内神社(うちじんじゃ)は 『出雲國風土記』の「宇智社」・『延喜式神名帳』の「内神社」に比定され 出雲国二大社(出雲大社・佐太神社)の支配を受けない「一社一例社」の特例を中世から継続して来た格別の神社で 江戸時代は松江藩四所祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)のひとつでした 創建は霊亀元年(715)高野山の頂に光輪を見て神垣を結んだとされ 養老元年(717)今の宮地に移し宮殿を再興したと伝わる
目次
ここからは 掲載神社の呼称名を時代順に説明していきます
①まず初めは 今から約1300年前・天平5年(733年)2月30日に完成した『出雲國風土記』
➁次に 今から約1100年前・平安時代中期(延長5年927年)に完成した『延喜式神名帳』
➂最後に『出雲國風土記』と『延喜式神名帳』の論社(現在の神社)となっています
①【約1300年前】About 1300 years ago
【出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in February 733 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 秋鹿郡(aika no kori)
神祇官社(jingikan no yashiro )
【社名】宇智社
【読み】(うち)のやしろ
【How to read】(uchi no) yashiro
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
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➁【約1100年前】About 1100 years ago
【延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)所載社(Place of publication)】
The shrine record was completed in December 927 AD.
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 秋鹿郡(aika no kori)
【社名】内神社
【読み】うちのかみのやしろ
【How to read】Uchi no kami no yashiro
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442211/160画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 : 校訂. 上巻(昭和4至7)
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➂【現在】At the moment の【論社】Current specific shrine
【神社名】(shrine name)
内神社(うちじんじゃ)
【通称名】(Common name)
高野宮(たかのみや)
【鎮座地】(location)
島根県松江市大垣町746
【地 図】(Google Map)
【御祭神】(God’s name to pray)
《主》和加布都努志命( わかふつぬしのみこと )
下照姫命 ( したてるひめのみこと )
【御神格】(God’s great power)
・勝運招来・厄除け・安産・病気平癒
【格式】(Rules of dignity)
・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )』所載社
【創建】(Beginning of history)
御祭神
和加布都努志命( わかふつぬしのみこと )
下照姫命 ( したてるひめのみこと )和加布都努志命・下照姫命 共に大國主大神の御子神様で 父神様を扶け国土経営に大きな功績を残された神様です。
御神徳
和加布都努志命 農業・畜産・産業・勝負毎の守護神
下照姫命 安産・不浄除・厄除の守護神御創立
約1290年前の霊亀元年 (西暦715年) 当宮の北側に聳え立つ「女嵩山」の峰に、夜々月輪の如く光を放つものがあり、村人達 神の降臨に違いないと、神垣を設けお祀りしたのが、当宮の始まりとされています。
その後、神の神威があまりにも強すぎることを畏れた住民が、神占により養老元年 (西暦717年)現在地に遷御し、以来今日迄この地でお祀りされております。
このときから「女嵩山」は本宮山と称されるようになっております。
御由緒
927年、国により修撰された「神明帳」に記載されているいわゆる「式内社」であり、また出雲国風土記所載の古社で、明治初期迄は、旧大野郷中 (現大野町・上大野町・魚瀬町・大垣町 ) の総本社となっておりました。
中世には、京都「聖護院宮」長州「毛利氏」の祈願所として、社領の寄進等手厚い待遇をもって処遇されております。
近世には出雲国主 (堀尾・京極・松平各氏) 塁代の「松江藩御所願所四大社」の一つとして、下社家以下数十人の社職人が配置され、国庁から社頭に「禁制札」が建てられる習わしの神社であり、また出雲国二大社 (出雲大社・佐太神社)の支配を受けない「一社一例社」の特例を中世から継続して受けて来た格別の神社でもあります。
近代には、県社の指定を受けておりました。境内案内板より
【由緒】(history)
由緒
当社は、出雲風土記所載にして、且つ延喜式内社である。京都聖護院宮をはじめ、堀尾、京極、松平各國守累代の祈願所にして大野郷中の総氏神社で、往古より一社一例の神社であった。特殊神事としては、御茣蓙替神事」、三六膳神事、七草粥神事等の古伝祭が今に伝えられている。
神社史研究会HPより
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【境内社】(Other deities within the precincts)
・社日碑《主》天照大神,大己貴神,少彦名神,倉稲魂神,埴安姫神
・稲荷神社《主》倉稲魂命
・禁足地(いらずの森)
・蘆原神社《主》素盞嗚尊,稲田姫命,大己貴命
《配》少彦名命,思兼命,五十猛命
