大和神社(天理市新泉町)〈大和坐大國魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)〉

大和神社(おやまとじんじゃ) 延喜式内社 大和國 山邊郡 大和坐大魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)です 創建は 第十代崇神天皇が宮中内に天皇と同殿共床で奉斎されてい二大神の神威を畏れた爲 天照大神皇女 豊鋤入姫命に託して倭の笠縫邑に移された時 当神社の大地主大神皇女 淳名城入姫命に勅し 市磯邑に移されたのが始りと伝わります

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

大和神社Ohyamato shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

奈良県天理市新泉町星山306

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》(中央)日本大国魂大神(やまとおくにたまのおかみ)
   (向右)八千戈大神(やちほこのおかみ)
   (向左)御年大神(みとしのおかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

交通安全遣唐使も交通安全の祈願をした〉
土木建築工事起工安全、厄除け、家内繁栄

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】


日本最古の神社 大和おおやまと神社

御祭神

 日本大国魂大神やまとおおくにたまのおおかみ(中央)
 八千戈大神やちほこのおおかみ       (向右)
 御年大神みとしのおおかみ         (向左)

御祭礼

 四月一日(ちゃんちゃん祭)

社 格

 旧官幣大社(橘たちばなの森鎮座)

御由緒

 まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々は、第十代崇神天皇六年(二、〇〇〇余年前)まで皇居内に天照大神と共に奉斎されていた大地主おおとこぬしに坐します。皇女 渟名城入姫ぬなきいりひめ命により大和郷現地に移されたのが当神社の創建。

 往古よりわが国に文化・産業をもたらした遣唐使も交通安全の祈願をされ、万葉集「好去好来」にうたわれています。

 また戦中は世界最大最強を誇る"戦艦大和"の守護神として祀まつられました。同艦の伊藤整一命外は祖霊社に合祀されています。

御神徳

 交通安全、土木建築工事起工安全、厄除け、家内繁栄

鎮座地

 天理市新泉町星山三

 大和郷内に天理教中山みき教祖生誕地は近くの三昧田町にあります。

現地案内板より

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大和明神
日本最古の神社

大和(おおやまと)神社

祭神 大和大国魂神(中央)
   八千戈大神 (右側)
   御歳大神  (左側)

まほろばなる大和平野に長い森を列ねて鎮座する神々の主神は、崇神天皇年まで皇居内に祀られていた日本の大地主(おおどこぬし)の神である。この神が大和明神として交易、農業、工業、商業等、産業の啓発と繁栄を司り、式内明神大社として祭られたのである。

四海平穏に、国内諸業を繁栄させ、国民をお守りくださる御神徳は、伊勢神宮と並ぶものである。

往時、わが国に文化をもたらした遣唐使に御守護を賜り、交易、学問を勧める神様としてもあがめられ、人々の参拝も繁かった。万葉集には「好去好来之詩」として数多くうたわれている。以後、政治、経済の発展にも御神徳がいよいよ広まってくる。

戦艦大和に当神社の分霊が祀られていたことも周知のことである。

天理市新泉(にいずみ)町星山鎮座
旧官幣大社

現地案内板より

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【由  (History)】

御由緒

日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は 大地主大神(おおとこぬしのおおかみ)で、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇六年に天皇が神威をおそれ、天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫(ぬなきいりひめ)命に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている。(2000余年前)奈良時代、朝廷の命により、唐の国へ渡って学ぶ遣唐使、その他使臣は、出発に際して、当社へ参詣し、交通安全を祈願された。

 また、世界最大最強を誇る「戦艦大和」の守護神とされた。同艦も、昭和20年4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖にて轟沈した。その英霊、第二艦隊司令長官伊藤整一命外、2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。

大和神社HPより
http://ooyamatohp.net/concept.htm

由緒

当神社の主神は、日本の全国土の地主神に坐します。上古伊勢神宮に坐す天照大神と共に宮中にて親祭され給ひしが、第十代崇神天皇は御神威を畏み給ひ同6年(2千数十年前)当神社の主神を市磯邑に遷御遊ばされ、皇女渟名城入姫を斎主として祀らしめ給う。延喜式に大社大和坐大国魂神社3座とある。斯様に尊い御由緒は類まれなところで御神威は伊勢神宮に次ぎ、御神封も亦大和を始め尾張、武蔵、常陸、安芸の6カ国に於いて327戸に及び境内も64ヘクタールの広大なりし由にて久しい間御社頭も隆盛を極めたと、古記録に見ゆる。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・本殿三殿

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・拝殿

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高龗神社《主》雨師大神

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商賣を計る
天候を司る

高龗神社(タカオオカミジンジャ)

祭神 高龗大神

日本大國魂大神の使神で龍体に坐しまして変化自在に天翔し神威を崇敬者に齎らし護りたまふ

特に商賣を榮へさせ且つ水利を授けます
天候を司さどれば多雨・旱天の害を除き給ふ
暴風にも崇敬者を災害から護ります

例祭 六月一日

現地立札より

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高龗(たかおおかみ)神社 祈雨神祭きうしんさいについて 全国総本社

