荒舩山神社 里宮(あらふねやまじんじゃ さとみや)は 御神体山「荒船山(arafune yama)」に 神が宿る「神奈備(kannabi)」として祈りを捧げる里人が 山頂に登らずとも 里でお詣りが出来るように 設けられた宮です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
荒舩山神社 里宮(arafuneyama shrine)(佐久市)
(あらふねやまじんじゃ さとみや)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
長野県佐久市内山字相立2576
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建御名方命(takeminakata no mikoto)
《配》八坂斗売命(yasakatome no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・諏訪大社の元宮との説もあり
【創 建 (Beginning of history)】
不詳
【由 緒 (history)】
荒船山神社 由緒
荒船山神社(あらふねやまじんじゃ)の御祭神は、信濃国一の宮の諏訪明神である建御名方命(大国主命の御子神)です。
[信濃地名考上編倭名抄。諏訪郡]に「按ニ諏訪郡ハ天平年中(729-748)普省(中)ニ定メタル地区ナリ其ノサキ佐久小県筑摩伊奈ノ四郡ニワタッテ州羽ノ域最モ広シト思ワル、或曰イト上津代(大昔)ハ諏訪神社佐久郡ニ在トゾ、造郡(郡が定まった頃)ノ以前サモアリケルヤ、世伝ニ坂上田村麿悪賊退治ノ願ニヨリテ諏訪社ヲ建ラルト云々。」[国史]ニ桓武帝延暦20年(801)征夷将軍坂上田村麿征東夷」とみえます。
要するに 建御名方命 諏訪神本社は、田村麿が諏訪社創建以前は佐久郡にあったとしています。
[古図荒船山]に「草も木もみな緑なる深ぜりには荒船の宮白く見ゆらん輔相」この輔相(すけみ)という公は摂政藤原良房(貞観十四年死)の弟大蔵大輔當興の子で藤原輔相(治部少輔)のことです。
内山(うちやま)大間の荒船山神社神職である小間澤家墓地より掘り出された墓碑に「小間兵部助藤原信安、天長二歳六月」と刻字が読めます。
治部少輔の輔相と行政面で何か関係があると思われます。[武田信玄墨付]朱印<信虎>・朱印<虎の絵>建御名方命。
当社神事祭礼の際社中に於て狼藉する者があらば すぐにつかまえて時の将軍に訴え出なさい。(本文和漢混合文の訳)永禄2年に信濃大守となっている武田信玄も荒船明神の祭典(註、当日一般は内山へ馬は入れてはならぬ定)の狼藉は取締りが出来なかったのです。[古図平賀成頼勢力図朱印領]「五拾貫文・神主大間兵庫助,八幡宮神領,荒船大明神両所」(神殿は何れも大間にあります)荒船山神社は創建年代は明らかではありませんが、吉田家より正一位大明神を裁許され、皇室に関係していたお宮だと推定され、今も御神幸並に相立の遥拝殿にて探湯(くがだち)神事と舞を荒船山を拝して奉納しています。
境内案内書より抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・正八幡宮(sho hachimangu)
《主》誉田別命(homutawake no mikoto)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
荒船大明神(arafune daimyojin)について
群馬県甘楽郡下仁田町と長野県佐久市に跨る「荒船山(1423m)」をご神体山として祀る神社で 荒船山頂には 石祠「奥宮」が鎮座しています
その山容は 荒波を割って進む船を思わせることから その名が付けられたと云われています 頂上部が南北約2km東西約400mの平坦な台地のような安山岩が切り立っている崖となっています
群馬県・長野県には 荒船山の名を冠した社寺等がいくつもあります
荒船神社 里宮(下仁田町)は 荒船山の北東麓にあたる相沢登山口に里宮(山頂の奥宮に対する)として鎮座しています
群馬県側の 荒船神社 里宮(下仁田町)の記事もご覧ください
長野県側にも別の里宮(荒舩山神社)がありますが 御祭神は違います
群馬県側の里宮 当社は「経津主神(futsunushi no kami)」
長野県側の里宮 荒舩山神社は「建御名方命(takeminakata no mikoto)」を祀ります
荒船山には 神代に この2柱の神が互いに争い激しい戦闘があったと伝えています
この2柱の神が 陣営を張った場所が 群馬側と長野側に別れていて 現在でも そのままの配置で祀られていることに感慨があります
[日本名蹟図誌]に
「経津主命(大和朝廷方)と建御名方命(国津神方)と神戦あり千曲川の水が七日間血に染まった」とあり この図誌からも佐久は激戦地だったと推定されます 写真は山間の平地「佐久」です
「荒舩山神社 遙拝所(arafuneyama shrine yohaijo)」について
「荒舩山神社(arafuneyama shrine)」は
「奥宮(okumiya)」と「里宮(satomiya)」の中間点にあたる 相立地区に 遙拝所(yohaijo)が配置されています
この遙拝所は その名の通り 御神体山「神奈備(kannabi)」として 神が宿る「荒船山(arafune yama)」を遥拝する場です
