神社 社殿
・奈具神社 本殿
・奈具神社 拝殿
・〈境内社〉大川神社《主》五元神〈秋葉社を合祀〉
・境内を流れる五十鈴川
・二番目の鳥居
・石灯籠・二連の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『丹後國風土記 逸文』奈具社の条に記される゛和奈佐老父(わなさおきな)和奈佐老女(わなさおみな)と天女゛の伝承
「丹後國風土記曰、丹後國丹波郡。郡家西北隅方 有比治里。此里比治山頂有井 其名云眞名井。今既成沼 此井天女八人 降來浴水干時 有老夫婦 其名曰和奈佐老夫和奈佐老婦…」とあり 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)という老夫婦が天女を欺いた話が記されています
【抜粋意訳】
丹後國風土記 逸文 比治真奈井 奈具社
丹後国風土記に云う
丹後国(たにはのみちのしりのくに)丹波郡(たにはのこほり)群家の西北の隅の方に比治里(ひぢのさと)が有る
此の里の比治山(ひぢのやま)の頂に井が有る その名を云うに麻奈井(まなゐ) 今は既に沼と成る
此の井に 天女が八人 降り来て 水浴びをした この時 老夫婦が有った その名は 和奈佐老夫(わなさおきな)・和奈佐老婦(わなさおつな)と云う
この老等は 井に至っていた密かに一人の天女の衣裳をかすみ取 隠した それから衣裳の有る天女は皆 天に飛び上った ただし 衣裳が無い天女は一人留まり それから その身を水に隠して 獨(ひとり)恥じて居た
ここに老夫が天女に言うに「私が請うに 天女娘(あまつをとめ) お前を我が子としたい」 天女は答えた「私は独り 人間(ひとのよ)に留っている どうして従わないでしょうか 請うに衣裳を下さい」 これに老夫は曰く「天女娘よ なぜ欺く心があるのだ」 天女が云う「およそ天人の志は信じることに為っている 何に多く疑って衣裳をくださらないのか」 老夫は答えた「多くを疑い信じ無い これが地上の常だ だから疑心でわたさない」 そこで遂に衣裳をゆるし 一緒に自宅に連れ帰る そのまま十年あまり一緒に住んだ
ここに天女は善(よい)酒を醸し 一杯飲めば 病は除かれて悉く治った その一杯は 直(あたひ)が財を車に積んで送るほど価値があった この時 その家は土形(つぢから)豊かに富んだ 故に土形里(ひぢかたのさと)と云う ここから中間 今に至るまで 比治里(ひぢのさと)と云う
この後 老夫婦は 天女に曰く「お前は我が子にあらず しばらく仮住まいさせたが 早々に出て去れ」 天女は天を仰いで慟哭(なげき)地に伏して哀(かなしみ)そして老夫らに言った「私は自分の意志で来たのにあらず 老夫の願いに従って天を去ったのだ なぜ悪心を起こし すぐに出て去れ と言えるのか」 すると 老夫は増々憤慨し 去るように願った
天女は涙を流した わずかに門の外に出て 郷人(さとびと)に曰く「久しく人間(ひとのよ)に沈んで 天に還れない 親も無く 居る所も知らない 私はどうしたよいのか いかんともしがたい」と涙を拭き嘆き 天を仰いで 歌った
「天の原 振放見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも」
遂に退去して 荒鹽村(あらしほのむら)に到り 天女は 村人たちに云う「老夫婦の意を思うと 我が心は荒鹽(あらしお)と異なることはない」 よって比治里の荒鹽村と云う また 天女は丹波里の哭木村(なききのむら)に到り 槻木に哭(なげき)故に哭木村と云う
また 天女は竹野郡(たかぬのこほり)船木里(ふなきのさと)の奈具村(なぐのむら)に到り そこで村人たちに云う「此処で 私の心は奈具志久(なぐしく)〈平穏〉になった」 この村に留り これが いわゆる竹野郡の奈具社(なぐのやしろ)に坐す 豊宇加能賣命(とようかのめのみこと)です
【原文参照】
天女が酒を造ったという伝承が残る 多久神社について
詳しくは別記事を参照ください
延喜式内社 丹後國 丹波郡 多久神社(たくの かみのやしろ)
・多久神社(京丹後市峰山町丹波)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)加佐郡 11座(大1座・小10座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 奈具神社
