安里八幡宮(あさとはちまんぐう)は 第一尚氏王統(1406~1469年)第7代〈1461~1469年〉尚德王(しょうとくおう)〈八幡の按司(あじ)と呼ばれた〉が 文正元年(1466)喜界島遠征を行った際 鬼界島を平定し凱旋 八幡大菩薩の御加護に感謝し 誓願に従い 矢を立てた地に安里八幡宮を建立し さらに高明山神徳寺を併設して梵鐘を掛けさせたのが安里八幡宮の始と伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
八幡宮(Hachimangu)
【通称名(Common name)】
安里八幡宮(Asato Hachimangu)
【鎮座地 (Location) 】
沖縄県那覇市安里3丁目19番14号
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(おうじんてんのう)
玉依姫命(たまよりひめ)
神功皇后(じんぐうこうごう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・琉球国の平穏と人民の安寧を守る神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・琉球八社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
安里八幡宮は、第一尚氏第七代尚徳王により創建されたと伝えられています (尚徳王六年、文正元年、成化二年、西暦一四六六年 )。その由来は琉球の歴史書『球陽』や『琉球神道記』等、各種の史料に記録されています。
尚徳王は、武勇に勝れた英明な王で、先王、尚泰久の遺志をついで喜界島遠征のため、二千余の軍勢を率いて安里を通りかかったとき、鳥が鳴き飛び立つのをみて、たちまち弓を取り、乙矢 (おとや)を地に立て、甲矢 (はや )は弓につがい、天を仰ぎ「一矢で飛ぶ鳥を射落としたら喜界島の平定をかなえさせ給え」と祈願したところ、見事に射落とすことができました。
また、さらに進んで五十余艘の軍勢で那覇港を出港したところ、海中の波間に梵鐘が浮き沈みしながら漂い、軍船の側を離れなかったといいます。尚徳王は、「これは八幡大菩薩の賜りたる霊鐘なり。これがわが手に入れば戦勝まちがいなし。帰国後は八幡宮を崇め奉る。」と誓い、船に載せ戦いに臨んだところ、果たして鬼界島を平定し凱旋することができました。尚徳王は、この八幡大菩薩の御加護に感謝し、誓願に従い、矢を立てた地に安里八幡宮を建立し、さらに高明山神徳寺を併設して梵鐘を掛けさせたのが安里八幡宮の始と伝えられています。
以来、安里八幡宮は、霊験あらたかなお宮として尊崇され、弓矢や甲冑を秘蔵し武運を祈願するお宮として、多くの人々の信仰を集め、また、琉球舞踊「上り口説」にも謡われ親しまれてきました。明治の廃藩置県後も地域の人々に敬われてきましたが、先の沖縄戦で社殿は悉く焼失してしまいました。
戦後二十七年に及んだ米軍統治下においては、教会敷地となっておりましたが、昭和三十八年 (ー九六三年 )に仮殿が復興されました。その後、昭和四十七年 (ー九七二年 )の沖縄施政権返還に伴い敷地を回復して、平成五年 (ー九九三年 )、安里八幡宮復興期成会により、多年の念願であった八幡宮社殿の復元が実現いたしました。
神社配布パンフレットより抜粋
【由 緒 (History)】
八幡宮、那覇市安里鎮座、
祭神、神功皇后、応神天皇、玉依姫、
例大際、旧9月9日由緒