「荒船山(arafune yama)」を見立てた 神降る場として「磐座(iwakura)」が設置されています
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
中込駅から 県道120号経由 約4.4km 車10分程度
車道の脇に幟旗 二基の石灯籠と赤い両部鳥居が建っています
鳥居をくぐり そのまま参道を進むと 鎮守の杜に至ります
荒舩山神社 里宮(arafuneyama shrine)(佐久市)に到着
手前に建つのが 神札授与所です 奥に社殿が見えます
境内の階段を上ると拝殿 が2つ建ちます
大きいほう(向かって右側)が 荒舩山神社 里宮
小さいほう(向かって左側)が 正八幡宮
元々は 正八幡宮の境内であったのですが 火災で社殿を喪失した荒舩山神社が この地に遷座したとのことです
各々の拝殿にすすみます
階段の上に三扉の本殿が「正八幡宮」
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
正八幡宮本殿の右手にある入母屋造の社殿が 荒船山神社 里宮の拝殿
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内から森の中に続く整備された小道があります
突き当りに御幣の奉じられている神域があります
どうやら ご神水が湧いて 竹筒から流れ出ています
改めて お清めです
森の小径を戻ると 再び境内に出ます
参道を戻り 赤鳥居をくぐり 振り返り一礼
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
境内の案内書より抜粋
建御名方神(takeminakata no kami)と経津主神(futsunushi no kami)について記されています
[下仁田町誌]によりますと「建御名方命と経津主命との戦いは、最終的には荒船山が倭朝軍と国神軍との和議成立の場であったとして、今も荒船山中央部に「皇朝古修武之地」と高さ約2.8メ-トルの石柱碑が建立されています。
[日本名蹟図誌]に「経津主命(大和朝廷方)と建御名方命(国津神方)と神戦あり千曲川の水が七日間血に染まった。」とみえ、この図誌からも佐久は激戦地だったと推定されます。
経津主命を祀る 群馬県側にある もう一つの 里宮 荒船神社 の記事をご覧ください
「インドから渡来した姫」と「諏訪神」との恋について
[神道集延文3年(1071)安居院著]の諏訪明神の章を訳文してみますと次のようです。
「好美女という印度の王様の第三姫がおりました。父は隣国の王に攻め亡ぼされ姫も敵王に囚われ妃とされそうになり、逃れて船で我国に来て笹岡郡(さこぐん=佐久郡)笹岡山(さこやま=荒船山)に来て船を山の峰にうつぶせにし、その周囲に鉾(柵か)をさか立てて住み、火の雨降らすを防ぐ(巫)と誓って笹岡山を守っていました。
安閑天皇の御代(535-536)諏訪神が姥のいる日光男山に通ううち磐船を守る好美女と良い仲になり互に相見上りつつ夫婦となり給えば、諏訪神の妃の下諏訪の神腹立てて嫉妬の由聞こえて、諏訪神はやむなく甘楽(上州)笹岡尾崎に社を建てて住み、好美女一人この磐船守るべしとして笹岡山に留め、今の世に荒船明神と申す即ちこれなり。」
日本武尊の伝承と それを聞かれた足利将軍の御神幸の始まり
(本文和漢混合文)明治36年内務省神社局差出文書控によりますと、当社荒船山神社は近郷十二か村と入会の郷社で、徳川時代中期には正一位大明神でした。
諏訪明神は信濃一の宮であり この御祭神建御名方命と荒船明神は一身同体の神であり、雨乞すれば神徳の験かならずあり、農家の経営に偉功を現す神様です。
景行天皇40年(140)、信州と越の賊皇室に随ず、日本武命甲斐の北武蔵、上野と転戦し信州界碓日(うすい)坂に来て山高く谷深く人は杖に倚り馬は頓き日本武命も渇し水を求めても無く、若丸君を荒船明神に遣し、やっと荒船本沢の清水を得て命に差し上げ、命も甘き水と嬉ばれ若丸君を再度荒船明神に遣して感謝され、この旧蹟今も一杯水と称してあり、祈雨の御神水で必ず験無しということなし。近郷の村々より請願する者多く、この神徳遠くへも聴えて、
延徳元年(1489)足利東山将軍 義政公 深く当社を崇敬し、葵の御紋金幣を納められ、祭典御神幸の際に仮殿(大間、おおま)より一の鳥居(相立、あいだて)まで御輿の前に真榊を立て、木綿(御幣)に御紋を附し神前に供えるを例とし、4月28日と9月20日に御神幸を実施していました。明治元年新政府となり禁止され、以後この御紋は用いず、明治3年焼失してしまいました。
足利義政とは室町幕府将軍で、一四八三年京都の東山に山荘を建て住んでいましたが、死後遺命によって銀閣寺とした将軍で、下賀茂神社の葵祭りに大いに力を入れていました。
この御祭神は賀茂別雷命母、玉依姫外祖賀茂建角身命を祀り、神武天皇東征の際に八咫烏となり天皇を案内導き、又勅命により兄磯、弟磯に降参するよう勧めた古事に例ってか、荒船神に捧げたと思われます。
御神体山「神奈備(kannabi)」として 神が宿る「荒船山(arafune yama)」へ祈りを捧げる里人が 山頂に登らずとも 里でお詣りが出来るように 設けられた宮です
荒舩山神社 里宮(arafuneyama shrine)(佐久市)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
群馬県側にある もう一つの里宮 荒船神社 の記事をご覧ください