 大和おおやまと神社の摂社である。祭神は雨師大神 即ち水神様で、崇神天皇のとき渟名城入姫命ぬなきいりひめのみことをして、穂積長柄岬ながえさき(現新泉にいずみ星山)に創祀される。

 古来六月一日、十年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々むらむらから千人余りも参拝者の列が続いたとある。先頭に丹生にう川上神社中・下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井さい神社が勤めた。茅原上つ道を経て箸墓はしはか裾で休憩、大倭柳本邑やなぎもとむらに入り長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫ぬなきいりひめ斎持御前の井戸で祓い清める。神職は輿こしと共に神橋を渡り大和神社に入る。一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯いちしの池に体を清め笠縫邑かさぬいむらから神社へ向かう。

 社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で江戸時代の建立になる。昭和二十五年の台風により被害を受け半壊する。

現地立札より

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・朝日神社《主》朝日豊明姫神
・厳島神社《主》市杵島姫尊
・事代神社《主》事代主尊

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・授与所

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・戦艦大和 ゆかりの碑

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大和神社は戦艦大和ゆかりの神社です。

一、戦艦大和には大和神社の御分霊が祀られています。

一、万葉集(巻五)山上憶良の歌(好去好来)に大和神社の神々に航海安全の祈願に参詣して遣唐使が派遣されたとあります。
    万葉集歌碑(好去好来)が大和神社境内に建立されています。

一、昭和十六年大和神社を描いた堂本印象画伯作「戦艦大和守護神」は戦艦大和の艦長室に掲げられていました。
   (広島県江田島市 海上自衛隊 第一術科学校 教育参考館所蔵)

一、となりの祖霊社には、戦艦大和の最期をともにした殉死者二七三六柱の御霊が祀られています。

一、戦艦大和の長さは大和神社の参道とほぼ同じ(二七〇m)で、幅は参道の約五倍(四〇m)です。

現地案内板より

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・祖霊社《主》大国主神,護国の英霊,氏子の祖霊

祖霊社

御祭神 大国主神

国津神珍彦命 別名・椎根津彦命 神武天皇大和平定の功臣。大和国造に任じられる。
市磯長尾市命 初代斎王・皇女渟名城入姫命の後任として宮司をつとめる。
大和宿祢長岡命 別名・小東人命 第十一次遣唐使請益生。養老律令撰修に携わる。

大和神道御霊之社氏子祖霊(例大祭は彼岸の中日)
戦艦大和第二艦隊戦没英霊等(例祭は四月七日)

創建
明治七年一月九日官許により創建

由緒
大和神社の祭祀を担ってきた旧宮司家と氏子筋にあたる大和神道御霊之社の各家々祖霊を祭祀するために創建された。
秋の例大祭には、大和神道御霊之社の分霊が祖霊社に合祀されて、大和郷の守り神となる。

国家によって神社管理が行われていた時代に一般国民の先祖御霊を祭祀する祖霊社が官幣大社の社格を有する神社の境内地内に建立許可されたのは、大和神社のみである。

九ケ大字800世帯にすぎない氏子地域が、時の政府に例外の許可を賜った史実は皇室と大和神社との深い関係を推しはかることが出来る。

後の昭和二十八年に戦艦大和戦没英霊、四十七年には、巡洋艦矢矧、駆逐艦八隻の戦没英霊が合祀される。
帝国海軍の旗艦であり、全国に多数の崇敬者がいる戦艦大和乗務の英霊と大和神道御霊之社各家々の祖霊が旧官幣大社境内地に合祀されているのは他に例をみない祭祀形態である。

ちなみに、現在の祖霊社は、大和神社改築の折、日本大国魂神が祀られていた本殿を移築した社殿である。

現地案内板より

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・手水舎

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・増御子神社《主》猿田彦神,天鈿女命,市磯長尾市命

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増御子(ますみこ)神社

祭神 猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)
   天鈿女命(あめのうずめのみこと)

猿田彦大神は、ものごとの一番最初にご出現になり、万事最もよい方へお導きになる大神です。古事記・日本書紀などにも、わが国の初め天孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をこの国土へご啓行になられたと伝えられています。
このご神徳によって、全国各地のご祭礼に際しては一番先頭に大神を仰いで渡御が行われ、本社の渡御祭にも先駆する天狗が猿田彦大神です。
「さき立ちの神」「さきみちの神」「ひらきの神」として、氏子・崇敬者の将来の繁栄と開運成就をお授けくださいます。

学業成就、家業繁栄、交通安全、開業・移転災除等、諸願成就にご神徳顕著です。

現地案内板より

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・二の鳥居

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・参道

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・一の鳥居

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・社頭

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・大和神社四至について

 

 社地はやや高い場所に鎮座、大和神社の森は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。 社殿のある杜は大きく広がっている。首の細長い壺のような神域である。しかし、かっては八町四方と巨大な神域であり、四至を固めていた神社があった。