琉球国時代の官社、琉球八社中唯一八幡神を祀る社で、古棟札の文に伝へられるところによれば、天正年中第六代国王尚徳王の時代に、鬼界島を討たせたことがあったが、小島ながら堅固に守って従わなかった。その時に村の老人が奏上した。王が自身で征討せられよ。犬を先にし兵を後にして行かれよと。王は弓矢八幡に誓って鳥を射たところ、みごとに射止め勇んで出帆した。海上に小鐘が浮かんでいた。王は神に祈って把り上げ、喜んで神霊の筥をつくった。かくて本意を遂げて帰国し、かの鳥を射止めた場所に霊社を建て、八幡大神宮と号して祭ったという。神威赫々、上下の尊信篤く、琉球歌謡「上がり口説」にも謳われて有名であったが、昭和19年10月戦炎にて炎上。戦後、昭和37年仮殿を建て現在に至る。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
安里八幡宮(アサトハチマングウ)
尚徳王代に建てられ、琉球八社の一つに数えられ、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、玉依姫尊(たまよりびめのみこと)を祀っている。
学術的詳細
安里八幡宮は那覇市安里にある神社。琉球八社の一つに数えられ、応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、玉依姫尊(たまよりびめのみこと)を祀っている。
第6代琉球国王尚徳王の時代に、鬼界島討伐にて村の老人の言葉により、弓矢を射て鳥を落とし猟犬を先兵として出陣した。鬼界島へ向かう海路で浮かんできた小鐘を手にし、本懐を遂げて帰国した際に矢を立てた場所に霊社を建て、小鐘と神通矢を垂迹として八幡大菩薩と号し奉じたのが当社の始まりとされている。
又、当社は当時の地元民と信仰に直結していたのは御嶽拝所であり、無格社となって経済的にも信仰的にも見るに耐えない状態を呈していたが、1944(昭和19)年に沖縄戦で被災全焼し、再建されたのが現在の神社である。
那覇市経済観光部観光課HPより
https://www.naha-contentsdb.jp/spot/435
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・井戸
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・神徳寺
神徳寺(ジントクジ)
神徳寺(じんとくじ)は沖縄県那覇市安里に位置する東寺真言宗の寺院であり、元々は「安里八幡宮」を管理するために置かれた寺・別当寺であった。山号は高明山。本尊は不動明王。
沖縄県内で宗派を同じくするお寺には神宮寺(宜野湾市普天間)、遍照寺(沖縄市久保田)、臨海寺(那覇市曙)、聖現寺(那覇市上之屋)などがある。
学術的詳細
天順年間(1457〜1464)喜界島をなかなか制圧できなかった尚徳王に対し、ある村人が「国王自ら出兵すると勝つことが出来る」と進言した。王は自ら出陣したが、首里城の麓を過ぎた時水鳥がいた。王は勝機があるのならば水鳥を射ち落とせるようにと願掛けをし、一対の矢を放った。すると、甲矢は地を乙矢は水鳥を射たため喜んで出航した。海を進んでいくと波間に鐘が漂っている。軍兵が掬い取ろうとしたがなぜか出来ないのに船の側からは離れない。そこで王が私が勝利出来るなら鐘も取れだろうと誓い右手を差し出すと、鐘は波にのって王の手に収まった。王は喜んで掬い上げ、船内に輿を作って祀り、帰国の後寺と社を創建し神通矢を神体として祀ったという言い伝えが残っている。
那覇市経済観光部観光課HPより
https://www.naha-contentsdb.jp/spot/485
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『琉球の研究』中〈明治39年〉に記される内容
安里八幡宮は 文正元年(1466)八幡の按司と呼ばれた尚德王の創建と伝わります
【抜粋意訳】
琉球の名所旧蹟
〇安里八幡宮といふのは、安里村の東なる丘麓に在て、文正元年(1466)といふ年に世にも八幡の按司と呼はれた尚德王の創建で、一の巨鐘と古兜数個とを保存してをるが、傍の神徳寺といふー寺も其當時の建立にかかるもので、此寺に古いー領の鎧が在たのを曾て盗まれ失せたとのことである、此宮と此寺との緣起を聞くに、かうである
