五十嵐館跡(三条市飯田)〈五十嵐神社 旧鎮座地〉〈『延喜式』伊加良志神社〉

五十嵐館跡(いからしやかたあと)は 古代から五十嵐川の辺に住居した五十嵐氏の遺蹟です 五十嵐神社は 中世には「五十嵐小文治の館跡」の鬼門の位置(現在地の南200m)に鎮座〈旧鎮座地〉と云い 江戸時代初期に館が排され丘陵地〈五十嵐要害跡〉に遷座 明治3年(1870)要害本丸の場所に社殿を建立し遷座〈現在地〉しました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

五十嵐館跡(Ikarashi yakata ato
〈五十嵐神社 旧鎮座地〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

新潟県三条市飯田字館ノ前390

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

新潟県指定文化財(史跡)

五十嵐館跡(いからしやかたあと)

  昭和四十八年三月二十九日指定

 かつて下田郷一帯は「五十嵐保(いからしのほ)」と呼ばれていましたが、この館跡はその五十嵐保の在地豪族である五十嵐氏代々の居館の跡と考えられています。五十嵐氏は鎌倉幕府の御家人として歴史に登場し、約四百年間この地を支配しました。

 館跡の大きさは東西八十メートル、南北九十五メートル、面積八千三百三十平方メートルで、鎌倉時代中期から江戸時代の初め頃まで使われていたことが明らかになっています。

 昭和四十七年に発掘調査が行われ、幅十メートル、深さ一メートルの堀と土塁がめぐっていたことが確認されたほか、その内側には二棟以上の建物跡が発見されています。

 中世の地方豪族の典型的な館跡として貴重なことから、新潟県史跡に指定されました。

 地元では、源頼朝に仕え、豪勇で知られた五十嵐小文治吉辰(いからしこぶんじよしたつ)が築いたものと伝えられています。

新潟県教育委員会 三条市教育委員会

現地案内板より

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「五十嵐」姓発祥の地 五十嵐神社

五十嵐小文治伝説

 神社の鳥居から拝殿までの間にある大杉木(おおすぎぼく)の幹に石がめり込んでいます。これは、豪勇•五十嵐小文治吉辰が投げたものと言い伝えられています。五十嵐小文治吉辰は、鎌倉幕府将軍源頼朝の御家人でした。五十嵐館から大石を投げたら400  メートルも飛んで、杉木に当たり、めり込んだという言い伝えです。

真偽はともかくとして、この石の効果で五十嵐神社は、安産祈願の神社にもなっています。大杉木の反対側には、五十嵐小文治吉辰の墓があります。歴代当主が小文治を名乗ったらしいので、いつの時代に建立したのかは不明です。
山形県上山市にも領主開祖として、五十嵐小文治の碑があります。1201年に越後から移ったという記録が残されていますが、たくさんの小文治がいるため人物を特定することはできません。

新潟県小学校長会「三条 飯田小学校」PDFより抜粋
https://www.niigataken-shokocho.jp/niigata/kyoudo/kfdk012.pdf

