白兎神社(はくとじんじゃ)は 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に ”これ 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ) 今では 兎神(うさぎがみ)と云うなり” と記される 神代からの神話の舞台で 正しい由緒を持つとされ 皇室の紋章である菊花を型どった菊座石が社殿の土台に使われています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
白兎神社(Hakuto shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
鳥取県鳥取市白兎603
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》白兎神(はくとかみ)
《合》保食神(うけもちのかみ)
〈大正元年 合祀 気多ノ前の神ヶ岩 鎮座 川下神社〉
《合》豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・皮膚病・傷病・病気平癒、動物医療、縁結び、意中の人との縁結び
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台
【創 建 (Beginning of history)】
“往古兵乱に遭い 社殿を焼失衰微すること久しかったが、慶長年中(1596~1615年)鹿野城主 亀井武蔵守茲矩が奇瑞の夢によって社殿を再興”
公式HPより
白兎神社
御祭神 白兔神を主神とし保食神を合祀している
鎮座地 鳥取市白兔六〇三番地
例祭日 四月十七日御輿途御行事あり
白兔神社は古事記、日本書紀に記されている由緒の明らかな所謂「因幡の白兔」で有名な神社である。
古事記に曰く淤岐ノ島に流された兎海の和邇を欺きて気多之前まで渡らむとせしが欺きを知りたる和邇により悉く衣服を剥がれ泣き悲しむ兎に八十神の命もちて海塩を浴みて風に当り伏せれば前にも増して痛みはげしく、
ここに大穴牟遅神(大国主命)その兎に教へたまはく「今急(と)くこの水門に往きて水もて汝が身を洗ひて、水門の蒲黄(がまのはな)を取りて敷き散ら しその上に輾転(まころび)てば汝が身、本の膚(はだ)の如必ず差(い)えなむものぞ」と教へたまひき。かれ教の如せしかば、その身もとの如くなりき。……日本医療の発祥の地であり古来病気傷痍に 霊験あらたかな神様である。
尚、大国主命と八上姫との縁を取りもたれた(仲人された)縁結びの神様でもある。
境内の案内板より
【由 緒 (History)】
白兎(はくと)神社
大黒さまと白うさぎの神話で知られ、「古事記」「日本書紀」にも記されている由緒ある神社である。
神話にゆかりの白兔神を祭り、皇室の紋章である菊花を型どった菊座石が社殿の土台に使われている。
神社の前には、いかなる旱天・豪雨にも水の増減がないという「不増不滅の池」があり、神話によればこの池で、皮をむかれた赤裸の白兔が真水で身体を洗い、ガマの穂でくるんだ、といわれている。
鳥居をくぐり、石段を上った右手には、言語学者、北里翁の詠んだ「ワニの背に似たる岩見ゆ蒲ならぬ、浪の花散る気多の岬に」の歌碑が立っている。
社頭の案内板より
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【境内社 (Other deities within the precincts)】
御身洗池(みたらしいけ)(不増不滅の池)
“神社の前には、いかなる旱天・豪雨にも水の増減がないという「不増不滅の池」があり、神話によればこの池で、皮をむかれた赤裸の白兔が真水で身体を洗い、ガマの穂でくるんだ、といわれている。”
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台
『古事記』に「此稲羽之素兎者也 於今者謂兎神也」”これ 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ) 今では 兎神(うさぎがみ)と云うなり”と記されている 神代からの神話の舞台です
”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ)
『古事記』に登場する神話の舞台 をみる
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
菊座石について
この菊座石とは 菊の文様が施されている本殿を支える台座石です
菊の紋章は 天皇家の御紋で 全国的に見ても 菊の紋章を台座としてる神社は ないと思います
ただ 花弁の数が 天皇家〈16弁〉と当社〈28弁〉と違いますが 大国主神の神話伝説もあって 天皇家との関連があったのではないか とされています
菊座石
本殿を支える土台石(六ケ)に菊の紋章が彫刻(二十八弁)してある。近郷の社はもちろん、全国的にも珍しい。
神社創設が皇室と何らかの関係があったものと
云われている。現地案内板より
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陰本線 鳥取駅から R9号を西へ約13.4km程 車20分程度
日本海に面した白兎海岸の小山に鎮座します
『古事記』神話に出てくる兎が居たとされる「淤岐嶋(おきのしま)」は 隠岐の島(おきのしま)ではない そんなに遠くから 兎が渡れるはずがない とする説があり
白兎海岸には ”淤岐之島”と呼ばれる岩礁が 気多之前の鼻先のすぐ沖にあります
白兎海岸には 道の駅もあり 神話に登場する大国主神と八上姫命の縁結びの神様として白うさぎの地でもあり 日本で初めてのラブストーリーの発祥地「白兎」として 2010年に「恋人の聖地」に認定されたらしく 因幡の白うさぎ の石像があります