むかし大嶋以下五嶋が尚ほ琉球領なりし時に、今の一大嶋なる鬼界島民は叛きて貢を中山に納れさりければ、少壯活達の聞へある當時の首里天加那志尚德按司は、如何で其儘には捨て置くへき、いでや親ら征いて討ち懲らさんものをと、・二千除の軍兵を引き具して中山城を出発し、やかて今の安里村にかかりし時に、遇ま烏の飛鳴して過くるを認め、按司は急に弓をしぼり仰き祝して、我こたび鬼界を討平くること叶ふならは、一矢に此烏を射落さしめよ、と言も終らす弦音高く響き渡ると見る間に、鳥ははったと地にを落ちたりける、之より軍氣は一しは奮ひて五十餘艘の軍船は、文正の元年二月の廿五日に䌫社那覇の港に解き、波をし分けて道の島の渡中を過きりしが、此時不思儀にも一の巨鐘の海而に浮沈しつつ近つき寄るものあり、按司は之を定めし八幡大菩薩の賜ならんとて、恭しく船上載せ上けて崇め祀り、其月の廿八日に難なく鬼界に着きたりき、さるほとに鬼界島民どもは、港口には柵を立て塁など築きて防備をささ怠なかりけれは、血氣の按司は軍兵を指揮して攻めかかれとも容易には破りかたくに見へたりける、たまたま老兵の献策に從ひて、わさと攻撃をゆるめ置き、時しも三月五日小雨さへ降りしきりてあやめも分かぬ暗夜なりけれは、數百の小舟に多くの炬火を燃やし、大軍は島の背後に迫る如くに裝ひたりしに、島民共は欺かれて、港口には老弱の者ばかりを残し、多數は島の背面を拒かんとて走り去りける、按司は時ころよけれと急に軍勢を下知して、つと港口に突き入り柵を破り塁を越へて陸に上り、屋を焼き聲を揚げて威嚇なしけれは、さすか烏民も慌てふためき降参して難なく首領も擒にせられたりき、其月の十三日に按司は首尾よく全島を征服して新たに酋長を撰ひ立て、凱歌勇ましく中山城に帰たり、之より尚德王は深く八幡大菩薩の威霊を信したまひ、嚢に鳥を射落したりし安里村の丘麓に宮を建て、洋中にて得たまひし巨鐘飾を安置し、當時の武器などをも併せ納めて安里八幡宮と崇め祀り、更に其傍に一寺建立して神徳寺と名つけたまひしとなん
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
琉球の゛歴代の王統゛と゛琉球八社゛について
第一尚氏王統(1406~1469年)第7代〈1461~1469年〉尚德王(しょうとくおう)が創建した 安里八幡宮(あさとはちまんぐう)は 琉球八社の一つです
・琉球の゛歴代の王統゛と゛琉球八社゛について
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
ゆいレール 安里駅から 北へ約600m 徒歩10分程度
安里からおもろまちの高台に上がる坂道の途中 住宅街の中にあり やや上り坂を歩きます
神徳寺(じんとくじ)を過ぎると 安里八幡宮の旗が立ちます
社殿の後ろは おもろまちに建つタワーマンションが聳え建つ不思議な光景の中 安里の羽佐間原(ウサマバル) と呼ばれる おもろまちへの斜面に鎮座
安里八幡宮(那覇市安里)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
鳥居の扁額には゛安里八幡宮゛と刻字があります
白砂地の境内の向かって右手は 社務所 左手は保育園になっていて
遊具なども設置されています
拝殿にすすみます
石段の手前 左手には゛手水所゛があり清めます
その横には゛奉納石碑゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥は立入禁止となっていて進めません ハブも出るようです
手つかずの藪のようになっています
ただ よく見ると 藪のような崖下の中に建屋のようなものが見えるので
もしかすると本殿なのかもしれませんが おそらくは廃屋だと思います
社殿の向かって右奥には゛井戸゛があり お賽銭を入れて拝みます