【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
南西の固め : 素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地(一本木さん)
新泉町の素盞鳴神社は、元は、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました。
昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に移されました。
南東の固め : 素盞鳴神社(成願寺町)
北東の固め : 素盞鳴神社(佐保庄町)
北西の固め : 福智堂町の市杵島神社(現在この地は、畑となっておる。)
明治42年に永原町の御霊神社に遷座

神域の大きさは、 76万㎡ (東京ドーム16個分になります。)

大和神社HPより
http://ooyamatohp.net/maps1.html#%E5%A2%83%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE1

・大和稚宮神社(大和神社御旅所坐神社)《主》日本大国魂大神,八千戈神,御年神

・齒定神社(中山町)《主》大己貴神(おおなむちのかみ)・少彦名神(すくなひこなのかみ)

・大和稚宮神社〈大和神社御旅所坐神社〉
・齒定神社(天理市中山町)

・白堤神社(長柄町)《主》日本武尊

白堤神社(長柄町)は 式内論社となっています

延喜式内社 大和國 山邊郡 白堤神社(しろつつみの かみのやしろ)

・白堤神社(天理市長柄町)
・白堤神社 旧 鎮座地〈石碑のみ〉(天理市長柄町)

・菅原神社(萱生町)《主》菅原道真公

・稚宮神社(岸田町)《主》天押雲根命,天児屋根尊,蛭子神

・春日神社(三昧田町)《主》春日大神

・素戔嗚神社(佐保庄町)《主》素盞嗚尊

・素戔嗚神社(新泉町)《主》素盞嗚尊

・素戔嗚神社(成願寺町)《主》素盞嗚尊

・素戔嗚神社(兵庫町)《主》素盞嗚尊

・渟名城入姫神社(天理市岸田町市場)《主》渟名城入姫命

・岩懸神社(いわかけ)(御神輿駐賛所)

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史』に記される゛大和大國魂神゛の゛神位の奉授゛について

『日本文徳天皇實録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される゛神位の奉授゛について

【抜粋意訳】

卷二 嘉祥三年(八五〇)十月辛亥〈七〉

○辛亥

進を 山城國 稻荷神の階を授け 從四位上を
授け 攝津國 廣田神に 從五位下を

進む 大和國 大和大國魂神の階を授に從二位
石上神 及 大神大物主神 葛木一言主神等を 並に正三位
夜岐布山口神 從五位下

河内國 恩智大御食津彦命神 恩智大御食津姫命神等 並に正三位 丹比神從五位上
伊勢國 阿耶賀神從五位上
尾張國 熱田神正三位
越前國 氣比神正二位
筑前國 宗像神從五位上 竃門神正五位上
筑後國 高良玉垂命神 從四位上
肥後國 健磐龍命神 正三位
伊豆國 三嶋神 從五位上

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記されるに記される゛神位の奉授゛について

【抜粋意訳】

卷二 貞觀元年(八五九)正月廿七日甲申

○廿七日甲申 京畿七道諸神 進階及新叙 惣二百六十七社

奉授

淡路國 无品勳八等 伊佐奈岐命一品
備中國 三品 吉備都彦命二品

・・・
・・・
・・・

大和國
從一位大己貴神 正一位
正二位葛木御歳神 從二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神 從二位高市御縣鴨八重事代主神 從二位勳二等大神大物主神 從二位勳三等大和大國魂神 正三 位勳六等石上神 正三位高鴨神 並從一位
正三位勳二等葛木一言主神 高天彦神 葛木火雷神並從二位 從三位廣瀬神 龍田神 從三位勳八等多坐彌志理都比古神 金峰神 並正三位
正四位下丹生川上雨師神 從三位
從五位下賀夜奈流美神 正四位下
從五位下勳八等穴師兵主神 片岡神 夜岐布山口神 並正五位上
從五位下都祁水分神 都祁山口神 石寸山口神 耳成山口神 飛鳥山口神 畝火山口神 長谷山口神 忍坂山口神 宇陀水分神 吉野水分神 吉野山口神 巨勢山口神 葛木水分神 鴨山口神 當麻山口神 大坂山口神 伊古麻山口神 並正五位下
從五位下和爾赤坂彦神 山邊御縣神 村屋禰富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神 鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原高御魂神 畝尾建土安神 子部神 天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神 牟佐坐神 高市御縣神 輕樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神 川俣神 波多〓井神 坐日向神 卷向若御魂神 他田天照御魂神 志貴御懸神 忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久豆玉神 調田一事尼古神 金村神葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神 矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神 並從五位上
无位水越神 從五位下

・・・
・・・
・・・

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブス『日本三代実録』延喜元年(901年)成立 選者:藤原時平/校訂者:松下見林 刊本(跋刊)寛文13年 20冊[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047721&ID=M2014093020345388640&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次