【由  (History)】

 五十嵐神社は 現在は五十嵐川を望む丘陵上に位置しますが 中世には 丘陵下に居館を構えていた在地豪族「五十嵐小文治の館の鬼門」の位置にあったと伝わります

 江戸時代初期に館が排され丘陵地に遷座し 明治7年(1874)に現在地に遷座再建されました

『韻文集』〈大正10年(1921)〉に記される内容

【抜粋意訳】

五十嵐神社

 五十嵐神社の祭神は、人皇十一代垂仁天皇 第八皇子なる、五十日帶彦命(イタシヒコノミコト)に御座(マシ)まし、越(コシ)の君となり玉ひて、最初は、現今の頸城(タビキ)と稱する地に降り、隨從の臣 拾餘人にて穀物農具(タナツモノ)までも持たせられ、土民を率ゐ、開墾民に業を授(サヅ)け、上沼(ウハヌマ)の地(今の魚沼郡なり)に移り、同じく、開拓(カイタク)の業を授け給ふ、是を上田と云ふ、後ち、下沼(シタヌマ)の地(今の當下田なり)に移り、下沼を切落し、流(ナガレ)を堰止(セキト)め、川筋を替へ、田畑を開き下田(シタダ)と名け用水を引き初(ソ)めし地を江口(エグチ)と云ふ、飯田村は、其御住居を営(イトナ)み給ひし地にして、越の國内を遍(アマネ)く巡り、田畑を墾(アラキ)ばり、庶民に業を援け、又、漁獵の法をも数へ、國造(クニツクリ)の大功を奏し、當村に於て薨去せられしを以て、宮澤の高岡に御墓を築き、御墓を神體とし、五十嵐の荘、五十九ヶ村の総社とはなしぬ。(祭日は五月三日と九月十五日なり)五十日帶彦命の御名 タを省(ハブ)き、五十嵐の御神と崇め奉り、神徳を慕へ、地名を五十嵐、川名を五十嵐(古名 五十足川(イカタラシガワ)とも云ふ)と云ふ。後世、諸侯の封となりし故に、縄引竿入(ナハビキサホイレ)等の爲め、五十嵐邑(オホムラ)の内、小学を數十ヶ村に分離したり、又、當字は往古 五十嵐荘の舘(ヤカタ)の在りし處にて、宮居の近き慮なれば、宇名を御供田(ゴクウデン)の地、即ち、御飯田(オメシタダ)と唱へし因にて、中古に至り飯田と改稱せり。而して、命(モコト)、開拓地巡回の折、御小憩(オホヤスミ)の爲めに假庵(カリイホリ)を営(イトナ)まれし地を、俗に田屋(タヤ)と呼び、後年、上田屋(カミダヤ)は分裂して大字田屋となり、下田屋(シモダヤ)は大字飯田に合す、中古神職數軒ありて、御供田を分ち耕し所有せしより、追々民地となりしと云ふ。(現今 小字に太夫の幅なる地あり 又 泉太夫の居り處を泉澤と云ふ)

 五十嵐邑記に、昔、鶴の春渡(ハルワタ)り来るや、先づ、此墓の上に舞ひ、而して、各地に散し秋に至り、又、御墓の上に舞ふて歸り去る、故に、舞鶴(マヒツル)の御陵(ミササギ)と稱せしとぞ。

 寶物として、主なるものは古額二面、一つは五十嵐神社、小野道風の筆、一つは若一王子、沙門空海の筆とあり、嵯峨天皇 御宸筆(ゴシンピツ)のものもありし云々、村老の傳説のみ残れり。

 石階を夾み、杉の老樹 雙立(ソウリツ)す、是を注連掛杉(シメカケスギ)と唱ふ、一は周圍三丈二尺、一は二丈九尺なり、往古、當鄕に五十嵐小文治吉辰(ヨシタツ)と云へる勇士ありて、力試しに投込(ナゲコミ)みしものとて、今尙ほ 盤大(バンダイ)の石、其の幹(ミキ)に孕めるあり。(小文治は、五十嵐左衛門の男にて、頼朝公に仕へて荘司となり、和田合戦に討死す。子孫一は同郡、中新村、五十嵐三五左衛門、一は頸城郡玄藏村五十嵐貫一郎、一は上杉家に仕ふ、三家共に現存し、又、其子孫伊豫國、越知郡に至り、一村を切り開き、五十嵐村と稱し、當社を分霊して氏神となす、又 南會津伊南村にも其子孫ありと云ふ。

 當地は、神代より土民の住居し來りしこと、載せて五十嵐邑記にあり、邑記は、圓融天皇天祿元年よりの帳簿に綴り、其以前の事より、一(ヒト)つ書(カキ)になし、御墓の事や天變地妖(テンペンヂヤヒ)其他種々記載、追々紙を足し來りたる記録にて、大字飯田の舊家、渡部(ワタベ)瀬兵衛より、舊里正たりし不肖の先代へ傳はりしも、戊辰の兵燹(ヘイセン)に罹り烏有となれり。御墓の傍(カタワラ)より、土器の缺(カケ)或は石器類数多(アマタ)發見す、而して、御墓より寅の方、四五丁を隔て、宮澤(ミヤザワ)と云へる慮に、清冷の水流れ出て、社殿の傍を繞(メグ)る、是れ命の御飲料水なりしと云ふ。

命の御住居は、宮澤の出口(デグチ)の邊(ホトリ)なりしとぞ。叉宮澤の峡(カヒ)に穴居の遺跡あり、方二間程の窟(イハヤ)なり、其の一隅に穴ありて深さ測(ハカ)るべからず、清泉混々として涌(ワ)き、眼病に特効ありと云ふ。

