大間國生神社(おおまくなりじんじゃ) 〈豊受大神宮(外宮)摂社〉は 延喜式内社 伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)です 『倭姫命世記』に゛雄略天皇二十二年(478)の條に大若子(オホワカゴ)命の社を定む 大間社是なり゛とあります 中世に廃絶し 江戸時代に現在地に祀られました 玉垣内には 正殿が二殿〈大間社(祭神・大若子命)國生社(祭神・乙若子命)〉あります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
大間國生神社(Ohomakunari shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市常磐一丁目5番
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大若子命(おおわかこのみこと)
乙若子命(おとわかこのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈豊受大神宮(外宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮要綱』〈昭和3年(1928)〉に記される内容
【抜粋意訳】
大間國生神社
鎮座地 宇治山田市大字常磐町
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・貮宇
玉垣御門 猿頭門、板扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司庁造替大間國生神社も亦、止由氣太神宮儀式帳 所載造宮使造替三社の一にして、延喜大神宮式及び神名式に見えたり。
其の創立については、倭姫命世記 雄略天皇二十二年の條に大若子(オホワカゴ)命の社を定む、大間社是なりとあり。
然るに神名祕書及び神祇本源所引の社記には、本社の祭神を大若子命と弟(オト)(乙)若子(ワカゴ)命との二柱と爲せり。弟若子命は大若子命の弟にして、一名を小若子命とも、亦 加夫良居(カブラコ)命とも稱せり。皇大神宮御鎭座當時に於ける二命が神忠の事蹟は、倭姫命世記及び神名祕書等に載す。
後功を以て大神主職に補し神國造を兼ね、子孫其の職を世襲し、天武天皇朝更めて豊受大神宮禰宜に補せられ、以て明治維新に及ぶ。
所謂 度會氏なるもの是なり。中世殿舎頽廃せしを、正保二年一禰宜常晨草奈伎社と共に本社を再興したり。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神都之栞』〈昭和3年(1928)〉に記される内容
【抜粋意訳】
〇大間國生神社(オホマクナリノジンジャ)、
草奈伎神社(クサナギノジンジャ)共に山田上口驛の附近に在り、豊受大神宮 攝社の首班にして、大間國生社は、神國造兼大神主 大若子命 並に其の弟にして、同職を継げる乙若子命を祭る、
草奈伎社は、垂仁天皇の御代、越の國に凶賊発起し、大若子命勅令を承けて討平せし時、下し賜はりし標の劔を鎭め祭る、草奈伎の號は、 日本武尊の實劍に比へて、後人の稱せしものなりといふ。
【原文参照】
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・大間国生神社と草奈伎神社は 同じ社地に鎮座します
・草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
・大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
豊受大神宮(外宮)の摂社です
・豊受大神宮(外宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社 右諸社,並預祈年、神嘗祭。以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 大間國生神社
[ふ り が な ](おほまの くなりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ohoma no kunari no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・内宮・外宮の別宮・摂社・末社について
・お伊勢さん125社について
゛國生神(くなりのかみ)゛について
『延喜式』には「國生(くなり)」を号する式内社が五社(・狭田国生神社・坂手国生神社・川原坐国生神社・大間国生神社・国生神社)あります
何れも 伊勢國の式内社で 神宮と深く関わっています
しかし 御祭神は 神社ごとに別々で 特定の御神名ではありませんので 各々の地域の地主神に対する美称であろうと考えられています
すなわち 國生神(くなりのかみ)とは ゛国土に生まれでた神゛゛国を生む神゛の意で ゛國魂神(くにたまのかみ)゛の如く そこを支配し國土の生育を司っている神が 國生神(くなりのかみ)であろう とされます
式内社〈伊勢國〉の中で゛國生神(くなりのかみ)゛を号する五つの社
①伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)
・狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
②伊勢國 度會郡 坂手國生神社(さかての くなりの かみのやしろ)
・坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
③伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)
・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
・須原大社(伊勢市一之木)
〈高河原神社の旧社地〉
④伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)
・大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
⑤伊勢國 多氣郡 國生神社(くなりの かみのやしろ)
・鳥墓神社(明和町簑村字鳥墓 )
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 山田上口駅から南へ約160m 徒歩2分程度
鎮守の杜は 住宅地の中に木々に囲まれた境内があり 社頭入り口は 境内の南東にあります
大間國生神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に参着
境内には 豊受大神宮(外宮)摂社が二つ鎮座します
一つが゛草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)゛
一つが゛大間國生神社(おおまくなりじんじゃ)゛です
ですので 社号の石柱にも
゛草奈伎神社・大間國生神社 社域゛と刻字があります
一礼をして 境内に入ると
その先の境内には 二つの神社
向かって右が゛大間國生神社(おおまくなりじんじゃ)゛
向かって左が゛草奈伎神社(くさなぎじんじゃ)゛
参道の中央には石積みがあります
この石積みは 蕃塀(ばんぺい)のようなものなのでしょうか?