月次祭つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」

大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています

【抜粋意訳】

月次祭つきなみのまつり

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 三百四座 並大社 一百九十八所

座別に絁五尺、五色の薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、倭文纏刀形(まきかたなかた)、絁の纏刀形、布の纏刀形各一口、四座置一束、八座置一束、弓一張、靫(ゆき)一口、楯一枚、槍鋒(ほこのさき)一竿、鹿角一隻、鍬一口、庸布一丈四尺、酒四升、鰒、堅魚各五両、腊二升、海藻、滑海藻、雑の海菜各六両、堅塩一升、酒坩(かめ)一口、裹葉薦五尺、祝詞(のとこと)座料短畳一枚、

前一百六座
座別絁五尺、五色薄絁各一尺、倭文一尺、木綿二両、麻五両、四座置一束、八座置一束、楯一枚、槍鋒一口、裹葉薦五尺、
 右所祭之神、並同祈年、其太神宮(かむのみや)、度会宮(わたらひのみや)、高御魂神(たかむすひのかみ)、大宮女神(おほみやめのかみ)には各加ふ馬一疋、〈但太神宮、度会宮各加籠(おもつを)頭料庸布一段、〉
前祭五日、充忌部九人、木工一人を、令造供神調度を、〈其監造并潔衣食料、各准祈年、〉祭畢即中臣の官一人率て宮主及卜部等を、向て宮内省に、卜の定供奉神今食に之小斎人(みのひと)を、
供神今食料
 紵一丈二尺、〈御巾料、〉絹二丈二尺、〈篩(ふるい)の料、〉絲四両、〈縫篩等料、〉布三端一丈、〈膳部巾料、〉曝布一丈二尺、〈覆水甕料、〉細布三丈二尺、〈戸座襅(へさたまき)并褠料、〉木綿一斤五両、〈結ふ御食(みけ)料、〉刻柄(きさたるつか)の刀子二枚、長刀子十枚、短刀子十枚、筥六合、麁(あら)筥二合、明櫃三合、御飯、粥料米各二斗、粟二斗、陶瓼(すえのさかけ)[如硯瓶以上作之]瓶【瓦+并】(かめ)各五口、都婆波、匜(はふさ)、酒垂各四口、洗盤、短女杯(さらけ)各六口、高盤廿口、多志良加[似尼瓶]四口、陶鉢八口、叩盆四口、臼二口、土片椀(もひ)廿口、水椀八口、筥代盤(しろのさら)八口、手洗二口、盤八口、土の手湯盆(ほん)[似叩戸采女洗]二口、盆(ほとき)四口、堝十口、火爐二口、案(つくえ)十脚、切机二脚、槌二枚、砧二枚、槲四俵、匏廿柄、蚡鰭(えひのはた)槽[供御手水所]二隻、油三升、橡の帛三丈、〈戸の座服の料、冬絁一疋、綿六屯、履一両、〉
右供御の雑物は、各付内膳主水等の司に、神祇官の官人率神部等を、夕暁(よひあかつき)両般参入内裏に、供奉其の事に、所供雑物、祭訖て即給中臣忌部宮主等に、一同し大甞会の例に、

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻2四時祭下中の相嘗祭神七十一座

【抜粋意訳】

巻2 神祇2 四時祭下 十一月祭 相嘗祭神(あひむへのまつりのかみ)七十一座

大和社(ヤマトノ)三座

(キヌ)六疋、絲(イト)八絇四銖、調布十二端一丈六尺、庸布三段二尺、木綿八斤四両、鮑二斤、堅魚九斤四両、脯魚(ホシイヲ)十九斤十四両、海藻、凝海藻(コルモ)各十三斤四両、塩二斗、筥三合、瓼(サラケ)、缶(モタイ)、水瓫(ホトギ)、山都婆波、小都婆波、筥瓶、酒垂、匜(ハフサ)、等呂須伎、高盤、筥坏、小坏、片盤、短女坏、陶臼各四口、酒稲二百束、〈神税、〉

【原文参照】

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『延喜式Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭

嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り

式内大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われ

春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する

【抜粋意訳】

巻2 四時祭下 新嘗祭(にいなめのまつり)

奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所

座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺

前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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『延喜式Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭Meijin sai)」の条 285座

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂

延喜式巻第3は『臨時祭〈・遷宮天皇の即位や行幸国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で名神祭Meijin sai)』の条に 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています

名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています

【抜粋意訳】

巻3神祇 臨時祭 名神祭 二百八十五座

園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省、〉
賀茂別雷神社一座 賀茂御祖神社二座 松尾神社二座 稲荷神社三座 貴布祢神社一座 鴨川合神社一座 御井神社一座 葛野月読神社一座 木嶋坐天照御魂神社一座 平野神社四座 梅宮神社四座 乙訓神社一座 酒解神社一座〈亦号山崎神、已上山城国〉

春日神社四座 大和神社三座 石上神社一座 多坐神社二座〈或号大社〉 飛鳥神社四座 高市御県神社一座 気吹雷神社二座 大神神社一座 太玉神社四座 穴師神社一座 高屋安倍神社三座 大名持御魂神社一座 丹生川上神社一座 金峯神社一座 鴨神社二座 葛木御歳神社一座 葛木一言主神社一座 高鴨神社四座 高天彦神社一座 葛木火雷神社二座 片岡神社一座 火幡神社一座 広瀬神社一座 龍田神社二座 平群坐紀氏神社一座〈已上大和国〉
・・・
・・・
・・・

