目次
- 1 大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで この国〈日本〉を作り堅めた "国造りの神"として 描かれる
- 2 『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
- 3 ⑫幸魂奇魂・御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す神 に進む
- 4 ”時の架け橋” 大国主神(おほくにぬしのかみ) 『古事記』に登場する神話の舞台 に戻る
大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで
この国〈日本〉を作り堅めた "国造りの神"として 描かれる
大国主神(おほくにぬしのかみ)が 出雲の御大御埼(みほのみさき)にいた時 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が 海の彼方から天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って寄り帰り来られた
この神のことは 誰もわからなかったが 久延毘古(くえびこ〈山田の案山子〉が知っていて 神産巣日神(かみむすひのかみ)の手の股またからこぼれて落ちた御子神と知ることになった
神産巣日神の命令により 大国主神と小名毘古那神の二柱の神は 並んで〈共に偉大な神として〉 この国〈日本〉を作り堅めました
その後 小名毘古那神は 常世(とこよ)に渡られました
・天神社(あまつかみのやしろ)《主》少彦名命(すくなひこなのみこと)
『古事記』神話には
「大国主神(おおくにぬしのかみ)が 出雲の御大の御前〈美保岬〉にいたときに波立つ上に 天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗りて小名毘古那神(すくなひこなのかみ)が寄られた」と記されます
・粟嶋神社(米子市 彦名町)《主》少彦名命
『古事記』神話には
「その後 その 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)は 常世国(とこよのくに)へと渡られました」と記されます
・手間天神社(松江市竹矢町)《主》少名毘古那神
『雲陽志(unyo shi)』には
「竹屋「手間天神」 少彦名神の神廟なり 本社南向 寛文三年(1663)太守源直政公造営棟札ありと記され
『古事記』に記される少名毘古那神が 手間天神と呼ばれる由来〈神産巣日神(カミムスビカミ)の手の股またからこぼれて落ちた子ども〉が描写され 菅原道真公を祀る菅原天神とは誤りである 出雲國風土記(izumo no kuni fudoki)の「塩盾島(しおたてしま)」とある と記しています
・目久美神社(米子市目久美町)《主》素盞鳴尊(すさのをのみこと)久延毘古命(くえびこのみこと)《合》菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
『古事記』神話には
「この 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)のことを申し上げた 久延毘古(くえびこ)〈案山子〉というのは 今 山田の曽富騰(そほど)〈山田の案山子〉といいます この神は 足では歩あるきませんが 天下のことをすっかり知っている神です」と記されます
・久延彦神社(桜井市三輪)〈大神神社 末社〉《主》久延毘古命(くえびこのみこと)
『大神神社史〈1975年 大神神社社務所発行〉』によれば 〈久延彦神社(くえひこじんじゃ)は〉神代よりこの地に祀られると伝わります
スポンサーリンク
『古事記(Kojiki)〈和銅5年(712)編纂〉』 に記される伝承
【抜粋意訳】
そこで 大国主神(おほくにぬしのかみ)が 出雲の御大御埼(みほのみさき)においでになつた時に 波立つ上に 天羅摩船(あまのかがみのふね)に乗って 鵝(ひむし)の皮を剥いで作った衣を着て 寄り帰り来る神がいました
その名を聞きましたけれども お答えにならず
また 御従者の神たちに 尋ねられましたが 皆知りませんでした
ところが 多邇具久(たにぐく)〈ヒキガエル〉が言うには「これは 久延毘古(くえびこ)〈案山子〉がきっと知つているでしよう」と申しました
その 久延毘古(くえびこ)〈案山子〉を呼んで お尋ねになると「これは神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子(みこ)小名毘古那神(すくなひこなのかみ)でございます」と申しました
依って 神産巣日神(かみむすひのかみ)に申し上げたところ「正〈まさ〉に 我が子だ 子どもの中でも わたしの手の股(また)から こぼれて落ちた御子である あなた〈小名毘古那神〉は 葦原色許男命(あしはらしこおのみこと)と相並び〈共に偉大な神として〉 この國を作り堅めなさい」と仰せられました
それで それから 大穴牟遅(おほなむぢ)と小名毘古那(すくなひこな)の二柱の神は 並んでこの国を作り堅めました
その後 その 小名毘古那神は 常世国(とこよのくに)へと渡られました
この 小名毘古那神(すくなひこなのかみ)のことを申し上げた 久延毘古(くえびこ)〈案山子〉というのは 今 山田の曽富騰(そほど)〈山田の案山子〉といいます この神は 足では歩あるきませんが 天下のことをすっかり知っている神でございます
【原文参照】
スポンサーリンク
⑫幸魂奇魂・御諸山(みもろやま)に坐(ましま)す神 に進む
スポンサーリンク