定神社〈佐田神社〉(さだじんじゃ)は 明治44年 地域の神社を荻原神社に合祀 佐田神社と改称 昭和28年 宮川ダム築造でダム湖に沈む集落の地より現在地に遷座゛定神社゛と改称 前身の成立ちは・奥定(榎村神社)・中定(中の宮)・口定(定古清宮・萩原神社)の三神社で その内の・奥定(榎村神社)は榎村神社・口定(定古清宮・萩原神社)は荻原神社と 二つの式内社論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
定神社(Sada shrine)
【通称名(Common name)】
・佐田神社(さだじんじゃ)
【鎮座地 (Location) 】
三重県多気郡大台町檜原字向假屋 608-2
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》須佐之男命,田心姫命,湍津姫命,市杵島姫命,木花開耶姫命,大山津姫命,天津彦根命,大日孁貴命,国津常立命,活津彦根命,面足之尊,武甕槌命,埿土煮命,大苫辺尊,伊弉諾尊,大山祇命,天穂日命,国狭槌命,豊斟渟尊,天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊,彦火火出見命,高皇産霊命,宇迦之御魂命,彦波瀲武鸕鷀草葺不合命,木花知流姫命,熊野櫲樟日命,正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・疫病除け•文学・学問上達•縁結び 他
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
定神社
祭 神 主祭神 須佐え男命 他二十六座
御神徳 ・疫病除け•文学・学問上達•縁結び 他
由 緒
当社の創始は、詳らかではないが文徳天皇の時代、天安二年 (八五八 )に文徳実録にヨシ八ラの記述があり、天保七年 (九五三 )に「併式内」とあることから今から千年以上前に創始されたと考えられる また足利義満公 (将軍職一三六八〜九四 )が伊勢神宮、参宮の際、大杉定の社へ御代参したとの記述も伺える。定神社の前身は、昔、奥定(おくさだ)(榎村(えむら)神社 )・中定(なかさだ) (中の宮 )・口定(くちさだ) (定古清宮(さだふるすみのみや)・萩原(よしはら)神社)の三神社である。
荻原神杜には社室として伝授された鉄製神楽釜に「大阪住人森田久右衛門敬白、清州定古清宮、慶長一三年 (一六〇八 )」とあり、江戸初期には定古清宮 と呼称されていたようで、一説にこの定古清宮が「延暦神明式」と「度会郡五八』に記戴されているようである。
元和五年 (一六一九 )徳川頼宣 (紀州藩主)の命により、大杉定の社(やしろ)と奥定を御祈願所に命じ大和谷上流 涼石岩屋(すずいしいわや)内の定古清宮を大和谷と宮川の合流点に社を造営•奥定と中の宮を合祀した。
これを萩原(よしはら)神社という。明治六年三月、大杉谷村の大杉、檜原(きそはら)、久豆(くず)、岩井四ケ字に祀られていた産土神「八柱神社」と称し それらを、明治四四年一月二七日に境内社と共に荻原神社に合祀の上、佐田神社と呼ぶようになった
明治四四年一月二七日には、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)供進社の指定を受けた。昭和二八年四月三日、宮川ダム築造に伴い、大字久豆鳥戸谷(とりどだに)の地より新屋敷に仮遷宮し、翌年六月七日に若山谷に正遷宮の上 社名を定神社と改めた。
尚、冒険家の松浦武四郎は ,明治一八年に未開拓の大台ヶ原を開拓。翌年二回目の登山の時に、奥定宮に参拝して炭焼小屋に泊り、その翌日中定宮に参拝して浅井八重之助宅に泊り、翌日は大杉明神・口定宮に参拜。その二年後七ー才の生涯を遂げている。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創始については詳らかにしないが、当社の前身である荻原神社に社宝として伝存した鉄製神楽釜に「大坂住人森田九右衛門敬白、勢州定古清宮、慶長13年(1608)とみえ、江戸初期には定古清宮と称されていたことが分かる。一説にこの定古清宮を『延喜神名式』と度会郡58座に登載の荻原神社に比定すに見方もなされている(『神名帳考証』)。
明治6年3月、大杉谷村の大杉、久豆、檜原、岩井四ヶ字に祀られていた産土社を各々八柱神社と改称し、それらを明治44年1月27日に境内社と共に荻原神社に合祀の上、佐田神社と単称。
尚、明治39年12月には神饌幣帛料供進社の指定を受けている。
昭和28年4月3日、宮川ダム築造に伴い、大字久豆鳥戸谷の地より字新屋敷に仮遷宮し、翌年6月7日若山谷に正遷宮の上、車名を定神社と改めた。
当社には御神体として天照大御神を象った神像(一木造り)、鏡、剣、棟札、石像などがあり、それらは五曳の舟の中に収められている。その中には掛け仏も含まれており、かつて神仏習合の風を存したことが窺える。三重県神社庁HPより
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内に祀られている大岩〈磐座か〉