座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩

嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合

加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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国立公文書館デジタルアーカイブス『延喜式 巻3-4』臨時祭 名神祭 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(な月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山邊郡 13座(大7座・小6座)

[名神大 大 小] 式内名神大

[旧 神社 名称 ] 大和坐大魂神社三座(並名神大 月次 相嘗 新嘗)
[ふ り が な ]おほやまとにます おほくにたま かみのやしろ みくら
[Old Shrine name]Ohoyamatonimasu Ohokunitama no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される゛大和坐大魂神社三座゛の゛創建゛伝承

第十代崇神天皇の段に゛創建゛伝承が記されています
崇神天皇の御代まで天照大神と倭大国魂神は 天皇と「同床共殿」で祀られていましたが これを畏れたために
天照大神を豊鍬入姫命に託して祀らせたのが「倭笠縫邑」
倭大国魂神は 渟名城入姫に祀らせたが 髪が落ち身体は痩せ細り祀ることができなくなった
倭大国魂神は 市磯長尾市に祀らせるよう夢に告げられ 市磯長尾市が大倭氏の祖であることを記し 当初渟名城稚(入)姫が祀っていた地は「穴磯邑」の「大市長岡岬」であると記されています

【抜粋意訳】

日本書紀 巻第五 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト) 崇神天皇

・・・・
・・・・

即位五年

 国内に疫病が多く 民の半数以上が死亡者(マカレルモノ)となつた

即位六年

 百姓の流離(サスラヘル)者 或いは反逆する者もあり その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった

そこで一日中 神祇〈天津神・国津神〉に請願った

これより先 天照大神(アマテラスオホミカミ)倭大国魂(ヤマトノオホクニタマ)の二神を 天皇の御殿の内に並びお祀りしていました
ところが その神の勢いを畏れ 共に住むには不安があった

そこで 天照大神を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)に託し 倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)に祀りました
そして 磯堅城(シカタキ)神籬(ひもろき)〈神が降臨されるところ〉を立てました
神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます

また 日本大国魂神を 淳名城入姫命(ヌナキイリヒメノミコト)に託して祀られた
ところが 渟名城入姫命は 髪が抜け落ち 体が瘦せ お祀りすることができませんでした

即位七年 春二月十五日

詔して
「昔 我が皇祖(スメミオヤ)が鴻基(アマツヒツギ)を開き その後 聖業逾高(ヒジリノワザイヨイヨタカク)王風轉盛(キミノノリウタタサカリ)〈聖人として 王者の風格であった〉
ところが思いがけず 今我が世になってしばしば災害がある おそらく朝(ミカド)に良い政治が行われていないから 神祇〈天津神・国津神〉が咎(トガ)を与えておられるのではないかと恐れる 占(ウラ)によって災いの起こるわけを究めよう」

天皇はそこで神浅茅原(カムアサチハラ)にお出ましになって 八十萬神に占いで問われた

このとき 神明倭迹迹日百襲姫命(カミヤマトトトヒモモソヒメノミコト)に憑(カカリ)りして言われた
「天皇よ どうして国が治まらないことを憂えるのか もし よく私を敬い祀れば きっと平穏にするであろう」

天皇は問う
「このようにおっしゃるのは どちらの神ですか」

声は答える
「私は倭国(ヤマトノクニ)の域内(サカイノウチ)にいる神 名を大物主神(オオモノヌシノカミ)という」

神の語(ミコト)を得て 教えのままに祭祀奉り
けれども なお 験(シルシ)は無く

天皇は 沐浴齋戒(ユカハアミモノイミ)して 宮殿を清め 祈りました
「私の神を敬うことがまだ不充分なのでしょうか どうしてこれほどに受け入れて頂けないのでしょう また夢の中で教えていただき 神恩をお垂れ下さい」

この夜の夢に一人の貴人が現われ そして殿戸に向って 大物主神と名乗り告げた
「天皇(スメラミコト) 憂えなさるな 国が治まらないのは 私の意によるもの もし我が子 大田田根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば たちどころに国は平穏になるだろう また海外(ワタノホカ)の国は自ら降伏するだろう」

秋八月七日

 倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)穂積臣(ホヅミノオミ)の先祖である大水ロ宿禰(オオミクチスクネ)伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人が 共に同じ夢をみて申し上げた

「昨夜 夢をみました
一人の貴人が現れ 教えて言われたのは
大田田根子命(オオタタネコノミコト)に 大物主神を祀る主(カムヌシ)とし 市磯長尾市(イチシノナガオチ)を (ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)すれば 必ず天下太平となる』と言われました」

天皇は夢の辞(コトバ)を得て ますます喜ばれた

布(アマネ)く天下(アメノシタ)に命じ 大田田根子(オオタタネコ)を探した
すぐに茅渟縣(チヌノアガタ)の陶邑(スエムラ)に大田々根子(オオタタネコ)を見つけました