白兎神社(鳥取市白兎)に参着
一礼をして鳥居をくぐり 石段を上がると すぐ左に 因幡の白うさぎの砂像があります
石畳みの参道の両脇には 白兎の燈籠が並びます
途中右手に 御身洗池(みたらしいけ)(不増不滅の池)があります
この池は 『古事記』に 白兎神が傷口を洗われた池「水門」(みなと)とされます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
この本殿の石の台座が 菊座石です
社殿に一礼をして 参道を戻ります
社頭まで戻ると 目の前には 白兎海岸があり 見渡す限り日本海が広がっています
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
この大国主神(おおくにぬしのかみ)の兄弟(あにおとうと)には 八十神(やそがみ)〈沢山の神〉が 坐(ましま)した
しかし その八十神(やそがみ)は皆 大国主神(おおくにぬしのかみ)に国を譲ってしまいました
その理由は 八十神(やそがみ)は 稻羽(いなば)の八上比売(やがみひめ)に求婚したくて欲していて おのおのが 皆で一緒に 因幡(いなば)に行きました
この時 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)に袋を負わせ 従者として連れて行きました気多之前(けたのさき)に至った時に 裸(あかはだか)の兎(うさぎ)が伏しておりました
八十神(やそがみ)が その兎(うさぎ)に云うには
「傷を治すには 海水を浴び 風に当たり 高山の尾上(おのえ)に伏しているとよい」
それで兎(うさぎ)は 八十神(やそがみ)の教えのとおり 伏していましたところが その海水の乾(かわ)くままに その身の皮が 悉(ことごと)く風に吹かれてひび割れ 痛んで泣き伏しておりました
すると最後に来た大穴牟遅神(おほなむじのかみ)が その兎(うさぎ)を見て「なんで 泣き伏しているのですか」とお尋ねになつた
兎が申しますには
「わたくしは 淤岐嶋(おきのしま)にいて この国に渡りたいと思いましたが 渡る方法がございませんでした
そこで 海の和邇(わに)を欺あざむいて言いました「わたしとあなたと どちらの同族が多いか競(くらべ)て見ましょう
あなたは一族を悉(ことごと)く連れて来て この島から気多前(けたのさき)まで 皆 列伏(ならびふし)てください
わたしは その上を蹈んで走り数を読んでいきます わたしの一族と どちらが多いかということを知ることにしよう」と言いました欺かれて 並び伏している時に わたくしは その上を蹈んで渡つて来て 今土におりようとする時「お前は わたしに騙されたのだ」と言い終わるや否や 最も端(はし)に伏していた 鰐(わに)が わたくしを捕えて 衣(きもの)を悉(ことごと)く剥ぎました
それで困って泣いていると 八十神(やそがみ)の命が「海水を浴びて 風に当たって伏せろ」と教えられましたので その教えのとおりにしました 身は悉(ことごと)く傷だらけとなりました」
そこで大穴牟遅神(おほなむじのかみ)は その兎に教えて言いました
「今 いそいで 水門(みなと)に行き 水でお前の身体を洗い すぐにその水門の蒲黄(がまの花粉)を取って 敷き散らして その上に寝廻ったならば お前の身体は元の膚(はだ)に必ず治るだろう」と言われた依って 教え通りにすると その身は もとの通りになりました
これが 稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)
今では 兎神(うさぎがみ)と云うなり
その兎(うさぎ)は 大穴牟遅神(おほなむじのかみ)に云いました
「八十神(やそがみ)は 必ず 八上比売(やがみひめ)を得られません 袋を負っていても あなたが 獲(え)るでしょう」
【原文参照】
白兎神社の公式HPに記される伝承『神話の起源』
白兎神社の公式HPには「先代宮司の考察」「大正9年11月発行 「鳥取新報」記事」が掲載されています
神話の起源
「因幡の白兎」の「神話の起源」については、先代の宮司が興味深い考察をされていました。
先代宮司の考察
白兎というのは、実は野に住む兎でなく、神話時代にこの地方を治め信望の高かった一族のことを言ったもので、白兎と呼ばれたのは、兎の如くおだやかであったからだと言われています。
その一族が航海を業としており、沿海をおびやかしていた「わに」と呼ばれていた賊と淤岐之島付近で戦ったのです。
最後の一戦で負傷して苦しんでいる白兎の一族が、大穴牟遅命(大国主命)に助けられ、後に大穴牟遅命と協力して「わに」を討伐してこの地方を治め、大穴牟遅命には八上比売を嫁とらせたというのであります。
そのこともあって、縁故の深い此の山に宮居を定めるに至り、後世までも白兎神として崇敬される様になったものであろう。
以上が、宮司の考察ですが、大正の鳥取新報にも同様な記事がありましたので紹介します。
大正9年11月発行 「鳥取新報」記事
この付近を領していた白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
和邇と云うのは日本海を荒らして居る乱暴な船乗り共であった。
古事記には此の戦いの有様を面白く書いて居る。和邇の大軍が押し寄せた模様を、「頭を並べて」と記し火花を散らして白兎の神々が、この和邇と戦う姿を、「和邇の頭を数えつ、飛んだ」と書いて居る。
白兎神は淤岐ノ島から気多ノ前まで押し寄せて来る和邇の大軍を物ともせず戦ったが、最後の和邇の為に打ち破られ血に塗れて倒れた。
これを見ると和邇軍は、勝鬨を挙げて引き揚げたのである。
古事記にはこの様を「最後の和邇、我を捕えて我が衣を剥げり」と書いて居る。
勇敢な白兎の神様も、虫の息となりて打ち倒れていたのであろう。
白兎神社(鳥取市白兎)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)