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
葭原神が 官社に預ったことが記されています
【抜粋意訳】
卷十 天安二年(八五八)二月丙戌〈廿三〉
○丙戌
在に 伊勢國に 正六位上 葭原神は 預る官社に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
定神社は 二つの式内社〈①榎村神社②荻原神社〉の論社となっています
定神社の前身は 奥定(榎村神社)・中定(中の宮)・口定(定古清宮・萩原神社)の三神社から成り立っていて そのうちの二社が論社です
①榎村神社の論社〈奥定(榎村神社)〉
②荻原神社の論社〈口定(定古清宮・萩原神社)〉
①榎村神社の論社〈奥定(榎村神社)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 榎村神社
[ふ り が な ](えむらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Emura no kaminoyashiro)
②荻原神社の論社〈口定(定古清宮・萩原神社)〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小44座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 荻原神社(貞)
[ふ り が な ](おきはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Okihara no kami no yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 度會郡 榎村神社(えむらの かみのやしろ)の論社
・堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・荻原神社(大台町江馬)
・定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)
〈定神社の前身は 奥定(榎村神社)・中定(中の宮)・口定(定古清宮・萩原神社)の三神社 奥定(榎村神社)が論社〉
延喜式内社 伊勢國 度會郡 荻原神社(貞)(をきはらの かみのやしろ)の論社について
・葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉
・定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)
・根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈萩原神社の論社〉の旧鎮座地〉
・畠田神社(明和町中村)
〈畠田神社に合祀 根倉神社(明和町根倉)〈萩原神社の論社〉〉
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR紀勢線 船津駅から県道603号・53号を北上して34.3km 車で峠道を約90分程度
本来は JR紀勢線 三瀬谷駅方面から西へ進めば 道も良く約28km 車40分程度です
私は当日 熊野方面から道を知らずにR42号から 県道603号・53号へと北上しました
峠道と云っても舗装されていて対向車もなく 気楽に道を進みます
路肩に落石が続きます 湧水が流れます
今度は 路面は 落ちた枝で満ちていて路面が見えません
パンクしても仕方ないかな 大丈夫とか
だいぶ上がったようで 山々は下に見えます
一度も対向車とすれ違っていないので 道路状況は少し気がかり
峠のトンネルを抜けると標識に゛大台町゛とあり 少し安心
がけ崩れなのか? 沢なのか? 大石がゴロゴロ
道は再び 路肩に落石 路面は落ちた枝
大台町大杉に入ったようです
トンネルを抜けると大杉谷
大杉谷は 国の天然記念物とのこと
霊木の大杉を祀る 大杉明神〈大杉神社〉があるらしい
後で考えれば 立ち寄りたかった
宮川ダムを過ぎた所に ここから大台町゛久豆(くず)゛の標識があり あと少しだとわかります
大渕寺のスタジイと十一面観音菩薩の案内板があります
久豆の集落の入り口にある若山橋を渡ります
すると石の鳥居が見えてきます
定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)に参着
゛定神社゛の社号標のある 社頭の鳥居に一礼をして 参道をすすみます
沢のある小谷に沿って 5分程 参道を上ります
狛犬が座し 鳥居が建ち 定神社の境内のようです
木製の神明鳥居が建ち 木々に囲まれひっそりと静かな境内です
元々は ダム湖に沈んだ集落にありましたが 昭和29年に現在の場所に遷座しました
拝殿にすすみます
拝殿内には 玉砂利が敷き詰められていて 合祀の神々が記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 本殿が祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
社頭近くに祀られている 大岩は磐座だろうか?