天皇は自ら 神浅茅原(カムアサジハラ)に出向いて 諸王卿(オオキミタチマツヘツキミタチ)と八十諸部(ヤソモロトモノオ)が集まって 大田々根子(オオタタネコ)に尋ねました
「お前は一体誰の子か」

大田田根子は答え
「父は 大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)といい
母は 活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といい(活玉依媛は)陶津耳(スエツミミ)の娘です」
他の言い伝えでは「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」

天皇は
「ああ 私は栄えるであろう」

すぐに 物部連(モノノベノムラジ)の祖先の伊香色雄(イカガシコオ)を神班物者(カミノモノアカツヒト)にしようと占うと「吉」と出ました
ついで他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出ませんでした

十一月十三日

伊香色雄(イカガシコオ)に命じ 物部(モノノフ)は八十平瓮(ヤソヒラカ)で神に奉るものを作りました
それで大田々根子を大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)を祀る主(カムヌシ)としました

また 長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)としました

その後 他の神を祀ろうと占うと「吉」と出ました すぐに別に八十萬群神(ヤソヨロズノモロカミ)を祀りました
天社(アマツヤシロ)・国社(クニツヤシロ)・神地(カムドコロ)・神戸(カンベ)を定めました

すると疫病が止みはじめました
国内がようやく鎮まりました
五穀(イツツノタナツモノ)が稔り 百姓は賑やかになりました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

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国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

市磯長尾市が 大倭氏の祖であることを記すと共に 当初渟名城稚(入)姫が祀っていた地が「穴磯邑」の「大市長岡岬」であることが記されています

【抜粋意訳】

日本書紀 巻第六 活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト) 垂仁天皇

・・・
・・・

即位二十五年三月十日

・・・・

一書に曰く

天皇は 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ)とし 天照大神に奉りました
倭姫命は 天照大神を磯城(シキ)の嚴橿(イツカシ)の根元に祠を鎮座祀りました

その後 神の教えに随い 即位二十六年冬十月 伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました

このとき 倭ノ大神は
穂積臣(ホズミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチノスクネ)に降りて曰く
「太初(モトハジメ)のときに約束した『天照大神は 天原(アマハラ)を収め その天照の子孫の皇御孫尊(スメマミコト)は 葦原中国(アシハラナカツクニ)の八十魂神(ヤソタマノカミ)を治め 私(倭大神)は 大地官(オオチツカサ)を治めよう』 言葉はそれでお終い しかし 先代の御間城天皇(ミマキスメラミコト)は 神祇を祭祀(イワイマツリ)したが 微細(クワシク)はその源根(モト)を探らず 粗(オロソカ)に枝葉(ノチノヨ)に留めた 天皇の命は短い それで今の天皇は前の天皇が出来なかったことを悔いて慎み 祀れば 天皇の命は長く また天下は太平になる」

天皇はその言葉を聞いて
すぐに中臣連(ナカトミノムラジ)の祖の探湯主(クカヌシ)に言って 誰に大倭大神(ヤマトオオカミ)を祀らせるべきかを占わせました

渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)が占いに出ました この姫に神地(カムドコロ)を穴磯邑(アナシノムラ)に定め 大市(オオチ)の長岡岬(ナガオカノサキ)を祀りました しかし この渟名城稚姫命(ヌナキワカヒメノミコト)は身体が病み弱り 神を祀ることはできない状態となり そこで 大倭直(ヤマトノアタイ)の祖の長尾市宿禰(ナガオチノスクネ)に命じて祀らせました

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

国立公文書館デジタルアーカイブ『日本書紀』(720年)選者 舎人親王/刊本 文政13年 [旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047528&ID=M2017042515415226619&TYPE=&NO=画像利用

大和神社について(川畑 信雄)

大和神社HPに詳しく掲載されています

http://ooyamatohp.net/yurai.html

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR桜井線 長柄駅から北東方面へ約1km 徒歩15分程度

大和神社天理市新泉町に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 参道を進むと途中 境内社 増御子神社にお参りをします

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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社殿の向かって左には 境内社 高龗神社

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 大和坐大國魂神社三座 並名神大月次相嘗新嘗について 所在は゛新泉(ニヒヅミ)村に在す、大和大明神と称す゛〈現 大和神社天理市新泉町〉とし
鎮座については 『日本書紀』崇神天皇 天皇が神威をおそれ 天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき 皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して 市磯邑(大和郷)に移されたのが当神社の創建であると伝えられている

【抜粋意訳】

大和坐大國魂神社三座 並名神大月次相嘗新嘗

大和は於保夜末止と訓べし、和名鈔、郷名部城上郡大和、假字上の如し大國魂は於保久爾多麻と訓べし、

○祭神 大國魂神、大歳神、須沼比神、

○新泉(ニヒヅミ)村に在す、大和大明神と称す、大和志、同名所図会、例祭四月朔日、

〇式二、四時祭下相嘗祭神七十一座、〔中略〕大和社三座、』
 同三、〔臨時祭名神祭二百八十五座、〔中略〕大和國火和神社三座、』
 同祈雨祭神八十五座並大云々、大和社一座、