・三保神社《主》猿田彦命,事代主命,三保津姫命
《配》天鈿女命,倉稲魂命,木花咲爺姫命
・霊神社《主》大野次郎左衛門高直,大野彦次郎高成,秋国市之助,大垣八郎左衛門秀清,大垣只九郎義秀
・隋神社《主》櫛石窓神
・隋神社《主》豊石窓神
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【境外社】
・龍神祠《主》水分神
・木の山神社《主》大山祇神
・牛頭天王社《主》素盞嗚命
・王子権現社《主》金山彦命
・床常荒神祠《主》荒神(こうじん)
・阿奴牟神社《主》天照大神 ・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・森清神社
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 秋鹿郡(aika no kori)不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)
【社名】阿之牟社
【読み】(あしむ)のやしろ
【How to read】(ashimu no) yashiro
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
・奴多之神社《主》猿田彦命 ・『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』所載社
・奴多之神社
【國】 出雲國(izumo no kuni)
【郡】 秋鹿郡(aika no kori)不在神祇官社(fuzai jingikan no yashiro)
【社名】奴多之社
【読み】(ぬたし)のやしろ
【How to read】(nutashi no) yashiro
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
御祭神「和加布都奴志命(Waka futsunushi no mikoto)」について
御祭神「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
「大国主大神(okuninushi no okami)」の御子神ともされていて
「出雲大社の御本殿の配祀神」として祀られています
出雲大社公式HPの写真で 御本殿の内側の様子です
出雲大社公式HPより写真
この写真の通り「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
御本殿の御扉を開けた時 その正面(南方向)を向いて御鎮座して 心御柱の後ろ 御神座「大国主大神(okuninushi no okami)」をお守りしておられます
主祭神の出雲の大神「大国主大神(okuninushi no okami)」の御神座は 西の方向を向き坐ます
しかし その目の前の「御客座」には 天津神の5柱の祖神が 正面(南方向)を向いて坐ます
この神々は『古事記( kojiki)』の中で一番最初に記されている
「この世の創成の神々」・「天地初発之時(ametsuchi no hajime no toki)の神々」です
・天之御中主神(ameno minakanushi no kami)
・高皇産霊神(takamimusuhi no kami)
・神皇産霊神(kami musubi no kami)
・宇麻志阿斯訶備比古遅神(umashi ashikabihikoji no kami)
・天之常立神(ameno tokotachi no kami)
当 内神社の本殿内部も「出雲大社本殿と同じく、外陣・内陣・内々仁と三間に分かれ、御祭神は西方( 参拝者に向かっているのではなく、右に向いた形 ) を向いて鎮座されます」とあります
「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」もやはり 出雲では「この世の創成の神」です
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』の「美談(mita mi)」においては「天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち)天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました」としています
不可思議ではあります
出雲大社の記事もご覧ください
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』出雲郡 条 美談郷 に記される「御祭神 和加布都奴志命」の伝承について
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』では
「和加布都奴志命(waka futsunushi no mikoto)」は
《「所造天下大神の御子」=「大国主大神(okuninushi no okami)」》の御子神としています
一方 「出雲の美談(mita mi)」の条においては「この世の創成期の神」として
「天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち)天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました」とあります
このような立派な神であれば 出雲大社の御本殿に祀られるのもわかりますが
しかし 父神よりも遥か昔に坐ました神となってしまいます 謎多き神です
意訳
『 美談郷(mitami no sato)
郡家の正北9里240歩の所にあります天地初判之後(この世の天地が初めて定まったのち) 天の下所造らしし大神の御子 和加布都努志命(wakafutsunushi no mikoto)が 天の御領田(ameno mita)の長(osa)になられました
すなわち その神が郷の中に鎮座していらっしゃいます
ゆえに 三太三(mita mi)といいます神亀3年に字を美談と改めました この郷には正倉があります 』
『原文』参照 国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲國風土記』