若山橋を渡り 県道に戻ります
此処まで 峠道を無事に通過できたことを 神々に感謝
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 榎村神社について 所在・祭神ともに 不明で定かではないとし 或は ・江村の堅田社〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉・奥定村 江馬山〈現 荻原神社(多気郡大台町江馬)〉であろうと記しています
【抜粋意訳】
榎村神社
榎村は衣武良と訓べし
○祭神在所等詳ならず 或説云、今江村乎、奥定村乎、また奥定村江馬山は多気郡に属す、再興云、榎村を江馬といふはむらの約まりなり、社所在の江馬山は大杉谷奥定村なり、
連胤云、当社と上なる 礒神社とは、当郡中にて二所大神宮所摂の中に漏れたり、其事詳ならず、猶 礒神社の下見合すべし
【原文参照】
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在は 月読宮南に在す宇加屋社〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉とし
文徳実録 天安2年にすでに官社に預っているのに 延喜の伊勢大神宮式には載せていない これは疎漏である と記しています
【抜粋意訳】
葭原神社
葭原は與之波良と訓べし
○祭神 佐々津比古命、宇加乃御玉御祖命、伊加利比女命、
○月読宮南に在す、宇加屋社此乎、神名略記
○儀式帳云、未官帳社十五処の中に載す 大歳神兒佐々津比古命、形石坐、又宇加乃御玉御祖命、形無、又伊加利比女、形無、
官社
文徳実録、天安2年2月丙戌、在伊勢國正六位上葭原神預官社、連胤按るに、當社既に官社に預れり、然れば延喜の伊勢大神宮式には、大神宮所摂官社の中に入べきを、延暦の儀式帳に官社廿四処、とあるままを執て、後に當社の官社に加はる事の沙汰なきは疎漏也といふべし、往昔もかかる不調子の事ある、恐るべし、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 榎村神社について 所在について 二見郷 三津村 東江村の田畝中にあり堅田神社〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
榎村(エムラノ)神社
又 堅田神社と云、今二見郷 三津村 東江村の田畝中にあり、伊勢國式社検録
【原文参照】
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在について多氣郡根倉村 御玉社〈現 定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)〉としつつ
文徳実録には 〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
荻原(ヲギハラノ)神社
〇按 延暦儀式帳、文徳実録、に萩原を葭原に作る、
今 多氣郡根倉村 御玉社 蓋是也、伊勢式内社険録
大歳神兒 佐佐津比古命、加乃御玉御祖命、伊加利比女を祭る、佐佐津比古命形石に坐す、倭姫命 祝並 御刀代田を充奉りき、延暦儀式帳、
文徳天皇 天安二年二月丙戌、正六位上 葭原神官就に預る、即是也、文徳実録、
凡 本郡伊佐奈伎宮、伊佐奈彌宮、月讀宮坐荒御魂命三座 及 朝熊社以下 四十六座、並に齋宮祈年祭に預り坐神也、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 榎村神社について 所在について 三重縣二見郷江村の堅田神社〈現 堅田神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
参考として・多氣郡大杉村に榎村神社あり奥定社と云〈現 荻原神社(多気郡大台町江馬)〉があるが 確証がない と記しています
【抜粋意訳】
榎村神社 一云 堅田神社
祭神
今按 儀式帳に堅田神社 弘安九年 参詣記に佐美明神と云るは此社ならん故に定めて記せり祭日
社格 内宮所攝 廿四所之一所在 三重縣二見郷江村(度會郡二見町大字江村)
今按 度會縣注進狀に多氣郡大杉村に榎村神社あり奥定社と云 祭神大屋津姫命と云へど明證なければとらず
【原文参照】
式内社 葭原神社〈荻原神社〉について 所在は 度會郡北中村〈現 葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉〉とし その他の説を紹介しています
多気郡久豆村 荻原神社あり口定社と云〈現 定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)〉
又 根倉村と云〈現 根倉神社 跡地・國之御神社 跡地(明和町根倉)〉
【抜粋意訳】
荻原神社
祭神 佐々津比古命 大歳神兒
今按 荻原を大神宮儀式帳には葭原とあり 葭と萩と通はして用たるにや 儀式解に葭原はヲギハラとよむべしアシハラとよむはわろしと云り 姑附て考を俟つ
官社 文德天皇天安二年二月丙戌在 伊勢國 正六位上 葭原神 預官社
祭日
社格 (明細帳 葭原神社 皇大神宮末社とせり 度會郡北中村)(内宮末社)所在 (度會郡四郷村大字北中)
今按
度會縣注進狀に 多気郡久豆村 荻原神社あり口定社と云 祭神 須佐之男命とあり 式社調帳には矢野村川邊社の南にイカリノモリあり 積良村の地なり此地にやと云り
檢錄には儀式帳に祭神を佐々津比古命とす 佐々津葦原の所由を以て多氣郡根倉村の御玉社と云ふや當社なるべきとあり 大神宮儀式解には社地は奧定村 熊野と伊勢の界 大杉谷の邉 より九里はかりせまりにあり 深山中にて九里の間人家なしとあるは 奥定社を謂ふなり
又 同書に宇治中村月夜見宮の南にー小社あり これならんと云へど 此邊イカヒと云ひイカヒの森と云より 葭原神社にます伊加利比女より思ひよせたるにて從ひがたしとみえたれば 積良中村に處のイカリノモリと云もうけがたく
又 口定奥定二處も深山幽遼の地にて式社はあるましく
又 根倉村と云も 祭神の名より推當たる説なれば據がたし猶考べし
【原文参照】
定神社〈佐田神社〉(大台町檜原字向假屋)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)