○江家次第、祈年穀奉幣大和、五位
廿二社注式云、中七社大和、〔〕使五位一人、幣一前

○古事記、〔神代段大年神娶神活須毘神之女、伊怒比売、生子大國御魂神、』
事紀、地神本紀大年神、娶須沼比神女、伊怒姫為妻、生児大國御魂神、大和神也、

〇姓氏録、大和國神別大和宿禰、出自神知津彦命也、神日本磐余彦天皇、從日向國向大倭國、到速吸門時、有漁人神垂艇而至、天皇問曰汝誰也、対曰臣是國神、名宇豆彦、聞天神子來、故以奉迎、即牽納皇船、以為海導、仍号神知津彦、一名推根津彦〕能軍機之策、天皇嘉之、任大倭國造、大倭宿禰始祖也、

類社

山城國久世郡水主神社の下見合すべし

鎮座 祭祀

日本紀、
崇神天皇年、先是天照大神、和大國魂二神、並祭於天皇大殿之内、然畏其神勢共住不安、〔中略〕日本大國魂神、託淳名城入姫命、使祭、然淳名城入姫髪落体疲而不能祭、』

月癸卯朔己酉、倭述々神浅茅原目妙姫、穗積臣遠祖大水口宿禰、伊勢麻績君、三人共同夢而奏言、昨夜夢之有一貴人、誨曰、〔中略〕市磯長尾市為祭倭大国魂神之主、云々、」

同年十一月丁、命伊香色雄、而似物部八十手所作祭神之物、〔中略〕長尾市為祭倭大國魂神之主、然後卜祭他神、吉焉、」

同紀垂仁天皇巻、一云、天皇以倭姫命為御杖、貢奉於天照大神、〔中略〕是時倭大神、著穂積臣遠祖大水口宿彌、而誨之曰、太初之時期曰、天照大神、悉治天原、皇御孫尊、専治葦原中国乏八十魂神、我親治大地官者、言已訖焉、〔中略〕時天皇聞是言、則仰中臣連祖探湯主而卜之、誰人以令祭大倭大神、即淳名城稚姫命食ト焉、同以命淳名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬、然是淳名城稚姫命、既身躰悉痩弱以不能祭、是以、命大倭直祖長尾市宿禰令祭矣、

神位

文徳実録、嘉祥月辛亥、進大和國大和大國魂神階授從二位、』
三代実録、貞観元年正月ら二十七日甲申、奉授從二位勲三等大和大國魂神從一位、

官幣 神

日本紀、持統天皇月庚寅、遣使者奉幣于大倭大神、
同年十二月甲申、遣大夫等奉新羅調於大倭、』
三代実録、貞観元年九月八日庚申、大和国大和神、遣使奉幣、爲風雨祈焉、」
十二二十二日壬申、是日遣朝使築河内國堤、恐成功未畢重有水害、由是奉幣大和國大和神、祈無雨労、以河内水源出自大和國也、

神戸

東大寺所蔵天平廿日大税帳に、大倭神戸稻九百七拾九束、租玖袷貮束、合壹千七拾壹束、用壹百七束(祭料四束、神搬酒料百束、)残玖百参拾漆束、

社職 氏人

日本紀、崇神天皇十一月丁卯、以長尾市、為祭倭大國魂神之主、」
続日本紀、天平十一月壬辰、宴群臣於中宮、散位正六位上大倭忌寸小東人、大外記從六位下大倭忌寸水守二人、賜姓宿禰、自余族人連姓、爲有神宜也、」同十九月丁卯、大倭神主正六位上大倭宿禰水守、授從五位下、

雑事

続日本紀、天平宝字月己巳、勅曰、得大和國守從四位下大伴宿禰稻公等奏称、部下城下郡大和神山生、奇藤、其根虫彫成文十六字、王大則并天下人此内任大平臣守臭命、即下伝士議之、咸云、臣守天下、王大則并、内任此人、臭命大平、此知、群臣尽忠、共守天下、王大覆載、無不兼併、聖上挙賢、内任此人、臭天報徳、命其太半者也、加以、地即大和神山、藤此当今宰輔、事已有効、更亦何疑、恭愛天観、還恐不徳、呼哉卿士、戒之愼之、敬順神教、各修爾職、勤存撫育、共致良治、云々、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 大和坐大國魂神社三座 並名神大月次相嘗新嘗について 所在は゛今 新泉村にあり゛〈現 大和神社天理市新泉町〉と記しています