〈蕃塀とは 神社の参道上にある塀で 社殿を直視できないようにするため あるいは不浄なものの侵入を防ぐために造られたとされます〉
それとも 蕃塀ではなく 上には玉砂利が敷かれているので 何か神事に関係するのでしょうか?
さらに 大間國生神社に進むと
玉垣内には 正殿が二殿あります
向かって右が 大間社(祭神・大若子命)
向かって左が 國生社(祭神・乙若子命)
二殿を合せて 大間國生神社となります
大間國生神社の
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待つ〉
横を見ると草奈伎神社が鎮座しています
草奈伎神社については
・草奈伎神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
社殿に一礼をして 境内を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 大間國生神社について 所在は沼木郷山田村 俗云大間廣に在す〈現 大間國生神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
大間國生神社
大間は於保麻と訓べし、國生は前に同じ、
○祭神 大若子命、乙若子命、
○沼木郷山田村 俗云大間廣 に在す、神名略記
○式四、伊勢大神宮 度曾宮所摂十六座の第三に載す、
○御鎮座本紀云、大若子命、一名大幡主命、御間神社是也己、」
禰宜補任云、大若子命、一云、大幡主命、彦久良為命第一子也、越國荒振凶賊阿彦在天不從に皇化、取平仁罷止詔天、標劒賜遣支、即幡主罷行取平天返事白時、天皇歓給天、大幡主名加給支、皇太神宮鎭坐伊勢國五十鈴河上宮之時、御供仕奉爲大神主、」
又云、乙若子命、大若子命弟也、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇三代之御世、大神主仕奉、」
神名略記云、東大間、西國生正殿二区、同玉垣、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 大間國生神社について 所在は上中郷大間廣 に在す〈現 大間國生神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
大間國生(オホマクナリノ)神社
今 上中郷大間廣にあり、神名秘書、神境紀談
蓋 大若子命、乙若子命を祀る、神名秘書、大若子命、垂仁天皇御世、越國 荒振凶賊 阿彦ありて、皇化に従はす、取平に罷れと詔て、標劍を賜ふ時に、即幡上て罷行取平て、返事白しき、天皇歓給て大幡主命と云名を加給ひき、豊受宮禰宜補任次第
乙若子命は、息長足姫命 韓国を給ふ時、鳴鏑矢奉るを以て、加夫良居命と云名を給ひ、兄弟みな豊受宮大神主 仕奉り、神名秘書、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 大間國生神社について 所在は宇治山田市山田大字常磐〈現 大間國生神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
大間國生神社
祭神
祭日 六月九月十二月並十八日社格 外宮所攝十五所之一 (内宮攝社 )
所在 三重縣沼木郷山田大間廣 (宇治山田市山田大字常磐 )
【原文参照】
大間國生神社〈豊受大神宮(外宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)