其の邊(ホトリ)にも、往昔、居宅のありしにや、種々なる石器や土器の破片散在せるを見る、當地の者、姓氏 數派(スウハ)ありと雖も、他鄕へ出て家を営(イトナ)む者は神徳を慕へる餘り、皆、五十嵐を姓とす、叉、故郷に歸郷するも、則ち、五十嵐の姓を冒(テカ)す、是れ、敬神の念、期せずして自然に出づと謂つべし、本國及び奥羽關東邊へ博居、或は、其子弟の一家を立つる者多くありて、五十嵐を姓となし、折々當社へ參拜するものあり、三島郡、寺泊驛、菊屋事(コト)、五十嵐喜兵衛は、往古 當邑より移りて、寺泊を開きし舊家なり、西蒲原郡、五十嵐濱、中蒲原郡、五十嵐新田の如きもの、往古 當邑の者、移住して一村をなせしこと、五十嵐邑記にも見え、且つ、人口に膾炙(クワイシャ)する所なり、又、岩代國、南會津郡、蒲生村、同國、耶麻郡、瀧坂村の過半、及び、羽前國、西田川郡、湯濱村の如きは、闔村(カウソン)五十嵐を姓とし、今尙ほ、當神社の餘光(ヨクジウ)を仰ぐと云ふ、
又、故、貴族院議員
 五十嵐茜蔵氏は、氏神の緣故よりして、貴族院議長、近衛公爵 直筆(ヂキヒツ)の額面を奉納せられ、本郡、田上村の田卷三郎兵衛氏も、氏神の緣故より、當神社、昇格の基本金、壹千圓也寄附されぬ、

當字に一戸塚(イッペイヅカ)とて方二間許の古塚ありて陵戶某を葬りたる所なりと云ひ、往古は陵戸とて、御墓を守れる者三戸ありしと云ふ。現今、神社の傍に姓を三瓶と稱するものあり、
又、中蒲原郡地方と、岩代國、會津地方に、二瓶と稱するものあるは、其の陵戸の子孫にして、國音戸(ヘイ)を瓶(ヘイ)に改めしなり。一戸(イツペイ)は斯地に住したりとて、其の塚邊に、一戸屋敷と稱する地名の存ずるを以て視るも、陵戸の子孫たりしことは明らかなり。

 命は皇族明鑑、皇統略圖に、景行天皇の御宇、為(ナス)ニ 越君(コシノキミ)とありて、越の國を造り給へしものにて、國強く民の富めるは、皆命の餘澤なり。又、五穀の豐(ユタカ)に稔(ミノ)り、別けて、安産を守り人口の繁殖、漁獵の利益等、萬民に幸福を授け賜ふ。洪大の御神徳 崇むべく仰ぐべし。

明治十九年三月宮内省諸陵寮に於て、御陵墓傳説地と建標せられしより、神徳も一層世に顕れ、且つ、不肯の祖父、傳平の神園を築きしより、學生兒童の散歩地とし、詞人墨客の曳社は日に増し月に繁(シゲ)く、本縣に於ける著明の勝地となりぬれば、本郡、郡長、田宮從義氏は、郡民を代表して、崇敬の誠意を捧げんと欲し、大正六年度より、郡費もて當社の永遠資産に、繼續寄附をなすに及びぬ。

大正八年八月

【原文参照】

小柳一蔵 著『韻文集』,瑞柳書院,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959473

小柳一蔵 著『韻文集』,瑞柳書院,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959473

小柳一蔵 著『韻文集』,瑞柳書院,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959473

小柳一蔵 著『韻文集』,瑞柳書院,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959473

小柳一蔵 著『韻文集』,瑞柳書院,大正10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959473

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・五十嵐神社(三条市飯田)

 五十嵐神社は 中世には 丘陵下に居館を構えていた在地豪族「五十嵐小文治の館の鬼門」の位置にあったと伝わります

 現在は五十嵐川を望む丘陵上〈五十嵐館跡の北東 350mの段丘崖上 標高 50mに五十嵐要害跡「飯田城跡」〉に位置します  江戸時代初期に館が排され丘陵地〈大杉保存殿の辺り〉に遷座し 明治3年(1870)「飯田城跡」の本丸の場所に社殿を建立し 現在地に遷座再建されました

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後國 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)蒲原郡 13座(大1座・小12座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 伊加良志神社
[ふ り が な ]いからしの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ikarashi no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

富山県神社祭神御事歴』〈大正13年(1924)〉に記される゛御祭神 五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)゛の伝承について

御祭神 五十日足彦命〈第11 垂仁天皇の御子〉について 詳細に記され 布施爪村社 布施神社に奉祀す と記されています

【抜粋意訳】

卷七 富山縣神社祭神御事歴 第十篇 皇親の神靈

五十日足彦命

名號
(日本書紀 六)五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
(古事記  中)五十日帯日子王(イカタラシヒコノキミ)
新選姓氏録 摂津 皇別)垂仁天皇皇子 五十日足彦命

御系統
日本書紀 巻六に、垂仁天皇三十四年、先是、娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彦命、第三曰膽武別命。五十日足彦命、是子石田君之始祖也とあり、垂仁天皇の皇子にまします。
〈これより先に山背苅幡戸邊(ヤマシロノカリハタトベ)を娶り 三人の男の子を生み 第一は祖別命(オオジワケノミコト)といい 第二は五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)といい 第三は膽武別命(イタケルワケノミコト)といい 五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)は この子は石田君の始祖です〉