[ふ り が な ](なくの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Naku no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
丹後國の式内社には 加佐郡と竹野郡の二ヶ所に゛奈具神社(なくの かみのやしろ)゛が所載されています
延喜式内社 丹後國 加佐郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について
・奈具神社(宮津市由良)
・八幡大神市姫神社(舞鶴市市場)
延喜式内社 丹後國 竹野郡 奈具神社(なくの かみのやしろ)の論社について
奈具社は現在 船木奈具に鎮座しますが その旧鎮座地は奈具村で 嘉吉三年 (1443)の大洪水によって全村流失した〈遺跡地は未詳〉と伝えられ 奈具社の祭神は 溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)に移され 溝谷神社の相殿に 船木奈具神社が遷座されました
船木村が 天保三年 (1832)式内号 霊石〈靈爾〉の返還を求め 明治六年 (1873)返還命令が出され 奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)は 霊石を奉り現在地に再建されたものです
船木奈具神社の御神体は 現在も溝谷神社の相殿に鎮座しています
・奈具神社(京丹後市弥栄町船木 奈具)
・溝谷神社(京丹後市弥栄町溝谷)〈相殿 船木奈具神社〉
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮舞線 丹後由良駅から線路沿いに 約1.5km北西 車6分程度
由良川の河口に架かる京都丹後鉄道宮舞線の由良川橋梁(由良川鉄橋)
式内社 奈具神社の鎮座地となる゛由良村 ゛は 丹後國加佐郡の北部 丹後由良川川口左岸となっています
天然の良港であり 由良は北前船の船頭を多く出したと伝わります
丹後由良駅を過ぎて 踏切を渡り 線沿いを進みます
奈具神社への道標石には 右とあります
参道を進むと鳥居が見えてきました
奈具神社(宮津市由良宮ノ上)に参着
鳥居の扁額には゛式内 奈具神社゛と記されています
一礼をして鳥居をくぐります
二番目の鳥居をくぐり抜けます
参道を進み 拝殿にすすみます
左手には 手水舎があり 清めます
小さな石橋の御神橋があり 禊渡るようになっていて 石段を上がると 一段高い境内地に社殿が祀られています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿は壁がありませんので 舞殿にもなっているようです 奥の本殿の覆い屋が見えています
又 拝殿の壁に掲げられているのは 神鏡のようにも見えます
本殿にて 再びお祈りをして 振り返ると拝殿〈舞殿〉を通して 境内参道と一直線になっていることがわかります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
参拝日は11月23日ので 落葉樹の木の葉は落ちていました
柿の実が 秋里に色を添えています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 奈具神社について 所在は゛詳ならず゛不明と記しています
【抜粋意訳】
奈具神社
奈具は 假字也
〇祭神 豊宇氣比女神、今 天避社、又 酒社と稱す、
〇在所 詳ならず
〇當國 竹野郡奈具神社もあり
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 奈具神社について 所在は゛今 由良村にあり、゛〈現 奈具神社(宮津市由良宮ノ上)〉と記しています
【抜粋意訳】
奈具(ナグノ)神社
今 由良村にあり、〔神社明細帳、神社道志流倍〕
盖 豊宇賀能賣命を祭る、〔参酌丹波風土記、神名秘書〕
凡 其祭九月十四日を用ふ
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 奈具神社について 所在は゛由良村字宮本 (加佐郡由良村大字由良)゛〈現 奈具神社(宮津市由良宮ノ上)〉と記しています
【抜粋意訳】
奈具(ナグノ)神社
祭神 豊宇氣比賣(トヨウケヒメノ)命
祭日 九月十四日
社格 村社所在 由良村字宮本 (加佐郡由良村大字由良)
今按 式内神社道志流倍に由良嶽と云 高山に虚空藏を祭る奈具ケ峠と云 今長尾峠と云 とある所在の證とすべし
【原文参照】