少し下の神徳寺の入り口付近には 首里王府から賜った伝えられている御穀泉 (オコクガー) があるので 同様のものだろうか 線香立てもあり 拝所(うがんじゅ)のようでもあります
ここから眺めると 都会の神社ではない雰囲気です
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『琉球神道記(りゅうきゅうしんとうき)』〈万暦33年(1605)和暦 慶長10年の完成〉に記される伝承
【抜粋意訳】
琉球神道記 巻第五 八幡大菩薩神徳寺
一、八幡大菩薩事
國王第五代尚泰久ノ時。諸嶋ヲ平グ。後ニ。兵ヲ遣(ツカハ)シテ鬼界嶋ヲ討ニ。彼小嶋タリト云へ共堅ク持ッ。
時二邑老白テ云。王輿直ニ出シ給ヘ。其故ハ譬バ狩犬ヲ仕ニ。後(シリ)へニ人有則ンバ進ガ如シト。尤也トテ。大嶋ヲ指テ出給フ。先首(カドデ)途ニ・城ノ麓二水鳥アリ。矢ヲ弦(ツル)シテ誓テ云。今般(コノタビ)我兵成就スベクンバ。此鳥速ニ射取ントテ。隻矢ハ地ニ立テ。隻矢ハ放ツ。卽射留了(オハン)ヌ。爾シテ出給フ。又海路ニシテ小鐘浮べリ。船人取ントスレバ去ヌ。亦船ヲ離レズ。
時ニ王亦誓テ云。此兵利アランニハ。此鐘我手ニ入ベシ。爾バ帰國シテ八幡大菩薩卜崇ムベシトテ。右手ヲ出給フニ。隻(カタ)手ニシテ軽ク取ラル。喜デ輿ヲ造リ内ニ入テ。供物祭禮如在ナリ。遂ニ本意トゲ國ニ回リテ。初ニ矢ヲ立シ處ニ社祠ヲ起ツ。今ノ八幡是也。爾シテ此神ノ緣起ヲ尋バ。倭國人王三十代欽明ノ時。豊前州宇佐郡馬城峯ノ麓ニ。八頭ノ老人化現セリ。大神(オホガノ)此疑信心ヲ致テ何人ゾヤ顯シ給へ卜祈シカバ。二三歳ノ兒卜成テ。竹ノ葉ニ乘テ託宣ニ云。我ハ是日本國皇十六代譽田(ホンダ)ノ天王也。我ヲバ護國霊驗威力神通大自在菩薩卜號ス。諸國ニ垂迹セリト。同キ比。馬城ノ峯ニ。高サー丈五尺廣サー丈許ノ石體アリ。何(イツ)モ燸シ。人恠デ御殿ヲ作リ覆ヘバ。託宣ニ云。我石體卜顯ル、コト末代マデ久カラン爲ナリ。殿ヲバ作べカラズ。王城ヲ治シテ百官ヲ守護スト。又此峯ニ高サー丈廣サ七尺許ノ石二ニ分テ。上ハ退ク。中ニ彌陀三尊ノ御正體アリ。二菩薩同蓮花ヲ持給フ。大神事ノ由委ク奏ス。禁中ニモ影ヲ移テ照玉フ。帝驚メス。御託大神ガ奏卜同ジ。爾バ公卿(クギョウ)僉(ミナ)議シテ』麓ニ龜山卜云小嶺ニ御殿ヲ造。御許山(オモトサン)蓮臺寺卜名卜云。三所アリ。西ノ御前ハ大神ノ比疑。東ハ神后。中ハ天皇也。又本地ハ次テノ如ク釈迦・彌陀・観音。種子ハ バクキリクサ、此権現ノ根本ヲ云バ。人皇九代開化王ノ時。百済國•高麗國・東夷・蒙古•多壇等ノ諸國同時ニ蜂起シテ。二十萬三千人ノ兵ヲ以此國ヲ攻。天皇對馬國ニ幸シテ戰テ返シ了ヌ。其後亦十四代。仲哀天王ノ時三韓起テ攻來ル。對治ノ為ニ帝自ラ幸シテ敵ヲ防給フ時ニ。封馬州ニテ流矢ニ當リ長門ノ内裏ニ帰テ遂ニ崩御ナル。太子無故ニ后ノ神功ニ世ヲ讓給フ。后得テ後。王ノ敵(カタキ)ヲ取ント思メス。時ニ亦三韓攻來ル。三百萬八千五百人卜云。爰ニ天照太神神勅二。皇后幷ニ諏方大明神彼國ニ攻入ベシト也。爾バ三千二百七十艘ノ船ニ乘。四國ヲ經。九州薩摩ノ五嶋ノ内江良部ノ切石ノ浦ヲ過テ。諏方大明神ヲ龍宮城ニ遣テ乾珠満珠ヲ召寄。諏方大明神ヲ先鋒(サキガケ)トシ。八本ノ幡ヲ建テ。遂ニ彼國ニ攻入リ。三年三月(ツキ)ノ間。賊徒多ク死門ニ赴ク。爰ニ一リノ王子来レリ。十七歳降ヲ請テ云。石飛デ星トナラント。爾ヨリ来タ三朝叛(ソム)カズ。此内后懐胎之為ニ懷石シ給フ。共石ヲ奇魂(クシミタマ)卜云。果シテ應神天王ヲ生ズ。此王子生ズル時。自ラ護國霊驗威力神通大自在菩薩卜號ス。卽八幡大菩薩也。八幡ノ表示ハ。五方ニ五智ノ如來アリ。三身圓満ス。故ニ八トス。或ハ世人八邪ニ沈ム彼ヲ八正道ニ入ンガ爲ニ八卜顯レ給フ也。イハユル八正トハー見二思惟三語四業五命六精進七念八定矣。中ニ業トハ入ノ所作ナリ。命トハ所作シテ命ヲツグ。精進ニモ邪精進ハ惡事ヲ佛神ニ祈也。此八正ニ住スレバ衆生卽八幡大菩薩也。
【原文参照】