吉野神社(宮津市文珠宮ノ谷)〈『延喜式』吾野神社〉

吉野神社(よしのじんじゃ)は もと智恩寺の鎮守社 三宝荒神でしたが 明治六年 神仏分離で智恩寺を離れ この地に新たに霊代を奉安し社号を改めました 又『神祇志料』に「須津村より文殊村に出る道を和野塙(わのはな)といふは吾野の訛なり」とあり 延喜式内社 丹後國 與謝郡 吾野神社(わかのの かみのやしろ)の論社でもあります

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

吉野神社(Yoshino shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

京都府宮津市字文珠小字宮ノ谷287番地

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》吉野大神(よしののおほかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

吉野神社(よしのじんじゃ)

宮津市字文珠小字宮ノ谷二八七

吉野神社は 江戸中期 享保時代 (ー八三三 )に智恩寺の鎮守社で三宝荒神として祀られていたが、明治二年 (一八六九 ) 神仏分離で智恩寺を離れ、この地に新たに霊代を奉安し明治六年二月 (一八七三 )当時の所官庁豊岡懸より文珠村の村社に列せられ吉野神社と改めた。

 本殿は、銅板葺の一間社流造で前方に幣殿と拝殿 (昭和十八年建立)が建つ。本殿・鳥居の扁額「吉野神社」の字体は、宮津藩城主•本荘宗秀の筆・縁の家紋は九目結。本殿中央にある龍の彫り物は江戸時代宮大工・彫物師 丹波柏原の六代目中井権次橘正貞による彫り物である。

 境内は、稲荷神社•廣峯神社・恵比須神社が祀られている。

平成三十年七月   吉野神社奉賛会

現地立札より

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【由  (History)】

『吉津村誌』昭和5年に記される内容

【抜粋意訳】

第貮章 文殊 第貮款 社寺 二、吉野神社

社格は村社にして大字文殊區の氏神なり。丹後與謝海圖誌、

荒神社 熊野山の麓にあり、文殊門前村の氏神なり。

社地卽ち吉野山の麓 通称 宮ケ谷の口にあり、舊と佛法僧の三實を守護すべき智恩寺の鎭守三實荒神なりしもの、維新の政變に神祇官復活して神佛剖判せられ慶應四 (九月八日改元明治元)年三月太政官布告 第百九十六號「佛像ヲ以テ神體卜致シ候神社ハ以來相改可申、本地唱へ佛語ヲ社前ニ掛ケ或ハ鰐口梵鐘佛具ノ類差置候ハ八早々取除可申」なる趣旨に基き、翌明治二年智恩寺の支配を離れて氏神となす。

・・・
・・・〈以下略〉・・・

【原文参照】

吉津村 編『吉津村誌』,吉津村,昭和5. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1212247

『与謝郡誌』上,大正12年に記される内容

【抜粋意訳】

三〇 吉野神社

吉津村字艾殊小字宮ノ谷、もと三寶荒神を祀りしも 維新の政變 神佛剖判により荒神の稱を廃せられたるまま 今に祭神不詳となす。
神祇志料には 吾野神社 今 須津村和我野にあり本村より文殊村に出る道を和野塙といふは 吾野の訛なりとあり亦參考となすべし。明治六年二月村社に列せられ吉野神社と號す、氏子五十九戶、祭同前、境内に稻荷小祠あり境外には宮津境の蛭子尾に惠美須神社あり。

 礒清水神社 ,天橋立公園内磯清水の傍にあり、橋立明神ともいふ。皇大神を祀り豊受大神 八大龍王を併せ祀るとなし、崇神天皇の朝に皇女 豐鋤入姫尊が皇大神を奉じて四年間鎭座されたる吉佐宮が固と文殊堂境にありしを堂宇擴張の爲めに今の橋立の濃松内に移され、正德年中 宮津城主 奧平公の再建に係るといふ現社殿は明治四十年四月の再建にて傍に軍艦橋立の献納したる砲弾二個あり、蓋し橋立艦新造成るや先づ天橋立に同航して橋立明神に謁せんとせしも、恰かも日清の國交破れて征途に上り、凱歌を奏して明治二十九年六月十九日其の戰利艦済遠號を率ゐて入港し、神祐謝恩の爲めに奉納しなるもの、卽ち此のカネー式三十二珊砲弾二個なり。

【原文参照】

京都府与謝郡 編『与謝郡誌』上,京都府与謝郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978724

京都府与謝郡 編『与謝郡誌』上,京都府与謝郡,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978724

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・〈境内社〉稲荷大明神・廣峯神社惠美須神社

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)與謝郡 20座(大3座・小17座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 吾野神社
[ふ り が な ](わかのの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Wakano no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 丹後國 與謝郡 吾野神社(わかのの かみのやしろ)の論社

・須津彦神社・須津姫神社(宮津市須津)

・吉野神社(宮津市文珠)

・加悦天満宮(与謝野町加悦)
〈天満神社境内社〉吾野神社

・上山神社(伊根町菅野)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

京都丹後鉄道宮豊線 天橋立駅から 駅の裏手に西南側へ廻り込むように約400m 徒歩での所要時間5~6分程度

吉野神社(宮津市文珠宮ノ谷に参着

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一礼をしてから鳥居をくぐり抜けて石段を上がります

拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 吾野神社について 祭神・所在は良くわかっていない と記されています

【抜粋意訳】

吾野神社

吾野は 和賀乃と訓べし

〇祭神在所等詳ならず゛

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 吾野神社について 所在は゛今 須津 和我野にあり、須津彦明神といふ゛〈現 須津彦神社・須津姫神社(宮津市須津)〉と記されています

又゛按 本村(須津)より文珠村に出る道を、和野塙といふは、吾野の訛りなり゛〈現 吉野神社(宮津市文珠)〉との説も考慮しています

【抜粋意訳】

吾野神社

今 須津 和我野にあり、須津彦明神といふ、〔〇按 本村より文珠村に出る道を、和野塙といふは、吾野の訛りなり、〕

凡 九月朔日祭を行ふ、〔宮津藩神社取調書、神社明細帳、神社道志流倍、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 吾野神社について 所在は 記されていません

ただし 2説を挙げています
①゛ 須津村に古社あり 鈴彦鈴姫兩神と云是歟゛〈現 須津彦神社・須津姫神社(宮津市須津)〉
゛加悦町にあり舊 宮野と云地にありしが 今の地に移りたる由゛〈現 加悦天満宮(与謝野町加悦)〈天満神社境内社〉吾野神社〉

【抜粋意訳】

吾野(アガノ)神社

祭神 我野姫(アガノヒメノ)

祭日 九月二十八日
社格 村社

所在

 今按 道志流倍に未だ分明な  須津村より文殊村へ出る道を和野塙(ワノハナ)と云  吾野の訛にて此浦の古名なるべし  須津村に古社あり 鈴彦鈴姫兩神と云是歟
丹後式社考には 加悦町にあり舊 宮野と云地にありしが 今の地に移りたる由 或説に須津村に此社あるよし云るはあはずと云り 猶よく考て定むべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

吉野神社(宮津市文珠宮ノ谷 (hai)」(90度のお辞儀)

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