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
美談神社 みたみじんじゃ(出雲市美談町)の記事もご覧ください
・美談神社
【神社にお詣り】(Pray at the shrine)
宍道湖の北岸 高ノ宮駅から 内神社の一の鳥居をくぐり 北上約3km 車8分程度
本宮山の中腹に鎮座
内神社(松江市大垣町)に参着
境内参道の石段を上がると鳥居が建ちます 一礼をして境内地へと進みます
参道を進むと 左手に土俵 右手に社務所 その先のもう一檀高い社地に社殿が建てられています その手前に手水舎があり清めます
再び石段を上がると 隋神門があり その両脇に隋神社が祀られています
隋神門をくぐりぬけて 振り返ると良くわかります
参道の正面に拝殿が建ち その奥に本殿の千木が見えています
拝殿の扁額は2枚掲げられています
「内神社」「大野高宮」
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には本殿が鎮座します
本殿横の案内板によると
本殿 ( 島根県指定有形文化財 )
本殿は、安政二年 ( 1855年 ) の造営で、御屋根は、栗とち葺き ( 栗の木を板状に割って葺いたもの ) となっております。
規模は、側面二間 ( 4662㎜ )・正面二間 ( 4320㎜ )・軒までの高さ10,210㎜ です。
軸部は、九本の柱で、床上は円柱、床下はすべて八角形となっており、内部中央に建つ「心御柱 ( しんのみはしら ) 」の径が最も太く、「宇豆柱 ( うづはしら )」、「側柱」の順に細くなっております。
彫刻や壁画を施さない、素朴で雄大な造りとなっています。内部は、出雲大社本殿と同じく、外陣・内陣・内々仁と三間に分かれ、御祭神は西方( 参拝者に向かっているのではなく、右に向いた形 ) を向いて鎮座されます。
この本殿は、「大社造」の素形をよく伝え、規模も出雲大社、佐太神社、神魂神社に次ぐ大型のものであり、「大社造」を代表する貴重な遺構として、安政二年以前の本殿修復のかかる棟札十三枚とともに、平成十六年に「島根県指定有形文化財」に指定されております。
境内社にお詣りをします
本殿向かって右手には 三保神社 その横にはかつての本殿の「千木」と宮大工の用具が掲示されています
本殿の奥に 狛犬と鳥居が構えられて 境内社の社日社・稲荷社が鎮座します 本殿の真後ろで しかも一段高い社地に祀られている境内社なので不思議な感です
本殿向かって左手の境内社 蘆原神社からは 本殿とその奥の様子が良くわかります
境内社のお詣りをして 社殿に一礼 参道を戻ります
鳥居まで戻ると この鎮座地が宍道湖を見下ろす山の中腹にあり とても素晴らしい景観の場所だと気づかされます
【神社の伝承】(Old tales handed down to shrines)
それぞれの文献では 次のように伝承しています
『出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)』秋鹿郡 大野郷 にある伝承
御祭神 和加布都努志命( わかふつぬしのみこと )について記されています
『意訳』
郡家の正西一十里二十歩の所にある
和加布都努志能命(わかふつぬしのみこと)が狩りをなされたときに 郷の西の山に狩人をお立てになり 猪を追って北の方にお上りになりましたが 阿内谷に至って その猪の足跡がなくなってしまいました そのときおっしゃられたことは「自然と猪の足跡が失せてしまった」
だから内野という それが 今の人は誤って大野と呼んでいる
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国風土記』写本
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003351&ID=&TYPE=&NO=画像利用
『雲陽志(unyo shi)』秋鹿郡 大野 にある伝承
おそらく 現在の一の鳥居辺りの事が記されています
『雲陽志(unyo shi)』では
和賀布都努志命( わかふつぬしのみこと )高姫命(たかひめのみこと)合祭る本社二間四方 相殿二社 左 素戔嗚尊 右 大己貴命なり・・・・
隋神門 櫛石窓命(くしいわまどのみこと) 豊石窓命(とよいわまどのみこと)なり・・・
・・・鳥居一基・・湖水の渚にあり・・この所に湖ありて水を汲みて不浄を祓いけりたりと伝わる・・・当社は 昔日 高姫命 鎮座したまう故に高野宮と云う 又 和賀布都努志命 高野山の頂にいたりて 御狩りたまう時 北山安内谷にて猪を追うたまうに其の跡を失いたますこのゆえに内野ノ詔を高姫命 和賀布都努志命の鎮座なり
延喜式に内野ノ社と云う当社のことなり
風土記にも内野と云う 又 宇智ノ社と云うなり
今の人 誤りて大野と云う 又 足高とも云うけれども 今はすべて高宮と云う社記を考えるに 元亀元年9月下旬 高野山の頂に夜々 月輪の如くなる光放ちたまう 人々集まり見て敬いみうやまい始めて神垣を結びたり・・・
・・・・』と記しています
※『雲陽志(unyo shi)』[黒沢長尚著]天保6 [1835]
国立公文書館デジタルアーカイブ『雲陽志』写本
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『原文』参照
『出雲国式社考(izumo no kuni shiki no yashiro ko)』秋鹿郡 にある伝承
意訳
『 内神社
風土記に宇智社(うち)のやしろとあり
大野村なり 高野宮大明神をいふなり 和加布都努志命を祭る風土記に大野郡 和加布都努志命 御狩為坐時・・・・・
・・・・・・・・・・・』
※『出雲国式社考((izumo no kuni shiki no yashiro ko))』[選者:千家梅舎/校訂者:岩政信比古]写本 ,明治02年(1906)
国立公文書館デジタルアーカイブ『出雲国式社考』写本
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『原文』参照
内神社(松江市大垣町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)