【抜粋意訳】

大和坐大國魂(ヤマトニマスオホクニタマノ)神社三座

 新泉村にあり、〔大和志、石和聞見志、名所図会、〕
建速須佐之命の子 大年神の子 大國御魂神をまつる、〔参取日本書紀、古事記、舊事本紀〕

八尺を以てとす、〔大和注進状〕
盖 此神 倭國を經営坐し功德ある神なるを以て、朝廷にも殊に深く尊み崇奉れり、故之を大倭大神と申す、参取日本書紀、古事記、舊事本紀大意〕
〔〇按 出雲風土記に、此神 意宇郡飯梨号に天障坐すことみゆ、此は大穴貴命 天神に帰順奉り、天上に参上り坐時、此神も従奉りしす、降坐しなるへし、且 大穴貴命 天下を經営玉へるを以て、大國玉命と稱奉るを、此神も大倭大國魂神と申すは、或は彼神を助けて殊に倭國に功徳ありし事著し、姑附て考に備ふ〕

初 大國魂神を天皇天殿の内に斎奉り、崇神天皇に及て、甚く神威を畏給ひ、淳名城稚媛命に託て之を市磯邑に遷祭らしむ、〔日本書紀市磯邑、據大倭社注進状〕

相殿二座、
其一は 大年神の兄 八島士奴美神五世孫 八千戈神を祭る、〔古事記、大倭社注進状〕八千戈神は即 其霊形とす、〔参取日本書紀、大倭社注進状

其一は 大年神の子 御歳神を祀る〔古事記、大和社注進状〕垂仁天皇御世、大和直 祖 長尾市を神主とせは、天下太平ならむと神教給ひき、故長尾市を以て倭大國魂を祭る神主とす、〔日本書紀〕此後 大倭氏 世々其祭を掌りき、〔日本書紀、續日本紀〕

持統天皇六年四月庚寅、幣を奉て藤原宮を造る由を告し、二月甲申、新羅の調物を奉り、〔日本書紀〕
聖武天皇天平二年、神戸租稲ー千四十餘束を以て、祭神及神嘗酒料に充しめ、〔東大寺正倉院文書〕
孝謙天皇天平勝寶元年十一月甲辰、大和、尾張、常陸、安藝、出雲・武藏の地三百二十七戸を神封に寄奉り、〔新抄格勅符〇按 本書廿七戸を奉る年月詳ならず、〕
文德天皇嘉祥三年十月辛亥、神階を進めて從二位とし、〔文徳実録〕
清和天皇貞観元年正月甲申、從二位勲三等大和大國魂神に從一位を授け、九月庚申、祈雨の爲に幣使を奉り、十二年七月壬申、幣帛を奉て河西堤を築に重て水澇の患なからむ事を祈る、河内の水源大和より出るを以て也、〔三代実録〕
宇多天皇寛平九年十二月甲辰、大利大國魂神に正一位を授け奉り、〔大倭社注進状引新國史
醍醐天皇延喜の制、三座並名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣、及祈雨の幣帛に預る、〔延喜式〕
鳥羽天皇元永元年二月乙酉、火災に依て神殿三宇、及霊形みな焼失給ひき、〔中右記、百錬鈔、卜部兼文勧文〕

每年四月朔日、祭を行、神輿中山に幸す、近隣九村共に之を祭る、〔石和聞見志、大和志〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 大和坐大國魂神社三座 並名神大月次相嘗新嘗について 所在は゛新泉村゛〈現 大和神社天理市新泉町〉と記しています

創建の由来 御祭神についても伝承が記されています

【抜粋意訳】

大和坐大國魂(オホヤマトニマスオホクニタマノ)神社三座 並名神大月次相嘗新嘗

祭神

大國御魂(オホクニタマノ)神
八千戈(ヤチホコノ)神
御歳(ミトシノ)神

今按 大倭神社注進狀に 大倭神社在大和國山邊郡大倭邑 蓋出雲杵築大社之別宮也 傳聞 倭大國魂神者 大已貴神之荒魂與和魂刷力ー心經営天下之地建得大造之績在大倭豊秋津國守國家 因以號 倭大國魂神 亦曰大地主神以八尺瓊爲 神體奉齊焉云々
相殿神二座
八千戈神 御歳神 傳聞八千戈神者 大已貴命以廣矛爲杖令撥平 豊葦原中國之邪鬼 是時大已貴命號曰 八千戈神云々
御歳神者 守護禾穀神也 是以八握厳稲と爲 神體云々とあるにて 祭神は明かなり
扨古事記に大年神 娶活須昆神之女 伊怒比賣生子 大國御魂神 舊事記に大年神 娶須沼比神女 伊怒姫爲妻生兒 大國御魂神大和神也とあるによるときは注進狀の説と異なるに似たれど今は注進状によれり

神位

持統天皇六年五月庚寅遺ニ使者奉ニ幣ヲ于大倭大神 十二月甲申遺ニ大夫等ヲシテ 奉ニ新羅調ヲ於大倭
文徳天皇嘉祥三年十月辛亥進ニ大和國大和大國魂神ニ階授ニ從二位
清和天皇貞観元年正月二十七日甲申 奉授ニ從二位動三等 大和大國魂神ニ従一位

祭日 四月朔日
社格 (官幣大社)

所在 新泉村(山邊郡朝和村大字新泉)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

大和神社天理市新泉町 (hai)」(90度のお辞儀)

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大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

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