御事蹟
此の命は、春日山君、春日部君、石田君等の祖にまします、古事記、日本書紀

奉仕の神社
此の命は、下新川郡西布施村 布施爪村社 布施神社に奉祀す、

【原文参照】

書誌情報 国立国会図書館デジタルコレクション『富山県神社祭神御事歴』著者 佐伯有義 編 出版者 富山県神職会 出版年月日 大正13年(1924)https://dl.ndl.go.jp/pid/971097/1/276

五十日帶彦命が 越の国に下向にあたり 駐留されたとの伝承を持つ式内社

社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり 越國への赴任の際の駐留先が祀られています

式内社 加賀國 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)

・滓上神社(小松市中海町)

式内社 布勢神社(魚津市布施爪)由緒に記される五十日足彦命゛の伝承について

祭神・五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)

 五十日は 厳の義なるべし 十一代 垂仁天皇の皇子なり 越の國の君となり給ひ 匠を従へて穀物農具を持たしめ給ひ 民を率ひて開墾に従事し 民に業を授け後 今の魚沼郡に移りて開拓の業を与へ また漁網を教へ國造りの大功を奉し給ふ

と社伝にあり

・布勢神社(魚津市布施爪)

由緒書きには 越後國に移ったと記されます 五十日足彦命を祀る越後國の式内社について

式内社 越後國 頸城郡 五十君神社(いそきみ かみのやしろ)

・五十君神社(上越市三和区所山田)

式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしのかみのやしろ)

・五十嵐館跡(三条市飯田)
〈五十嵐神社 旧鎮座地〉

・五十嵐神社(三条市飯田)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

五十嵐神社から南へ約650m 徒歩での所要時間9~10分程度

五十嵐館跡(三条市飯田)〈五十嵐神社 旧鎮座地〉に参着

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五十嵐館跡」の案内板が設置されています

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「史跡 五十嵐館跡」の案内柱があり その先には堀濠のようなものがあります

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五十嵐神社は 中世には「五十嵐小文治の館跡」の鬼門の位置(現在地の南200m)に鎮座〈旧鎮座地〉と云い 江戸時代初期に館が排され丘陵地〈五十嵐要害跡〉に遷座 明治3年(1870)要害本丸の場所に社殿を建立し遷座〈現在地〉しました

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 伊加良志神社について 所在は゛飯田村に在す、今 若一王子と稱す、゛〈現 五十嵐神社(三条市飯田)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊加良志神社

伊加良志は假字也

○祭神 級長戶邊命、 級長津彦命、〔風土記節解○考證云、五十日帶日、今從はず〕

○飯田村に在す、今 若一王子と稱す、〔案内○節解云、在ニ 五十嵐郷、〕

 案内云、飯田村 往古 五十嵐村卜云フ、打績キ 惡作百姓逃散ス、領主アハレミテ貢納ヲ ユルシ呼返シ、村名ヲ改メタリト云リ、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 伊加良志神社について 所在は゛下田、五十嵐庄、飯田村、五十嵐川の涯に在り、゛〈現 五十嵐神社(三条市飯田)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊加良志神社、

 下田、五十嵐庄、飯田村、五十嵐川の涯に在り、〔式社案内記、新發田蕃神社帳、〕

 垂仁天皇 皇子 五十日帶日王をる .古春日山君、高志池君春日部君の祖也、〔古事記、参酌本社由緒傳〕傳云ふ 此王 越國に下り、春日山にまし國中を見巡りて 後 五十嵐里に宮居し給ふ、是也、〔由緒傳〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 伊加良志神社について 所在は゛下田五十嵐莊飯田村(南蒲原郡鹿峠村大字飯田)゛〈現 五十嵐神社(三条市飯田)〉と記しています

【抜粋意訳】

伊加良志神社明細帳に五十嵐神社とあり

祭神

 今按 社傳に祭神 五十日足彥命なるか社地の奥に御とて高一丈餘 周圍二十間 三方絕壁にして老樹繁茂  皇子の御墓なりと云ふとみえたり こは古事記に五十命者 高志君直とあり 又 五十日足の名と伊加良志と相きによりて 附會したる歟よく考ふべし

祭日 四月二十九日 九月十日

 村社

所在 下田五十嵐莊飯田村(南蒲原郡鹿峠村大字飯田)

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

五十嵐館跡(三条市飯田)〈五十嵐神社 旧鎮座地〉 (hai)」(90度のお辞儀)

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越後国 式内社 56座(大1座・小55座)について に戻る

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-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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